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平和主義と民主主義

2005年11月22日 | 民主主義と人権問題
「いまや何をなすべきか。まずわれわれはヴェルサイユで、この条約(講和条約)の徹底的な改訂のために全力を注ぐべきである。それに成功したならば、これに調印すべきである。もし成功しなかったならば、どうすべきか。その場合は積極的な抵抗も、消極的な抵抗も試みるべきではない。わが国の代表ブロックドルフ=ランツァウ伯(Ulrich von Brockdorff-Rantzau。外相)は、憲法制定議会を解散する正式の布告と、大統領以下全閣僚の辞表とを敵国政府に手交し、ただちにドイツの主権と全政府機構とをひきつぐことをかれらに要請すべきである。かくすることによって、平和に対する責任、統治に対する責任、いや、いっさいのドイツの行動にたいする責任は、かれら敵国政府のものとなる。かれらは世界と歴史と自国民の前で、六千万のドイツ人の面倒をみなければならなくなる。これは歴史上前例をみない国家の破滅の仕方であるが、それこそがドイツ人の名誉および良心と両立する方法である。」
--- 「東郷重徳、伝記と解説」萩原延壽著、原書房より ---


以上は第一次大戦後に、ドイツに突きつけられた講和条約に対するワルター・ラーテナウ(Walther Rathenau)の言葉である。ラーテナウと言う人物は共産主義(ポルシェヴィズム)と言う新思想に対し激しい危機感と嫌悪を抱いていた当時の諸国指導者層の中において、共産主義を冷静に分析しいわゆる「感情的嫌悪」とは一線を画しており「共産主義への恐怖心」も持たなかった実業家である、彼は共産主義を人類の試験的試みと見ていた。

さてここで持ち出したラーテナウの言葉と彼の共産主義への対応とは関係ない。
もちろん講和条約に対するラーテナウの自暴自棄的な言動とも見ることもできる。
周知のように、ドイツはこの講和条約を受け入れる以外にその主権を維持する道はなく、そしてラーテナウの言葉のように主権を放棄することはなく、ドイツ国民議会は講和条約への調印後共和国憲法を発布しワイマール共和国の過酷な道のりがはじまるわけである。ワイマール共和国はカップクーデターを皮切りにあらゆる右翼勢力からの攻撃を受け最終的にナチズムが台頭するようになる。ラーテナウの言動はこうした右翼勢力を扇動する結果になったのかもしれない。

私は、現日本が本当に民主主義国家であるならば、対中外交(対中に限らないが)においてこのラーテナウの言葉の実践こそが日本人民のあるべき立場だと思う。国民国家と言う概念や価値観に依存して生きていく以上その国民国家が犯した罪は永劫にその責と業を国民が背負う。国民国家の概念から超越した世界秩序がありえないのであれば、そしてその国家が民主主義を維持しようとするなら、それ以外に日本人民がその尊厳と良心を両立させて生き残る道はない。
中国に主権を渡したところで何もおそれるものはない。我々日本人は「民主主義者」である、香港がそうあるように日本もそのようにあればよい。日本がそうなった時にはじめてそれこそ中国本土の民主化は我々(その時の我々は中国人民である)の民主主義の為の緊急課題となるのである。

戦争責任問題は私に問う。
「戦後に生まれた我々に戦争の責任はあるのか?」
私はこう答える。
「我々にはもちろん責任はない、が国民国家の国民である責任として、その体制からもたらされた富により私の命は存在するのであり、正しい歴史を後世に伝えねばならない。」

さらに懐疑的な私の中の戦争責任回避論者は問う。
「個人(少なくとも戦後に生まれた個人)にどうしようもなかった戦争、に対して何らかの責任を負わせる事は個人としての人権を侵すものではないか?」
「個人の人権を生かすと言うことは、他者の人権の尊重に他ならない、犠牲者またはその遺族の人権を尊重することこそ己の人権を護る事になる」

懐疑的な回避論者はまだおさまらない。
「他人の犯した人権侵害について関係のない個人が責を負うのか?」
「国民国家の国民である以上その責から逃れられない。」

こうした終わりのない議論をしているときに私はふと気がつく。
この議論は所詮は「国民国家」の国民である事の枠から超越せねば、延々と続く。そしてなぜ自分が「国民」であるのか?「国民」ではない自分はありえないのか?となり、そして「国民」であればこそ「人権」を有するのか?と帰結する。
そして私の解答は否である、人権は万人に与えられた権利であり私が国民である必要はない。
しかし国民である事は逃れられない現実なのだ。

****氏の言説にある通り「中国の排他的ナショナリズム」が「民主主義の敵」であるとしても、その国境の外側からそれを攻撃する事はできない。なぜなら外部ナショナリズムに対抗できるのは内部ナショナリズムだけであるからだ、この内部ナショナリズムは往々にして民主主義の御旗の下に正義の衣を着ており、この内部ナショナリズムもまた「民主主義の敵」になりかねない。民主主義者である我々にできることは己を支配するものへの警戒であり他国の「民主主義の敵」に対する警戒または攻撃は国民国家体制下の世界秩序の上では無意味であるか否かは結論できないが少なくとも無効である。

本稿冒頭において一次大戦後のドイツに触れたのはその良いモデルであるからだ。確かにヨーロッパの国民国家としてのあり方と日本のそれとではその歴史に大きな隔たりがありラーテナウのような思考が日本に生まれるにはその成立からして無理がある。
また、日本は当時ドイツが突きつけられたような苛烈な条約を強要されたわけでもない、どころか周辺諸外国からは賠償を免責されており連合諸国の積極的支援を受けている立場である。しかし国民国家概念の上に安穏として生活しその繁栄を享受する以上ラーテナウの言説の正しさは認めざるをえない。

であれば「一国平和主義」と言う言葉がよく使われるが「一国民主主義」ももはや成り立たない。つまりこれは、敗戦国だから、戦争犯罪を犯した国家だから、と言う枠にもとらわれない事になる。己の民主主義(一国民主主義)を守るために、他国(それが民主主義の敵であるとしても)を攻撃する、と言う行為そのものが己の民主主義をも破壊する事に他ならない。戦争を否定する我々は「一国民主主義」がもはや成り立たない事に気がついたのである。国境がある以上他国の民主化に言及する時、情報戦略、非民主国家人民へ対する民主国家内の全ての情報公開、がこれまでのところ最善の方策である、そのためには国境の内側にいる我々の民主社会こそが真の民主主義国家として成熟しておらねばならないのだ。

*コメントは思考錯誤まで

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