五章
早いもので、あれからいくばくかの歳月が流れた。美奈子は京都の短大を卒業して地元の銀行に勤め。窓口に座って可愛らしい笑顔でお客に対応している。春樹とみゆきは子供の成長と共にいろいろな問題に追われ。奥山はいまだに独身貴族を楽しんでいる。恵子が結婚相手に選んだのは同じ会社の先輩であった「なんとなくいいな」って感じで結婚した「ダンナはやさしいから」ノリで生きているかのように調子よく結婚生活を送っている。
ちくまは不思議と店を潰さずに現状維持。いつかマスターが言っていた「店が成り立つのは意見の相違だと思う。店の雰囲気と言うか お客の嗜好と言うか みんな好みが違うのだから」それで潰れずにあるのかも知れない。
美奈子は圭一とコーヒーを飲みながら楽しそうに話している。
あれほどつつましやかだった美奈子も自分では気のつかないままに
その可愛らしい唇から
「圭一、出来るの?」
「出来るか 出来ないか ザット イズ ザ クエッション」
「ハムレットね」
美奈子は笑いころげ 圭一もつられて笑っていた。
「迷っていないで行動したら」こともなげに言う美奈子だった。
奥山は、友達に頼まれ中学生の「卒業ライブ」のビデオ撮りに渚交流館に行く。 演奏の上手下手は別として若い熱気を感じさせる。今の豊な時代、中学生でもこのようなライブも出来る。 世間の人達にとっては意味のない事かも知れないが、理屈ではなく情熱を注いで感受性を育んでほしい。自分に対して悔いを残さない今を過ごしてほしいとも思う。興味のある事だけの情熱と行動かも知れないが?でもそれでよいと思う。遊びを通り越し夢中になり、その事を成そうと体全体でぶつかってくる熱気というか存在感というか青春のときめきがカメラのファインダーを通して伝わってくる。
テレビを見ていると、少女から試験的に携帯電話を取り上げると、仲間と連絡が取れなくなり不安な表情が画面に映し出される。その少女と行動を共にしていると、友達の携帯がしょっちゅう鳴り、楽しそうにメールのやりとりするのを横目でうらやましそうに見ていたが、しだいに何かしら落ち着かなくなり、しばらくするとうずくまって泣き出してしまった。スタッフがその少女に携帯を返すと笑顔が戻り親指が活発に動き始めた。
「猿の話」の中に、チンパンジーにとって、もっともきつい罰は仲間から離して単独にする事だという。野生の猿も一頭だけ檻に入れると自分で全身の毛を抜いてしまい神経症をおこしやすくなるって結果が出ている。群れの中で孤独を感じると社会的な生活が出来ないようになっていく。
猿も人も同じで、孤独の中で自分を解ってくれる人がいると思うだけで、見られていると気づくだけで今まで感じなかったものが見えてくるのかも知れない。孤独と感じるものを癒してくれるものが、共感しあう事が生きるための歓びとして希望としての根源的なものかも知れない。その事を無意識の内に家族に仲間に周りの人々に求めているのではないかな。中学生達も自分達にも言える事だがその事を成しとげたという満足感または充実感を大切にしておごることなく前向きに明日につなげていけたらいいな。友達いわく、人生で今が一番若いのだから楽しくやろう、今という時は二度とないのだから。
久しぶりに奥山、春樹、圭一の3人が呑みながら話しに夢中になっていた。それぞれに話題が違っていて、春樹は娘の事を目の中に入れても痛くないような語り口で話し。圭一は美奈子のことを。酔いがまわって来ると相手の立場になって考えるって話しになり
「駅前の通り抜けの広場で列車待ちをして駐車している車が通行の邪魔をしていて、その通り道の車の運転席いる女性に
「すみません通してくれませんか」ってお願いしたら
「あなたのためになぜ私が移くの」って言われて怒るのを通り越して呆れたよ」
「そんな人多くなったな」
「へんな事があたりまえになり普通の事がへんな事になってしまう」
「子供の頃の儒教的な生き方を否定しだしたのはいつ頃からだろう」
「個人主義と利己主義がすり替わってしまったような…」
「時の流れだと言ったらそれまでだが、何か寂しい気がする」
「倫理観とか価値観を含めた自分の思いを他の人に伝えても意味のない事のように思えてしまって、何故かな?」
三人とも酔っぱらって言うことが支離滅裂になり始めた。
「心の中では好意を持って接っして相手のために何かをしてあげたいと思い、相手の中に入っていこうと思うが
その場になると自分の方からひいてしまい、現実から逃げ出してしまう」
「反対に相手が避けているのかも知れない?」
「意味のない優越を感じて自分が嫌になる時がある」
「いっさいのこだわりを捨て向かいあったらよいと思うのだが」
「自分と他人、自分と社会、自分と自然、自分と自分の中で感じる矛盾をどうする事も出来んな」
「さがし続けるそのプロセスに意義があるのではないのか?」
だんだんアルコールのピッチがあがる。
「話が変わるけど最近、花粉症に悩む人が多くなったな」
「新聞に書いてあったよ、寄生虫の研究者が言うには、
戦後日本は、国をあげて寄生虫撲滅作戦を始め1964年頃から寄生虫がいなくなり、以後アレルギー症が増えだしたんだって」
「花粉症の治療法は寄生虫と共生すればよいそうだ。 腹の中でサナダ虫を飼うとダイエットにもなり一石二鳥だな」
「特効薬としてサナダ虫を天火で乾し、粉末にして飲むとアレルギー症は一発でなおる、でも後遺症で癌になると言っている」
「上手く利用すれば完全犯罪が成立するかも?」
「話がだんだん見えなくなってきたよ」
「でも夢の中で自分がサナダ虫になって、魅力的な肉体をむさぼり食らい、したたりおちる甘酸っぱい真っ赤な血をすする。
その柔らかな褥に卵を生み付けてのうのうと生きている」
「共生する善良な寄生虫に変身してその胎内の温かい湯に浸かって身体中をのばし小さな幸せに酔い、
寄生されている生物に苦痛を与えないように殺さないように気を配って」
奥山が悪酔いしたのか
「君たち親ガニの生の卵を食べた事があるか?」
「食べた事はない」
「以前食べたのだが 定期検診の時、胃に影がある胃カメラで再検査してくださいと言われ病院で検査したが、
その時はちょっとした胃炎と血圧がちょっと高いぐらいで正常だった」
「それでどうしたん」酒の肴にちょうどよい。
奥山は冗談とも真剣とも解らない調子で話す
「でも 時々胃の辺りでカニが動くんだ。小麦とモルツをブレンドした中和剤を飲んで時を稼いでいるが、アッまた動いた」
「それは癌の前兆だぞ」 圭一が冗談まじりで言う。
「呑み方が足らないのだよ、もっといこう」益々3人のピッチはあがる。
酔いにまかせて春樹が
「この前 会社で会議があって、作業着のまま急いで行くと他の人達は集まっていて、室に入るなりみんなの視線を感じ、
なんか不安を感じたが、その不安が的中してしまった」
「どうして」
「その場にそぐわない服装だって自分で意識しだしたら、
なにかしら引け目を感じて思いを旨く伝えられないまま会議が終わってしまった」
「相手に見下され完全に萎縮してしまったって、よくある話だよ」
「服装には関係ないと思っていたが」
「着るものによって気持ちが左右する事もあるって身をもって知らされたよ」
圭一も奥山も酔いに任せて好き勝手な事を言う
「制服を着るとその制服にあった気持ちになり大手を振って歩く」
「歌の文句の(♪ ぼろは着ていても心は錦~)」
「別の意味での筋違いの話で」
奥山も真っ赤な顔で
「子供でも同じ事だな。親心で子供にきれいな服を着せて、でもその場に行きたらみんな普段着の子供達でじろじろ見られる。
一人だけ浮いてしまって逃げ帰り、もう二度と行かない」
「反対に浮いた事を得意とする子供もいる」
「大人も子供も一緒だな」
「その場に合わない服装を感じる時ってあるんだな」
「そりゃあ あるよ すべてはないが その時の本人の気分で」
したり顔で言う。
3人は久しぶりに呑み 遅くまで騒いでいた。
何カ月かして奥山は入院した。胃癌である。その日延ばしにしていたが圭一は見舞に行く。病室に入るなりギクッとした。頬はこけ落ち、顔はどす黒く。辛抱強い表情がほほ笑んでいるような。とても奥山とは思えない別人の姿だ。
圭一は感情を悟られないように
「よう どうだ、来るのが遅くなってごめん」
「わし、えらいわいや」
「何 言っとるだいやこれからだで」
圭一はただあいづちを打つだけが精一杯だ。
奥山はさらに続けて
「もういけんかもしれん」
「そんな事言わないで、頑張れよ、日にち薬だから」
つきなみな事しか言えなかった。
「時々、暇を見つけて恵子が話し相手に来てくれる」
「どうしているかな、恵子さん」
「幼なじみっていいな…、おんなじ調子で頑張っているみたいだ」
しばらく沈黙が続いた。
「幼なじみか、何でもしゃべりあえて、その思いを理解し共感して…」
「でも、現実は、あの人はって偏見の目で見てラベルを貼って、
自分の思い通りにならないとイライラして愚痴を言う。甘えかな」
奥山は遠くを見つめるように
「心にゆとりを持てないから弁解ばかり考えてしまう」
圭一は自分を振り返るように
「今、目に見えない不安を感じあせっている自分を感じる。
理想ばかり追い求めていつまでも同じ事を繰り返している自分自身をはがゆく感じる」
「呑みたいな」奥山はポツンと言う。
「中浜に行こうか」
「うん」
「よくなるまで辛抱せないけん」と言うのが当たり前だと思うが、よいとか悪いとかは別の問題として、今を共にしたい一緒に呑みたい。
点滴の管を持ちながら歩くのもつらそうだ。やっと車に乗り込むと途中でワンカップを買い中浜へと向かった。小春日和の昼下がり、浜辺に車を乗り入れ、ワンカップを片手に乾杯する。何かを話したい 語り合いたいのだが青い空は無口で二人ともただ黙ってチビリチビリ飲む。
「ホー」と 奥山の安堵の息ともつかぬ声なき声を聞くと目頭が熱くなる。もの心ついた頃からの幼友達でやさしい心のもちぬし。心の友として彼の精神とこころねと愛情と その他もろもろのものを大切にしながら、彼の身の上についてさがせるものはすべてさがし集め、自分の中に彼を感じたいと思うが、頭の中は真っ白で ただこの空間を漂っている空しさと 寂しさと苦しみの中で いかに生きてそして死んでいくのか。 言葉にならないわりきれぬ思いをどうする事も出来ず、海に向かって大声で泣き叫びたい衝動にかられている圭一がいた。
圭一はちくまでコーヒーを飲みながら奥山を探していた。いつだったか二人で話をしている時に真面目な口調で
「好きな人がいたんだ、その人もきっと私と同じように大切な思い出として覚えてくれていると思う」
「惠子さん?」
「違うよ」
「自分の知った人か?」
「いや、たぶん知らないと思う」奥山はぼそぼそと話始めた。
「その人とは仕事中に偶然出逢ったんだ。話をしているうちに意気投合して、心が通じるというか
気が合うというか、同じような価値観を持っていて、何か感じあうものをお互いに持っていたような」
「一目惚れって訳か」
「そうでもない。何でも話をすることができて、その話を理解してくれる心根の優しい人だった、結婚していて子供がいる。
でも、そんな事は関係なく話し合う事ができる人だ。大丸でのシャガール展を一緒に観にいく約束をしたんだ」
「それで」圭一は興味本位に聞き役にまわった。
奥山は話を続ける
「その人は、息をきらせながら「遅くなってごめんなさい」って無邪気にほほ笑み、その笑顔が何とも言えないんだ。シャガール展の一枚一枚の絵画を観てお互いに感想を喋り合ううちに、その絵画に隠されている心の世界に共感して、心の豊かさを教えてくれるその人をより以上に感じ始めたんだ。… 何度か逢って帰る途中一人になった時からその人を意識しだして、それからは、その人の夫を、子供を、家庭でのその人を想像して、もの悲しくて、愛しくて、その気持ちは募るばかりで、すぐにでも逢いたいと思うが罪の意識を感じて逢ってはいけないと思い、逢ってより以上に共感しあいたいとも思い、せつなくて苦しくてじっとしておれない気持ちになり、ある時、思い切ってその人に 今の思いを告げた「貴女が好きだ、僕は間違っているだろうか」しばらく沈黙のあと
「貴女の無邪気な仕草や優しいほほ笑みに自分を忘れてしまう、貴女と夢の中では同じ時を過ごす事が出来る。
とても楽しくて、でも苦しいんだ」
じっと目を見つめ合いながら
「貴女も自分を偽らないで」
「偽っていないわ、でも分別を持たなくては… だから…もう、そんないじわる言わないで」
「口にしてもしなくても同じ事だと思う。貴女に逢う度に、共に喜び… 共に悲しみ…
ともに共感出来る喜びでもあり苦しみでもある…。僕と逢ってはいけないと思ったことある?」
「ええ、何度もあるわ」
「僕も同じだ。悪いことをしているようで逢ってはいけない。でも逢いたい。その繰り返しで毎日が辛い…、貴女が好きだ…」
「私だって…貴方と別れたあと…疑いなくこの空間に一緒に居られたことを喜び。ともに共感できる幸せを感じたわ… でも…」
戸惑いを隠すことの出来ないその人と同じ思いである事が解ると、お互いの温もりに触れたくて抱き合いキスを求めた。童話の中で王子様が王女様を見つけだした以上に感激し、その人は上ずった声で「貴方に出逢えたことを私は一生覚えています。貴方も私を覚えていて…」
「僕だって忘れるものか、一生覚えているよ…」
ある夜、二人で演奏会に行くために、その人は女友達の名前を借りて、今夜遅くなる事を家族に伝え
「始めて嘘をついちゃった」はにかみながら笑う仕草が可愛くいじらしい。
演奏会の後、友達のアパートに留守を承知で立ち寄った。ブラームスのヴァイオリン協奏曲を聴いた感動と、ずっと抑えていた本能に身を委ねようとしていたのだが、玄関に訪問者の気配を感じると無意識のうちに二人は離れ、その人は顔を隠し、逃げるように部屋を飛び出した。奥山は言葉では言い切れない惨めさと、どうすることも出来ない自分自身が情けなく恥ずかしく思った。その人も私以上に惨めな感情を抱きながら夜道を小走りで立ち去ったと思うといたたまれなくなり… 罪の意識を感じた。
数日してその人から手紙が届いた「ありがとうございました、貴方と逢った日々を大切な一生の思い出としてしまっておきます、貴方に巡り逢う事ができて本当によかったと思っています、かけがえのない宝物を頂いたような、心が豊かになったようなそんな気持ちでとても嬉しく感謝しています、ありがとうございました」 その時以来その人とは逢っていない…」
「その人とは何も無かったのか」
「いや、精神的結び付きはあったと思うが、圭一の想像しているような事はできなかった」
「その人、どうしているかな」
「今も元気で、家庭を 家族をそして自分を大切にしていると思う」
目を細めて懐かしそうにぽつんと言う
「いつか逢うことがあったら、ヤアーって笑いながら声を掛け合う事ができたらいいな…」
その人との間に奥山の人生の一部分があったのだなってしみじみ思う。嬉しそうな、哀しそうな奥山の面影が浮かびタバコの青白い煙が目にしみてくる。
六章
春樹と美奈子が久しぶりにちくまでコーヒーを飲んでいると、恵子が入って来た。
「一人? 奥山君がいなくなって 寂しくなったな」
「葬式以来ね、元気?」
春樹は奥山を思い出して、しみじみと「幼なじみっていいなあ… 耳の痛いことをズケッと言えるし言われる」
「けど腹はたたない」
「案外 相手を責めないで許し合っているみたいなところもあって」
「無神経に土足で踏み込んでこずに 弱いところをカバーしてくれる」
「親子夫婦でも話せない事でも相談できるし」
美奈子は話を聞きながら、圭一さんとお互いに尊重しあい許し合えるような人生を送れたらいいなって 漠然と考えている。
「その事によるけど、理想と現実のギャップが大きすぎて、自分が善かれと思うことを無理に押し付けてしまう」
「でも家族の中ではそれが一番よい方法だと思っているわ」
「時々 勝手な甘えの押し付けになってしまって 反省しているのだが」
暇なのかマスターも顔を出し
「恵子さんは結婚して3年ぐらいかな」
「うん4年目」
「結婚か、知らない者同士が一夜にして離れられない人になってしまう」
「なぜかな?情が移るからだろうか?」
「なんかそれだけではない、目に見えない何かがあるような」
「いつ頃からだろうな、結婚した以上はいっさい目移りしてはいけない というモラルみたいなものが出来たのは」
「最近ではないかな、明治の初め?戦後?わからない」
マスターが会話に加わると必ず話の方向が変わってしまう
「男は基本的にみんなじっとしていられないのだから」
「おじさんは燃えさかっていて」恵子も負けてはいない
「男とか女とか年には関係ないと思うけど」
「貴女が好きだという熱情があって行動に出る。かちかち山の狸のように」 笑いながら言う。
「私は 誘いながら ジグザグに逃げる恰好をして私を追わせる。もしかしたら貴方が欲しい なんて私から言うかも知れない」
三人は冗談とも本気ともわからない会話に夢中になっている。
「嬉しかったわ 楽しかったわって 貴女の心地よい言葉で次の手段を考えさせられたりして」
「かわいさ やさしさ ゆたかさ いじらしさとかを大切にしながら」
「官能をくすぐられる事でしだいにふかみにはまってしまい 貴女が欲しいと思うようになってしまう」
「欲しいのはからだでなくて 全人格的なものだって…」
「でも いやらしさとか うとましい感じが見えてくると引いてしまう」
マスターはからかうように「美奈ちゃんはどう思う?」
「わかんない」美奈子はポツンと言う。そして
「おじさんと話していると話の内容が落ちるように感じる」
「でもこれ本当に本当だよ。わし、女の人が大好きだから」
と真面目な顔をして訳のわからない事を言っている。
春樹は苦笑しながら
「ちゃんと男も女も逃げ道を作っているよ。惚れたが悪いかって開き直って押し付けたりする」
「別の部分で自分を保てれば、しらんふりをしてしまう」
「よいとかわるいとか別にして、口では 私にはとってもやさしい人だった。なんて言いながら都合のいいようにその事から逃げる」
「でも、時にはその悦びが人生を変えてしまう。いろいろな形で」
「駆け落ちした人を何人か知っている。あの人たちはどうしているのかなって思う時がある」
「でも駆け落ちって、ものすごい熱情とエネルギーと決断する勇気がいるよ」
「唄の文句ではないけど 人生いろいろだから」
笑っている三人に つられて美奈子も笑っていたが、半分は別の世界の出来事として話を聞いていた。
春樹は ニコニコ笑って楽しそうな奥山の顔を思い出し
「奥山はどうしているかな?」ってつぶやいた。
「あの世で楽しくやっているわよ」
恵子はさりげなく答えながら奥山を思い出していた。
葬儀も落ち着いたある日、仏前に線香を立てていると「これが出てきたよ」って一冊の日記を手渡された
「貸して貰っていい?」
「どうぞ、恵子さんに読んでもらうと正博も喜ぶと思うよ」
その夜、恵子は夢中で奥山の日記を読んだ。
奥山の日記(抜粋)
○年○月○日
中学時代の同級生のお母さんに偶然出会う。立ち話も何だからと一緒に紅茶を飲みながら、
同級生の近況やら愚痴を聞いているうちに
「お母さんは元気?」知らなかったが母と小学校の同級生だって事だ。
「香住で孫達に囲まれて幸せに暮らしていると思う」と答える。
母とは長い間逢っていない。
「やさしい、ものしずかなおとなしい人で」って昔を振り返って話してくれる。 母の少女時代の事を始めて聞いた。
幼友達でいつも一緒に遊んでいたとか。なぜか聴きたくないようなもっと聴きたいようないたたまれないような せつない気持ちになる。
しばらく沈黙がつづき
「あの人 かわいそうな人で…」ぽつんと小さな声で言う。
○年○月○日
母は娘時代に私を生んだ事でまわりの人達に引け目を感じていたのかなって改めて思う。遠い昔の夢を掘り起こされているような変に懐かしんでいる私を感じる。母の事も父の事もただ単に私が今を生きているって事を感じ取る為の手段にすぎず、与えられた環境の中で自分自身の生きざまを探しているのかも知れない。
○月○日
従兄弟の浩一さんの話では、母は癌が転移していてもうながくないそうだ。逢いたい 顔が見たい 話をしたい。13歳の夏に始めてあった時「ごめんね、ごめんね」って泣きながらむしゃぶりついて詫びている母の肩を思い出す。それ以後、母の今の家族に対して私の存在がバレたらいけない。母の生活に迷惑をかけたらいけない。と思いながらも、盆・正月に里帰りをするたびに妹弟達となにくわぬ顔で合うマザコンの自分を感じる。
○月○日
香住の病院へ行く。久しぶりに感じる母。私が誰だかわかったのだろうか?わからなくてもよいと思う。ときおり顔をグシャグシャにしながら
「痛いわいやー」思わず手をさすり握りしめる。
「座らせてえな」
「座ると余計に痛くなるけえ、このままで辛抱せないけんで」
「死ぬんだろうか、恐ろしいなー」
「あ痛いたたあ、背中が痛い 撫ぜてえな」
あおむいたままで寝返りがうてないので肩を撫ぜながら何を言ってよいかわからない。
思わず「今まで一生懸命がんばって生きて来たんだから…」
「そんなこと言いなんな、よけいに痛くなるがな」
一瞬悪いこと言ったなって思いながらも「これからはのんびりゆっくり生きようよ」っては言えず
「これからも一生懸命がんばって生きたらいいがな」
「一生懸命になあ」
不思議と落ち着いた気持ちで話せる。死を前にした母に対して何も出来ない私のまどろこしさを感じる。本当の事はわからないが私を生んでから母の人生観が生き方が変わったのでは、苦しんだ年月だったのではないかとも思う。抱きしめたいがせめて手を握り肩を撫ぜながら、意味がわかないけど話し相手になる事が今の私に出来る最大の事ではないのか。
看護婦が入って来て声をかける
「おばさん、今日は大きな声がでるなあ、 この人だれだかわかる?」好奇と不審の目で私を見つめる。
「なべさださん」
「ほんとに?」って看護婦が私の目をまじまじと見る。
私はただうなずくだけで精一杯だ。母のしあわせを願い今までずっと母の生活環境から私の存在を隠して来たつもりだったが、死ぬ前に一目でよいから母の顔が見たい。無性にあいたい。そして今日、これから先もう逢うことの出来ないと思う母の存在を、母のぬくもりを、自分の中に感じ取る事が出来た。浩一さん母の事を知らしてくれてありがとう。
「この人は?」 そう、岩美の浩一さんの知人 なべさださんが豊岡の帰りに見舞に立ち寄っただけ。ただそれだけの事だ。
○月○日
午後1時より告別式。一般弔問の席で焼香する。頭をうなだれた弟妹の後ろ姿に、何もしてあげられないふがいない兄である私を感じる。私にとって母の存在は何なのか改めて考えるが、頭がボーとしていてまとまりがとれない。私をこの世に送り出してくれた人、根源である母がいて私がいるのだから。ありがとうお母さん生んでくれて… これ以上何も書けない。
恵子は失ったものの大きさを感じていた。奥山正博、幼い頃は兄妹以上に一緒に遊び、思春期の頃の私は貴方を避けていた。なぜか貴方の笑顔の中にひそんでいる陰気な雰囲気が、つかみどころのないやさしさが怖かった。
短大を卒業し再会してからは、奥山 春樹 圭一達と一緒のグループで何かを企画し行動を始めた時、お互いの役割を認めあい 尊重しながら事を進め、その出来事が私の自信につながった。というより、その行動を通して私の考え方や価値観が変わって来たように思う。
私の思いをぶっつけて話し、逃げる事なく向かい合い、お互いに納得のいくまで話し合い行動に移す。随所に共鳴共感を覚え、あたたかい心で受け止めてくれる充実した毎日。中でも貴方は最大の理解者であり、私を大人として成熟させてくれた、無くてはならない存在。
今思うと中学の頃からの貴方の陰気な雰囲気は母の事を知って悩んでいた頃だったのかも知れない。結婚後もよい相談相手になってくれた。かけがえのない奥山がいなくなり、胸の中にポッカリ穴があいたようなむなしさをどうする事も出来ない恵子。そんな恵子をやさしくそっと見守る恵子の夫の姿があった。「レコード聴かないか」惠子は夫に誘われて、そのレコードを聴いた。夫は「私の元気の素となる曲のひとつだよ」惠子は嬉しく思った。私を目を離さないで見守ってくれている夫に、押し付けではないやさしさを感じて有り難いなって思っていた。
その曲は「ボレロ」といった。目を瞑って聴いた。それぞれのパートが現実の生活の中に脚を入れて進むしかないかのように、一歩一歩同じフレーズを繰り返す。そのフレーズこそが現実から抜け出すただ一つの方法だと信じているかのように… ただひたすら一歩一歩繰り返しながら前へ進む…
やがてそれらのパートがふたつみっつと集まり、心地よい速度と力強さを増しながらオーケストラ全体が団結して躍動的に同じフレーズを繰り返す。自分の心に希望が見え喜びを感じた瞬間、曲は完結へと突入し一気に終結する。
夫は、何かを思い出すように再びレコードを掛けた。
「聴き始めの頃は突然の終結の寂しさを和らげる為に、どのように聴いたらよいのか戸惑ったが、聴いているうちに充実感を覚え勇希づけられだしたよ」 再びボレロの同じフレーズが続き、惠子は奥山を思った。涙があふれ出て止まらなかった。
「ある意味での行動の美学、または終わりの美学だな」夫はやさしく言う。
「昔から云われている言葉に、逢うは別れの始めとか。思い出に自分がなる時を思うと、今を懸命に生きて悔いだけは残したくないと思うよ」
のほほんと毎日を過ごしているかのような夫の、惠子の知らない思いやりとか、やさしい心根が惠子の胸にビンビンと響いてくる。そのような夫の姿勢に今まで気づかなかった惠子自身を恥ずかしく思った。今からでも遅くない、夫と心を通わせ、共感しあいながら愛のある豊かな心を持って幸せな家庭を作ることが出来る。 惠子は気持ちの中でやっと夫とひとつになれたと思う。そう感じると、瞑想してボレロを聴いている夫の手を握り締めた。
圭一は美奈子を中浜に誘って星空を見上げていた。 西空に宵の明星 金星そばで光り輝いて木星 すこし離れて土星 天頂にスバルの星達、冬のスターオリオンが堂々と突っ立っている。 懸命に説明しようとするが言い尽くせないまどろこしさを感じながらも、別の感情が頭の中を占領する。身体中の血が騒ぎ 喉がカラカラになった。
圭一は美奈子を見つめ、美奈子もしだいに身体が熱くなるのを感じていた。 ふたりともだんだん身体を寄せあうことに陶然としていた。 圭一は欲情をつのらせるのをはっきり感じ 暗がりの中でその唇にキスをする。 美奈子は静かに目を閉じ、すべてを圭一にたくし至高の時を過ごそうとしている。 時間よ止まれ このまま離れたくない 今を感じ合いたい。
ふたりは本能の出来事に真面目に向かい合い、官能のたかぶるままに身をまかせていた。 膝を引き寄せ 腕をからめ合い 徐々に徐々に美奈子の 圭一の ぬくもりの中に引き寄せられていくかのように…
悲しそうな 不安そうな美奈子のほほ笑みを感じて 圭一は今まで経験した事の無い感情に押し潰されそうになりながらも 身体を寄せ合い静かにつのる火が二人の中に生きていて その火がしだいに燃え上がっていくのを感じていた。圭一は美奈子が身体をなかばおこし、着ているものを脱ぐのをぎこちなく手伝った。恥じらいを含んだ裸体に圧倒されて目と唇で見る。キスをしながら美奈子の柔らかい肌に肌を重ねた。 美奈子は目を伏せ、おごそかな表情でじっとして お互いに熱い火を燃やし永遠の生命を誓い 結ばれた…
初体験の緊張からか 刺激が強すぎたのか身体がほてり 眠れないまま また向かい合い抱き合った 美奈子は唇に目に首筋に そして身体中に熱いものを感じ無我夢中で圭一にしがみついていた。
どのくらい時間がたったのだろう… 感動をやわらかく包み込んでくれる圭一の胸の中で、美奈子は充実感を感じながら眠りについた。
圭一は、まどろみの中で詩を思い出していた。
私は 貴女を想う 貴女は 私を想う
私は 私を考える 貴女は貴女を考える
私は 私を話す 貴女は 微笑む
貴女の微笑みの中で 私の不安がしだいに
歓びにかわっていくのを 貴女は ・・・