峰猫屋敷

覚え書と自己満足の場所

2006年 故郷からのおくりもの ~ 入間市博物館

2006年11月30日 15時29分19秒 | ○○展の話
先ほどひとつ記事アップしたけど、今見てきた人形展で気付いたことがあったのでもうひとつ。

何度か記事にしてきた、『高橋まゆみ創作人形展 ~故郷からのおくりもの』 ですが、
今日、4回目見てきました。

なんとも不思議なんです。
やっぱり波動を持ってるですよ。 人形が。

で、今日、気付いたことがありました。 主観的だから単なる思い込みかもしれないけど、
前に立ってジンジン来る人形と、よく出来てはいるけど、それほどでもない人形があります。

もしかしたら、高橋さんの技術的上手さだけじゃなくて、見る人の思い入れが 人形に蓄積されているんじゃないか…。
そんな気がしました。
ジンジン来る人形は、身近な人々を思い出させる人形ばかりでした。

失礼ながら、まだお若い高橋まゆみさんに、あれだけのパワーを持つ人形が作れることにも驚いていました。
でも、見る人の人生の、多種多様な重さが 幾重もの層になって人形に貯まっているとしたら。
納得できるものがあります。

ですから高橋さんのすごいところは、見る人の思い出や情念を引き出し、それを堆積させられる人形を作れるところにあるのではないか。
そして、人形展という形で多くの人の目に直に触れれば触れるほど、人形の不思議なパワーが増大するのではないか。
そんな気がしました。


入間市博物館は、辺鄙な場所にあります。
平日の昼間など、見学者はほとんどいないのではないかと思われるところです。(関係者の方が見ていたらごめんなさい)
しかし、『故郷からのおくりもの』 をやっている間の見学者の多いこと!
本当にびっくりです。
しかも、会場内からは時折、すすり泣きが聞こえます。

で、今日は見学者も うぉっちんぐ♪

ほとんどが熟年世代の女性同士ですが、御夫婦の方や、ひとりで見に来ている女性もいました。(私もひとり)
その中で、女性同士の会話を聞きかじってきました。

「これ、あの坂の上に住んでたおばあちゃんを思い出すわ~」
「この顔見てると、自然に笑顔になっちゃうわね」
「この人形は、私の母よ。 そっくりなの」
「ほら、お腹が出てる。お年寄りって、痩せているようで案外お腹が出てしっかりしてるのよね」

そして入ってきて すぐのグループから聞こえてきた会話。
「この人(作者)、まだ生きてるの?」
「生きてるわよ。 この前、徹子の部屋に出てたもの」

わ~。伝説の人になりつつある…。




いろんなことを感じつつ、感想ノートにお粗末な歌を残してきました。

見た人の 想い積もれり人形の 胸に迫りて 涙あふるる  (峰猫)





昔々、妹のために作った絵本 その3

2006年11月30日 11時05分43秒 | 自作品


たぶん、これが一番最初に作った絵本です。
すなわち、「元・現役女子高生の作った絵本♪」 でぇ~す。  けっ。



◆ 朝士郎くん と ねこのボッチくん ◆



天気のよいある日、あさしろうくんは つまらないので、おうちで ほんを よんでいました。
そばには あさしろうくんと なかよしの ねこの ぼっち もいます。
ぼっちくんは つまらないので おおきなあくび。




しばらくたって ぼっちくんはいいました。
「ねえ、あさしろうくん。 きょうはこんなに いいてんきだよ。 おそとへ いこうよ。 ぼく、おもしろいこと できるんだよ」
あさしろうくんも おそとへ いくのは さんせいでした。
でも ぼっちくんは なにができるのか、あさしろうくんには わかりません。




そこで ふたりは そとへでました。
「ねえ、ぼっちくん。 きみ、なにをするの?」
「へへへ。 まあ、みていろよ。 あさしろうくん」
そういうと ぼっちくんは、おふろやさんの えんとつに のぼりはじめました。




「ぼっちくーん、へいきかい」
「まぁ みてろって。 それ」
ぼっちくんは てっぺんまで のぼったとおもったら、とびおりました。
さあ たいへん。




「きゃあっ、ぼっちくん、くるった!」
といって、あさしろうくんは めを とじました。
しばらくして めをあけてみますと、ぼっちくんは ゆうゆうと とんでました。
「おーい、あさしろうくーーん。 すごいだろう。 これ、ムササビとびって いうんだよぅ」
おそらは まっさおです。




「ぼっちくーーん、ぼくをのせてくれる?」
「えんとつに のぼれるかい?」
「のぼれるとも」
「じゃ、えんとつから とびのって」
あさしろうくんは、えんとつに のぼりはじめました。
おとわちゃんは、こんなことしちゃ だめですよ。
そして ぼっちくんに とびのりました。




ふたりは ゆうやけに そまるまで、とびまわってました。
ほーら、ゆうひの おばさんも にこにこ わらってます。






ちなみに、妹は男だったら 「朝士郎」 という名前になるところでした。



昔々、妹のために作った絵本 その2

2006年11月29日 11時06分33秒 | 自作品
◆ 音羽ちゃんとデージーちゃん ◆
(音羽の落書き付き)
(くどいようだけど、原文のまま)


ある日、音羽ちゃんが ねんねしていたら、庭の方でバサバサって音がしました。
音羽ちゃんが何かなって思って、おかあさんをおこさないように見に行ってみると、庭にいたのは音羽ちゃんくらいの女の子でした。
音羽ちゃんは、鬼でも泥棒でも鹿でもないのを知って、安心して庭に出ていきました。
「あなたはだあれ?」 音羽ちゃんは聞きました。





その女の子は、ぱっと音羽ちゃんの方を見て笑いました。
でも、何も言いません。
「何のご用かしら。 わたしにご用? みんな寝てるの」
女の子は、こっくりしました。
「遊びたいの? わたしと」
音羽ちゃんは、その女の子にいろいろ聞きます。 でも女の子はうなづくだけでした。
音羽ちゃんは、おかあさんに知らせた方がいいと思って、うちに入ろうとしました。





すると女の子は ものすごく悲しそうな顔をしたので、音羽ちゃんはうちに入るのをやめました。
「じゃあどうしたらいいの? 遊ぶの?」
女の子は またにっこり笑って こっくりしました。
「何して遊ぶ? あなたの名前はなんていうの?」
女の子はまだ黙っています。 それから女の子は少し考えて、畑の横に咲いている音羽ちゃんのデージーを指しました。
「あっ、デージーちゃんていうの? わたし音羽」





音羽ちゃんが、さて何をして遊ぼうかと思ってたら、デージーちゃんは ぱっと背中に隠してた羽をひろげて、自分の背中を指さし、おんぶするようなかっこうをしました。
そこで音羽ちゃんは何となくデージーちゃんの背中にのりました。
するとデージーちゃんはバサッバサッてはばたきだし、お空に浮かびました。
音羽ちゃんはうれしいやら、少しこわいやらでワォワォ遠吠えしました。





音羽ちゃんは、デージーちゃんの背中で夢を見ているような気持ちでした。
でも、つねったほっぺは いたかったので、本当だってわかりました。
「デージーちゃん、もうずいぶん飛んだわね。 ここはどこ?」
デージーちゃんは、相変わらず何もいいません。
でも下を見ると、クジラがいるので海だってことがわかりました。
あっ、たいへん。 明るくなってきています。
早く帰らないと、おかあさんが心配します。





「デージーちゃん、かえりましょう」
そういうと、デージーちゃんは またこっくりして、まわれ右をして帰り始めました。
おうちの庭につくと、おかあさんが心配そうな顔でうちからでてきました。
「音羽ー、音羽、どこーっ?」
「あ、おかあさん、ただいまー。 わたし、デージーちゃんの背中でクジラ見てきたの。この子がデージーちゃんよ」
おかあさんは、変な顔をしました。




「おともだちって、どこにいるの? 音羽ちゃん一人しかいないじゃない」
「えっ、うそだ。 だってここに…」
音羽ちゃんがうしろをふり返ってみると もうだれもいませんでした。
ただ、きれいなデージーが一本、満足そうに咲いていました。
「へんね。 こんなとこにデージーあったかしら」
音羽ちゃんにはもう、そんなおかあさんの声は耳に入りませんでした。
                         おわり





【言い訳】 たぶんこれ、高校生くらいのときに作ったものです。
      面白くないのは、真面目な高校生だったからです。

      

昔々、妹のために作った絵本 その1

2006年11月28日 10時12分39秒 | 自作品
本日よりしばらく、20年以上前 (もしかして一番古いのは、30年近く前?) に、妹のために描いた絵本を掲載します。
どうも私の描く絵本は、絵がヘタであるという以前に ベタだな~と思うので、そーいう いかにも 「絵本」 がお嫌いな方には、どうもすみません。
文章は、昔書いた通りに打ちました。 (「だから下手なの」 と言い訳してみる)


                 



◆ 音羽ちゃんと鬼ちゃん ◆



ある日 音羽ちゃんが庭で遊んでいると、鬼がやって来ていいました。
「音羽ちゃん、いっしょに遊んでよ」
音羽ちゃんは、鬼ってこわいって思ってたから、だまってました。
すると鬼は泣きだしていいました。




「音羽ちゃんも ぼくがきらいなんでしょ」
音羽ちゃんは、何となく鬼がかわいそうになったのでいいました。
「ううん。そうじゃないの。 鬼ちゃんは何して遊ぶのが好きかなぁって考えてたの」
鬼はにっこり笑いました。




「ぼくはね、星見たり、花見たりするのが好きなの。 きれいだもの。 音羽ちゃんちのお花、見せてもらいたいなあ」
音羽ちゃんは すっかり鬼が好きになったので、にっこり笑ってうなづきました。
「これがツツジ。 これがサルビアよ」
鬼は、うんうんって うなづいています。





「これがブルーデージー、これがデージー」
そのうち、うちから姉ちゃんがでてきて、びっくりして叫びました。
「あぶない、音羽。 鬼よ! 鬼よ!」
姉ちゃんはそういうと、バズーカ砲をもってきました。
音羽ちゃんはあわてて鬼の前に立ちました。
「ちがうのよ、姉。 いい鬼ちゃんなの!」






姉ちゃんは泣き出した鬼を見て、すまなそうに言いました。
「ごめんなさい。 まだ子どもの鬼ちゃんね。 音羽と遊んでくれたのね」
姉ちゃんはそういうと、音羽ちゃんと鬼のためにゼリーとホットケーキをつくってくれました。
ふたりは仲良く食べましたとさ。




(お客様へ・スケッチブックから剥がれたところや、破れたところを貼ったセロテープが茶色く変色してますが、人体に害はありません)


卒業の時。 友よ…

2006年11月27日 11時44分55秒 | 思い出話


実家での最後の発掘作業時に、小学校と中学校の卒業のとき、友達が書いてくれたお別れの言葉を綴ったノートが出てきました。

その中から、少し抜粋して載せます。
まず、小学校。

N.Sさんより。


そして、その次に書かれていた、K.M君より。
彼は、非常に優しい男の子でした。

塩を塗っていただいた傷口、今頃になって疼いております。
まことにありがとうございました。


さて、続きましては中学の卒業ノート。
M.Iさん。


J.Nさん


M.Kさん


H.Sさん


K.Kさん


K.Oさん


Y.Sさん


暖かい言葉の数々、この年になりましても心に染み入ります。
涙・また涙。
未だ居住致しますアンダーグラウンドに、静かに浸み込み続けております。


ついでに、十二支根付の自分の干支である亥年に書かれていた文章。



「亥は十二支の十二番目にあてられ尊ばれております」 と書きながら、




だもんな。


しかし、ホントのこと書くと、ノートに書かれた放送禁止用語などは ごく一部で、
しかも、そう書かれることが嬉しかったりしてました。

私、もともと無理して友達作ろうとするタイプじゃなくて、たいてい1学期の休み時間は自分の席で本を読んでいました。
ですから、1学期の印象は 「おとなしい人」。
で、2学期頃から本性が見え始めて、気の合う友達がわかってくる…というパターンでした。
キ○ガイでもバカでも良い。
そういう評価されても自分を貫けた学生時代に乾杯。


なお、トップ画像はノートの間から出てきた昭和49年3月12日( 火曜日) の毎日新聞の切り抜き。
中学卒業の記念に切り抜いて挟んだのでしょう。(なんで?)

裏の写真




      追記

この写真の鈴木紀夫さんが気になって、検索してみました。
いくつかヒットしたけど、ココがいいかな。
「1986年、雪男探しに出かけたヒマラヤ・ダウラギリIV峰で遭難死した。享年38歳。」
夢枕獏の 『神々の山嶺』 の羽生を思い出しました。



     さらに追記

ウィキペディアの情報によると、今年今月は鈴木紀夫さんが亡くなって、丁度20年目でした。合掌。



                

この下に今日の記事が、もうひとつあります。

『文藝時代』 昭和24年7月号より

2006年11月27日 10時11分44秒 | BOOK
特集・思ひ出の太宰治

『友人相和す思ひ』  林 芙美子
『《櫻桃忌》提唱』  今 官一
『微風の便り』  伊馬春部
『いやな世の中でしたでせう』  楢崎 勤


1. 
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2.
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3.
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4.
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5.
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6.
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7.
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8.
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9.
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10.
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『太宰治と織田作之助』  青山光二

1.
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2.
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3.
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4.
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夢二の絵

2006年11月25日 13時20分23秒 | 自作品
昔々のことじゃった。
竹久夢二の本を読んでいた おとうは、ひとつの絵を指差して娘に言った。
「お峰よ。この絵を描いてくれんか」
「あいあーい」
娘のお峰は、おとうの頼みを快く引き受けて、色鉛筆を使って模写したのじゃった。

出来上がった絵を見て、おとうは言うた。
「どうもおまえが描くと、明るくなっちゃうなあ」
たしかに元絵はもっと暗かった。
しかし、おとうはその絵を額に入れて、しばらくは壁に飾ってくれていたのよ。

年月が過ぎ、おとうは亡くなり、家も人手に渡って無うなることになった。
お峰は片付けていて、この絵を見つけた。

一瞬、「古道具屋さんを試してみようよ…」 と、耳元で悪魔が囁いたけれども、
小心者のお峰は、額からはずして持ち帰ったとさ。
だって、ご丁寧にサインまで偽造してあったから。




もし古道具屋さんが騙されちゃったら、犯罪じゃもの。
くわばら くわばら。

自作油絵 ・ 紫陽花

2006年11月24日 15時16分56秒 | 自作品

この絵は昭和54年6月16日に、私が父のために描いたと、キャンバスの裏に書いてありました。
全然記憶にありません。
こんなもの描いたっけ。

妹の小学校時代の 「あなたを図書委員に任命します」 という任命書まで額に入れていた父なのに、これはキャンバスのままで紙袋に入れて放置されていました。
たしかに、つまんない絵だけどさっ。

でも、妹も 「私、他に自慢できることがなかったみたいだね。」 と嘆いていたので、額装するものは選ばなきゃ。



『文藝時代』 の話 3

2006年11月23日 14時45分20秒 | 実家の話
今日も続いて、『文藝時代』 から。
トップ画像に裏の広告なぞ、載せてみました。

内容は全部読んでいませんが、(じつは、ほとんど読んでない) 編集後記だけ、ざっと目を通しました。
あの時代の文人の熱い想いとか、太宰治をめぐるリアルタイムの心情などが伝わってきます。
興味ある方は、ちょっと読みにくいけどクリックして覗いてみてください。


編集後記特集

1. 昭和23年 3月号

2. 昭和23年 5月号

3. 昭和23年 6月号

4. 昭和23年 7月号

5. 昭和23年11月号

6. 昭和23年12月号

7. 昭和24年 2月号

8. 昭和24年 3月号

9. 昭和24年 5月号

10. 昭和24年 6月号

11. 昭和24年 7月号




『文藝時代』 の話 2

2006年11月22日 12時10分32秒 | 実家の話
勘違いしてましたが、『文藝時代』 は、文芸雑誌ではなく、同人誌のようです。
商業的なものと結びついた同人誌らしいです。

今回、『文藝時代』 を記事にするのは理由があります。
この同人誌、たぶんもうほとんど現存してないと思います。
でも錚々たる面々の文章なので、もし他に保存されていなかったら…と思うと、
一抹の責任を感じます。
そこで、我家にある分だけでも作家と作品の一覧を載せたいと思います。


昭和23年3月號
『存在の無償性』  福田恒存
『悲劇の周圍(獨白に似た感想)』  高見 順
『荒野の詩論』  江口榛一
『わが思想の息吹』  坂口安吾 
『現代作家論・座談会』  舟橋聖一・椎名麟三・梅崎春生・高木卓

 - 創作 -
『滅びてゆく』  芝木好子
『童子』  舟橋聖一



昭和23年5月號
『西洋の方法』    伊藤 整
『流水の文章』  北條 誠
『創作月評』  青山光二・高山毅・八木義徳・豊田三郎
『無感覚なボタン』  武田泰淳
『ショオ見物』  田邊茂一
『斷想』  田一穂

  - 創作 -
『白蛾』  福田清人
『未知なる者が』  江口榛一
『坐像』  北川冬彦
『雪の窓』  倉本兵衛




昭和23年6月號

『批評の系譜』    瀬沼茂樹
『新人の文學的立場』  十返 肇
『イデアの文學(文藝時評)』  多田裕計
『神と人間・を語る座談会』  花田清輝・豊田三郎・北條誠・多田裕計・田邊茂一・椎名麟三・青山光二・八木義
 
 - 創作 -
『血と血』  高木 卓
『虚妄の日』  北條 誠



昭和23年7月號
『小説の反時代的談義』  青野季吉
『イデアの文学(文藝時評)』  多田裕計
『観念について語る・座談会』  舟橋聖一・福田清人・徳田一穂・福田恒存・豊田三郎・野口冨士男・伊藤整・楢崎勤・高山毅

  - 創作 -
『直江津の宿』  櫻田常久
『風塵』  竹越和夫



昭和23年11月號

  - 小説 -
『女體炎上』  松岡照夫
『黄昏』  芝木好子
『情痴』  江口榛一
『童子』  舟橋聖一

『取巻風景』  上林 暁
『戦後文學についての反省』  野間 宏
『最近の文壇を語る・座談会』  椎名麟三・豊田三郎・梅崎春生・野口冨士男・舟橋聖一・高木卓・青山光二・八木義
『永遠なる序章 その他』  佐藤晃一



昭和23年12月號
『林檎の花』  結城信一
『月光と耳の話』  椿 實
『傅説』  柿崎延子
『山河』  駒田信二
『隣人』  宇留野元一
『山雀』  水上 勉



昭和24年2月號
『怨暮記』  福田清人
『死者の位置』  北條 誠
『いもの畦道』  井上 孝
『饗宴(遺稿)』  織田作之助
『文藝時評』  田邊茂一
『一九四九年の文學・座談会』  豊田三郎・花田清輝・野口冨士男・福田恒存・青山光二・八木義



昭和24年3月號
  - 評論 -
『ある魂の遁走』  土井虎賀壽
『文學の劣等感について』  友澤秀爾
『野間宏論』  十返 肇

  - 随筆 -
『中間評論』  井上友一郎
『感動について』  芝木好子
『武田さんの言葉』  高山 毅
『戦後文學と道徳革命』  佐藤晃一

  - 座談会 -
『小説の内面』  梅崎春生・青山光二・八木義・野口冨士男

『文藝時評』  田邊茂一

『裸婦 (詩)』  平木二六
『櫻井検事』  青山光二

  - 小説 -
『濠端の道』  倉本兵衛
『未練』  江口榛一
『水の色』  峯 雪榮



昭和24年5月號
『往復運動』  荒 正人
『漂泊する近代』  村上宏行

  - 随筆 -
『壁書炎上』  豊田三郎
『妻をささげて』  木暮 亮
『町學者』  河盛好藏
『チョジュツ業』  野口冨士男

  - 創作 -
『ぷろぐらむ』  宮内寒彌
『雌』  小田嶽夫
『鏡の中の狂者』  柴田錬三郎
『對決』  和田芳惠
『小原ギン』  楢崎 勤



昭和24年6月號
『ヴァルプルギスの夜』  宍戸儀一

  - 随想 -
『平凡な感想』  梅崎春生
『くやしい心理』  中島健蔵

  - 小説 -
『男根心象』  藤原審爾
『倒木』  澁川 驍
『詩・灯の詩』  山本惣一
『灰 (232枚)』  青山光二



昭和24年7月號
『作家の戦争体験』  平田次三郎
『太宰治と織田作之助』  青山光二

  - 特集・思ひ出の太宰治 -
『友人相和す思ひ』  林 芙美子
『《櫻桃忌》提唱』  今 官一
『微風の便り』  伊馬春部
『いやな世の中でしたでせう』  楢崎 勤

  - 文藝時評 -
『文学の断層』  福田清人
『引き算の文学』  高山 毅

『平和会議その他』  徳永 直
『夢のような話』  山内義雄
『日本の都市』  草野心平

  - 書評 -
『人間復活 (船山 馨・著)』  十返 肇
『二つの世界 (花田清輝・著)』  佐々木基一
『夜の訪問者 (青山光二・著)』  八木義
『四人の踊り子 (丸山金治・著)』  多田裕計
『鵞毛 (舟橋聖一・著)』  竹越和夫
『俳人石井露月の生涯 (福田清人・著)』  十和田 操
『晩菊 (林 芙美子・著)』  野口冨士男

『迷ひ地獄』  外村 繁
『千金の夢』  松岡照夫
『詩・太陽は』  鶴岡冬一
『荒野の街』  丸岡 明 

『文藝時代』 の話 1

2006年11月21日 11時26分55秒 | 実家の話
父は私の生まれる前、『文藝時代』 という雑誌の編集をしていました。
引越しで、この雑誌の昭和23年3月号~昭和24年の7月号までのうちの10冊が出てきました。
トップ画像は昭和23年3月号の表紙です。

目次はこれ。↓



最後のページはこうですが…↓



同人にはすごいメンバーが載ってます。




父の友達で太宰治の弟子であった詩人の方が本を出版したときに、父が寄せた文章の原稿を以前読んだのですが、
「(太宰に) 一升瓶を渡したら、“君が持ってくれたまえよ。僕はペンより重いものを持ったことがないのでね” と言われて持たされた
とかいう話でした。
若い編集者である父が、言われる前に気を利かせて持てばいいのに…。それをユーモア混じりに諭してくれたんじゃないの?
と思いながら読んだ記憶があります。
引越しのとき、その原稿が気になってたけど、ついに見つかりませんでした。

昨日、母から電話で聞いた話によると、
父が母と結婚する前に、母方の伯父の面接(?)があったそうで、
そのとき 「尊敬する人は?」 と聞かれた父は、「太宰治」 と答えたそうです。
しかし、その2~3日後に太宰は自殺したそうで、それを聞いた父方の祖父が
「惜しいことしたな~。これでダメだな~」 と言ってたそうです。
ま、なんとかなったから私も存在するんですけど。

母の話によると、父は三鷹あたりの太宰の家に通って、最後の方は口述筆記で原稿をもらっていたそうです。
「そこは一字開けて」 など、指示はかなり細かかったという話です。

後にブログなんてものが発達して、こうして書くとは思わなかった。
生きてる間にもっと詳しく聞いて記録しておけばよかったと後悔してます。
せめて母が生きてるうちに、私の記憶があるうちに…と。

あと、父の話で覚えてるのは、金田一京助氏や豊田三郎氏に原稿を取りに行った話とか。
豊田三郎氏というのは、『天国に一番近い島』 の、森村桂さんのお父さんです。
子供であった桂さんはそのとき、父に恋したそうで、
2度目の結婚式のとき、「西さんは初恋の人ですから」 というカードを添えて招待状を下さいました。
そのカードを父は小さな額に入れて飾ってましたが、これも引越しのとき見つかりませんでした。
森村桂さんの、『それでも朝は来る』 という作品には、実名で父が出てきます。
桂さんは一度実家に来ていただいて父と雑誌の対談してくださったことがあります。
そのとき私は学校に行っていたので会えませんでしたが、『天国に一番近い島』 の感想を書いた手紙を母に託し、渡してもらいました。
その後、兄の結婚式に出席していただいたときに私もお話することが出来て、実物の桂さんの、はにかみがちで純粋な可愛らしさに魅了されました。
いつか軽井沢のケーキ屋さんに行って、父が亡くなったこと、
あのときとても喜んでカードをいつまでも大切にしていたことなどを伝えたかったのですが、叶いませんでした。

さて、『文藝時代』 ネタはまだまだ続きますが、余談で長くなりましたので続きは次回に。



夢の話

2006年11月20日 09時30分44秒 | 不思議だったり、そうでもなかったりの話

夢の中で、「自分は今、夢を見ている」 と自覚するのが、明晰夢もしくは自覚夢というらしいです。
最初に自覚夢を見たのは、中学生のときでした。
夏休みのある日、気分を変えるために客間に折りたたみ式のサマーベッド (プールサイドで見掛けるような寝椅子) を出し、そこに寝ていました。
いつの間にか隣の茶の間で、両親とともに紅茶を飲んでいた私は、ふと、
「あれ。 たしか私は客間で寝てたはず。 だったらこれは夢かな?」 と思って、
母に 「ほっぺた叩いてみて」 と頼んだら、思いっきりひっぱたかれました。
しかし、痛くな~い。
そこで、「どうしたら起きられるかな」 と考えました。
寝ていた場所に行ってみると、そこには空のサマーベッドがあったので横になってみました。
そのとたん、目が覚めました。

その後しばらく、そういう夢は見ませんでしたが、30代後半に入り、三男が生まれてからまた何度か見ました。
私は夢の中で夢と気付くと、フツーにまず頬をつねってみます。
どんなに爪を立ててつねっても痛くありません。
何かで読んだのですが、指を引っ張ってみて伸びるようなら夢だとか。
それも一度試しました。ホントに伸びました。

で、自覚夢を見たとき、誰もが試してみるのが飛ぶことだと思います。
私もまず、飛ぼうとしました。
でも、夢の中ではそのときは現実そのものなので、いくら夢だとわかっていても飛べませんでした。
それで、何度目かの自覚夢のとき、羽を生やしてみました。
デビルマンというアニメでは、「デビルウィーング」 の掛け声とともに羽が出てくるじゃありませんか。
あんな感じで生やしてみたら、結果はグー。
「羽があるんだから飛べる」 という思い込みに成功し、そんなに高くはなかったけど飛ぶことができました。
御丁寧に、いつの間にか白いドレスまで着ていました。

外を飛んでいると、男の子と女の子が歩いていたので、
「うふふ。私のこと、天使だと思うかしらん」 と思いながら近くをスィ~ッと飛んだら、子供は言いました。
「へー。 天使って、ボインなんだ」
おいっ 驚くポイントはそこっ
しかもそれ、死語だぞ。 いつの時代の子供よ


さて、夢で何度か試したことが、もうひとつあります。
それはガラス抜け。
ガラス板に指を当てて力を入れると、グニュ~ンとたわみます。
短いストローの先にセメダインみたいなゲルを付けて、吹いてふくらます風船があるでしょう。
ビニール風船っていうのかな。あれを指で突いた感じ。
夢の中のガラス板も、あんな風に柔らかく突き抜けることが出来ました。

自覚夢をもっとしっかり見ることが出来るようになると、きっと面白い睡眠ライフが得られるのではないかと思います。
最近は見てませんけど。



トップ画像は、古道具屋さんが 「いらない」 って言ったというので持って来た面です。
埃を取ろうと思って濡れた雑巾で拭いたら まだらに色が落ちて、よけい不気味になりました。






石琴 (サヌカイト) ?

2006年11月19日 11時20分17秒 | 実家の話

実家に昔からあって、「何に使うんだろう。楽器かなあ」 程度にしかよくわからなかった物です。
ネット検索できるようになって、これが 「サヌカイト」 というものらしいことがわかりました。

日本文化いろは事典というサイトから引用させていただきますと、

石琴 ・ サヌカイト
香川県だけに産出する自然石で、1891年ドイツの地質学者ヴァインシェンクが 「讃岐〔さぬき〕の岩」 の意をこめ 「サヌカイト」 と命名しました。
木槌で叩くと神秘的で澄んだ美しい音を奏でるところから、地元では 「カンカン石」 と呼ばれています。
この石をマリンバのように並べて音を奏でる楽器です。


と、あります。

今回は音階順に並べてみませんでしたが、以前並べて叩いてみたら
普通のドレミファじゃなくて、和風音階っぽい感じだったような記憶があります。
「通りゃんせ」 みたいな曲の最初だけ叩けたような。
専門的なことはよくわかりませんが。






父の夢  

2006年11月18日 13時32分41秒 | 思い出話
さて、父の話ですが、今考えると良いところしか思い出せないし、
何を思い出しても良い方に考えてしまいますが、生きているときは反発ばかりしていました。
亡くなった時も、私は既に結婚して家を出ていたから元々毎日会っていたわけではなし、
永遠のお別れという実感がなかったので泣けませんでした。

そして泣かないままに時間が過ぎ、何度か父が夢に出てきました。
父と廊下ですれ違い、「あれ、お父さん。死んだはずなのに元気そうじゃん」 というと、
父は、「元気じゃない!」 と怒り出したりして。

亡くなってから3ヵ月ほどしたある日、布団に横になっている父としばらく話をしたあと、
部屋から出たときに 「あっ」 と気がつきました。
「お父さんは死んだんだから、これは夢なんだ」

夢と気付いた私は、父のところに戻り、手を握って言いました。
「お父さん、ありがとう。 お父さんのお蔭で私、幸せだよ」
父はとても嬉しそうな顔をしました。

目が覚めた私は、初めて号泣しました。


それまで頻繁に夢に出てきた父は、それ以来ほとんど出てきません。
不思議なものです。
私自身の中でひとつの区切りがついたのかもしれません。


トップ画像は実家の庭にあったお地蔵様です。
他にも石灯籠や五重塔、富士山型の石などがありましたが、母の新居へはこのお地蔵様だけを持っていくことが出来ました。


井戸枠の石


五重塔


石灯籠


漬物には不向きな石


父に贈った龍の刺繍バッグ

2006年11月17日 11時02分14秒 | 自作品
平成9年12月11日、父の誕生日に贈った刺繍のバッグです。
これも気になっていたもので、今回出てきました。
「皆真斎」 というのは、父の雅号(?)です。

同時に、これを贈ったとき父がくれたお礼のファックスの原文も出てきました。

まごころのこもった てづくりの りゅうの
ししゅうのあるハンドバッグを ぐ(愚)
パピィへ たんじょうびの きねんに くださ
って ありがとう。 とてもうれしいよ。 ぼくは
きょうで76さいになったよ。 でも、ちかごろは
80をこえないと、テレビにでて、つまらぬしつ(質)
もんに こたえられなくても、ばかにされず、
わらいものに されるだけになるのは むずか
しいね。パピィは こどものころから、ひとより
おとっているように おもわれていて、ときどきばか
にされて ざんねんな おもいをしてきた。ほんとう
は ひとより すすみすぎていて、まわりのものにつう
じなかっただけだったのだ。それで はやく としを
とって、ものをしらなくても、よいようになりたかったの
だが、ちかごろは86さいぐらいにならないと、
テレビにだしてもらえないね。あと10ねん じゅみょう
を のばそうかな。そしたら また なにかおくれ。
              パピィの かいしんさい翁

              (改行も原文のまま)

広告の裏に、マジックで書かれたものです。
なんで平仮名なんだろう。
しかもなんで、パピィなんだろう。(もしかしたら、私が冗談で「パピィへ」と包装紙に書いたのかもしれない)


父はこの後、年が明けた1月半ばに自宅近くの駅で転倒して頭を打ち、
はっきり意識の戻らぬままに2月14日に76歳と2ヶ月余の生涯を閉じました。

本人も予測しなかった事故でした。
なのに、なぜ、「あと10ねん じゅみょうを のばそうかな」 なのでしょう。

事故の前日、雪が降りました。
父は妹に、積もった雪の前で写真を撮ってくれとせがんだそうです。
妹は、「寒いから嫌だ」 と言ったそうですが、頑強に撮ってくれ撮ってくれと、
父にしては珍しく言い張ったそうです。
その写真が遺影となりました。
葬儀屋さんも、「いいお写真ですね」 と言ってくれました。

どうも父の場合、潜在意識下において、自分の死期を決めていたのではないか……
今でもそう思えてなりません。

だって、わざわざ2月14日ですよ。命日が。
死んでからも毎年チョコレートを貰えるんですよ。
父は生前、貰ったチョコレートの数を、人数でなく個数で数えては
「今年は○個もらったーー
と、喜ぶような、こだわりの人でした。
(だから、小さくてもいいから たくさん入ってるチョコを欲しがった)