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トドママのあるがままに

難病指定を受けている母親です。
笑顔を忘れないように、そんな思いだけでつらつら書きます♪

ヘルパーさん④(こだわり)

2021-01-30 18:49:07 | 病気

洗濯物を干してもらう際に、

「決まった干しかたってありますか?」

と何回か聞かれたことがあります。特に初回のヘルパーさんは必ず質問されます。

 

「ありません」

と答えるのが常でした。

 

それくらい、洗濯物の干しかたにはひとそれぞれにこだわりのやり方があるんだなあと思ったものです。

私は家事を人に頼むことが多かったので、「こだわりをなくすこと」が私の「こだわり」でありました。

私のこだわりを伝えて面倒なことになるよりも、やっていただいて洗濯が完了する方がよほどありがたかったのです。それが私の処世術みたいなものでした。

 

ですが、ちょっと興味があったので聞いてみました。

皆さんはどんなふうにお答えになるのかと。

なぜなら、ヘルパーさんたちは一様に「こだわり、ナシ?」と目を白黒させるような反応だったからです。

すると、いろんなお答えがありました。

裏返して干さない、裏返して干す、色柄ものと白いものは隣り合わせに干さない、靴下はここにピンチをする、下着は中に干すのでピンチが異なる、などなど出るわ出るわ。それを一軒一軒覚えているのかと思うと、それはそれですごいなあと思いました。

 

一応、私が干す場合にはこだわりの自分なりの干し方はあります。

でも、それは人さまには要求しません。というのも、ちょっと苦い思い出があるのです。

 

娘が生まれて半年くらいした頃、母が私の家で洗濯を干してくれました。

私の家に母が到着した時、私がお昼寝をしていたため(というよりもおそらく気を失うような昼寝なんですけれども)母はこっそりと静かに干してくれました。そうそう、当時は合鍵を渡していたんですね。だからこっそり入って、こっそり確認して、こっそり洗濯を干してくれたと。

この時問題だったのは、いつも私が使う洗濯ピンチやハンガーがどこにあるのかわからなかったらしく、洗濯物を物干し竿に直接干すなど、かなり工夫をして私のやり方とも母のやり方ともまるで違う干し方をしたのです。

 

私が起きた時、これはこれは不快な痛みとともに起きたので、と言い訳をしたいのですが。

母が私にカーテンを開けて「じゃじゃーん」とニコニコ楽しそうに洗濯を干したよ!と示してきました。

 

今考えても、「ありがとう!」とならなくとも、「助かったー」くらいの反応をしていいと思うんですね。

でも、娘はアトピーで、それこそベビー服だけはこだわりの干し方をしていたので、物干し竿に直接干されているベビー服を見て大泣きしてしまいました。汚れた竿の砂がかかったではないか、もう一回洗濯を回し直さないといけない!と、わんわん泣き始めてしまったのです。

困惑した母親はそれらを取り除き、手で洗い直してもう一度干してくれました。

憮然としながら、泣きじゃくった私は、母がそうやって動くことに対してものすごい罪悪感と、この時間別の家事をやってもらえた方がよかったのではないかという自責の念と、何より母にありがとうと言えない情けない自分という存在にやるせ無い思いでいっぱいになりました。

泣いた理由はこだわりの干し方をしてもらえなかったから、ということだけではありません。

自分で洗濯をしたかったのにできない不甲斐ない自分、もう一度洗濯をし直すにしてもその気力も体調もない自分、そうした自分に対する鬱屈とした思いがわんわんと泣くことに繋がっていました。

子どものように泣きました。悔しくて、母を叱責した気もします。「たかが洗濯」ができない自分が許せませんでした。

 

その後、しばらくはこう干してほしいなあ、なんて思ったりしたこともありましたが、そんなことより洗濯物が山積みな方が大問題です。

背に腹は変えられない、という状況が続くうちに、こだわりがなくなりました。

と言うよりも、そもそも私のこだわりは「生活を回すこと」、そして「他の人を傷つけないで頼ること」というこだわりに変わったと考えています。

しかし、そうだとしても人に何かを頼むというのは難しく、慣れない作業です。はあー、むずかしい!

 

人を傷つけないで生きるというのは不可能です。が、私を手助けしてくださる方が悲しむことがないといいなと常々思いながら頼りにしています。


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自慢の杖

2021-01-26 08:17:52 | 病気

私は見惚れてしまうほど素敵な杖を持っています。軽くて扱いやすく、杖の最も重要と思われるゴム部分はお店でも最高級品に近いものです。

お店の方曰く、グリップ力が高いことが最高級品と言っている所以なのだそうですが、確かガラスファイバーみたいなものが入っていて、雨の日でも滑りにくい、むしろ雨の日でもしっかり支えになってくれるほどの威力だそうです。持ち運びに便利なように多少伸縮してくれるのも、また高さ調整できることも大変便利でした。これらの性能のおかげで、私は街に繰り出すことを気軽にすることができるようになりました。

そして何より、柄が素敵です。赤い杖、とひと口に言い表すとそれまでなのですが、その赤がまたなんとも言えない深みがあります。挿絵が小さくあり、金色で折り鶴など和の絵柄が描かれています。グリップなどは黒が使われており、コントラストも絶妙です。

 

その杖は母が、私の娘と選んでくれました。

 

お店には主人が連れて行ってくれました。

杖を持つことに対しては積極的でした。何とかしなければ、私は寝たきりになってしまうと思うほどよく転んで、歩くのが怖かったのです。室内でも転びましたし、道でも転びました。その時にできてしまう怪我は見るもおぞましく、治りも悪いので悪臭を放ってしまうこともありました。

 

車椅子を社会福祉協議会から借りて利用させてもらいました。デパートやショッピングセンターならお借りできるので、そのようなところを選んで買い物に行っていました。ですから、スーパーなんて大型店しか行けません。宅配に頼る日々でした。ここでは割愛しますが、車椅子生活を経験したことはこれまた想像していない苦難の連続で、私の感性を豊かにしてくれたと思います。それほど大変でした。

とにかく杖は当時の私にとって救世主のような一品でした。なんせ自分の足で歩けるかもしれないわけですから、スーパーもごめんなさいを言わずに買い物出来るかもしれないのです。こんなに喜ばしいことは他にありません。

しかし、何となく手頃なものが欲しいと思っていました。安く済ませたいと思っていました。どこかで杖を持つということは病気であることを表明するものでもあるので、寂しさも抵抗もあったのだと思います。

 

ちょうどその頃、祖母の新盆で、あ!残ってたら使わせてもらいたいなと思い立ちました。形見でもあるし、ちょうどいいやと。そんな塩梅です。

ところが既に良いものは人手に渡り、残っていたものは持ち運び用の折りたたみ杖と100円ショップのものでした。2つとも貰い受け使ってみました。私が使う分には特に不自由は感じなかったのですが、折りたたみの方を利用していたところ、歩く度に少しフワッと折りたたみ部分が浮くんですね。そこに娘が指を挟んで結構広範囲の皮が剥けて、要するに怪我をしてしまいました。私と手を繋ぐつもりで杖に手を伸ばしてしまったと。この時の娘は、私にとって杖が大切かつ大きな存在であることがわかっていたのでしょうね。怪我をした瞬間、パッと腕を背中に隠して、罰が悪そうな顔をしたのです。どうしたの?とこちらが聞いても何でもない、大丈夫と繰り返すので、手を見せてごらんなさいと言うとしぶしぶ出して見せてくれました。思いのほか大きな傷になっていたのもあり、この杖を使うのは即座にやめました。

 

そんな話をしたところ、母が「私が買う」と言い出したのです。自分で買うからいいよ、と断ったのですが、ダメだと。100円ショップのものでもダメだと、そう言うのです。

そしてデパートの介護用品コーナーに行きました。せっかくデパートに来たのに、ここか、と寂しい気持ちがなかった訳ではありません。

母は良いものを買うのだと、孫とニコニコ穏やかにきびきびと選びはじめました。私の選んでいるコーナーとは全然違うところに行き、ワイワイ孫と見ています。孫の世話まで、すまんの、とも思いつつ、私は私で真剣に選んでいました。

これはどうかな?と持っていくと、そんなのよりこっちよ!と大変お高いものをパッと。そうよ、これがいいわとさらに高いものを娘が。あらいいわね、と母。いやいや、さすがに高すぎると私。

お店の方にお声かけして、この2本の違いをお伺いしたところ、デザインはもちろんですが、最大の違いはグリップのゴムの性能とのことでした。娘が気に入ったお高い方が良い性能とのことでした。買ってあげるよ、これがいいよ、これにしなよ、と母に娘にワイワイ言われるので私もまんざらではない気持ちになってきました。ここへきて口を出さないと決めていたらしい主人までもが、これにしたら?と言うので、満場一致でそれに決めました。家族の誰もが自慢に思うステキな杖が、私の杖になりました。

 

街に繰り出す時、杖をつきながらひょこひょこ歩くのは少し恥ずかしかったです。かちゃかちゃ音もしますから屋内施設ではうるさいかなと気になりました。お店のレジやお手洗いで手を洗ったり、飲食店でも置き場所に困って、立てかけてはよく滑り倒してパーンという豪快な音を立ててしまいました。座敷の飲食店などでは持ち込んで使うため、杖の先を拭いてもらうこともありました。すいませんを何度言ったかわかりません。

そんな迷惑旋盤な側面ももつ杖ですが、私の自慢の相棒ですから、心が落ち込むことはありませんでした。周囲の方に申し訳ないなとは思いますけれども、みっともないとか情けないとは思いませんでした。娘も同じように、杖をつくみっともなく情けないお母さんと思ったことはないどころか、赤いかわいい杖をもつお母さん、というむしろチャーミングポイントにすらなったようです。下手に妥協しないでこの杖を買ってもらってよかったとつくづく思っていました。何よりご説明通りの安定のグリップ力。雨上がりの地面もなんのその。私の歩行をどれだけ助けてくれたか、そして転ぶ危険を何度回避してくれたかわかりません。

 

家族と一緒の楽しいお散歩もありましたが、それから必死に毎日リハビリしました。ただ杖と街を歩くだけなのですが、私にとっては大変な苦痛を伴うリハビリでした。そんな涙ぐましい努力の末、病状も良くなり、筋力が何とか追いついたと感じる日がやってきました。急な脱力も補えるだけの筋力がついたと感じたのです。

よし、杖を卒業してみようか。

杖を持ちながら歩いたりして、さらなるリハビリ期間を経てからでしたが、決意の日からそう遠くない未来に家に置き去りにして出かけることができました。そしてそのままスムーズに卒業できました。私にとって努力の成果が実った大変に嬉しい出来事でした。

数日後に母に連絡したところ、それはそれは大層驚いて、そして大喜びしてくれました。

報告しておきながらなんなんだと思ったのですけれども。あんなに高い杖を買ってもらったのに、お役御免になったと告げて喜ばれていることに、ものすごくやるせない気分になりました。母はどんな気持ちで自分の娘に杖を買ったのだろうと。自分の娘に、介護用品売り場で、自分もまだ必要としない杖を。

 

私の自慢の杖は、今も玄関の手に取りやすい定位置に置いたままです。いつ使うことになるかわからないので、仕舞い込むことはしないつもりです。でもそれ以上にいつ使うことになってもいいように覚悟の気持ちを込めて、傘立てに立てる、靴箱に入れることもしていません。

家族の思いが詰まったこの杖は、今も私の心を奮い立たせてくれます。使っていなくとも、相変わらず大切な相棒です。


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励みになったこと(昔の友人)

2021-01-26 03:45:35 | 病気

これはコロナ禍にあっての出来事でもあり、またとてもしなやかで強い友人たちの行動力に支えられての出来事で、状況にも友人たちにも感謝でしかない出来事でした。

コロナで大変だよ、というまさに最初の緊急事態宣言の折、高校の同級生からこの学年の同窓会をオンラインでしようかという話があると連絡がはいりました。病気になってからさらに遠のいていたものの、それでも会ってくれていた数少ない友人たちからの連絡でした。こういう時こそ繋がりをもって、助け合おうという素晴らしい精神に基づいた出来事で、すごいなと思いました。ただ、遠慮しようと即座に思いました。

私は当時病状が非常に悪く、実家と主人と私で、私のお墓の相談をする有様だったのです。

死が怖くないほどの病状に苦しんでいました。娘がどうなるのかだけは心配でしたが、ここまで一生懸命生きたのなら、私が原因で道を外すことはないかなと思っていました。もはや何の精神的な支えもない状態でした。

 

どうするか悩みましたが、友人たちが行っていることに賛同はしたかったので仲間に入れてもらうことにしました。それ以上の連絡はせず、ただひたすらに静かに過ごしていました。

 

そんな折、発起人の友人がインタビューを行い、その内容を文字起こししたものも同窓会の掲示板に掲載されました。考えさせられる内容で、とても苦しくなったり、励まされたり、私の暗く沈んで疲れ果てていた心がいろんな方向に動きました。

そこで気になることをweb上で質問してみたんです。静かに暮らすのでは無かったのか?と笑えてきちゃうのですが、その頃ちょうど入院なんかもして、むしろやり残したことを作らないようにしよう!みたいな気分でした。行動に一貫性はナシですね笑。

その些細な質問に友人は真摯に答えてくれ、別の友人は私の状況に興味をもってくれました。インタビュー第2弾を私にという話になりました。闘病について話せばいいとのことです。

私みたいな人間がという疑問すらさておいて、ふたつ返事でお受けして。そこから世界が広がっていきました。

 

細かい内容は割愛しますが、一番ありがたかったのは、友人たちの私に対する反応でした。

病気になってからというもの、私は全ての機能が落ち、頭は衰え、もはやあの頃の自分は戻らないと思っていました。加齢によるものかな?くらいに暗示もかけていました。

今の私が「普通」という周囲の反応に段々と記憶違いなのではないかと言う気すらしてきていたのです。

誘導尋問のひとつとして、「お前が見た白い車が犯人の乗る車なのか?」と聞くと、実際には青かったのに何となく白かった気がしてきて、記憶を塗り替えてしまうことがあると、聞いたことがあります。人間の記憶はそれほどにもろいと。私も同じだったように思います。記憶の刷り込みと言いますか。私はこんなもんだったという書き換えが、脳内でされていました。

それなりに運動が得意だったし好きだったことも夢幻。それと同じように家事も仕事も、そもそもあまりできていなかったと思い込むようになっていました。大好きだった音楽もめっきり聞かなくなりました。ピアノは指が動かず全く弾けなくなっていて、ここまで衰えるのかと愕然としたほどです。が、そもそもろくに弾けなかったという気がしていました。腹筋もなくなり、声もボロボロでしたので歌うことも、すっかり忘れていました。若かったからできてたこと、とキレイさっぱり諦めていたのです。

 

ところが、友人たちは私が元気だった頃のみを知っています。

ですので、私を見て「大変だったんだね、よくがんばったね」という反応をしてくれたのです。

 

変な話ですが、「こんなふうになってしまって」と嘆かれたことで、ものすごく元気が出てきました。

あれ?私、こんなんじゃないよね!病気のせいなんだよね。もっと元気になれるかな?と、そういう塩梅です。笑

そして、友人たちはこんな私でも「こんなこと頑張ってみたら?」とあっさり提案してくるのです。病人だから安静にしててくださいね、ではなくて。この程度の人に言っても価値がないのではなくて。

あんれ?私はまだ、何かをすることができるのかな?

 

その後もそれ以前も、個別に助けられていきました。

このただ苦しんだだけにしか思えない病気の経験こそが宝だと、教えてくれた友人がいました。私が考えていることが面白いと言ってくれた友人がいました。

この経験を私が発信することにしたきっかけです。書きなさいと背中を押してくれる友人も多々いました。

この同窓会に参加する前に、海外で活躍する友人に思い切って(ロックダウンで心配だったのです)連絡してみたところ、なんともはや、私のことを心底心配してあれこれと連絡してくれた友人がいました。そして生きていればいいのだということと、その昔、些細な私の言動に友人が励まされていたことがあると、そのようなことを教えてくれました。私はすっかり忘れていた出来事だったので、大変に驚きました。そして、実際にその後しばらく専門家に話を聞いたりしてくれて、私の心が弱り過ぎていると、それが心配だとひたすらに私を勇気づけてくれたのです。

別のこれまた海外で活躍する友人からも連絡があったりして。中学の時の1番の友人でした。その友人には、これまた別の友人がわざわざ私のことを連絡してくれたりしてという手順があって。病気だそうだよと。

皆、私とは違い社会ために素晴らしい働きをしています。そんな多忙な人たちが、わざわざこんな私のために心を込めて時間を割いてくれている、その事実に驚く一方で、とにかく感謝しました。そして私には大切にしたいものがあるんだと教えてもらい、それを守れるだけの力がまだあるよと教えてもらいました。

 

みんなみんな、本当にありがとう。私、がんばるよー!


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ステイホームを楽しんでいます

2021-01-23 04:07:18 | 病気

ステイホームがストレスではないはずはないですよね。

これは完全な愚痴ですが、家で寝て過ごしている時は「休める時に休んだほうがいいよ」とか「休めていいね」とか言われて勝手にかなり傷ついていました。したくてしているわけではない上に、私は元々そんなにインドア派ではなかったので、外に行きたいよお、家でももっと動きたいよおとハラハラ泣いていました。でも、湯水のように医療費を使っていて、そして社会に対しては何もできていない自分という、助けてもらっている身分の私がそんなことでメソメソとして弱音を吐いていること自体が申し訳なくて、愚痴として口にすることはできませんでした。悩みであること自体申し訳ないという思いでした。母も持病があるので、母に聞いてもらって同意してもらえたことは何よりもの救いでした。

 

ところが、どうぞ家にいてくださいということになったら、みなさん同じように苦痛だと。

ほら!我が家は嫌いじゃないけど、仮にどんなに住み心地が良くてもずっといるのは嫌なものでございましょ?と仲間ができた気分で、とっても嬉しいです。分かり合えるってそれだけで財産ですよね。

今、こうして何だかよくわからない文章を発信していますけれども、もしこんな奴がいて、卑屈で、恥をさらしながらでも生きてる輩がいるもんだと思ってもらえたら最高だと思っています。

 

ということで、都合7年もちーっとも慣れないステイホーム、楽しむ努力は続いています。

 

こういう時、子どもの方が意外と順応早いですよね。すごい。

私なんか、学校に行ってないんだからせめてこれくらいは、なんて漢字のドリルとか計算問題とか、その他にも少し先取りしてですな、とかとにかくいろんなことをやってもらいたいと思ってしまいます。そして案の定追いつかない勉強量と減らない家事にイライラしてしまいます。

でも、私たちの努力ってウイルスを前にしたらなんて無力なんでしょう。とついに感じまして。

そもそもストレスを溜めないようにする、ということが努力なのでは?とようやく思い至りましてですね。

くっだらない!と思えることも、笑えていればそれは最高の結果なので、つまるところ努力の成果なんだということに気づきました。

 

さて、最近の我が家のくっだらないことナンバーワンを。

何かを作ったり描いたりすることが大好きな娘。と言っても、本当にガラクタの域を出ませんので、ゴミの山を築いているといっても過言ではありません。そんなガラクタも時に宝物が飛び出してきて、私にとっては生活のために仕方なくゴミになったとしても、大好きな作品の数々です。

その日はまた静かに長々と、絵を描いたり、ハサミで切ったり、セロハンテープを無駄に引き出してみたり、創作活動が繰り広げられていました。こちらは何をしていたのか忘れましたが、とりあえず放っておきました。

何か満足のいくものができたらしいのですが、

「みちゃだめー」

と言いながら今度はベットメイキングをしています。

我が家はリビングにベッドがあります。私が横になって過ごすことが多いので、それでも家族と一緒の時間をナチュラルに過ごしたいという希望があり、ソファーを捨てまして、ベッドを置くことにしました。住めば都とはよく言ったもので、意外と快適です。病人のお前さんにしたら当たり前でしょうにと怒られてしまいそうですが、それが主人にしても娘にしても、むしろ楽しそうなのです。フラットな地面になるので、カルタをしたり、双六をしたりと、家族で遊ぶ時間も増えましたし、遊びの種類も広がりました。

そのリビングのベッドを使って、まるで映画監督のようにやれそれと布団をこうとか、こだわりを見せています。

あーでもないこーでもない。

どのくらいまた時間が経ったのか、ようやく、ママーと呼ばれました。

行ってみると、どうも声の方向からベッドの下にいるようなのですけれども、さて何をどうしたらいいかと問うと、まだだよとかここから布団をめくってーとか、いろいろ注文が飛んできまして、正直段々とめんどくさい気分になってきました。

「もう、なんなのよー」

と言って、ベッドから垂れた掛け布団をめくったところ、

「ばあー」

と、おばけちゃんが出てきました。紙切れ1枚と1色のボールペンで作っただけの、何の変哲もない、というよりもむしろ粗雑なおばけ。

 

ぴらぴらぴらーという紙の音だけが室内に響きます。

 

もう、一体何なのかと。本日の大作は、コレ?

おばけなのに特に怖がらせたいわけでも驚かせたいわけでもない。長い時間かけた割にクオリティも随分と低く、ツッコミどころしかないこの状況に、何だかおかしくておかしくて笑いがとまらなくなってしまいました。そんな私を尻目に、娘がしたり顔で、ケラケラ笑いながらベッドの下から出てきました。

一本取られました。

 

笑いをとるというのはものすごく難しいことだと思いますけれども、実際に娘がいろいろと画策している様子から本当に難しいんだなと改めて教えられた私でありました。

このおばけちゃん、今も神出鬼没で、時々無言でピラピラと我が家に現れます。

主人も、片付けなさい!と娘をぐちぐち言いながら怒っていたのに、振り返ったら扉口におばけちゃんがピラピラ。吹き出してしまったことがあります。

我が家は今日もくっだらないことで、笑っています。笑

 


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症状③(皮膚が弱り、怪我が治らない)

2021-01-23 02:48:00 | 病気

非常に困った上に辛かったのは、皮膚に起こる炎症でありました。

むくみがひどかったので足の皮膚は伸びきって、つやつや、てかてかしていました。今でも手足で起こる現象ですが、最悪の時は本当に皮膚が薄かったです。

どのくらい薄いかと言うと、オブラートより薄いくらい。

自転車のペダルに引っ掛けて数カ所の切り傷と大出血。

玩具箱の淵に足を引っ掛けただけで、まるで鎌で切ったかのような傷。

大袈裟ではなく、何だこれ?どこでどうしたらこんな傷になるのか?というレベルでありました。

 

最も最悪だったのは実は去年の春頃から。コロナ禍でした。おそらく病気の進行で症状が顕著になったと考えられます。

春に主人から自転車に乗ることを禁止され、しばらくそれでも乗ろうとしていたものの、ついに筋力まで衰えてきて自転車ごと転倒するという大変危険な状況に陥ったため、ようやく乗ることを諦めました。その間にも、ちょっとよろけて生垣に足をさーっとやったところ、ズボンを着用していたにもかかわらず数カ所の切り傷を作ってしまいました。

その後、歩くことも難しくなり、何でもないところで転んでは大怪我になるという、もう外出することに恐怖しか感じない状況にまで至りました。原因はS3PEの悪化と、おそらく甲状腺機能の低下です。はっきりとわかってはいません。

 

話をもう少し具体的なところでします。重複しますけれども。

最初のきっかけは、筋力の衰えとむくみによる関節のぐらつきから、室内でちょっとよろけて玩具箱の角にぶつかったことです。

「あ、いたた、ははは」

くらいに思って、適当にやり過ごしていました。しかし何か、思ったより痛い気がするのでズボンをたくし上げるとしっかりと出血していました。出血といっても、血が滲む程度ではないのです。滴り落ちて、靴下を汚しているのです。

え?この程度ひっかけただけで?

薄くなった皮膚はあっさりと剥け、すぐ下にある組織を傷つけていました。

桃の皮を剥くようなイメージをしていただければわかりやすいかと思います。ちょっと引っ掛けただけなので、通常であれば白い線が入って乾燥しているような雰囲気、もしくは無傷、程度の軽い接触でした。どういうことだろう、何なのだろう、と驚く一方で、深く考えてはいけないと、こういうものだと思い込もうとして、消毒と絆創膏だけ施して普通に生活していました。

朝、晩も消毒と絆創膏を変え、薬を塗ったのですが、何と言っても傷の治りが悪い私。変わらないキズの状態にいろんなことがだんだん面倒になってきます。処置も多少雑だったかもしれません。

一向に変化がないなと思った5日後くらいに、絆創膏をめくったところ真っ白くなっていました。明らかに膿んでいます。

えー、なんなんだよー。楽観的な私も、さすがにちょっとだけ焦りました。どうしたものか。大体、私は一体どういう体なのか。疑問に思いつつもぼーっと受け入れ、淡々と処置をしました。そのほかにもいくつか水疱ができたりして、破ってみたり、謎の傷が出現してみたりと傷は増えていました。実は結構ひどいかも?

主人には専門でもなければ得意でもないとはいえ、見せてはいました。処置もしてくれたりしていました。

ところがその日は大袈裟にもこう言うのです。

「げー!何だこれ、やばいよ。炎症がおきてる。しっかり洗わないと。」

「え!しっかり洗うってなによ!」

「たわしでゴシゴシ・・・」

は?

皮下の組織が露出して、ジュクジュクしてるんですよ、触るだけでも充分痛いのです。正気な提案ではないと信じたいですよね、積年の恨みを込めた冗談だと信じたい。

「からし塗る方がまだマシだよ。なんで「たわし」なんぞでゴシゴシなど!!!!」

 


しかしまあ、一体全体私はなにをしたというのでしょうか。

前世で、いや、現世だとしても、そこまでのことをしでかしましたでしょうか。

私のなにが悪かったのでしょうか。食生活、生活態度、性格、人間性、、、

全てが悪かったと思い始めました。

誰かを傷つけてきたのか、いやそれはそうに違いないけれど、どう反省してももうダメなほど、私は罪を犯したのか。

こんなに毎日だるくて辛い日々を超えてきた結果がこれなのか。

醜い姿と荒れていく足、そして気だるく機能しない肉体に働かない頭脳。私に課せられた試練は、もはや拷問だと思いました。とんでもない罪を犯したのでしょう。そう思わなければ逆に耐えられる気がしませんでした。

 

さて、口では「いやだー」と言うものの、流石の私もわかりました。確かにこれは洗った方がいい。

たわしはいやだけど、スポンジとかで何とか洗い流そう。

でも、怖い。痛い。不器用な主人にやられたら、そりゃあもう地獄の閻魔様もドン引きの拷問に違いない状況になります。

うん、自分でやらせてほしい。

 

シャワーを主人に持ってもらい、さて、はじめましょう。

まず当てるだけで飛び上がらんばかりの激痛。

傷に手を当てて、上からそーっとぬるま湯を流すことで少しずつ慣れさせて、手を外し、そしてここでようやく手で洗うことにしました。手だけではぬるーっとしたものを撫でるに過ぎないので、覚悟を決めてスポンジでゴシゴシ。

「いたいー」と口にすることで、逆に痛みが和らぐと心理学で聞いていたので、思いっきりいたいいたいと言い続けることにしました。

しかし、そんな余裕もすぐに吹っ飛びます。

とにかく、痛い!痛いなんてもんじゃない!

わんわん泣きながら洗いました。いたいよーいたいよーと母親が泣きじゃくる姿を淡々と見る娘。

もうどういう子育てしてるんだろう。

泣きながら頑張りなさいと言ってきたけど、まさにママがそうだと示してる。不本意ながら!

鼻水が出てくるので、娘はティッシュを持ってきてくれました。

 

主人ですら、もう無言です。

「いたいの?」

と娘が聞くので、

「痛いに決まってるでしょ!」

となぜか主人が語気荒めに答えました。

「そりゃそうだろうけど。」

と娘がしょんぼりと発言すると

「あのねえ、これ、もうそりゃ想像を絶する痛みよ。応援してあげようよ。」

と二人でがんばれー!がんばれーと応援してくれました。ようやく私ももうやだーと本音を吐きながら、そして泣きながら洗い、そしてついにはもう無理とまだ白いものが残る中で終了しました。

主人もよくがんばった、えらいよーと歪んだ顔で言います。娘の方がよほどけろりとした表情で、ママすごいね!と言います。

すごいでしょー、ママがんばったよーと言いながらまた大泣きして、その間に主人が処置をしてくれました。

 

この傷、この後なんと半年近くもじゅくじゅくしたまま残り続けます。今は完全に色素沈着したものが残っています。

褥瘡みたいなもんだったんですかね。中から液が出るので、ガーゼで吸収するのですが、これを剥がす時がまた割としっかり痛いので、毎日のお風呂が苦痛でした。

 

慣れっこだろうと思っていたのですが、病院の方々もなぜか絶句しちゃう。病院の定期受診のたびに診ていただくのですが、なかなか良くならないでいました。

リウマチの先生だけが、特段気にする様子もなく、淡々と診てくれました。

「君の傷は生々しいんだよねー」

と言って、いつも先生は専門外なのに私の足を触って処置してくれました。気持ち悪いという顔もせず。百戦錬磨の先生は違うなと思いました 笑

 

主人が、

「傷の処置代金で万札が飛んだよ!」と笑うほど、ガーゼやらテープやら、ワセリンにキズパワーパッドなり、とにかくいろんなものを試しました。娘も看護師さんになってくれました。

 最後に、閲覧注意ですが、当時の私の足の写真です。炎症が広がっている様子も少しおわかりいただけますでしょうか。赤いところは少し熱もありました。抗生物質を飲んで抑える、その繰り返しでした。これでもマシな方です。

 今も、私の足には跡が残っているので、見せないようにしています。

 私自身はもう痛くないので全く気にならないのですが、驚かせてしまうようなので、そこは気をつけています。

 夏になるまでにはもう少し良くなるといいなと思うのですが、それは願いこそすれど期待はしていません。

私にとっても、家族にとっても、頑張ったという誇らしい思い出のひとつです。

 

 


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