「中華街」取り壊しにロンドンの中国人猛反発

2007年02月18日 | 国際
02/17 21:56  「オリエンタル・シティー」の名で知られるロンドン北部の「中華街」で再開発計画が持ち上がり、猛烈な反対運動が起きている。地元行政当局は「再開発で中華街もよくなる」と訴えるが、駐英中国総領事は「中国人に悪影響を及ぼす」と、ロンドンのリビングストン市長に再開発中止を求めた。反対運動は英政府当局や司法手段にも波及しそうな勢いだ。

 「中華街」といっても屋外ではなく、アジアの食材を販売するスーパーや、アジア料理のレストラン、陶器などの専門店が軒を並べる巨大な2階建てのショッピングモール。ホールではイベントも催される。レストランは英国人にも人気で週に1万人は訪れるという。ロンドン中心街、ソーホー地区にある屋外の中華街にはないアットホームな雰囲気で、「本物のチャイナタウン」と中国人は誇りにしている。

 だが、モールを所有する企業がすべて取り壊して、跡地に欧米のスーパーや小学校、アパートを建設する計画を立て、昨年秋に地元行政当局が承認した。それを知った地元の中国人は「ここから追い出されて生きてはいけない。再開発されたら、もう居場所はなくなる」と反発。地元下院議員は「アジア社会を引き裂く」と懸念し、アジア料理の大ファンという元サッカー選手は有志で市長に再開発中止を直談判する事態にもなった。

 モールでは日本食材などの販売は一部残っているものの、数年前までは日本の大手スーパーや書店が入り、日本人客も多かった。それが経営不振で姿を消し、「中華街」一色になった経緯もある。移民社会との融合の難しさとともに同じアジアでも中国の勢いを感じさせている。(ロンドン 蔭山実)

http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/39728/



47 :名無しさん@七周年:2007/02/18(日) 00:23:05 ID:cwzHjfiM0
コリンデールのもとヤオハン・プラザだな。
ヤオハンが潰れて、次第にキムチ臭くなっていったが、
中国に乗っ取られていたのかw
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/england/london/6342303.stm


49 :名無しさん@七周年:2007/02/18(日) 00:23:25 ID:Yfo3F+b60
ここって、昔ヤオハンがあった所?
90年代にロンドンに家族で何年か住んでたけど、時々買い出しに行ってたよ。
わりと郊外にあるんだが、ちょうど自宅の近くから無料バスとかが出ていて便利だった。
1ポンドショップとかもあったよね。
途中からアジア系の店ばかりって感じになっていって、
治安が悪くなったから女性は1人でトイレに行くな、って邦人家庭には注意が出回ってた。

83 :名無しさん@七周年:2007/02/18(日) 00:33:48 ID:Kp3oOPLn0
二年くらい前まではロンドン市内に行くより楽だったし、食材も豊富だったからなあ。
手洗い洗車サービスもあったから洗車ついでに食材仕入れてご飯たべ、本屋で物色して帰りにIKEAよるってのがコースだったけど。
書店が潰れて食材が無くなってからは別の所いってるよ。
いつの間にか中華街になってたのね。 





『アンネの日記』 時代に翻弄されたフランク一家の未公開文書を公表 - 米国

【ニューヨーク/米国 17日 AFP】14日、米国の歴史学者が、約30年間未公開のまま眠っていた書簡の束を公表した。文書は、「アンネの日記」の著者アンネ・フランク(Anne Frank)の父親であるオットー・フランク(Otto Frank)が1941年、ナチス支配下のヨーロッパから家族をアメリカへ避難させようとして書いたものだ。

■当時を蘇らせる65におよぶ文書

 米国の国立難民支援機関が当時保管していた文書は、2005年半ばに発見された。文書の表面に生年月日の記載がないことから、公文保管員が不思議に思ったことがきっかけとなり、日の目をみることになった。

 発見された文書は65にのぼり、当時ナチスによるユダヤ人迫害が広がっていたオランダを離れるためにあらゆる手段を探していたオットーの状況を知ることができる。展示は文書が発見されたニューヨークのYivoユダヤ調査研究所(Yivo Institute for Jewish Research)で行われている。

■生きていれば現在、77歳

 「私の知る限りでは、私たちの逃げ場は米国しかないようです。多分ご存知でしょうが、私には娘が2人います。この子達だけでも何とか助けたいのです。」と、綴られた手紙からはオットーの必死な様子が伝わってくる。

 フランクの次女であったアンネ(Anne)は、1942年から1944年までの2年間をナチス支配下に置かれていたアムステルダム(Amsterdam)の隠れ家で過ごし、その後ナチス当局に発見され強制収容所に連行された。病気と栄養失調で衰弱したアンネはこの地で息を引き取る。

 「もしアンネが無事に避難できていたとしたら、彼女は今77歳を迎えているはずです。おそらく、ボストンで作家にでもなっていたんでしょうね。」と、アメリカン・ユニバーシティ(American University)の歴史学者、Richard Breitman氏は言う。

■命懸けの逃避生活と苦悩の日々

 Yivo調査研究所にとって、この発見は大変重要な意味を持つという。「オットー氏があらゆる手段を使ってナチス支配下のオランダから離れようとしたかという事は、今まで知られていなかった事実です。」と、同研究所はコメントした。

 オットー氏によって書かれた3つの文書には、家族を米国に避難させるために立てた計画が詳しく記されている。また同氏はキューバ(Cuba)にもビザを申請している。しかし、ビザの発行が承認されたものの、実際に渡航していないことから、本人の元にその知らせが届いたかは不明である。

■有力者にも救い手求めるが・・・

 ある手紙の中でオットー氏は、米国の有名百貨店マーシー(Marcy)創設者の子息であり、彼の友人であったネイサン・ストラウス(Nathan Straus)氏にビザの申請金の援助を頼んでいる。

 「状況をこれ以上悪くさせない為にも、私にはあなたを頼るしかないのです。」と、オットー氏は書いている。

 その他の手紙には、ストラウス氏及び米国に住んでいたオットー氏の義兄が取った、フランク一家の入国ビザを獲得するための努力とその経緯が綴られている。結局米国へのビザ獲得は、実を結ばなかった。

 米国は当時まだ参戦していなかったものの、米国入国管理局は、スパイの侵入を懸念して非常に厳しい国家安全対策を取っていた。

■時代に翻弄されたフランク一家

 「フランク一家には良いつてがあったものの、当時の状況からしてみればそれだけでは足りず、すでに遅すぎたのでしょう。」と、Breitmanは述べる。

 オットーは結局、彼の経営していた会社の屋根裏に家族を隠すことに決めた。密告者の通告で当局に連行されるまでの約2年間、フランク一家はこの場所で暮らすことになる。ホロコーストで生き延びたのはオットー1人のみ。アウシュビッツ強制収容所を1945年に出て、アムステルダムに戻ってきた時、家族はいなかった。

 アムステルダムに戻ったオットー氏は、アンネの日記を発見し、1947年に出版した。この「アンネの日記」は現在でも世界中の人々に読まれ、ホロコースト犠牲者の1人として知られているアンネの名を一躍有名にした。

 「文書の公開によって、フランク一家の苦難が一層胸に刺さる話として認識されるようになりました。有力なアメリカ人の助けがあったのにも関わらず、悲劇免れられなかったのは残念なことです。」と、調査研究所のCarl Rheins氏は述べた。

 写真は2月14日、米国・ニューヨークにて撮影。展示会の様子。(c)AFP/Stan HONDA
http://www.afpbb.com/article/1339750





【アルゼンチン】破格の安さで「国土、売ります」

アルゼンチンの土地が、地域によっては1haあたり6ユーロ(約950円)という破格の値段で売られている。その結果、多くの外国企業や個人が土地を買い漁り、少なくとも国土の10%がすでに外国人の手に渡っているとされる。CNNの創業者テッド・ターナーも広大な土地を保有しているほか、イタリアのベネトン兄弟は約1万・におよぶ土地を購入し、そこで羊毛用の羊を飼ったり、家具の木材にするために植林したりしている。
エル・パイス(スペイン)より
2007.02.21
http://blog.moura.jp/courrier_news/2007/02/post_7d77.html

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