>これはやはり決めつけではないですか? 国家権力のみならず「人間はすべて等しく悪辣である、したがって大きな力を手に入れた者は必ずやそれを悪用・濫用する」という悲観論を前提に、「国家権力の暴走に歯止めをかけようとする意志や努力はどこにも存在しない、またはしても無意味である」とする、悲観的決定論だと思います。
うーーん、難しいことはよくわかりませんが(^^ゞ
歴史修正主義に見られる陰謀論や否定論とは、起きた事実に対する事実認定法において誤った論理の上に成り立つもので、事実を歪曲・曲解して認識させようとするものです。我々がなぜそれを忌み、怒りを感じるのかと言えば事実を歪曲するとはすなわち歴史を改竄することだからです。歴史とは何かと言えば過去を正しく観察し未来に生かすためのデータです。全ての科学がこのデータの上に成立するのです。
そのデータを改竄すると言う行為が否定論であるとか陰謀論なのですよ。なぜ正確なデータが必要なのかと言うと出来るだけ正確な未来予測のためです。
まずこの辺に基本的な思い違いがあると思います。次に大切なのは「法」とは何か、如何にあるべきか?と言う思考も必要だと思います。基本的には法がなくて済むものなのであれば法というものはないほうが良いわけです。
本来人間は自由で平等でなくてはなりません。しかし他者の人権を侵害する自由は制限されねばなりません、平等を侵す自由も制限されねばなりません。これが法なのです。
きちんと論証しようと思うとかなり長くなりますが、この2点を念頭に置いてもう一度考え方を整理されてみたらいかがでしょうか。
とにかく否定論・陰謀論とは何なのか?と言う磯人さんの認識には確実に誤りがあるように思います。
つまり、先に述べましたように他者の人権を侵害する場合の自由や権利を侵害できるのです、ですから法というのは個人の自由や人権は他者の人権を侵害しない限りにおいてのみ機能しなくてはなりません。住基法の問題点は「犯罪防止の為に犯罪者の人権を制限する」ここまでは良いのです、しかしそのために関係ない一般市民全体を網にかけて全体の人権に対して機能させていることが問題なわけです。ですから住基法はもっと慎重にかなり細かい細則が必要です。
立法理念の基本が権力を極力最小限にとどめることを原則としてますので思考方法としては間違いではないと思います。
> (余談になりますが、片方だけが一方的に強い立場になるのが危険なら、もう片方にも対等の立場を与えるための武器や足場を用意すべきです。すなわち、自己情報コントロール権に基づく諸権利の明確化と、その救済手段の確立が必要なのであって、これに考え及ばないという時点で問題外です。)
片方は国家です。国家は人間ではありません、ですから国家には人権はありませんのでその自由を認める必要も人権を認める必要も原則的にないのです。ですから国家と民衆の立場を対等化した議論はあやまりです。
> あと、(私が時々観察に行く「つどい」はどうも△○派系らしいのですが)最近の市民集会やピースパレードの参加者には、「自分探し」の若者が多いという印象を持っています。
若者と言うのはピースパレードの参加者に限らず「自分探し」をするものではないですか?本来それが若者のあるべき姿です。親や社会に決められたレールの上に乗ってそのことに何の疑問も抱かない若者を形成する社会こそが忌むべき社会であると私は考えますし、そうした意味では現代若者は我々世代に比べてはるかに進歩しているのであり、その進歩は正しいのです。が、そのことが社会と矛盾するのであれば改善すべきは若者ではなく社会なのではないでしょうか。
> 「自分探し」と、香山リカ氏のいう「解離傾向」は同義と認識しているのですが、昨年末に出た『「責任」ってなに?』(大庭健著、講談社現代新書)を読むと、解離傾向からは「(自分以外の)他者の抹消」が帰結されるとしており(p163-168)、具体例も書いています(第6章)。世界から「自分以外の他者」が抹消されれば、自分が止めない限り因果的経過はそのまま実現して当然、ということになります。これが「決定論好き」の背景にあると思います。
香山リカ氏という方の論説は読んだことがないので評論は不可能ですが、磯人さんの認識が正しいのであれば香山氏は間違ってます。「自分探し」とは社会の中での自己の立ち位置の模索であり決して社会との隔離を傾向するものではありません。確かに社会の中に自己の立ち位置が発見出来ずにいる若者も多いことでしょうが、それはなんら悪しき現象ではないと思います。人は社会の為に生きるのではなく、人が生きるために社会があるわけです。
したがって「自分探し」が他者の抹消につながるわけではありません。むしろ「自分探し」とは他者の発見であり他者との関係性の模索であります。
> なお、「自分探し」の若者が国家や民族に自己同一化すると、「ぷちナショ」右翼の誕生です。(苦笑) きくちゆみ氏に自己同一化する平和運動系トンデモさんと、歴史修正主義者が、同じような「否定論」を弄するのも、うなずけるところだと私は考えます。
自己のアイデンティティーをどこに置くか?と言うことそのものはその人の自由です。したがってそれを国家や民族、また地域的・宗教的・信条的コミュニティーに置くことも自由であり、そのこと自体に誤りがあるわけではないと思います。仲間や友人を擁護しよう守ろう、と言う考え方は健全なものだと思います。例えば殺人犯の母親が「私だけはあの子を信じる」と言う心情は健全でこれを批判する人はいないと思います。
問題はその自己アイデンティティーを他者に押し付けてはならないと言うことではないでしょうか?IDの異なる価値観の異なる宗教の異なるもの同士が共存していくためには共通の言語が必要です、それが論理であり科学であると思います。ですから論理的科学的に彼らが間違っていることを論証していくわけであり、彼らを卑しめるためのものではないと思います。
(とか、何とかいっちゃって(^^;、わたしなんざかなりアホウヨ否定論者を馬鹿にしてますが(笑) )
なぜ、『911ボーイング・・・』を叩くのか?に続く
*コメントは思考錯誤まで
うーーん、難しいことはよくわかりませんが(^^ゞ
歴史修正主義に見られる陰謀論や否定論とは、起きた事実に対する事実認定法において誤った論理の上に成り立つもので、事実を歪曲・曲解して認識させようとするものです。我々がなぜそれを忌み、怒りを感じるのかと言えば事実を歪曲するとはすなわち歴史を改竄することだからです。歴史とは何かと言えば過去を正しく観察し未来に生かすためのデータです。全ての科学がこのデータの上に成立するのです。
そのデータを改竄すると言う行為が否定論であるとか陰謀論なのですよ。なぜ正確なデータが必要なのかと言うと出来るだけ正確な未来予測のためです。
まずこの辺に基本的な思い違いがあると思います。次に大切なのは「法」とは何か、如何にあるべきか?と言う思考も必要だと思います。基本的には法がなくて済むものなのであれば法というものはないほうが良いわけです。
本来人間は自由で平等でなくてはなりません。しかし他者の人権を侵害する自由は制限されねばなりません、平等を侵す自由も制限されねばなりません。これが法なのです。
きちんと論証しようと思うとかなり長くなりますが、この2点を念頭に置いてもう一度考え方を整理されてみたらいかがでしょうか。
とにかく否定論・陰謀論とは何なのか?と言う磯人さんの認識には確実に誤りがあるように思います。
つまり、先に述べましたように他者の人権を侵害する場合の自由や権利を侵害できるのです、ですから法というのは個人の自由や人権は他者の人権を侵害しない限りにおいてのみ機能しなくてはなりません。住基法の問題点は「犯罪防止の為に犯罪者の人権を制限する」ここまでは良いのです、しかしそのために関係ない一般市民全体を網にかけて全体の人権に対して機能させていることが問題なわけです。ですから住基法はもっと慎重にかなり細かい細則が必要です。
立法理念の基本が権力を極力最小限にとどめることを原則としてますので思考方法としては間違いではないと思います。
> (余談になりますが、片方だけが一方的に強い立場になるのが危険なら、もう片方にも対等の立場を与えるための武器や足場を用意すべきです。すなわち、自己情報コントロール権に基づく諸権利の明確化と、その救済手段の確立が必要なのであって、これに考え及ばないという時点で問題外です。)
片方は国家です。国家は人間ではありません、ですから国家には人権はありませんのでその自由を認める必要も人権を認める必要も原則的にないのです。ですから国家と民衆の立場を対等化した議論はあやまりです。
> あと、(私が時々観察に行く「つどい」はどうも△○派系らしいのですが)最近の市民集会やピースパレードの参加者には、「自分探し」の若者が多いという印象を持っています。
若者と言うのはピースパレードの参加者に限らず「自分探し」をするものではないですか?本来それが若者のあるべき姿です。親や社会に決められたレールの上に乗ってそのことに何の疑問も抱かない若者を形成する社会こそが忌むべき社会であると私は考えますし、そうした意味では現代若者は我々世代に比べてはるかに進歩しているのであり、その進歩は正しいのです。が、そのことが社会と矛盾するのであれば改善すべきは若者ではなく社会なのではないでしょうか。
> 「自分探し」と、香山リカ氏のいう「解離傾向」は同義と認識しているのですが、昨年末に出た『「責任」ってなに?』(大庭健著、講談社現代新書)を読むと、解離傾向からは「(自分以外の)他者の抹消」が帰結されるとしており(p163-168)、具体例も書いています(第6章)。世界から「自分以外の他者」が抹消されれば、自分が止めない限り因果的経過はそのまま実現して当然、ということになります。これが「決定論好き」の背景にあると思います。
香山リカ氏という方の論説は読んだことがないので評論は不可能ですが、磯人さんの認識が正しいのであれば香山氏は間違ってます。「自分探し」とは社会の中での自己の立ち位置の模索であり決して社会との隔離を傾向するものではありません。確かに社会の中に自己の立ち位置が発見出来ずにいる若者も多いことでしょうが、それはなんら悪しき現象ではないと思います。人は社会の為に生きるのではなく、人が生きるために社会があるわけです。
したがって「自分探し」が他者の抹消につながるわけではありません。むしろ「自分探し」とは他者の発見であり他者との関係性の模索であります。
> なお、「自分探し」の若者が国家や民族に自己同一化すると、「ぷちナショ」右翼の誕生です。(苦笑) きくちゆみ氏に自己同一化する平和運動系トンデモさんと、歴史修正主義者が、同じような「否定論」を弄するのも、うなずけるところだと私は考えます。
自己のアイデンティティーをどこに置くか?と言うことそのものはその人の自由です。したがってそれを国家や民族、また地域的・宗教的・信条的コミュニティーに置くことも自由であり、そのこと自体に誤りがあるわけではないと思います。仲間や友人を擁護しよう守ろう、と言う考え方は健全なものだと思います。例えば殺人犯の母親が「私だけはあの子を信じる」と言う心情は健全でこれを批判する人はいないと思います。
問題はその自己アイデンティティーを他者に押し付けてはならないと言うことではないでしょうか?IDの異なる価値観の異なる宗教の異なるもの同士が共存していくためには共通の言語が必要です、それが論理であり科学であると思います。ですから論理的科学的に彼らが間違っていることを論証していくわけであり、彼らを卑しめるためのものではないと思います。
(とか、何とかいっちゃって(^^;、わたしなんざかなりアホウヨ否定論者を馬鹿にしてますが(笑) )