『ねんじれの里』 で、にゃ吉の持つ板 (亜無さんにより、“にゃ吉ボード” と命名) から、亜無さんより下記のようなコメントを戴きました。
2007年4月3日の記事、『山東亜無作・野の猪』にもありますが、「手話だけではない」 というのは重要な提言だと思うので今回も記事にします。
【ねんじれの里60 のコメント】
にゃ吉ボード・・・は、もし実現されているなら(現在その一歩手前?)
中途失聴者にとっては、すばらしい福音的装置であること 皆さんにはお気づきでないかも? と思います。
・・・この点、この前から「書かねば」と思っていたことです。
目の前で話す、ほんの二言三言が聞こえず判らないばっかりに失聴者はどれだけ悔しい思いをしてきたことか?
どれだけ人生を限られた狭いものにされてきたことか?
それが、ほぼ殆んど解消される、素晴らしい装置なのです、それは。
この点、ここにいる方々だけでも理解いただけたら、それだけで私めなど、幸せに思うところです。
このように言うと、決まって、「手話は?」と思う人がいることを よく知っていますが、手話は言語的に制約が大きすぎるし、問題点がいくつかあります。
・・・手話を少しでも知っている人なら、手近な詩の一編でも手話に置き換えてみていただけば、問題点の1つにすぐ気づくはずと思います。
(詩は詩でなくなります。)
・・また私など、大河ドラマ等の時代劇を字幕付きで見ていますが あの画面にもし手話通訳が出て来たら、もう、とても見れたものでないものになってしまうのは、誰でもすぐ想像つくと思います。
また時代劇の言葉そのものが手話ではとても表現出来るものではないことは当然でもあります。
(「ぶちこわし」になるだけです。)
それを、これまで、「ろうあ者」の人々の立場を第一に考えすぎて、手話の持つ問題点を無視し続けてきたようなところがあると思います。
そのような経緯から、手話について、わずかでも否定的な意見を持つと、
やれ、偏見だ、差別だ、という声を挙げるのを正義であるかのように思いこんでいる人々が非常に多いのが現実です。
それは、むしろ「人権問題」であるとも思うのです。
詳しく書こうとすると、また、ものすごく超長文になるので
ここでは差し控えたいと思いますが、それは実に1冊の本になるぐらいの内容になりそうです。
そういうものを書き上げる力が私にはないのが残念なところです。
それで、せめて、ここの方々だけでも解っておいていただきたいと切に願うものです。
そうして、早く、「にゃ吉ボード」が実現してほしいものです。
・・・ハードウエアとしては技術的には実現可能性はすでに現実のものであると思います。
・・・ここで、気づく人は気づくと思いますが、そういう装置が仮になくても、書いて伝える気さえあれば、たちどころに解消する問題でもある面がある訳です。
それを「手話は?」という考えが邪魔している一面さえある訳なのです。
・・・その辺に根本的問題がある訳ですが。 (かなり厄介な問題と思います。)
【ねんじれの里61のコメント】
OHPを使った要約筆記については、30年ほど昔に京都で始められ
その後、全国に広がったのだったと思いますが、山形の方でも、全く同じスタイルで実行されているようであることを知り大変有難く、嬉しく思いました。
見解や如何に? と問われましても、非常に大きな問題であるので とても簡単には答えられない気分です。
が、主要な点としては、そこに示されている結果として、少なくともまず、聴覚障害に対処する方法が「手話だけではない」ということが多くの人々に知られることになって、その点が「一石二鳥」の効果となっているようにも思います。
(現場で助かっている人がいるだけでなく)
・・・昔は「手話」しか方法が知られていず、昔、私が失聴した当時は第何次めかの「手話ブーム」の時で、
「手話を受け入れることが障害の受容である」というような考え方が押し出されていた時代でした。
で、私なども半ば疑問を感じながら「手話教室」に通って習ったものでしたが
そのうち「やはりチガウのではないか?」と考えるようになり~ という次第でした。
(こちら神戸で初めてOHP使用の方向を打ち出したりも。)
・・・その辺、「手話」についての言語的な面における問題点はすぐ気づく訳でしたが
・・・私など昔から多少の文学趣味があり(文学青年?だった?)
詩を読んだりのこともありましたし、手近の詩を手話に置き換えた時すぐ限界が見えましたし、言葉を冒涜することの忌々しさ・悲しさを感じたものでした。
言語的な面はともかくとして(=最も重要ですが=)、早いハナシ、
現在では多くのテレビ・ドラマが字幕付きで見られる訳で、私など常にそれで楽しめている訳ですが、その画面にもし手話通訳が出て来れば、たちまち画面やドラマそのものが壊されてしまうことになるのは自明のことであり、この点は手話を知らない人でもすぐ理解出来ることだろうと思います。
・・・「風林火山」の画面にもし手話通訳が出て来たら冗談かと思ってしまうのはともかく、
「止めてくれ・・・」と思っても当然であり正当なことであるはずと思います。
・・・にも拘わらず、わずかでも「手話」について否定的な意見を出すと「偏見」だの「差別」だのの言葉をすぐ思い浮かべる風潮があるように感じられるのですが、それが私の思い過ごしであるなら幸いであると思うところです。
2007年4月3日の記事、『山東亜無作・野の猪』にもありますが、「手話だけではない」 というのは重要な提言だと思うので今回も記事にします。
【ねんじれの里60 のコメント】
にゃ吉ボード・・・は、もし実現されているなら(現在その一歩手前?)
中途失聴者にとっては、すばらしい福音的装置であること 皆さんにはお気づきでないかも? と思います。
・・・この点、この前から「書かねば」と思っていたことです。
目の前で話す、ほんの二言三言が聞こえず判らないばっかりに失聴者はどれだけ悔しい思いをしてきたことか?
どれだけ人生を限られた狭いものにされてきたことか?
それが、ほぼ殆んど解消される、素晴らしい装置なのです、それは。
この点、ここにいる方々だけでも理解いただけたら、それだけで私めなど、幸せに思うところです。
このように言うと、決まって、「手話は?」と思う人がいることを よく知っていますが、手話は言語的に制約が大きすぎるし、問題点がいくつかあります。
・・・手話を少しでも知っている人なら、手近な詩の一編でも手話に置き換えてみていただけば、問題点の1つにすぐ気づくはずと思います。
(詩は詩でなくなります。)
・・また私など、大河ドラマ等の時代劇を字幕付きで見ていますが あの画面にもし手話通訳が出て来たら、もう、とても見れたものでないものになってしまうのは、誰でもすぐ想像つくと思います。
また時代劇の言葉そのものが手話ではとても表現出来るものではないことは当然でもあります。
(「ぶちこわし」になるだけです。)
それを、これまで、「ろうあ者」の人々の立場を第一に考えすぎて、手話の持つ問題点を無視し続けてきたようなところがあると思います。
そのような経緯から、手話について、わずかでも否定的な意見を持つと、
やれ、偏見だ、差別だ、という声を挙げるのを正義であるかのように思いこんでいる人々が非常に多いのが現実です。
それは、むしろ「人権問題」であるとも思うのです。
詳しく書こうとすると、また、ものすごく超長文になるので
ここでは差し控えたいと思いますが、それは実に1冊の本になるぐらいの内容になりそうです。
そういうものを書き上げる力が私にはないのが残念なところです。
それで、せめて、ここの方々だけでも解っておいていただきたいと切に願うものです。
そうして、早く、「にゃ吉ボード」が実現してほしいものです。
・・・ハードウエアとしては技術的には実現可能性はすでに現実のものであると思います。
・・・ここで、気づく人は気づくと思いますが、そういう装置が仮になくても、書いて伝える気さえあれば、たちどころに解消する問題でもある面がある訳です。
それを「手話は?」という考えが邪魔している一面さえある訳なのです。
・・・その辺に根本的問題がある訳ですが。 (かなり厄介な問題と思います。)
【ねんじれの里61のコメント】
OHPを使った要約筆記については、30年ほど昔に京都で始められ
その後、全国に広がったのだったと思いますが、山形の方でも、全く同じスタイルで実行されているようであることを知り大変有難く、嬉しく思いました。
見解や如何に? と問われましても、非常に大きな問題であるので とても簡単には答えられない気分です。
が、主要な点としては、そこに示されている結果として、少なくともまず、聴覚障害に対処する方法が「手話だけではない」ということが多くの人々に知られることになって、その点が「一石二鳥」の効果となっているようにも思います。
(現場で助かっている人がいるだけでなく)
・・・昔は「手話」しか方法が知られていず、昔、私が失聴した当時は第何次めかの「手話ブーム」の時で、
「手話を受け入れることが障害の受容である」というような考え方が押し出されていた時代でした。
で、私なども半ば疑問を感じながら「手話教室」に通って習ったものでしたが
そのうち「やはりチガウのではないか?」と考えるようになり~ という次第でした。
(こちら神戸で初めてOHP使用の方向を打ち出したりも。)
・・・その辺、「手話」についての言語的な面における問題点はすぐ気づく訳でしたが
・・・私など昔から多少の文学趣味があり(文学青年?だった?)
詩を読んだりのこともありましたし、手近の詩を手話に置き換えた時すぐ限界が見えましたし、言葉を冒涜することの忌々しさ・悲しさを感じたものでした。
言語的な面はともかくとして(=最も重要ですが=)、早いハナシ、
現在では多くのテレビ・ドラマが字幕付きで見られる訳で、私など常にそれで楽しめている訳ですが、その画面にもし手話通訳が出て来れば、たちまち画面やドラマそのものが壊されてしまうことになるのは自明のことであり、この点は手話を知らない人でもすぐ理解出来ることだろうと思います。
・・・「風林火山」の画面にもし手話通訳が出て来たら冗談かと思ってしまうのはともかく、
「止めてくれ・・・」と思っても当然であり正当なことであるはずと思います。
・・・にも拘わらず、わずかでも「手話」について否定的な意見を出すと「偏見」だの「差別」だのの言葉をすぐ思い浮かべる風潮があるように感じられるのですが、それが私の思い過ごしであるなら幸いであると思うところです。
とても、言葉のスピードに、指が追いつかない。
携帯メールを片手で早打ちする女性をよく見かけますが
あれが出来れば、手話を覚えなくてもよさそうですが…。
もう携帯用の機器が、あってもよさそうなのに。SO~NI~さん、早く作ってよ。
迷惑メールに「耳は聞こえないけど、Hは出来ます」というメールが来てたけど、早打ちできないので削除した…
(誰?そこで「早撃ちでしょ?」って言うのは…
不謹慎な一休です。
(昔 記事にしたのは既に移動しました)
男性???すみません!ねんじれ江戸編配役で若ダンナといっておられた時私、え?亜無さま男役やりたいの?なんて思ったり・・・思い込みって・・すごい・・・というか私って鈍い!ほんとに亜無さますみませんでした!亜無さまの書かれる文章はとても繊細で優しい感じなのでてっきり女性と思ったんだと思います。
①僕のヘボ詩など削除して下さい。どうしても、とおっしゃるなら?どのようにでも…。手間をおかけするほどのものではありませんが、読み返して冷汗かくのも悪くないかもと…
ememさま
②そうなんです。私も最初の頃、亜無さまは女性だと思っていました。男とわかった時は…
>繊細で優しい感じ…
まことに言い得て妙ですねえ。(告白しますが…私、彼女?の長文の半分は、すっとばして、読んでません…
インターネットだと、老若男女、容姿に職業、わかりませんね。
そこが良いところでもあります。
私、サイトの某所で亜無様の写真見ました。
真面目そうな殿方でした。
(今でもそこに辿り着けるか、わかりません)
数日後になると思いますが、記事にさせていただきます。
わがブログ、人様のフンドシで相撲取ります。ドスコイ。
最近、キーボードをテンキーのない小型のものに替えて、
そのついでに、USB接続のクリスマス・歳末用電飾装置(?)の
たまたま投げ売りしていたのを見つけて買って帰り、わずかに心なごむ電脳機周辺となっているのも、味わう余裕もない状況ともなっているようでありまする。
めちゃ お忙しいのでしょうか。
コメントは後回しにして、師走の慌しさを乗り切ってくださいますよう…
亜無様にお伝えください。
このように私めの、愚かしい長さの駄文を、再生的に掲載していただきまして。
実に、感謝・恐縮の限りに思います。
しかしながら、心配になるのは、このように私の考えに一定の理解を持っていただき
掲載いただいた場合、大抵、そこかしこに大勢・多勢いられるであろう、
手話派聴覚障害者とその同情論者の反発を受ける矢面に
峰猫さまが立たされることになりはしないかということであります。
多勢に無勢の図で、私めなんぞは無勢の側にあるものでありまして。。。
多勢・無勢ないしは有力・無力に関わらず、そこには純粋に論理的考察点が
あるはずなんですが、そういう議論は、手話を否定しにかかるケシカラン
ものであるというような感情ないしは感覚上の議論に上滑りしてしまう人が
多いようなので、非常に困惑する訳です。
その点、「にゃ吉ボード」のような装置が実現されれば、事情は
大きく違ってくるでありましょう。
・・・丁度、マンガの「吹き出し」のように、あらゆる局面で、
言葉が文字に表示されるようになれば、聴覚障害の不都合の
かなりの部分が解消・軽減されることは確実と思います。
(現在はテレビ画面の中で、それがかなり実現されている。)
そのようになれば、聴覚障害者の国語教育の方法も文字教育が
中心となって、結果として、社会一般の聴障者に対する見方も
変化してくることになると思います。
・・・例えば、
「聴障者は文字で会話するから、文字をよく知っているし、
PCもブラインドタッチで使いこなす人が多い」
~というようなイメージが持たれるようになれば、
どれほど違ってくることになるでありましょうか。
・・・私の知っている「ろうあ者」的聴障者で、
C言語のプログラミングが出来て~という人があったりしますし。
(勿論PCのブラインドタッチは当たり前。)
ええっと、またハナシが長くなってしまいましたが?
(このあたり、一休さまは、もう読み飛ばされてのことでありましょう。)
ええっと、初め、ここの記事を見た時に、「あ、また、このパターンで?」
と思ったのでしたが、トト卒トうにとどまらず(?)「カテゴリー」
と位置づけて今後BLOG編纂に持って行くよう考えられたようで、
なかなかのアイデアではなかろうか! と思いました。
・・・私めなどのオロカなる長文も、如何に一休さまに読み飛ばされようとも
決して無駄にはならないことになる、と思えば、また有難く思うものです。
そしてまた、そのように考慮いただけたことが、周囲の人や私めなど
にも順々に好影響を与えるところも出て来るのだろうと有難く・・・!
(あたしゃほぽ全部読んでます。最後の方になると最初の方に何が書いてあったか忘れることもあるけど)
なお、亜無様の仰ってることは、真っ当であり、攻撃対象になることもないように思えるのですが。
たしかに、以前は私も
「聴覚障害=手話が使えなければ」
という高い壁に惑わされてました。
手話が出来ないからと、コミュニケーションを取ることすら放棄することが多くの人にあると思います。
本当は、そんな壁なんか無くて、手話が使えなくてももっと普通に日本語の文法でコミュニケーションを取ることができるはずだということ、もっとアピールしても良いと思います。
このブログを読んで下さってる方たちだけでも…とは、私の願いでもあります。