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基本的人権と外国人参政権

2005年12月01日 | 民主主義と人権問題
> 議論が混在しそうなので、新たな表題とさせていただきました。
> 言葉遊びと思われると恐縮なのですが、基本的人権の存在の有無は、根幹といえるほど重要な点だと考えてきましたので、意見を述べさせていただきます。(問答:#37788


リーさん、こんにちは。
私はあまりややこしく考えない性質なので何なのですが(^^ゞ
憲法を解釈する上で、憲法前文を決して無視してはならないと思います。憲法はすべて前文を基本理念として制定されているのですから、解釈の際はその理念が基本にあります、ですからこそ指輪さんが提示されているような解釈が成立するのであり決して言葉を都合よく解釈しているわけではないと考えます。

憲法前文より一部抜粋します。
日本国民は,恒久の平和を念願し,人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて,平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して,われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは,平和を維持し,専制と隷従,圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において,名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは,全世界の国民が,ひとしく恐怖と欠乏から免かれ,平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
また、憲法と実態を比較することにより憲法を解釈するのも誤りで、いや実際、実態と憲法が相反する現実を否定するものではなく9条にしろリーさんの指摘する在日外国人の人権問題にしろ、大変恥ずかしい限りの日本国家であることを否定するものではありませんが、憲法そのものは天皇条項を除きあらゆる点でよく考えられている憲法だと思います。

外国人参政権問題では在日韓国朝鮮人及び中国人等を前提として議論する傾向が日本の場合強いと思いますが、もちろんそれも含めて、だがもっと一般化して考えねばならないとも思います。例えば国際結婚した外国人の多くは帰化する意思のある人は少ないでしょう。しかし現実には日本で生涯をおくり伴侶とともに運命共同体を形成してます、こうしたもっともっとマイノリティーな人々のあり方も考えるべきかと思います。SONGさんが「意外と日本の帰化条件は厳しくないよ」と言うのもある意味在日韓国・朝鮮人に言えることであり、これらの人たちの多くは既に日本への帰化条件をある程度満たしてます。
つまり、日本語に通じ日本の文化に慣れ親しんでいるわけです。

ところがそうではない方たちもいらっしゃるわけで、そうしたよりマイノリティーにまで対象に矛盾のないように解決せねばならないと思います。

>  以上のように通説は考えており、それが判例の考え方の基礎になっていると理解されます。(問答:#37798

りーさんは、自然発生権として人権を捕らえたときに日本国憲法は外国人の人権を保障していないと考えているのだと思います。これは一理ある考え方だと思います。と申しますのも、人権と言う概念が時代とともにその示すものが異なっているからです。前国家的なものであれば、そもそも人権の対象者は人類全体を指してものでもないわけですね。

フランス革命時の「人権」もそうですよね、つまり「人権」と言うのは憲法でその保障の範囲を規定していたわけです。通説がそのように考えるようになったのはあくまで世界人権宣言への批准があるからだと思います。

> 基本的人権という言葉自体が、一定の身分とか人種とか国籍とか性別とかを前提としない人間の本来の権利という意味であると一般的には考えられています。もしも日本国籍がなければ与えられない権利だとすると、それはもはや人間の本来の権利ではないということになるのです。(問答:#37808

世界人権宣言以前はそうだったわけですよ、ルソーなんかの「自然権を保証するものが国家」であったわけで、保障する、と言う概念が発生すること自体が、すでに自然権ではない。

だから、結局リーさんのように考えていくと(私はリーさんの考え方にも一理あると思う)人権と言う概念は「国民国家」を超越してしまっているのですよね。リーさんと同じように考えている人では半月城さんもそうじゃないかと思うのですね。

つまり、普遍的人権を前提にして憲法の言葉が書かれていない。自然権として前提されているのであれば保障も否定もなく、そこにあらねばならない、ところが、、、。

ちょっと半月城論も参考にしてみましょう。
半月城通信:世界人権宣言と日本国憲法より一部抜粋。
実際にそうした一面もあります。たとえば第30条の「国民は法律の定めるところにより、納税の義務を負ふ」という規定などは決して外国人を除外しるわけではありません。このような義務に関するかぎり、憲法の「国民」は外国人を含みますが、どっこい権利に関しては、国民とそうでない者とは厳格に峻別されます。

そのいい例が国民の生存権で、第25条「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」との理念のもとに、国民健康保険法や公営住宅法、国民年金法など、生活に密着した法律が作られましたが、これらは一部の例外を除き、数十年間にわたり外国人をことごとく排除してきました。

こうした憲法の理念が、日本で潜在的な人種差別主義を生んできたといえます。日本人の人権意識をイギリスの代表的新聞「ガーディアン」が次のように批判しました。
「日本人は『純粋な』もしくは無意識の人種差別主義者であり、彼らがこの国にも人種問題が存在すること、ないしは他民族に対する彼らの態度に何かが欠けていることを認めない限り事態の改善は望めない」(1979.8.13 読売)
また、半月城さんも私と同じように「市民権であるべき派」のようです(^^ゞ

以下、問答:#37809への返信。

(1)について
具体的な方法を提示していない、指輪さんは「国民主権」の意味を考え直さなくてはならない、としている。憲法に国民主権を書いてある意味は大きいと考えているのは私と同じであると思う。その意味でストレートに参政権を与える方法は憲法上困難であると思う。そのとき、国民=日本国籍から国民=日本国籍+永住(外国)人と規定しなおすのがとほほさんの第一案である。わたしとしては国民をこのように定義しなおすことには抵抗が大きく実現困難と思われる。


定義しなおすというより、定義していないのです。これは半月城通信によれば憲法の「国民」を英訳したときには peoples になるらしく、大体「国民」と言う言葉は peoples の訳語ではないだろうか?だから漢字の与えるインパクトと言うのは馬鹿に出来ないのだと思う。本来は「国民」ではなく「民衆」「人民」と訳されてしかるべきなのではないだろうか?

つまり一見民主憲法に見えるこの憲法も「peopleを「国民」と訳した説」が正しいとすれば「臣民」=>「国民」と言う流れの上に訳されていると考えられるわけです。民主憲法は本来「国民」と言う言葉を使わないのではないでしょうか?
これの意味は大きいです、国民が国家を形成するのではなく国民は国家に所属することになります。国民国家論の国民とは全く違います。確かに諸外国でも国家建設の後に国民建設を行いますが、それは決して国家に所属させることではないと思うのですよね。

自然権的に国家におけるアプリオリな人間のかたまり(これが国民と解されたわけであるが)、とは明確に国民国家論では国境内に居住するものを指すのではないだろうか?
民族自決、民族主義はそれがわかりやすい形で存在していたに過ぎない。例えばヨーロッパの場合でもイタリアなどは未だに自分たちを「イタリア人」としたナショナリズムってないのではないかと考える(^^;
これが私の主張ではあるが、先に述べたとおり、この主張が通らなくても同意は可能である。私はタラリさん的に自明に存在している「国民」に何の根拠があるのか、且つ又定住外国人を国民(日本の人民・民衆・これはいわゆる【日本人ではない国民】である、これが理解しにくいのでしょうね(^^; )とすることの不都合を重ねて問わねばならない。

(2)について
定住者に一律に国籍を与えてしまえば「国民主権」に抵触しない。外国籍からの離脱を宣言しない、あるいは韓国などは他国で二重国籍になってしまった後、韓国籍を離脱したと宣言したとしても韓国自身はそれに「影響されない」という方針をとっている。二重国籍を目立たないやり方で浸透させるのはinti-soさんの論考を読んでみるとかなり良い点があると思った。


> しかし、これにも難点が少しある。日本政府が二重国籍者だけには、日本国への忠誠を、日本国籍取得後においても監視しつづけるというおそれがあるからである。もちろん、これは国家が態度を改めさせるべき性質のことではあるが、いまもって国家はそういう体質であり、将来的にもなかなか改めないだろうと思う。

国家の体質を根拠に差別的制度を温存する、と言う主張になってはいないだろうか?これは(3)にも共通するので下で改めて述べてみたい。ただ、ここでinti-solさんの意見の中には無国籍の在日朝鮮人への視点にかけている、韓国籍、朝鮮籍を取ることの出来ない方々も大勢いると聞く。

(3)私の案、意図するもの
ヨーロッパ各国では植民地独立時に宗主国本国に定住する旧植民地人に対して自由に国籍の選択を行わせた。定住する旧植民地人の多くが定住する国の国籍を選び、今日の多民族国家ができた。日本は台湾、朝鮮出身者を外国籍として日本国籍からただちに排除した。それが多数の「在日」のはじまりである。私の解決はまず、その誤りを元に戻そうとするものである。これならば、「国民主権」にも抵触しないし、二重国籍という国家が体質的に忌避する事態も避けることができる。国民になってしまえば国籍を元にした種々の差別もなくなってしまう。

<略>
> 私の案でも心配な点はある。在日朝鮮人が帰化を申請するときに審査は欠かせない、厳しくすべきだという保守層の反発が予想される。一定の永住条件というだけで帰化を認めるようにしないとかえって差別の固定化になるのでこの条件だけは譲れない。

まずはどのように目標を達成させるのか?を考える前にどのように達成されねばならないのか、を結論しその目標に向かって歩み続けねば決して保守の差別制度を打ち砕くことは出来ないと思います。タラリさんの意見は、保守が頑強だから差別を温存すること、に他ならないと思うのですが。

先にも述べたように、私自身は在日韓国・朝鮮人に限らずより一般化した形での経済難民受け入れに対しても、婚姻永住、他永住、に対しても制度改正の必要はあると思うが、在日朝鮮人の問題をまず第一段階として改正することに依存はないですね。

在日の方々には国籍の取得の必要もなければ、取得したい人は無条件で国籍を取得しても良いと思うし、重国籍も認めて良いだろうし、、、。

そうするとやはり在日朝鮮人にかんしては出生地主義をとって国籍を取得せずとも国民である、と規定することは大日本帝国の犯した国家犯罪への賠償として当然であると思う。日本人になるのではなく、在日朝鮮人も日本という民族国家の国民ではなく地域国家の国民になるのである。
(あえて市民権と言う言葉をはずして説明しているが、ここに市民権の概念を当てはめるとわかりやすいと思う)

ついでに言えば、パスポートにしろ市民権を持つのであるから日本政府は申請を受ければ発行せねばならない。

#うーーん、やっぱり「国民」と言う言葉に問題がありそうだ、この言葉がいつごろ出来たのか?漢字文化圏外ではこうした人間のかたまりを原語ではなんと呼んでいるのか?そしてその意味は?この辺のところを知る必要がありそうな気がする。

*コメントは思考錯誤まで。