「あの佳代ちゃんの息子さんが眞子さまと婚約されるなんて驚きです。たしかに佳代ちゃんの弟と小室圭さんが似ているとは思っていました」
そう話すのは、秋篠宮家の長女・眞子さまの婚約相手である小室圭さんの母・佳代さんの小・中学校時代の同級生の女性だ。
眞子さまと小室さんの婚約会見は、7月上旬に九州北部を襲った記録的豪雨の被害を受けて延期されることに。そんな眞子さまのお相手である圭さんのお母さまについて『週刊女性』は先日、シングルマザーとして奮闘していた時代のことをレポートした。
その一方で、他誌では佳代さんと圭さんの“密着ぶり”が報じられているが、その「理由」は佳代さんの「生い立ち」が関係しているようだ─。
「佳代さんは近しい人にも実家のことやご出身など、自分のことを話さない人なんです。そのかわりに圭くんのことばかり話している印象でした」(佳代さんの知人)
そして、今回の婚約については冒頭の同級生もまったく聞かされていなかった。佳代さんは、亡き夫・敏勝さんの出身地である神奈川県藤沢市に小学3~4年生のころに引っ越してきたという。海からほど近い地域で、佳代さんは地元の市立小・中学校を卒業した。
「角田(旧姓)佳代ちゃんは転校生で、おばあちゃんとご両親と弟の5人家族でした。高校からは相模女子大学の附属に進学していたと思います。近所同士だったので、佳代ちゃんの家や私の家を行き来して遊んでいたこともあります」(佳代さんの同級生)
角田家が藤沢市に越してくる以前のことを、佳代さんの母・八十子さん(すでに他界)の同級生だった女性が明かしてくれた。
「八十子さんは高校時代に鎌倉市内のお寺の敷地内にあった3畳ひと間の借家に、家族3人で住み込んで下駄店を営んでいました。
そして、お寺からまた引っ越されて、八十子さんのお母さんがハウスキーパーをしていた横浜市内のとある会社の寮に、ご家族でしばらく生活されていたんです」
その後、八十子さんは圭さんも現在一緒に暮らしている祖父・角田国光さんと結婚し、’66年に佳代さんが誕生。
「'74年ごろに寮が取り壊されるなどの事情で“家がなくなるから困っている”との相談を受けたので、私が仲介して藤沢市内の平屋に引っ越されたんです」(八十子さんの同級生)
そのころ、角田家をひとりで支えていたのは国光さん。高校を卒業後、横浜市港北区内の『東和製作所』の従業員として、定年となる'98年まで勤務していたという。
「『東和製作所』は、缶ビールの缶や段ボールを作る機械の部品を製造する工場でした。角田さんはとてもまじめで仕事熱心な“職人気質”の方でしたね。5~6年前に角田さんがおひとりでふらっとうちの工場に挨拶に来られて、義理堅い方だなと思いましたね」(国光さんを知る工場関係者)
国光さんが家族の大黒柱として奮闘する中、角田家には人知れず「苦労」があったことを前出の八十子さんの同級生が明かしてくれた。
「八十子さんは佳代さんと弟さんを出産される直前くらいから、全身がリウマチになって簡単に外を出歩けなくなったんです。手足がかわいそうなくらい細くなり、本人も心身ともにそうとうまいっていたようです。
外食や旅行なども当然行けないので、ご家族は基本的にご自宅で過ごされていました。佳代ちゃんも、お母さんのお世話をされていたのだと思いますよ」
そんな八十子さんは病気のストレスも相まって、とある宗教団体に入信したのだという。
「リウマチで精神的にお疲れになっていて、八十子さんは『A』という団体に入会していたんです。佳代さんと息子さんのお名前もその団体の関係者からつけてもらったそうで、旦那さんも入会していたと思います。
私も八十子さんから勧誘を受けて1度入ったことがありますが、元信者が藤沢市内で凄惨な事件を起こしたときに親戚から“抜けなさい”と言われて退会しました。
そのあとにも佳代ちゃんが霊媒師のような人を頼っているのは、八十子さんが入っていた『A』の関係があるのだと思います」(八十子さんの同級生)
一部でも報じられたが、現在の小室家の自宅(横浜市)近くにある飲食店に、約15年ほど前、佳代さんは“霊が見える”という女性を連れてきたことがあるという。
その飲食店店主が証言する。
「圭くんが年長から10歳くらいのころまで、うちの店には月に2~3回、ご家族3人でいらっしゃっていました。
旦那さんが亡くなったあと、30代くらいのその女性と圭くんの3人で店にいらっしゃって、“すごい方なので、ご紹介したくて連れてきました”と佳代さんから紹介されたんです。
店に入ると“この絵がここに飾ってあるのは知っていました”と、店内にあるものがわかっていたような口ぶりだったことを覚えています。
さらには、霊が見えると言って店内の空席を指さして“圭くん、あの席からお父さんが見てるよ”と圭くんに話していました。宗教関係の方だったようなので『A』の関係者だったのかもしれませんね」
圭さんがまだ小学4年生のころに夫・敏勝さんが他界したことで、将来への不安が募っていたのだろう。佳代さんはたびたび、この飲食店店主に“弱音”を吐露していた。
「旦那さんが亡くなったあと、佳代さんは圭くんと一緒に何度もうちの店に来て、涙を浮かべながら“これからどうしよう”と不安そうにされていました。
閉店時間を過ぎたあとも私は相談を受けていて、夜10時くらいになる日も少なくありませんでしたね」
圭さんと佳代さんが“親密すぎる”のは、実家での苦労や夫の死を経験しているからこそ“支え合う”関係に至ったのだろう。皇室を長年取材するジャーナリストで、文化学園大学客員教授の渡邉みどりさんは、こう話す。
「父方でも不幸が相次ぎ、母方も苦労が絶えない生活を送れば、お互い支え合うようになり、圭さんが母親思いになるのは当然だと思います。
眞子さまが“お手本”にしている両陛下の長女・黒田清子さんは最近、姑の面倒をみていると聞きます。圭さんの母親思いを知る眞子さまも同様に、いずれは圭さんのお母さまのお世話をする覚悟をお持ちだと思いますよ」
“家族思い”の佳代さんが育て上げた圭さんと眞子さまのご結婚は、来年の夏になる見通しだ─。
http://www.jprime.jp/articles/-/10240
今更ながらキムコムロの母親の家系の事が週刊皿婆から出てきたけれど突っ込みどころ満載なので、トド子が読み解いて見るニダ♪
>八十子さんは高校時代に鎌倉市内のお寺の敷地内にあった3畳ひと間の借家に、家族3人で住み込んで下駄店を営んでいました。
ええとキムコムロの母親が52歳くらいだとして、長女だとしたら、実母の八十子さんは健在なら75~80の間だと思うニダ♪ ということは昭和13年~18年生まれ♪ それが高校時代なら昭和30年前後ニダね♪ちょうど三丁目の夕日の時代ニダね♪はてここで超疑問♪あの時代で3畳ひと間に住み込んで下駄店????キムコムロの母親の家系ってB落民の可能性無いニダか?昭和30年台ならほぼ間違いなく下駄屋じゃなくて靴屋だと思うのだけれど♪の特殊職業で革をなめして靴を作ってたはず♪ 岡林信康の歌で「チューリップのアップリケ」という歌が昭和40年頃にあるけれど、あれはB落民の靴屋の哀しみの歌ニダよ♪しかも昭和30年頃で3畳に三人住むような住環境ってちょっと普通の日本人ならあり得ないニダ♪戦後復興している時代だし、ド庶民のトド子の祖父の家でも昭和30年頃には普通の今で言う5LDKくらいある平屋建てになっていたニダ♪東京大空襲で焼かれてバラックみたいになってたのを建て替えしたのが昭和25年くらいだそうニダ♪しかも寺で間借り???キムコムロの母親の家系変じゃないニカ?
チューリップのアップリケ/岡林信康
>そして、お寺からまた引っ越されて、八十子さんのお母さんがハウスキーパーをしていた横浜市内のとある会社の寮に、ご家族でしばらく生活されていたんです
八十子さんという祖母の母は要するに横浜で女中さんしてて、その寮に入れたということよね?という事はキムコムロの曽祖父は「下駄屋」という名前の靴屋を寺の片隅で一人でやってたってことニダ♪ ますますB落臭がするニダね♪
>その後、八十子さんは圭さんも現在一緒に暮らしている祖父・角田国光さんと結婚し、’66年に佳代さんが誕生。
「'74年ごろに寮が取り壊されるなどの事情で“家がなくなるから困っている”との相談を受けたので、私が仲介して藤沢市内の平屋に引っ越されたんです」(八十子さんの同級生)
ここも妙♪ キムコムロの祖母が結婚したのに、女中していた母親の寮に新婚の夫と一緒に住んでいたニカ?キムコムロの母親が生まれた1966年って昭和41年ニダよ?高度成長期で高島平あたりに団地が出来て、いざなみ景気の頃ではないニカ?なのに1974年って昭和49年、寮に何十年家族で住んでいたニカ????家が無くなるから困るって寮はそんなに長く住めるようなところでは無いはず♪建て壊しまで居座るって物凄い事では無いニカ?思考が完全に普通の日本人離れしているニダね♪
>そのころ、角田家をひとりで支えていたのは国光さん。高校を卒業後、横浜市港北区内の『東和製作所』の従業員として、定年となる'98年まで勤務していたという。
寺で下駄屋していたはずの父親の稼ぎは何処???そもそも角田って苗字も連想するのは「角田 美代子」なんだけど♪尼崎連続殺人事件の♪あの女も背乗りの朝鮮人だったニダね♪だいたい「つのだ」なのか「かくた」なのか「すみだ」なのか全く解らないニダね♪キムコムロの母親の旧姓♪
新興宗教に嵌っていたり、やっぱりこの母親のルーツは限りなく黒に近い灰色ニダ♪
書いていて気持ち悪くなってきたので、この記事は連載にしてもっと詳細に突っ込んで見るニダ♪