最終章
さらに10年が経った。 ちくまではマスターの奥さんがホコリだらけの古いノートを手にして
「あんた、いいものがみつかったよ」
納屋を整理していて見つけたらしい。‘70年頃、放浪していた時「Y・ Nに捧げる」と書かれたノートには座ってギターをつま弾いている女性の絵が描かれており、日記風な文章と所々に女性のデッサンが描かれている。
「なによ これ」
マスターは懐かしそうにノートに目をやり
「放浪していた時のノートだ、よく出て来たな。青春時代の… もう30年も昔のわしの姿だ」
「このY・Nって女性 だれ?」
「甘ったるい悩みと苦しみをもたらした ビーナスだよ」
自分なりの芸術と精神と官能の対立を面々と書き綴ったほろにがいノートが今ではひとつの記録としてマスターの前にある。
「30年間の時空を越えても、同じ感情の繰り返し、何の進歩も感じられない。感動ものだな。お見事と拍手したくなるよ」
「独りよがりの思い込み? 若いときの方がしっかりしているね」
「このノートを見て嫉妬しないのか?」
「やきもち?… それより、もっと店の仕事をして… 手伝って」
「困ったな」
「店の事から家の事から、私一人でして もうえらいわ」
「苦労かけるな おまえ」
「なにさ おまいさんって言ってほしい?」
「うん」
切実に願っている奥さんを感じて、考え込んでいるマスターだったが、しばらくして奥に入ると野焼き用の粘土を取り出して来て粘土を捏ねている。
「一緒に作ろうか?」奥さんはあきれたというような心境で
「私はいい」じっと見つめていると茶碗のような
「茶碗?」「うん」
粘土が余ったのか、その胴がだんだん長くなり
「花瓶?」「うん」
途中ガクンと首のあたりが崩れ、失敗したと思っていると崩れたところを利用して人の肩にしてしまった。
祈っている人のようにも見える。あれよあれよと見ているうちに
「表もあれば裏もある」って裏は人の顔らしくなってしまった。
「素焼きだから花瓶はダメだな。植木鉢にしょう」って形が完成、構成点 6,0 芸術点 6,2 なかなかの得点だ。
作品には石坂洋次郎の小説から取って 「あいつと私」と奥さんが命名する。

美奈子は小学校3年を頭に2人の娘達の母となり、ますますたくましい?35才になっていた。
日曜日の午後、美奈子は家族で「ちくま」に行き、のんびりと時を過ごしていた。
サラサーテのコンチェルトを聴きながら、隣の席で何の屈託も無く無邪気にケーキを食べている子供達を美奈子自身の子供時代と重ね合わせ思い出している。 圭一を想い、家庭をとりまいている今の生活を想い、子供達の家族の未来を考え、そして美奈子自身を考えていた…。
ドアが開いて春樹夫婦がやって来た。次女がめざとく見つけると
「おじちゃん、おじちゃん」と掛けより嬉しそうに
「わたし お父さんとお母さんのひみつ 知ってるよ」
「なに、秘密って」
小悪魔ように こまっしゃくれた調子で春樹に話しかける。
「あのね てがみ見たの」
「人の手紙 だまって見たら駄目だよ」
「だって みえちゃったんだもん」嬉しそうに続けて
「おとうさんがね うさぎさんの好きな子供たちのおかあさんが 大好き ですって…」
瞳を輝かせ春樹をみつめニコニコしている。
「そうか、よかったね」春樹は子供の頭をなでながら笑っている。
「そんなの ひみつでもなんでもないわ」姉もまけずに言う。
「でも…でも ぜったいひみつだよね おかあさん おかあさんひみつだよね、ね、ね」
必至で美奈子に共鳴を求めている妹の真剣な眼差しが微笑ましい。
みゆきはニヤニヤして圭一を見て何か言いたそうだ。バツが悪いのか圭一は新聞を読んでいて顔をあげない。
子供達を中心としたざわめきの中で美奈子は思う、圭一、貴方がそばにいてくれるから今の幸せがある。時間は移り変わっていくが変わらないものがあるって事を、身をもって感じさせてくれる家族がある。ありがとう圭一 …
隣の席に移って来た圭一に美奈子は
「幸せってこんなものかも知れない」と感慨深く言った。
「どうしたん あらたまって」
「ううん なんでもないの」
今 幸せの余韻に浸っている美奈子自身を感じていた。
新聞を読みながら圭一が
「久しぶりに米子に行かないか?相田みつを展をしているよ」
「そうね、みんなで行こうよ。春樹夫婦、惠子さん夫婦、私達、子供達、マスター夫婦も誘って」
「善は急げ、さっそく計画しょう。次の日曜日はどうだろう」
マスター夫婦は久しぶりに遠出をした。日記には、日本海を右手に大山を左手に見上げながら、みんなで米子に相田みつを書道展を観に行く。
始めに目に入ったのは 「七転八倒・つまずいたっていいじゃないか、ころんだっていいじゃないか、にんげんだもの」
自分はといえば毎日がつまずきどおしでしっかりしろって言いたくなる。
「あなたがそこにいるだけでその場の空気が明るくなる、あなたがそこにいるだけでみんなのこころがやすらぐ、そん なあなたにわたしもなりたい」
マスターは別の意味で感じていたのだが、その書の説明は「Aさんは病弱であまり仕事はしなかったが、亡くなってみると灯が消えたように淋しく、Aさんは仕事をしなくてもまわりの人達の灯になって一隅を照らしていた」そのような意味で、自分の心をみすかされたようで恥ずかしい。
相田みつをさんのその強さはどこから出てくるのだろう? 生まれ育った環境、それとも宗教。
詩は忘れたが「松の木は松のように竹は竹のように」友達は友達の人生を生き、自分は自分の人生を生きている。自分は友達の人生にはなれないのだから、お互いに自覚しながら尊重しあいながら生きていかなくてはって意味だったような。
何かしら心にびんびん響いて来る感動というか、自分の心の奥をみすかされて引き出してくれているような、不思議な気持ちだ。

「雨の日には雨の中を風の日には風の中を」
「日々是好日」 昔から言われている言葉だが、泣いても笑っても今日が一番いい日。私の一生の中での大事な一日だから。
一度にあまり多くの書を観過ぎたのと、デパートのざわめきで頭の中が混乱してコーヒーが飲みたくなった。 それこそ今日が一番いい日だ。
春樹の近況はといえば、3年前から有志を募り新年を祝おうって神社で初詣でに来た人と、一緒になって楽しんでいる。
公民館だよりに投稿を頼まれて懸命に書いている。書き終えた投稿文は
「新年を祝おうを終えて」
昨年のミゾレ交じりの暴風雨とはうって変わって、今年の「新年を祝おう」は満天の星空の中で満月が顔を覗かせ穏やかな年越しとなった。NHKの紅白が終わる頃から参拝の方々が集まり始める。お神酒 豚汁 そばをふるまい、子供達もクジをひいて一喜一憂している。新しい年を迎えた0時過ぎから40分頃まで参拝者のピーク時を迎える。家族連れが参道をすれ違いながら口々に「おめでとうございます」「旧年はお世話になりました、今年もよろしく」さわやかな響きが耳に心地いい。
参拝を終えた方々が暖をとるための焚き火を囲みながら竹筒で作ったコップのお神酒を片手に、女性や隣の人は豚汁を食べながら、真新しい希望を胸に抱き顔はほころび今年の抱負を、夢を語り合っている。女性の方にお神酒とか豚汁を薦めると「いや、あっさりしたそばの方がいい」とそばを美味しそうに食べてくれる。普段は静寂な境内も裸電球とスポットライトに照らされ独特の雰囲気をかもしだしている中で、明るく弾んだ声が賑やかく飛び交う。一変して境内は社交場に様変わりだ。
仲間の一人が「このような語らいの場を目の当たりにすると楽しくなる」と嬉しそうに言う。参拝者がテントの中に入りスタッフの手伝いをしてくれる。また「理屈を言うのもいいけど、動く事は大切な事だ頑張れよ」とか「えらいけど続けて行く事が一番大事なことだで」お年寄りもアドバイスやら忠告をしてくれる。境内に集まったみんなの顔が輝いて見える「自分らも楽しみ参拝に来た人にも喜んでもらって、この催しをしてよか った」と別のスタッフも笑美をこぼしながら言う。
大盛況の内に1時をまわり、そろそろかたづけの時間だとスタッフを見ると、みんなの顔が充実感を満喫しているように感じられる。夜遅くまでおつかれさんでした、年賀状の添え書きの文章をふっと思い出した「あなたにとって今年もよい年でありますように…」
「させてもらっていると思えないかな?」友達の由紀夫は言う
「してあげたいとは思うけど、させてもらっているってどういう事かわからない、そのへんの心境はもうひとつピンとこないな」そう言いながら春樹はある友人夫婦を思い出していた。
もう20年近く前の桜が咲く頃、夜1時頃に電話がかかって来て「生まれてくる子供と妻が生きるか死ぬかの状態だ、夜おそくなってから悪いけどA型の血液の人はいないかな、君の力が借りたい」あいにく春樹はO型なので友達に連絡をとりその病院に駆けつけた。このままでは母子ともに危ない、どちらかを犠牲にしなくてはならない苦汁の選択を迫られていた。子供より妻が大事と彼は妻を選んだ。彼は話す、生死の渕を彷徨っている妻を救う為に自分は死んでもいいと思い、代わってあげたいと思っても自分にはなすすべもなかった。
その友人の言葉を借りると「ここは何処だ、何故このような場所に自分が居るのか、わからなかった、突然カーラジオで尾崎豊の「アイラヴユウ」が聴こえてきて我にかえった。頭の中が真っ白になり涙がボロボロと溢れ出て止まらなくなった…。 何とかしなくては、二人の心を喜ばせ存在を感じあいながら生きていくにはどのように行動したらよいのか、分かっていることは、一歩一歩確実に現実を踏み締めながら希望を持って前進する事が二人の喜びの根源的なものではないのか」
それからの彼は妻が退院する8ヶ月の間、毎日毎晩病院に行き、今はただ現実の苦るしみを悲しみを和らげて笑顔を感じ合い、楽しく喜びあいながら今を生き抜かなければいけない、まずはそれが先決だ、そのためには死なせた子供を仲立ちとして二人の心の拠り所としての二人だけの宗教を創造し今の苦境を乗り切ろう、二人で宗教を作りだし実践する事が善いとか悪いとかは妻が元気になってから考えればいい、今は二人のおかれている現実と未来の夢を二人だけの宗教を夢中で語り合う、看護婦さんに他の入院患者の事を考えてか「面会時間は過ぎている」と注意されながらも10分程度の逢瀬を楽しむ事が二人の日課となり喜びとなり、日ごと二人に笑顔が還ってくるのを感じられたと言う。
20年近く経った今でも友人夫婦はその時の出来事を原点とてお互いに感謝しあいながら、押し付けではなく死んだ子供がいて夫がいて妻がいて、お互いのために二人だけの宗教を信じ、その思いを思うまま具体的に実行しお互いの喜んだ顔を観て自分の喜びとする、そのように信じ抜いて行動していくと救われてくるような気がするという。
春樹は、友人夫婦を思い出しながら、友人夫婦の生き方が由紀夫の言う「させてもらっている」という意味と通じるものがあると思い友人を思い出しながら話す。
由紀夫は言う。
「その友人夫婦、もう一歩踏み込んで既存の宗教を考えられないかな、すべての生命はなんだかの形でつながっていて独りで生きているのではなく共生して生きているのだから。たとえば、野球は投手、捕手、内野手 外野手、それぞれの役割があって、お互いに励ましあい、助けあい、信頼しあっているからこそ個人個人にチームの一員としての自覚が芽生えてくる、その絆の中でお互いに尊重し感謝の気持ちが沸いてきて試合になるとみんなの為に自分の為にって頑張る、日常の生活と同じだと思う」春樹は野球にたとえられるとわかるような気がする
「団体の中の個人、個人が有っての団体、そのへんが難しいな」
「そうだな、友人夫婦も現実には二人だけの宗教と思って、その宗教を信じきって実践する中で二人の今を感じているのだが、
まわりの人達の優しい思いやりとか眼には見えない支えとか、
すべての生命のかかわりの中で暮らすことが出来ているんだと感じてくれたらいいな」
「自分達だけの幸せとか自分だけの快楽を願うのではなくて、他の人とともに喜び、ともに共感する心を持つことが出来たらいいけど」
「友人はお金よりも健康が大切だと思うし、健康より心の持ち方がもっと大切だと思って実行しているといつか言っていたな」
「温かい血を通わせて、親切な心とか、感謝をする心が自然に育んできて、そのような気持ちを積み重ねていく事が、
すべての生命に対してさせてもらっているんだって心から感じ取れるようになると思う」
「出来ることなら、そのおかげさまでとか有り難いと思う気持ちを、その友人夫婦が悩み苦しんでいる人達にも感じてほしいと願い、
その思いを行動に移す気持ちになってくれたらいいな」
由紀夫はさらに言葉を続ける
「打算的な狭い自分の眼から見ていた世界から自分の感情を捨て去った眼でみなおすと
宗教の大いなる道を求めていく活力が生まれて来ると思う、きっと無限のパワーが生まれると信じている」
「でも、いくら善いことを言っても聴いても、大いなる道を探し求める心がなくては何も感じ取る事ができない」
「心掛けひとつだな」
「そう、心の持ち方しだいなのかも知れない」
由紀夫の言わんとしている事は痛いほどわかる、そのとおりだと思う、神様が守ってくれるとか、救ってくれるとか、仏力を感じるということは日常の生活の中から生まれるものだ。何もせずに努力もせずにただ神頼みでは、いくら神様でも救ってくれるものではない。日常の生活を一生懸命にしていれば必ず神は姿をかえて現れて来ると信じている、
だから神様と共にいる事を自覚する。由紀夫の価値観とか生き方、自分の周りを大切にする気持ちと同じように春樹も他の人を尊重し大切にする心を持ちたいと思う。他の人と共感し心を通わせる中で、愛のある豊かな心を持つことが出来ると信じて行動しようと努力しているのだが、いつも気持ちの空回りで中途半端な春樹自身を感じている。
その友達と知り合ってから何年も経っているが、始めてピアスを付けている友達に目が止まる。善いとか悪いとかでなく、ピアスを付ける事で苦しみとか辛さとか、いろんな出来事を乗り越えて来た友達なのだからって思うと、何かしらいとおしく感じる。
その友達が「もし、奥さんがピアスを付けるって言ったら、あなたはどうする?」
即答は出来なかったが、私達夫婦が指輪を付けたいきさつを推察しながら思いつくままに書いてみたいと思った。
妻がピアスを付けたいと言ったらダメだと答えるだろう。私自身の心の裁判では、自分で自分の身体に傷を付ける事は悪い事だと思っている。でも、妻の気持ちが切羽詰まってゆとりが無くなり、心の安らぎを求めて、幸せな心境を得る為にどうしてもピアスを付けると言ったら、この世の光を見ることなく亡くなった恵 おまえに相談するだろう。
以前、おまえと相談して夫婦で指輪を付けた時のように私が先にピアスを付けるだろう。おまえも覚えていると思うが、母が病院でそっと指輪を抜こうとしているのを感じて、父はその指に黙って指輪を嵌め直し、無我夢中で指を絡めて長い間握り合っていた事を。
頭の中は真っ白になり、悲しくもないのに涙がこぼれ、面白くもないのに笑いが湧き出る。でも母は父以上におまえを思っていた。以来ずっと父と母は指輪を嵌めている。
善いとか悪いとか理屈ではなく、縁あって夫婦になったのだから、おまえのお母さんなのだから。善い時は勿論、苦しい時、辛い時、悲しい時はより以上に寄り添い支え合って生きていかなければいけないのだから。
お母さんがどうしてもビアスを付けたいと願ったら、父が先にピアスを付ける。父は「今を、この時を、この場」を大事にしたいから。おまえを大切に思う以上にお母さんとの二人の世界を大切にする。やきもちをやくなよ。
今更、何でこんな事を思うのかって?その友達と話しているうちに思いを安心してさらけ出し話していたんだ。私ひとりではないって思いが湧いてくる。苦しければ苦しいほど、辛らければ辛いほどその喜びが大きくなる。
大事なことは、今のあるがままの状態をそのまま受け入れ、友達をとおして自分を見つめ直し、良識の中で信念と情熱を持って今を力いっぱい生きる事だ。だからと言って思いを友達に押し付けては、それこそ余計なお世話だ。そうではなく自分の思いを友達に聞いてもらい、私達を理解してもらいたいのかも知れない。
ちくまのマスターはだいそれた思いを抱いていた。今「大河小説」を書きたい衝動にかられているが、何をどのように書いてよいのかわからず、思案にふけっている。
いつ頃だったか、美奈子が子供達と店に来た時の事を思い出していた。
ジュースを持っていきテーブルに置いたとたん
「ちがう ちがう それおねえちゃんの」かん高い声で妹が言う。
「ごめん ごめん 間違えちゃった」
「おかあさん おかあさん ミロのおじちゃんまちがえたよ」
「おねえちゃんのジュースまちがえた、まちがえた」 と万遍の笑みをうかべてはしゃいでいる。
彼女達がまだ小さい頃にコーヒーの替わりにミロという乳飲料を飲んでいた頃から、私の事をミロのおじちゃんって言っている。なつかしい響だ。
この娘達も年頃になり「おじさん」って笑いながら彼と一緒に来てこの空間を感じてくれたらいいな。春樹や美奈子と同じように… 。
これだ、生きている事の楽しさ、生きる事のいとしさ、悲しさ、そして生きる事への執着を自分なりに書き綴ってみたい。例えば北杜夫の「幽霊」の書き出し 『人はなぜ追憶を語るのだろうか、どの民族にも神話があるように個人にも心の神話があるものだ。その神話は次第にうすれ、やがて時間の深みの中に姿を失うようにみえる (中略) 蚕が桑の葉を咀嚼するかすかな音に気づいてふっと不安げに首をもたげてみる、そんなとき蚕はどのような気持ちがするのだろう… (中略) しかし運命というものが僕たちの血のなかに含まれているものだとしたら、母なる自然がそのような音をたてたとしてもなにほどの不思議があったろう』 この文章を真似て書きたい。
マスターは大きく深呼吸をひとつすると、ぼそぼそと書き始めた。
「美奈子は岩美高校の二年生 目のくりくりっとしたどちらかと言うと丸顔に近く髪が長い どこかで見たことのあるような普通の女の子だ…
( 終 )
恵存 美奈子さんへ
平成 11年 6月 07日 追加改正
さらに10年が経った。 ちくまではマスターの奥さんがホコリだらけの古いノートを手にして
「あんた、いいものがみつかったよ」
納屋を整理していて見つけたらしい。‘70年頃、放浪していた時「Y・ Nに捧げる」と書かれたノートには座ってギターをつま弾いている女性の絵が描かれており、日記風な文章と所々に女性のデッサンが描かれている。
「なによ これ」
マスターは懐かしそうにノートに目をやり
「放浪していた時のノートだ、よく出て来たな。青春時代の… もう30年も昔のわしの姿だ」
「このY・Nって女性 だれ?」
「甘ったるい悩みと苦しみをもたらした ビーナスだよ」
自分なりの芸術と精神と官能の対立を面々と書き綴ったほろにがいノートが今ではひとつの記録としてマスターの前にある。
「30年間の時空を越えても、同じ感情の繰り返し、何の進歩も感じられない。感動ものだな。お見事と拍手したくなるよ」
「独りよがりの思い込み? 若いときの方がしっかりしているね」
「このノートを見て嫉妬しないのか?」
「やきもち?… それより、もっと店の仕事をして… 手伝って」
「困ったな」
「店の事から家の事から、私一人でして もうえらいわ」
「苦労かけるな おまえ」
「なにさ おまいさんって言ってほしい?」
「うん」
切実に願っている奥さんを感じて、考え込んでいるマスターだったが、しばらくして奥に入ると野焼き用の粘土を取り出して来て粘土を捏ねている。
「一緒に作ろうか?」奥さんはあきれたというような心境で
「私はいい」じっと見つめていると茶碗のような
「茶碗?」「うん」
粘土が余ったのか、その胴がだんだん長くなり
「花瓶?」「うん」
途中ガクンと首のあたりが崩れ、失敗したと思っていると崩れたところを利用して人の肩にしてしまった。
祈っている人のようにも見える。あれよあれよと見ているうちに
「表もあれば裏もある」って裏は人の顔らしくなってしまった。
「素焼きだから花瓶はダメだな。植木鉢にしょう」って形が完成、構成点 6,0 芸術点 6,2 なかなかの得点だ。
作品には石坂洋次郎の小説から取って 「あいつと私」と奥さんが命名する。

美奈子は小学校3年を頭に2人の娘達の母となり、ますますたくましい?35才になっていた。
日曜日の午後、美奈子は家族で「ちくま」に行き、のんびりと時を過ごしていた。
サラサーテのコンチェルトを聴きながら、隣の席で何の屈託も無く無邪気にケーキを食べている子供達を美奈子自身の子供時代と重ね合わせ思い出している。 圭一を想い、家庭をとりまいている今の生活を想い、子供達の家族の未来を考え、そして美奈子自身を考えていた…。
ドアが開いて春樹夫婦がやって来た。次女がめざとく見つけると
「おじちゃん、おじちゃん」と掛けより嬉しそうに
「わたし お父さんとお母さんのひみつ 知ってるよ」
「なに、秘密って」
小悪魔ように こまっしゃくれた調子で春樹に話しかける。
「あのね てがみ見たの」
「人の手紙 だまって見たら駄目だよ」
「だって みえちゃったんだもん」嬉しそうに続けて
「おとうさんがね うさぎさんの好きな子供たちのおかあさんが 大好き ですって…」
瞳を輝かせ春樹をみつめニコニコしている。
「そうか、よかったね」春樹は子供の頭をなでながら笑っている。
「そんなの ひみつでもなんでもないわ」姉もまけずに言う。
「でも…でも ぜったいひみつだよね おかあさん おかあさんひみつだよね、ね、ね」
必至で美奈子に共鳴を求めている妹の真剣な眼差しが微笑ましい。
みゆきはニヤニヤして圭一を見て何か言いたそうだ。バツが悪いのか圭一は新聞を読んでいて顔をあげない。
子供達を中心としたざわめきの中で美奈子は思う、圭一、貴方がそばにいてくれるから今の幸せがある。時間は移り変わっていくが変わらないものがあるって事を、身をもって感じさせてくれる家族がある。ありがとう圭一 …
隣の席に移って来た圭一に美奈子は
「幸せってこんなものかも知れない」と感慨深く言った。
「どうしたん あらたまって」
「ううん なんでもないの」
今 幸せの余韻に浸っている美奈子自身を感じていた。
新聞を読みながら圭一が
「久しぶりに米子に行かないか?相田みつを展をしているよ」
「そうね、みんなで行こうよ。春樹夫婦、惠子さん夫婦、私達、子供達、マスター夫婦も誘って」
「善は急げ、さっそく計画しょう。次の日曜日はどうだろう」
マスター夫婦は久しぶりに遠出をした。日記には、日本海を右手に大山を左手に見上げながら、みんなで米子に相田みつを書道展を観に行く。
始めに目に入ったのは 「七転八倒・つまずいたっていいじゃないか、ころんだっていいじゃないか、にんげんだもの」
自分はといえば毎日がつまずきどおしでしっかりしろって言いたくなる。
「あなたがそこにいるだけでその場の空気が明るくなる、あなたがそこにいるだけでみんなのこころがやすらぐ、そん なあなたにわたしもなりたい」
マスターは別の意味で感じていたのだが、その書の説明は「Aさんは病弱であまり仕事はしなかったが、亡くなってみると灯が消えたように淋しく、Aさんは仕事をしなくてもまわりの人達の灯になって一隅を照らしていた」そのような意味で、自分の心をみすかされたようで恥ずかしい。
相田みつをさんのその強さはどこから出てくるのだろう? 生まれ育った環境、それとも宗教。
詩は忘れたが「松の木は松のように竹は竹のように」友達は友達の人生を生き、自分は自分の人生を生きている。自分は友達の人生にはなれないのだから、お互いに自覚しながら尊重しあいながら生きていかなくてはって意味だったような。
何かしら心にびんびん響いて来る感動というか、自分の心の奥をみすかされて引き出してくれているような、不思議な気持ちだ。

「雨の日には雨の中を風の日には風の中を」
「日々是好日」 昔から言われている言葉だが、泣いても笑っても今日が一番いい日。私の一生の中での大事な一日だから。
一度にあまり多くの書を観過ぎたのと、デパートのざわめきで頭の中が混乱してコーヒーが飲みたくなった。 それこそ今日が一番いい日だ。
春樹の近況はといえば、3年前から有志を募り新年を祝おうって神社で初詣でに来た人と、一緒になって楽しんでいる。
公民館だよりに投稿を頼まれて懸命に書いている。書き終えた投稿文は
「新年を祝おうを終えて」
昨年のミゾレ交じりの暴風雨とはうって変わって、今年の「新年を祝おう」は満天の星空の中で満月が顔を覗かせ穏やかな年越しとなった。NHKの紅白が終わる頃から参拝の方々が集まり始める。お神酒 豚汁 そばをふるまい、子供達もクジをひいて一喜一憂している。新しい年を迎えた0時過ぎから40分頃まで参拝者のピーク時を迎える。家族連れが参道をすれ違いながら口々に「おめでとうございます」「旧年はお世話になりました、今年もよろしく」さわやかな響きが耳に心地いい。
参拝を終えた方々が暖をとるための焚き火を囲みながら竹筒で作ったコップのお神酒を片手に、女性や隣の人は豚汁を食べながら、真新しい希望を胸に抱き顔はほころび今年の抱負を、夢を語り合っている。女性の方にお神酒とか豚汁を薦めると「いや、あっさりしたそばの方がいい」とそばを美味しそうに食べてくれる。普段は静寂な境内も裸電球とスポットライトに照らされ独特の雰囲気をかもしだしている中で、明るく弾んだ声が賑やかく飛び交う。一変して境内は社交場に様変わりだ。
仲間の一人が「このような語らいの場を目の当たりにすると楽しくなる」と嬉しそうに言う。参拝者がテントの中に入りスタッフの手伝いをしてくれる。また「理屈を言うのもいいけど、動く事は大切な事だ頑張れよ」とか「えらいけど続けて行く事が一番大事なことだで」お年寄りもアドバイスやら忠告をしてくれる。境内に集まったみんなの顔が輝いて見える「自分らも楽しみ参拝に来た人にも喜んでもらって、この催しをしてよか った」と別のスタッフも笑美をこぼしながら言う。
大盛況の内に1時をまわり、そろそろかたづけの時間だとスタッフを見ると、みんなの顔が充実感を満喫しているように感じられる。夜遅くまでおつかれさんでした、年賀状の添え書きの文章をふっと思い出した「あなたにとって今年もよい年でありますように…」
「させてもらっていると思えないかな?」友達の由紀夫は言う
「してあげたいとは思うけど、させてもらっているってどういう事かわからない、そのへんの心境はもうひとつピンとこないな」そう言いながら春樹はある友人夫婦を思い出していた。
もう20年近く前の桜が咲く頃、夜1時頃に電話がかかって来て「生まれてくる子供と妻が生きるか死ぬかの状態だ、夜おそくなってから悪いけどA型の血液の人はいないかな、君の力が借りたい」あいにく春樹はO型なので友達に連絡をとりその病院に駆けつけた。このままでは母子ともに危ない、どちらかを犠牲にしなくてはならない苦汁の選択を迫られていた。子供より妻が大事と彼は妻を選んだ。彼は話す、生死の渕を彷徨っている妻を救う為に自分は死んでもいいと思い、代わってあげたいと思っても自分にはなすすべもなかった。
その友人の言葉を借りると「ここは何処だ、何故このような場所に自分が居るのか、わからなかった、突然カーラジオで尾崎豊の「アイラヴユウ」が聴こえてきて我にかえった。頭の中が真っ白になり涙がボロボロと溢れ出て止まらなくなった…。 何とかしなくては、二人の心を喜ばせ存在を感じあいながら生きていくにはどのように行動したらよいのか、分かっていることは、一歩一歩確実に現実を踏み締めながら希望を持って前進する事が二人の喜びの根源的なものではないのか」
それからの彼は妻が退院する8ヶ月の間、毎日毎晩病院に行き、今はただ現実の苦るしみを悲しみを和らげて笑顔を感じ合い、楽しく喜びあいながら今を生き抜かなければいけない、まずはそれが先決だ、そのためには死なせた子供を仲立ちとして二人の心の拠り所としての二人だけの宗教を創造し今の苦境を乗り切ろう、二人で宗教を作りだし実践する事が善いとか悪いとかは妻が元気になってから考えればいい、今は二人のおかれている現実と未来の夢を二人だけの宗教を夢中で語り合う、看護婦さんに他の入院患者の事を考えてか「面会時間は過ぎている」と注意されながらも10分程度の逢瀬を楽しむ事が二人の日課となり喜びとなり、日ごと二人に笑顔が還ってくるのを感じられたと言う。
20年近く経った今でも友人夫婦はその時の出来事を原点とてお互いに感謝しあいながら、押し付けではなく死んだ子供がいて夫がいて妻がいて、お互いのために二人だけの宗教を信じ、その思いを思うまま具体的に実行しお互いの喜んだ顔を観て自分の喜びとする、そのように信じ抜いて行動していくと救われてくるような気がするという。
春樹は、友人夫婦を思い出しながら、友人夫婦の生き方が由紀夫の言う「させてもらっている」という意味と通じるものがあると思い友人を思い出しながら話す。
由紀夫は言う。
「その友人夫婦、もう一歩踏み込んで既存の宗教を考えられないかな、すべての生命はなんだかの形でつながっていて独りで生きているのではなく共生して生きているのだから。たとえば、野球は投手、捕手、内野手 外野手、それぞれの役割があって、お互いに励ましあい、助けあい、信頼しあっているからこそ個人個人にチームの一員としての自覚が芽生えてくる、その絆の中でお互いに尊重し感謝の気持ちが沸いてきて試合になるとみんなの為に自分の為にって頑張る、日常の生活と同じだと思う」春樹は野球にたとえられるとわかるような気がする
「団体の中の個人、個人が有っての団体、そのへんが難しいな」
「そうだな、友人夫婦も現実には二人だけの宗教と思って、その宗教を信じきって実践する中で二人の今を感じているのだが、
まわりの人達の優しい思いやりとか眼には見えない支えとか、
すべての生命のかかわりの中で暮らすことが出来ているんだと感じてくれたらいいな」
「自分達だけの幸せとか自分だけの快楽を願うのではなくて、他の人とともに喜び、ともに共感する心を持つことが出来たらいいけど」
「友人はお金よりも健康が大切だと思うし、健康より心の持ち方がもっと大切だと思って実行しているといつか言っていたな」
「温かい血を通わせて、親切な心とか、感謝をする心が自然に育んできて、そのような気持ちを積み重ねていく事が、
すべての生命に対してさせてもらっているんだって心から感じ取れるようになると思う」
「出来ることなら、そのおかげさまでとか有り難いと思う気持ちを、その友人夫婦が悩み苦しんでいる人達にも感じてほしいと願い、
その思いを行動に移す気持ちになってくれたらいいな」
由紀夫はさらに言葉を続ける
「打算的な狭い自分の眼から見ていた世界から自分の感情を捨て去った眼でみなおすと
宗教の大いなる道を求めていく活力が生まれて来ると思う、きっと無限のパワーが生まれると信じている」
「でも、いくら善いことを言っても聴いても、大いなる道を探し求める心がなくては何も感じ取る事ができない」
「心掛けひとつだな」
「そう、心の持ち方しだいなのかも知れない」
由紀夫の言わんとしている事は痛いほどわかる、そのとおりだと思う、神様が守ってくれるとか、救ってくれるとか、仏力を感じるということは日常の生活の中から生まれるものだ。何もせずに努力もせずにただ神頼みでは、いくら神様でも救ってくれるものではない。日常の生活を一生懸命にしていれば必ず神は姿をかえて現れて来ると信じている、
だから神様と共にいる事を自覚する。由紀夫の価値観とか生き方、自分の周りを大切にする気持ちと同じように春樹も他の人を尊重し大切にする心を持ちたいと思う。他の人と共感し心を通わせる中で、愛のある豊かな心を持つことが出来ると信じて行動しようと努力しているのだが、いつも気持ちの空回りで中途半端な春樹自身を感じている。
その友達と知り合ってから何年も経っているが、始めてピアスを付けている友達に目が止まる。善いとか悪いとかでなく、ピアスを付ける事で苦しみとか辛さとか、いろんな出来事を乗り越えて来た友達なのだからって思うと、何かしらいとおしく感じる。
その友達が「もし、奥さんがピアスを付けるって言ったら、あなたはどうする?」
即答は出来なかったが、私達夫婦が指輪を付けたいきさつを推察しながら思いつくままに書いてみたいと思った。
妻がピアスを付けたいと言ったらダメだと答えるだろう。私自身の心の裁判では、自分で自分の身体に傷を付ける事は悪い事だと思っている。でも、妻の気持ちが切羽詰まってゆとりが無くなり、心の安らぎを求めて、幸せな心境を得る為にどうしてもピアスを付けると言ったら、この世の光を見ることなく亡くなった恵 おまえに相談するだろう。
以前、おまえと相談して夫婦で指輪を付けた時のように私が先にピアスを付けるだろう。おまえも覚えていると思うが、母が病院でそっと指輪を抜こうとしているのを感じて、父はその指に黙って指輪を嵌め直し、無我夢中で指を絡めて長い間握り合っていた事を。
頭の中は真っ白になり、悲しくもないのに涙がこぼれ、面白くもないのに笑いが湧き出る。でも母は父以上におまえを思っていた。以来ずっと父と母は指輪を嵌めている。
善いとか悪いとか理屈ではなく、縁あって夫婦になったのだから、おまえのお母さんなのだから。善い時は勿論、苦しい時、辛い時、悲しい時はより以上に寄り添い支え合って生きていかなければいけないのだから。
お母さんがどうしてもビアスを付けたいと願ったら、父が先にピアスを付ける。父は「今を、この時を、この場」を大事にしたいから。おまえを大切に思う以上にお母さんとの二人の世界を大切にする。やきもちをやくなよ。
今更、何でこんな事を思うのかって?その友達と話しているうちに思いを安心してさらけ出し話していたんだ。私ひとりではないって思いが湧いてくる。苦しければ苦しいほど、辛らければ辛いほどその喜びが大きくなる。
大事なことは、今のあるがままの状態をそのまま受け入れ、友達をとおして自分を見つめ直し、良識の中で信念と情熱を持って今を力いっぱい生きる事だ。だからと言って思いを友達に押し付けては、それこそ余計なお世話だ。そうではなく自分の思いを友達に聞いてもらい、私達を理解してもらいたいのかも知れない。
ちくまのマスターはだいそれた思いを抱いていた。今「大河小説」を書きたい衝動にかられているが、何をどのように書いてよいのかわからず、思案にふけっている。
いつ頃だったか、美奈子が子供達と店に来た時の事を思い出していた。
ジュースを持っていきテーブルに置いたとたん
「ちがう ちがう それおねえちゃんの」かん高い声で妹が言う。
「ごめん ごめん 間違えちゃった」
「おかあさん おかあさん ミロのおじちゃんまちがえたよ」
「おねえちゃんのジュースまちがえた、まちがえた」 と万遍の笑みをうかべてはしゃいでいる。
彼女達がまだ小さい頃にコーヒーの替わりにミロという乳飲料を飲んでいた頃から、私の事をミロのおじちゃんって言っている。なつかしい響だ。
この娘達も年頃になり「おじさん」って笑いながら彼と一緒に来てこの空間を感じてくれたらいいな。春樹や美奈子と同じように… 。
これだ、生きている事の楽しさ、生きる事のいとしさ、悲しさ、そして生きる事への執着を自分なりに書き綴ってみたい。例えば北杜夫の「幽霊」の書き出し 『人はなぜ追憶を語るのだろうか、どの民族にも神話があるように個人にも心の神話があるものだ。その神話は次第にうすれ、やがて時間の深みの中に姿を失うようにみえる (中略) 蚕が桑の葉を咀嚼するかすかな音に気づいてふっと不安げに首をもたげてみる、そんなとき蚕はどのような気持ちがするのだろう… (中略) しかし運命というものが僕たちの血のなかに含まれているものだとしたら、母なる自然がそのような音をたてたとしてもなにほどの不思議があったろう』 この文章を真似て書きたい。
マスターは大きく深呼吸をひとつすると、ぼそぼそと書き始めた。
「美奈子は岩美高校の二年生 目のくりくりっとしたどちらかと言うと丸顔に近く髪が長い どこかで見たことのあるような普通の女の子だ…
( 終 )
恵存 美奈子さんへ
平成 11年 6月 07日 追加改正