春 望

国破れて山河在り、
城春にして草木深し。
時に感じては花にも泪をそそぎ、
別れを恨んでは鳥にも心を驚かす。

脳細胞が壊れて行く

2008年11月21日 08時03分54秒 | ・つれづれなるままに
『老い』
この言葉は嫌いですね。
しかし、こればかりは加齢と伴に確実にやって来て、どんなに嫌いでも避けて通れないものですけどね。
昔、クレオパトラや秦の始皇帝など世の権力者も老いに対する恐怖心はかなりのものだったようで、これを克服するために色々試したようですね。
しかし、結局克服出来ませんでしたがね。

私は若い頃(自分自身では、ほんの少し前までと思いたいのですがねー)記憶力だけはかなり自信を持っていたのですよ。
例えば、少しでも面識がある人であれば何かのおりにその人物の話題が出ると、「○○会社の△△さん」というように頭の中に直ぐ出て来ました。
ところが、少し前から「〇〇会社の…?」となかなか出て来なくなってしまったのです。
初めの一二度は、『あれっ?』くらいにしか思いませんでした。
しかし、確か三度目の時だったでしょうか、立て続けにこれがあってさすがにかなりのショックを受けると同時に“老い”を覚悟しましたね。
「〇〇のあの人。」と、言っていたのです。
この“あの人”が曲者で、これが多く出始めるとヤバイと最近妻と話しています。

近い将来、老境に入って行く訳ですが、いつまでも元気に頭脳明晰なお年寄りになりたいものです。

愛国心

2008年11月03日 10時04分49秒 | マスコミの報道を見て
最近、『愛国心』について考えさせらることがありました。

一つは、ご承知の通り“航空幕僚長の論文”問題です。
この件では、この人物は誤った愛国心を持っているのではないかと思いました。
誰しも自分の国を悪くは思いたくないでしょう。
しかし、あの論文はいただけませんね。
我が国が敗戦国として厳しい見方をされたことはあったとしても、旧陸軍が行った行為が事実であるとの世界的な認識は存在するのですから彼が主張する論理は通らないでしょう。
確かに、歴史の中で“戦争”という行為において謀略や虐殺が数多く見受けられるますが、正当化出来るものではありません。
(にもかかわっらず、この様な論文を入賞させる募集元が何なのか疑問なのですが?)
しかし、自分の立場を考慮できないような人物が自衛隊の幹部にいたなんて信じられませんね。
ましてや、この様な人物であることがある程度知られていたとか言われているようですが、そうであるにも拘らず幕僚長に任命されたということはどこに問題があるのか徹底した検証をしてみていただく必要があると思いますね。
まさか、2・26事件のようなことに発展していく素地が芽生えているとは思いませんが・・・


今一つは、これと全く相反するような話です。
先日、通勤途上の街中でチラシを手渡されたことについてです。
『君が代裁判』の被告になっている教師の支援団体だったようです。
私はこの裁判の詳細を知りませんからコメントしようがありません。
ただ、支援者の人達がいわゆる“活動家”ではなく、ごく普通の人たちに様に思えました。
だから、かえって私は気が重くなってくるのです。

『国歌』とは、何でしょうか?
私は、国があるから国歌が存在しえると思うのです。
これほど単純明快なことに我々日本人は認識が薄いように思えるのです。
幸いなことに、島国だったためでしょうか、我が国は有史以来異民族の征服による亡国という憂き目に会った経験を持たないようです。
その為でしょうか、我が国には自分の国を守り維持して行こうという意識と言いますか文化がいつの時代からか希薄になっているようです。
亡国の危機が無かったわけではありません。
鎌倉時代の“元の襲来”、江戸時代末期の欧米列強による植民地化をも目論んだ強圧的外交、太平洋戦争敗戦後の連合国による占領政治。
これらは、幸運にも最悪のシナリオを描くことはありませんでした。
しかし、情勢が少しでも変わっていたらどうなったか分からないという要素をふくんでいたと思うのです。
兎にも角にも、国は国民自らが守っていく必要があります。
過去の世界の歴史において、自分の国を守ろうとしない国が存続した例は無いのです。
それにも拘らず、「神風が我が国を守った」などという現実を直視しない傾向が我が国にはあるような気がします。
我が民族には、いつの時代もその場その場で目先なんとかなればよい様な風潮があるようで中長期的な視野に欠ける傾向があるのかもしれないと思うことがあります。

我が国をこれからも永続的に反映させて行く為には、まず国家が存在しなくてはいけません。
その国家を存在させる為には、自分の国は自分達で守って行くという強い意思が必要だと思うのです。
そして、それを国民の総意として結集するするため“国”を認識させるために国旗を掲げ国歌を斉唱するのだと思うのです。
それを否定するということはどういうことなのでしょうか?
確かに、“軍国主義”の再来は防がねばなりませんが、『国家』を認識できない人間を創り出すことは教師のみならず国民として大問題ではないでしょうかね?