goo blog サービス終了のお知らせ 

徳川慶喜log~徳川と宮家と私~

徳川慶喜家に生まれた母久美子の生涯、そして私の人生。

母・井手久美子~母のおもいで②~

2019-11-01 05:00:00 | 日記
80歳の後半まで週末は自宅で同じ様に毎週麻雀をやり、私は毎回人集めに大変だった。
二回ほどやっては少し休みまた起きてきて三回といった具合だった。
そして皆さんと一緒に食事をしては、遅いときは夜10時ごろまでしていた。
勿論、食事の支度は私に任されていた。
でも本当に楽しんでやっていたので私もうれしかった。

私が子供の頃、父は自宅で開業医だったので、朝・昼・晩と毎日食事作りにおわれていた。
父は、胃潰瘍を患っていたので特に気を使っていた。

毎日のように近くの魚屋が御用聞きに来ており、父には毎晩煮魚を出していたのをよく覚えている。
父は、とにかく魚の食べ方が上手で子供心に驚いていたのを母といつも話していた。

徳川おてんば姫(東京キララ社)

母・井手久美子~母のおもいで①~

2019-10-31 05:00:00 | 日記
母は子供の時から身体を動かすことが好きであったこともあり、晩年もスポーツ番組はよく見ていた。
特に相撲は好きで、贔屓力士は白鵬と安美錦だった。
白鵬が負けると、とてもガッカリしていた。

テニスは自分も86歳までやっていたので、錦織圭選手は大のお気に入りだった。

前にも記したが、麻雀は本当に好きだった。
松平家に居た頃は無理矢理させられていたので、いやがっていたが、60歳の後半からはよくやっていた。
同級生の、伊藤博文のお孫さんの自宅で月に一度は行っていた。
その後は近所の人(皆さん男性)と朝から夜までやっていた。
父が元気な頃は、父がヤキモチを焼くほどで”そんなにやりたければ俺が死んでからやれ!”と怒っていた。

徳川おてんば姫(東京キララ社)

母・井手久美子~賜物御礼②~

2019-10-30 05:00:00 | 日記
元宮務官のお手配のお陰で無事賜物御礼ができたことは心より感謝で、声をかけていただけなければなしえなかったことだった。

8月末の頃、携帯電話に記録のない番号から掛かってきた。出ると美智子皇后陛下の女官の方からだった。
あまりに突然のことに驚いたが、なんと美智子皇后様が母の本を読まれて”とても懐かしく楽しく読ませて頂いた。”とのお言葉だった。

ありがたいことと、畏れ多い事でなんと答えたかよく覚えていない。
母の墓前にすぐに報告をした。

徳川おてんば姫(東京キララ社)

母・井手久美子~賜物御礼①~

2019-10-29 05:00:00 | 日記
母の四十九日も済んだころ、元高松宮宮務官の方のお声掛けで、平成両陛下及び各皇族に賜物御礼の記帳のご手配をしていただけた。

平成30年8月22日、元宮務官と一緒に皇居に入り平成天皇陛下、美智子皇后両陛下にそれぞれ記帳させて頂き、その後皇太子両殿下、秋篠宮殿下、常陸宮殿下、三笠宮家、高円宮家と記帳させて頂いた。

その折、母の最初で最後の本”徳川おてんば姫”をお渡しできた。

徳川おてんば姫(東京キララ社)

母・井手久美子~おてんば姫のお別れの会②~

2019-10-28 05:00:00 | 日記
外で母への焼香に来て頂いた方々のお世話をしてくれていた東京キララ社の中村社長は”住職のお経お経が始まると同時に、暗くなり本当に土砂降りでした。でも、ものの15分で快晴になって、嘘みたいに水たまりも元通りになりましたよ!驚きました。”と話してくれた。

焼香がすみ、皆さんに喪主としてのご挨拶をさせて頂き、その後表に出ると相変わらず晴天であった。
受付をして頂いたキララ社の中村社長から雨のことを聞き、初めて知った。
周りには水たまりもなく、そんな大雨の影も無かった。
最後まで母が、おてんば姫が,何を言いたかったのか・・・・
遺骨を抱いて、まだ母の死の実感が無いなか、澄み渡る空を見上げて色々と考えてしまった。

徳川おてんば姫(東京キララ社)