昼行灯(だった)トキの大雑把なひとりごと

クレヨンしんちゃんよりもユルく生きていた(当面過去系)私の備忘録と、大雑把なひとりごと。時々細かく語ることも。

男おいどん

2017-09-18 00:05:57 | Weblog
妻との会話で何故か松本零士の話になり、wikipediaで改めて氏の経歴を読んだ。
表題作が出世作とある。

現在我が家には、KCコミックス1巻と3巻がある。

この漫画、自分で買った訳ではなく、貰い物である。
それも、当時住んでいたマンション1階にあった和食屋さんのご子息からの譲り受けであった。
当時、このお店の唐揚げが好きでよくお世話になっており、兄弟揃って漫画好きというのをおかみさんに知られ、ご子息の読み終えた漫画をいくつか見せてもらい、かつ、譲ってもらったものの1つである。
当時の自分は確か小学2年くらい。ご子息は小6かその上くらいと記憶している。

ただし、当時自分が手にしていたのは確か2巻と8巻であった。それが今なぜ自宅に1巻と3巻があるのか、その辺の経緯に関する記憶は定かでない。

さて、この漫画、読んではいたが、正直地味な話で、これがヒット作とは思えなかった。それでも子供心に笑いのツボが響くところがあり、兄も好んで読んでいた。そして、初めて手にした自分は、連載終了から恐らく5〜6年頃で、そんなに古い作品ではなかった。それも驚きではあった。

主人公、大山昇太が下宿屋の美女達に恋をし、破れてを繰り返す切なさや、ペーソスなどは、当時の子供心では半分も理解できていなかったろう。今回、久々に1巻と3巻を読み返して、この年齢になって感じる部分が、幼少時と全く異なることから、それに気づいた。
ユーモアの面白さは当時と理解が同じである。問題はペーソスの部分だ。特に、大山昇太が毎回、まったくの善意から取った行動が、なぜか他者から非難される羽目になるという展開が、非常に堪える。それは「努力が無駄であり続け、しかも害悪ですらある」という自分の姿と重なる。
貧乏と不潔とだらしなさについて呆れられている大山だが、彼が根っからの善人であることは衆知の事実である。したがって、少々うとまれたりしながらも、大山は概ね周囲から同情と信頼を持たれている。ときに疑われることもあるが、その誤解はすぐに解ける。
要するに、大山は至極不器用である。

而して自分はどうか。器用でないのは勿論だ。うまく行かないのも同じだ。大山は明日のために寝る。自分も、明日なんとか出勤だけはするために休日は寝ている。そういう状態になって何年か経つ。
努力は実を結ばないということを本当に思い知っている。他者のためを思った行動も、当の本人には傍迷惑でしかない。かといって何もしなければ冷淡で面倒くさがりやの烙印が押される。何度も書いているが、努力をすればそれに倍してひどい事態が返り、努力をしないことも、結局は不幸を回避する努力の一形態でしかなく、結果として必然不幸が起こる。しかも他者を巻き込む。
大山はそれでも自分を信じるだけのバイタリティがあった。それは若さと言ってもいい。自分には、それはない。無くした。尽きた。

この物語の最終回を知らなかった。今回検索して知った。大山は、下宿屋のバーサンにバイト代で鯛をプレゼントし、部屋に学生服とトリさんを残して姿を消す。その後のことは、語られていない。
この日常系物語の帰結としては妥当というものだろう。その後の大山昇太の人生についてはわからない。ただし、遠い将来に子孫である大山トチローが居ることから、彼はおそらく結婚し、そしてトリさんとも再会しているのだろうと推察はできる。

物語中では美女の気まぐれや嘘に振り回されてばかりで、幸せを得られなかったが、その後伴侶を得て、ひとかどの男として身を立てたのであろう。

自分も美女たちとの淡い交流はあった。自分が善人だったとは思わないが、気まぐれにこういう性格の男に関心を示す美女は意外と多かった。ひまつぶしとか癒しとかなのだろう。それは多分大山の境遇と同じだ。本気の情がないわけではないが、当然に恋愛対象としてはアウトオブ眼中という生活。
それでも自分も妻に出会えた。それは似ている。しかし人生の中盤以降に「何をやってもうまく行かない」モードが生活全般に広がるのは想定外だった。
大山が善意で何かしたことが非難される。それは多くのエピソードで話の枕に使われる。自分にとってはその枕こそが、今の自分の全てである。
周囲はそれなりに優しいし悪し様に言われることもほぼないと言っていい。それでも、自分への公式的な評価は「最底辺の駄目人間」であり「本来ものの数に入らない人員」である。そして、その「ものの数に入っていない」自分がいなければ仕事が回らないと言われている。なんだそれは。だったら自分は「ものの数」に入っているべきではないか。しかし組織の評価はそうでないと言う。
これは『組織としては評価するつもりは一切無いが、仕事はできるようだし目一杯やってもらう。もちろんどれだけやったとしても評価には反映しない。その理由は明かさないし、理由なんてないと言ってもよい」ということを表している。
要するに使い潰して首にするつもりなのだろう。どこでそんなに憎まれているのか、鈍い自分には全くわからない。憎まれているならそれなりに伝わって来そうなものだが伝わらないというのも解せない。非常に解せない。
ともあれ、自分は自分の生活のために、出勤はする。仕事もそれなりに、やれる範囲でやる。努力はしてもしなくても結果は変わらないが、首が早まっても困るのでそれなりの努力はせざるを得ない。無論、それが最善かは分からないまま。というか恐らく悪い方にしか働かないのだろう。評価は最底辺のまま、自分はどんどん健康を害する。
というように、今の自分には希望というものがない。絶望はもう慣れて忘れてしまった。結局は何もないのだ。
自分は、身体の痛みや疲れと戦いながら、辛うじて出勤するだけの毎日だ。楽しい事もほとんどない。笑ったりもするが、ベースの部分で希望がないので、全ては刹那的な感情の去来に過ぎない。

つまり、詰んでいるのである。今は、死のうという気力すらない。ただ疲れて、生きているだけである。

金の面では、幸いにも困っていない。裕福だったり余裕がある訳ではないが、生計維持の心配は今のところない。ただ、それを得るために命と健康を削っている。しかも成果にならない。これが酷くダメージにつながる。
先の見えない袋小路、詰んだ状態になってどのくらい経つか。大山昇太の物語を読みながら、そんなことを思った。
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