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徳川慶喜log~徳川と宮家と私~

徳川慶喜家に生まれた母久美子の生涯、そして私の人生。

姪・山岸美喜~24年ぶりの再会④~

2020-01-06 05:00:00 | 日記
美喜のご主人はとても寛大なかたで、彼の援助の上に彼女の行動は成り立っているのだと思う。
美喜と同じく慶喜公の血を受け継ぐものとしてはこれ程ありがたいことはないと感謝している。

姪の美喜とは前にも述べたが、24年の空白があった。
その間お互いにいろいろな事があり、特に私のことは彼女に言わせると”井手のおじちゃまには近づかないのがいい”と周りから言われており、再会した時もかなり警戒していたと言っていた。
これについて私としては全く弁解の余地がなく、認めざるを得ないのである。

60数年前には年末から年始にかけては毎年恒例行事が高輪の高松宮邸でおこなわれていた。
40数年前からは姪の美喜も参加し毎年宮邸での同じ空気を感じさせて頂いた。
その感覚は彼女と話していると次から次へと思い出が湧き出てきていつまでも会話がつきなかった。

12月26日は喜久子妃殿下のお誕生日、この日にはホテルオークラより素晴らしい大きなショートケーキが届き、それをみんなで一緒に頂いたことや、大晦日にはNHKの紅白歌合戦を両殿下とご一緒に見させて頂き、お正月には沢山のみたこともないおせち料理、1月3日は殿下の御誕辰日。
とまあ暮れから大忙し(忙しかったのは母たちであったのだが)だった。
そんな思い出話を美喜と二人でいつまでもしていた。

徳川おてんば姫(東京キララ社)

姪・山岸美喜~24年ぶりの再会③~

2020-01-02 05:00:00 | 日記
2019年6月29日国際仏教大学(文京区小石川にあり、慶喜公の終焉の地であり、私の母も生まれ育ったところ)にて毎年恒例の講演会があった。
数年前に慶朝も私の母も講演させて頂いた。
そこで24年ぶりに姪の美喜に偶然にも再会する事が出来た。

その日を境に姪の美喜と何度も電話で話すようになり、慶朝のことを色々聞くことが出来た。
2019年慶朝の二年祭の折参列させてもらった。
後日慶喜公の弟である徳川昭武の住んでいた松戸市の戸定邸にて美喜と二人で婦人公論のインタビューを受けさせてもらった。(10月8日号)

fujinkoron.jp/articles/-/963

姪の美喜は慶朝から受け継いだ事をとても重く感じており、女の自分がこの後どのようにして動けばよいのか悩みぬいた。
まして山岸家に嫁いだ身として徳川を名乗っていない自分がどこまで慶朝の意思をつげるのかそれは不安であったと思う。

しかし彼女は意を決して自分が慶喜家5代目として綺麗に家を閉じることを決意した。
しなければならない事は山積みであった。
谷中のお墓の事、慶朝の住んでいた家のこと、慶朝が大切に管理していた膨大な慶喜公の資料等々。
他にも問題は多々あった。
相談できる親族はほとんどおらず2年程は一人で勉強をし、苦悩の日々であった。

徳川おてんば姫(東京キララ社)

姪・山岸美喜~24年ぶりの再会②~

2020-01-01 05:00:00 | 日記
私の母久美子は、私達にとても厳しかった。
その調子で慶朝にもよく小言を言っていた。
彼は私の母の事がとても嫌いだった。
晩年の彼はほとんどの親族と接することを拒んだ。
その中で姪の美喜には心を開き、食事をしたり、お酒を飲んでいた。

慶朝が亡くなる前に遺言書を書いていた。
彼の全ての財産と慶喜公の資料を山岸美喜に託すと・・・・
よほど美喜には全幅の信頼を寄せていたのであろう。

慶朝の葬儀は茨城の地元で行われ最後まで美喜が色々手配をした。
私は高齢の母もいたため、葬儀には参列出来なかった。
翌年の7月私の母が95歳で天寿を全うした。
これで慶喜家の孫は全員居なくなった。
徳川おてんば姫(東京キララ社)

姪・山岸美喜~24年ぶりの再会①~

2019-12-31 07:35:35 | 日記
姪 山岸美喜 1968年東京生まれ 祖父は徳川慶喜家3代目当主徳川慶光(私の母井手久美子の兄)
母は慶光の長女安喜子(私の従姉妹)

従兄弟、安喜子の弟(後の徳川慶喜家4代目当主となった慶朝)が2017年9月、67歳の若さで亡くなった。
慶朝が体調を崩した頃から良く茨城の自宅へ名古屋から行き介護など面倒をみていた。(美喜は山岸家に嫁いでおり自宅は名古屋であった)

慶朝が入院した時も月に何度も見舞いと自宅の掃除などをよくしていた。
私は子供の頃毎日の様に慶朝の家に行きよく遊んだ。同じ中学・高校に通学していたが、その頃はほとんど話をすることなく過ごした。

今にして顧みると慶朝は徳川の名前の重さをとても感じており、4代目当主として日々葛藤していた様に思えてならない。
身内のものより説教されること、また、”あれをしなさい、これをしなさい”と、指図されることをとても嫌っていた。

徳川おてんば姫(東京キララ社)