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共産主義は失敗?資本主義は成功?

2005年11月05日 | 民主主義と人権問題
「世に倦む日日」にすこーーし反論のために思考錯誤掲示板での「問題は「作る会教科書」だけではない」スレッドから一部を抜粋して転載します(^^ゞ

共産党が党名を変えるべきか否か等は外部の人間がどうこう言うものではない、共産主義に対する刷り込みを我々は日本国家およびアメリカ国家にいやというほど受けており、かなりきつい色眼鏡によって共産主義が見えていることの自覚のない評論は愚かなだけである。

現在の資本主義陣営の民主主義は共産主義の影響を強く受けている、いや共産主義がなければ資本主義に現在のような繁栄はない。

-- 以下、「問題は「作る会教科書」だけではない」スレッドより

>よって、反社会主義、という点においては辞書的な意味において、とほほさんも右翼と呼ばれる要素を持ち合わせています。あくまで辞書的な意味ですがね。

そういうことですね(^^;
ですから、私は右翼が「社会主義」を批判すると、右翼は社会主義って何だと思っているんだろう?社会主義の何が嫌いなのだろう?と聞いてみたくなるんですよね。そうするとその嫌いなものが自分の中にあることに気が付くはずなんです(笑)

民主社会においては民衆は全員が何らかの政治的な立場を持ってます、ですから私より左にいる人から私を見たら私は右翼でしょうし、その逆もまたしかりで、私なんかもそうですが「連中にかかったらみんな左翼にされちゃうよ」とかいって否定論者をからかいますが、連中が他人を左翼だ左翼だと言えば言うほど自分がかなり右にいることを公言しているようなものなのだけど、自分では中道のつもりでいるから面白いです。

大体、この中道とか中庸と言う考え方は政治が民衆の手にはなかった時代の考え方で体制の側からも民衆の側からも中立的立場で政治を行うと言う考え方です。ところが民主社会では体制=民衆ですから、中庸・中道と言う立場は成立し得ないのですね(^^;
ですから私は「中立」だとか「中道」だとかいう奴が一番胡散臭くて嫌いなのです(笑)

実はこれは日本の民衆が江戸以降現在に至るまで「政治的立場」から切り離された倫理観念の上に洗脳されてきているから、今の政治家の中にさえ中道や中庸を使う馬鹿は多いです。右翼と言うア・プリオリな集団があってその仲間が右翼、左翼という集団があってその仲間が左翼、と言う観念しかもてないのはそれが原因です。

自分は自分であって右翼でも左翼でもありません。が、他人が自分をウヨサヨと評価するのは間違ってはいないのです。あくまで相対的なものだということですよね。

だから、社会主義は左翼だと教えられると社会主義批判をする馬鹿右翼が、いるわけで、じゃ、お前は社会主義の何が嫌いなんだ?と聞いてやれば、その嫌いな部分こそ右翼そのものであることに気が付くはずなんです、普通(笑)

社会主義に対峙させるとしたら個人主義です。個人主義者に言わせれば国粋主義者も社会主義・共産主義者も右翼です、本来は(^^;

こう分類するとわかりやすくないですかね?
「体制の側の視点で社会を思考するのが右翼、民衆側の視点から体制を思考するのが左翼」
どうです?(^.^)

>それはただのバカウヨでは…?
> 僕は共産主義の基本理念を聞いたときに「ああこりゃダメだ」と感じただけの話で反社会主義です。もっと深く話を聞くと考え方が変わるかもしれませんが、ロシアや中国を見る限り…それは無いと思います。


どういう基本理念がダメだと感じられたのでしょうか?
私も現在の共産主義体制国家には反感を持っていましたが、ソ連邦崩壊以降や現在の中国は大分変わってきていると思いますよ。共産主義の理念が正しいのか正しくなのかは結論は出せないと思います。

前にも書いたことがあるけど、結局民主主義の中にある「自由」と「平等」と言う概念が、まったく矛盾して対立しているんですよ。ですから共産主義の持つ平等概念に対峙させるとしたら、資本主義の「自由」に対峙させねばなりません。これはどちらもそれだけでは理想社会は達成できません。

資本主義的自由を徹底的に追求したら平等は失われますし、小泉やブッシュのようなネオリベに陥ってしまいます。経済的な平等概念は共産主義の方が理想に近いでしょう。

ですからこれを右翼と左翼に分類したのでは一向に埒が明かないのですよ。どうしてそのように分類されてしまうのかと言うとたまたま日本の体制が資本主義だから共産主義が左翼になるだけです。共産主義国家では共産党は右翼です。
もちろん、共産主義というものがそもそも資本主義体制(厳密には違いますが)への反抗から生まれてきてますので、共産主義国家でも自らを左翼と呼びますが、しかし実態は共産主義国家における民衆にとって共産党は右翼です。

>その考え方そのものが一番下での右翼左翼の定義に従ったものですね。すぐ上では「中道」という言葉を「右翼でも左翼でもないもの」と扱っているのに「体制側でも民衆側でもない中立」と置き換わっちゃった。体制=民衆なら、下の定義に従うと中道どころか右翼も左翼も無くなってしまうんじゃないですか?体制=民衆だと体制から見ても民衆から見ても同じものが見えちゃいます。

いえ、民衆の中にあっても右翼や左翼は発生しますよ。社会をどうするのかと言う思考方法のパターンですから、中道や中庸と言う立場は消えてあくまで相対的な右翼左翼が生じるわけです。

>難解な文章ですね…。僕も中道を気取った政治家は嫌いですが、そんな政治家は同じく中道を気取った人に支持されているから成り立っているもので…頭が痛いです。

中道という考え方のもっとも悪しき点は「議論を放棄している」ことなのです。対立する二つの考えかたがあったとして、そのどちらが正しいのかと言う思考を放棄して「中立」であることを根拠に自説を主張するわけですが、、これは私がいつも言うことですが、【正論の対極に謬論を置き、そのまんなかが正しいと言う事は決してありえない】と言う事なんですね。
以下は某掲示板での私の発言なのですが(^^ゞ

まあ、言葉の通り公正な立場で中立を保持する、と言う意味なのですがこの件の場合公正な立場とはどの立場が公正であるのか?と言う議論を全く無視して「公正中立」の看板を声高に上げているのである。日本文化の中にこの「公正で中立な立場」と言う存在を何の疑いもなく受け入れる下地がある為よく自民党に利用される。

さて皆さんよく考えていただきたい。
この「公正中立な立場」とは何なのか?と言うことを。

例えば、ここに白いカラスがいるとします。白いカラスを白い、と主張する立場が当然成立する。一方で「いや、そのカラスは黒い」と主張する立場も当然であるが成立する。さてそうするとその二つの立場の成否を判定する公正中立な立場と言うのは「このカラスは灰色だ」と言う主張が公正中立なのか?

そう、ここを自民党はいつもごまかしているのである。これを公正中立な立場で判定するのは科学であり論理なのだ。であるからある主張に対し反論する時には通常は「それは間違っている」として反論する。そしてその意見の異なる両者の主張を科学的に判定するのが「公正中立」と言う事になる。だから「公正中立ではない」と言う批判は全く論理的に成り立たない。普通この言葉を使うときにはその判定者に対しても「あなたの判定は間違っている」と言う判定者への反論として使われているわけである。

ところが自民党と言うのは常に「ではどちらが正しいのか議論しましょう」と言うと逃げ回る。と言うより既に議論では負けている。ただ、議論している振りをしているだけなのだ。
これは「自由主義史観」だとか「歴史修正主義」だとかの右翼の論法と全く同じ事で、すでに論理破綻して「公正中立な立場」から間違いであることが立証されているのに永遠に自分の立場のみを主張して相手を「公正中立ではない」と批判するわけである。さてこの論法が如何に奇妙奇天烈なのか見てみよう。

音楽でその曲の音符は「どれみ」となっているので音符どおりに「どれみ」と演奏した、が、「そらし」と演奏する人がいる。そこで「ここは どれみ ですよ」
と教えてあげると「それは公正中立ではない、公正中立なNHKは ふぁ と演奏するのが正しい」と言っているのと同じ事なのだ。

そもそも従軍慰安婦の問題は日本政府が一向にその責任を認めようとしないので「公正中立な立場」から判決を導き出そう、としたのがこの国際民間法廷である。
ここでなぜ日本政府の対応を「公正中立ではない」と言う主張が成立するのかと言うと日本の裁判では日本政府自身が「加害者」であり「一方の当事者」であるからである。これは論理的に正しいことは万人がうなづけよう。

であるから、この法廷の判決に異議があるのであれば「その判決は間違っている」として主張して初めて正常な議論である。ところがその民間法廷を「一つの団体」として「一方の立場」と規定してしまえば「公正中立な立場」と言うのは「自分の立場」を認めさせるまで無限級数的に成立するのである。こうした論理がいわゆる「力の論理」と呼ばれるものである、この政府の論理を推し進めていくのであれば結局力の強いものが最終的に勝つ、そう我々一般社会で「公正中立」を求める時、法にそれを求める、法が法として機能するには国家と言う絶対の力が存在するので「公正中立」が成り立つのである。

その国家が一方の立場として争われる時にもこの公正中立さを保つために「三権分立」の思想があるのであるが悲しいかな日本ではそれが成り立っていない。

こう言うことは、「みほぴょん」とか「どれみ」のようなよっぽどの馬鹿ではない限り誰にでもわかっている。にも関わらず日本右翼分子はなぜこう言う愚にもつかない論法を延々と繰り広げるのであろう。
なぜならこの論法は「何も知らない人、余り関心のない人」に対しては有効に作用するからである、つまり他人の無知に付け込んだ卑怯極まりない戦略なのである。


>そりゃとほほに言わせればそうでしょうが、あくまで辞書的な意味では左翼は社会主義・共産主義です。自分から見て左なら『左』という定義は間違っていないですが、辞書的意味を否定するほどになってはさすがにどうかと…。

別に否定しているわけではないですよ(^^ゞ
それはそれで正しい定義であり間違っているわけではないです。
ただ、視点を変えて物事を見てみると真理に近づけると言う事です。

> また、"右翼"と"ファシズム"は別なのですが(これまた辞書的な意味(^^;)とほほさんは右翼思想のどんなところが嫌いですか?

ですから、これも定義によるんです(^^;
右翼思想とはどういう思想か?を定義してもらえない事には何とも言えませんが、私の定義に従えばもっとも忌み嫌うのは「全体主義」です。

>現在の中国は、生産責任制によって私有財産を認めており、それどころか経済的平等という点で見れば世界中のランキングで80位くらいになっており、10何位ほどの日本よりも遥かに貧富の差があり、共産主義の理念に従っているとは到底思えません。仮に中国の国体が優れているとしても、それが共産主義で無い以上、共産主義は「中国にも見放された」という例えが適当ではないでしょうか。まだ結論は出せないでしょうが、現状廃退の途にあると見ても良いと思います。

矛盾してますね(^^;
貧富の差の拡大は、資本主義経済への移行途上でありますのである程度仕方がないでしょうが、これは中国に限らず日本でもアメリカでも資本主義社会一般に言えることではないですか、しかも中国はそれを始めてまだ10年そこそこであり、これからそれをどう是正していくかの腕の見せ所でしょう。

現状が【退廃の途】であると言う表現では、元の共産主義体制のほうが良い、と評価している事になりますが、共産主義体制ではダメだとおっしゃったのではないですか?

>結果的に平等が失われるのは当然の話です、個人の能力や意欲が平等でない以上は。あと、貿易赤字があると報復関税だとか輸入規制だと叫び始めるブッシュが寝オリベたる新自由主義とは思えません。

でしたら、なぜ中国の貧富の差の拡大は【退廃】なのでしょうか(笑)

>共産主義のほうが理想に近いかもしれませんが、その理想というのはどんな理想でしょうか。経済的な平等ですか?そもそも僕は経済的な平等が理想だとは思えないのですが…。

平等概念の違いではないですか?
正当な評価による正当な報酬を平等と言うのではないですか?当然そこにはフェアな競争が必要でしょうし、フェアであるためには相続の問題も考えねばならないでしょうね。

>共産主義としては失敗している。という話です、社会として廃退とか、国家として廃退とか言ってるんじゃないですよ。あの貧富の差には目を向けたくありません。

いや、それはおかしな考え方でしょう、如何なる主義や思想であれ時代とともに発展し理論も変遷してきます。共産主義の中でも色んな議論があり対立し争乱し、そしてその反省の上に立って発展しているのですから、初期共産主義と違うから「退廃」と言うのはおかしいですよ。では日本の資本主義はその初期、明治期とはまったく異なります。その資本主義と異なるから「退廃」しているのでしょうか?

共産主義にしろ、資本主義陣営の唱える民主主義にしろその求めるドグマ・理想は同じです。全ての人類が平和で安定した豊かな暮らしができることを理想として、それに向かって発展するわけです。共産主義もそれに向かっているのであれば退廃ではなく発展でしょう、もちろん共産主義内部での議論は多々ありますでしょう、貧富の差の拡大は国内でも批判されているはずです。それを如何様に是正していくかはそれぞれの政権の腕の見せ所です。

中国がまだまだ体制の中から排斥しなければならないものはまだたくさんありますが、ベクトルは排斥の方へ向かっていると思います。周辺国はそうした中国を現段階では見守っている事が大事でしょう。

もうひとつ「貧富の差の拡大」と言う問題は差が広がっている事が問題ではなく「貧民層」を見捨てた政策である事です。簡単に言えば底上げをしていかなくてはならない。ですから中国のスローガン「先に豊かになれるものから豊かになれ」は貧民層を見捨てたスローガンではありませんが、アメリカや日本のネオリベラリズムは弱者切り捨て政策です。さて、退廃しているのはどちらでしょうか?

あと、もう一つ既存共産主義体制の崩壊でわれわれがもっと一番に気を使わねばならないことがあります。それはソ連邦崩壊後における各種民族自決運動における民族紛争の数々です。ソ連邦崩壊は新しい国境を創設しその国境の内外で悲惨な状況が発現してしまったのは現実です。連邦体制がそれが抑えていたのだ、と言う現実にも我々は正面から向き合わねばなりません。

確かにソ連邦崩壊は西欧型民主主義の勝利として受け取られた事もありますが、その後の民族紛争は典型的初期西欧型民主主義の犯した事をなぞっているのです。これは一概に西欧型の勝利と位置づけるのは安易な考え方だと思います。

*コメントは思考錯誤まで