(2010年7月8日11時57分 読売新聞)
「事実上の対日戦勝記念日、9月2日に…露下院
【モスクワ=山口香子】ロシア下院は7日、第2次大戦で日本が降伏文書に調印した9月2日を新たに大戦終結の「記念日」として指定する法案を可決した。ロシア政府は法案を支持しており、近く大統領の署名を経て発効する見通しだ。
ロシアでは5月9日を「対独戦勝記念日」としてきたが、これに加え、事実上の対日戦勝記念日を制定することになる。日本の北方領土返還要求をけん制する狙いとみられる。
対日戦勝記念日の制定は、北方領土を管轄する極東サハリン州がロシア政府に要請していた。」
と言う記事があった。
このことは日本を侮辱する者です。
先ず、大国ソ連が、日本に勝って嬉しいことなのかという事です。
所で日本とソ連は戦争したんで知ったっけ、
ソ連とは、昭和16年(1941年)4月に日ソ中立条約を結んでいます
「日ソ戦争(=ソ連の対日参戦)は1945年8月9日に、
ソ連(現ロシア)が仕掛けてきた戦争である。」
小学校の授業を参考にしましょう。
「平成19年度自由主義史観研究会全国大会レポート/授業案から
占守島の戦い
高橋智之(岩手県公立小学校教諭・自由主義史観研究会会員)
「1.めあて
・占守島での戦いは、ソ連の北海道占領を阻止する重要な戦いであったことを理解する。
・占守島での戦いで命を失った人々へを敬う気持ちを持つことができる。
・ソ連は、国際法違反の戦争を仕掛けてきた事実を知る。
・明白な国際法違反の行為でありながら、戦勝国であるために非難されていないという国際社会におけるパワーゲーム的な側面について理解する。
2.授業展開案
(●は教師の発問 ○は予想される児童の反応 □囲みは説明 ※は留意事項)
(1)世界情勢について
●昭和16年(1941年)12月8日時点で(正式に)日本と戦争状態になった次のうちどこの国ですか。
・アメリカ ・イギリス ・中国 ・ドイツ ・イタリア ・ソ連(現在のロシア)
○アメリカ、イギリス、中国です。
中国とは昭和12年(1937年)から、戦争状態にありました。さらに、アメリカとイギリスに宣戦布告をして戦争状態になりました。ドイツとイタリアとは、日独伊三国同盟を結んで同盟関係にありましたので、戦争状態ではありません。
●ソ連とはどのような関係にあったのでしょうか。
※意見が出ない場合は、教師が説明。
ソ連とは、昭和16年(1941年)4月に日ソ中立条約を結んでいます。日ソ中立条約とはどのような条約なのかを説明します。(資料1)
ソ連とは戦争状態にはありませんでした。
資料1 日綜中立条約のポイント
1.お互いの領土に侵攻しないこと。
2.一方が、日本とソ連以外国と戦争状態になっても
他方は中立を守ること。
3.条約有効期限は5年とし、延長しない場合は有効期限が
切れる1年前に通告すること。
●昭和20年(1945年)8月15日、つまり、ポツダム宣言を受諾する直前まで戦争状態にあった国はどこですか。
○アメリカ、イギリス、中国です。
●ソ連とは戦争状態になっていたと思いますか。
○日ソ中立条約の期限内なので戦争状態にはなっていないと思います。
※昭和20年8月8日に日ソ中利条約を破って、ソ連が攻めてきたことを知っている児童がいれば評価して進める。
ソ連は、昭和20年(1945年)4月に条約を延期しないことを通告してきましたが、1945年8月は、まだ期限内でした。なので、皆さんの意見とおりになりそうなんですが、実は違います。1945年8月8日に条約を破って、日本に宣戦を布告してきました。どのような場所から攻めてきたのでしょうか。資料2を見ましょう。
資料2 ソ連の日本への侵攻ルート
●ソ連との戦争はいつまで続いたのでしょうか。3つの中から選びなさい。
1.日本がポツダム宣言を受け入れて降伏した8月15日まで。
2.戦場が東京から遠くはなれた北方のため、現地軍隊は、日本がポツダム宣言を受け入れたことを知らず、8月15日以降も戦争が続いた。
3.ソ連が火事場泥棒的に弱った日本から領土を奪うために、日本がポツダム宣言を受け入れたことを知りながら、それを無視して戦いを続けた。
正解は3です。北方の日本軍は、8月15日の夕方には日本が降伏したことを知りました。それにもかかわらずソ連は攻めてきたのです。」
以上、日本とソ連は「日ソ中立条約」を結んで、国際法上は戦争状態は発生してい無いと言えます。
これを機にソ連との戦争も勉強したいと思ういます。
その前にソ連という国は、無法者の国と言うことを抑止って起きましょう。
武士道や騎士道、儒教のかけらもない国です。
戦争におけるソビエト軍(ロシア)の残虐性
「ベラ・ルーシー(白ロシア)」という名は、モンゴルの騎馬軍団がモスクワからポーランドへと侵攻していくとき湖沼が多く、そこを避けたため、「レイプがなかったルーシー(ロシア)」という意味で「ベラ(白、純潔)」のルーシーとなったそうな。支配地における強姦が将兵の職務であった十三世紀のモンゴル軍の正統な継承国であるロシアはそれが現在にいたるまで不変の文化として残っています。そのロシアが中心のソビエト軍は無制限の強姦をくり返しました。それについては多くの証言が残っています。
「ドイツ人の女性は老女から四歳の女児に至まで、エルベ川の東方(ソ連占領地区)で暴行されずに残ったものはあまりいなかった。あるロシア人将校は、一週間のうち少なくとも二五〇人に暴行された少女に出会った・・・・」(「スターリン」ニコライ・トルストイ著)
「ベルリンの二つの主要病院によるレイプ犠牲者の推定数は九万五千ないし一三万人。ある医師の推定では、ベルリンでレイプされた一〇万の女性のうち、その結果死亡した人がー万前後、その多くは自殺だった。東プロイセン、ポンメルン、シュレージェンでの被害者一四〇万人の死亡率は、ずっと高かったと考えられる。全体ではすくなくとも二〇〇万のドイツ女性がレイプされたと推定され、繰り返し被害を受けた人も、過半数とまでいかなくても、かなりの数にのぽるようだ」(「ベルリン陥落1945」アントニー・ビーヴァー著自水杜)
そのソビエト軍の残虐さは我が国国民に対しても同じでした。火事場泥棒のように昭和二十年ハ月九日に日ソ中立条約を一方的に破棄したソ連は、満州に侵攻を開始し支那、満州、朝鮮にいた我が国国民に襲いかかりました。
「昭和二十年八月二十日頃であったろうと思う。鞍山から新京守備のために北上したので新京の街は北も南もよく解らないが、たしか終戦の日から数えて四、五日たっていたと思われる頃の出来事だった。・・・・
そんな日病院の玄関で大声で騒ぐ声にびっくりして、私は板でくくりつけた足をひきずりながら玄関に出て見て驚いた。十二、三の少女から二十ぐらいの娘が十名程タンカに乗せられて運ばれていた。それはまともに上から見ることの出来る姿ではなかった。その全員が裸で、まだ恥毛もそろわない幼い子供の恥部は紫に腫れ上がって、その原形はなかった。大腿部は血がいっぱいついている。顔をゆがめつつ声を出しているようだが聞きとれない。次の女性はモンペだけをはぎとられて下の部分は前者と同じだが、下腹部を刺されて腸が切口から血と一緒にはみ出していた。次の少女は乳房を切られて、片目を開けたままであったから死んでいるのかもしれない。次もその次も、ほとんど同じ姿である。・・・・・。一週間私はこの病院にいて毎日毎日この光景を見て、その無惨、残酷さに敗戦のみじめさを知った」(「されど、わが満州」p172~3)
「満州や北朝鮮からの初期の脱出者は悲惨で、今も念頭を去らないいくつかのエピソードがある。北朝鮮で農業を営んでいた老夫婦は、年頃の娘二人を連れ、辛苦のすえやっと38度線近くの鉄原にたどりついた。そこで見たものは、日本人の娘達がつぎつぎにまずソ連兵に犯され、ついで朝鮮人の保安隊に引き渡されてさらに散々に辱められたうえ、虐殺されている光景であった。折角ここまで連れてはきたが、最愛の二人の娘達もまもなく同じ運命をたどるであろうことを不悩に思い、近くの林の中の松の木に経って自決させ、これはその遺髪ですといって私に見せてくれた」(「ある戦後史の序章」の中にある石田一郎の手記より西日本図書館コンサルタント協会)
葛根廟事件
ソビエト正規軍が民間の日本人避難民を攻撃し、全滅に等しい被害を与えた事件である。葛根廟はラマ教の僧院で、興安南省と竜江省の省境に近い辺境にあった。当時、葛根廟から二十五キロほど離れた興安の街とその周辺に、約四千人の日本人が住んでいた。ソ連参戦の翌日にあたる一九四五年八月十日、日本人たちは南方に向けて避難を開始した。ハ月十二日、避難の遅れた二千人が、葛根廟駅から列車で奉天に向かうため、葛根廟をめざし、隊列を組んで興安を出発した。ほとんど女性と子供であった。葛根廟が視野に入った、八月十四日午前十一時半、ソ連軍戦車隊と遭遇。突然、機銃掃射が始まり、あたりが血の海となった。生存者はわずか、約百五十人だった。女や子供ばかりの隊列を、日本軍と間違うはずはない。まぎれもない非戦闘員虐殺事件である。
麻山事件
ソ連侵攻直後の同年八月九日、満州東安省鶏寧県庁は、県内在住日本人開拓団に避難命令を発した。それを受けたハタホ開拓団約一千名は、荷馬車で牡丹江に向かった。一行は、日本の統制を離れた満州治安軍の反乱部隊とソ連戦車隊の双方の来襲を受け、「敵の手で辱められるよりは」と、婦女子四百余名が男子団員の銃によって命を絶たれた。
そして、あの白衣の天使たちの悲劇も起こりました。
どういうわけか、我が国の進歩的といわれる人々はドイツ、東欧、そして満州、朝鮮にてのソ連軍の人道及び国際法に反する蛮行に対して非難することは無い。
「事実上の対日戦勝記念日、9月2日に…露下院
【モスクワ=山口香子】ロシア下院は7日、第2次大戦で日本が降伏文書に調印した9月2日を新たに大戦終結の「記念日」として指定する法案を可決した。ロシア政府は法案を支持しており、近く大統領の署名を経て発効する見通しだ。
ロシアでは5月9日を「対独戦勝記念日」としてきたが、これに加え、事実上の対日戦勝記念日を制定することになる。日本の北方領土返還要求をけん制する狙いとみられる。
対日戦勝記念日の制定は、北方領土を管轄する極東サハリン州がロシア政府に要請していた。」
と言う記事があった。
このことは日本を侮辱する者です。
先ず、大国ソ連が、日本に勝って嬉しいことなのかという事です。
所で日本とソ連は戦争したんで知ったっけ、
ソ連とは、昭和16年(1941年)4月に日ソ中立条約を結んでいます
「日ソ戦争(=ソ連の対日参戦)は1945年8月9日に、
ソ連(現ロシア)が仕掛けてきた戦争である。」
小学校の授業を参考にしましょう。
「平成19年度自由主義史観研究会全国大会レポート/授業案から
占守島の戦い
高橋智之(岩手県公立小学校教諭・自由主義史観研究会会員)
「1.めあて
・占守島での戦いは、ソ連の北海道占領を阻止する重要な戦いであったことを理解する。
・占守島での戦いで命を失った人々へを敬う気持ちを持つことができる。
・ソ連は、国際法違反の戦争を仕掛けてきた事実を知る。
・明白な国際法違反の行為でありながら、戦勝国であるために非難されていないという国際社会におけるパワーゲーム的な側面について理解する。
2.授業展開案
(●は教師の発問 ○は予想される児童の反応 □囲みは説明 ※は留意事項)
(1)世界情勢について
●昭和16年(1941年)12月8日時点で(正式に)日本と戦争状態になった次のうちどこの国ですか。
・アメリカ ・イギリス ・中国 ・ドイツ ・イタリア ・ソ連(現在のロシア)
○アメリカ、イギリス、中国です。
中国とは昭和12年(1937年)から、戦争状態にありました。さらに、アメリカとイギリスに宣戦布告をして戦争状態になりました。ドイツとイタリアとは、日独伊三国同盟を結んで同盟関係にありましたので、戦争状態ではありません。
●ソ連とはどのような関係にあったのでしょうか。
※意見が出ない場合は、教師が説明。
ソ連とは、昭和16年(1941年)4月に日ソ中立条約を結んでいます。日ソ中立条約とはどのような条約なのかを説明します。(資料1)
ソ連とは戦争状態にはありませんでした。
資料1 日綜中立条約のポイント
1.お互いの領土に侵攻しないこと。
2.一方が、日本とソ連以外国と戦争状態になっても
他方は中立を守ること。
3.条約有効期限は5年とし、延長しない場合は有効期限が
切れる1年前に通告すること。
●昭和20年(1945年)8月15日、つまり、ポツダム宣言を受諾する直前まで戦争状態にあった国はどこですか。
○アメリカ、イギリス、中国です。
●ソ連とは戦争状態になっていたと思いますか。
○日ソ中立条約の期限内なので戦争状態にはなっていないと思います。
※昭和20年8月8日に日ソ中利条約を破って、ソ連が攻めてきたことを知っている児童がいれば評価して進める。
ソ連は、昭和20年(1945年)4月に条約を延期しないことを通告してきましたが、1945年8月は、まだ期限内でした。なので、皆さんの意見とおりになりそうなんですが、実は違います。1945年8月8日に条約を破って、日本に宣戦を布告してきました。どのような場所から攻めてきたのでしょうか。資料2を見ましょう。
資料2 ソ連の日本への侵攻ルート
●ソ連との戦争はいつまで続いたのでしょうか。3つの中から選びなさい。
1.日本がポツダム宣言を受け入れて降伏した8月15日まで。
2.戦場が東京から遠くはなれた北方のため、現地軍隊は、日本がポツダム宣言を受け入れたことを知らず、8月15日以降も戦争が続いた。
3.ソ連が火事場泥棒的に弱った日本から領土を奪うために、日本がポツダム宣言を受け入れたことを知りながら、それを無視して戦いを続けた。
正解は3です。北方の日本軍は、8月15日の夕方には日本が降伏したことを知りました。それにもかかわらずソ連は攻めてきたのです。」
以上、日本とソ連は「日ソ中立条約」を結んで、国際法上は戦争状態は発生してい無いと言えます。
これを機にソ連との戦争も勉強したいと思ういます。
その前にソ連という国は、無法者の国と言うことを抑止って起きましょう。
武士道や騎士道、儒教のかけらもない国です。
戦争におけるソビエト軍(ロシア)の残虐性
「ベラ・ルーシー(白ロシア)」という名は、モンゴルの騎馬軍団がモスクワからポーランドへと侵攻していくとき湖沼が多く、そこを避けたため、「レイプがなかったルーシー(ロシア)」という意味で「ベラ(白、純潔)」のルーシーとなったそうな。支配地における強姦が将兵の職務であった十三世紀のモンゴル軍の正統な継承国であるロシアはそれが現在にいたるまで不変の文化として残っています。そのロシアが中心のソビエト軍は無制限の強姦をくり返しました。それについては多くの証言が残っています。
「ドイツ人の女性は老女から四歳の女児に至まで、エルベ川の東方(ソ連占領地区)で暴行されずに残ったものはあまりいなかった。あるロシア人将校は、一週間のうち少なくとも二五〇人に暴行された少女に出会った・・・・」(「スターリン」ニコライ・トルストイ著)
「ベルリンの二つの主要病院によるレイプ犠牲者の推定数は九万五千ないし一三万人。ある医師の推定では、ベルリンでレイプされた一〇万の女性のうち、その結果死亡した人がー万前後、その多くは自殺だった。東プロイセン、ポンメルン、シュレージェンでの被害者一四〇万人の死亡率は、ずっと高かったと考えられる。全体ではすくなくとも二〇〇万のドイツ女性がレイプされたと推定され、繰り返し被害を受けた人も、過半数とまでいかなくても、かなりの数にのぽるようだ」(「ベルリン陥落1945」アントニー・ビーヴァー著自水杜)
そのソビエト軍の残虐さは我が国国民に対しても同じでした。火事場泥棒のように昭和二十年ハ月九日に日ソ中立条約を一方的に破棄したソ連は、満州に侵攻を開始し支那、満州、朝鮮にいた我が国国民に襲いかかりました。
「昭和二十年八月二十日頃であったろうと思う。鞍山から新京守備のために北上したので新京の街は北も南もよく解らないが、たしか終戦の日から数えて四、五日たっていたと思われる頃の出来事だった。・・・・
そんな日病院の玄関で大声で騒ぐ声にびっくりして、私は板でくくりつけた足をひきずりながら玄関に出て見て驚いた。十二、三の少女から二十ぐらいの娘が十名程タンカに乗せられて運ばれていた。それはまともに上から見ることの出来る姿ではなかった。その全員が裸で、まだ恥毛もそろわない幼い子供の恥部は紫に腫れ上がって、その原形はなかった。大腿部は血がいっぱいついている。顔をゆがめつつ声を出しているようだが聞きとれない。次の女性はモンペだけをはぎとられて下の部分は前者と同じだが、下腹部を刺されて腸が切口から血と一緒にはみ出していた。次の少女は乳房を切られて、片目を開けたままであったから死んでいるのかもしれない。次もその次も、ほとんど同じ姿である。・・・・・。一週間私はこの病院にいて毎日毎日この光景を見て、その無惨、残酷さに敗戦のみじめさを知った」(「されど、わが満州」p172~3)
「満州や北朝鮮からの初期の脱出者は悲惨で、今も念頭を去らないいくつかのエピソードがある。北朝鮮で農業を営んでいた老夫婦は、年頃の娘二人を連れ、辛苦のすえやっと38度線近くの鉄原にたどりついた。そこで見たものは、日本人の娘達がつぎつぎにまずソ連兵に犯され、ついで朝鮮人の保安隊に引き渡されてさらに散々に辱められたうえ、虐殺されている光景であった。折角ここまで連れてはきたが、最愛の二人の娘達もまもなく同じ運命をたどるであろうことを不悩に思い、近くの林の中の松の木に経って自決させ、これはその遺髪ですといって私に見せてくれた」(「ある戦後史の序章」の中にある石田一郎の手記より西日本図書館コンサルタント協会)
葛根廟事件
ソビエト正規軍が民間の日本人避難民を攻撃し、全滅に等しい被害を与えた事件である。葛根廟はラマ教の僧院で、興安南省と竜江省の省境に近い辺境にあった。当時、葛根廟から二十五キロほど離れた興安の街とその周辺に、約四千人の日本人が住んでいた。ソ連参戦の翌日にあたる一九四五年八月十日、日本人たちは南方に向けて避難を開始した。ハ月十二日、避難の遅れた二千人が、葛根廟駅から列車で奉天に向かうため、葛根廟をめざし、隊列を組んで興安を出発した。ほとんど女性と子供であった。葛根廟が視野に入った、八月十四日午前十一時半、ソ連軍戦車隊と遭遇。突然、機銃掃射が始まり、あたりが血の海となった。生存者はわずか、約百五十人だった。女や子供ばかりの隊列を、日本軍と間違うはずはない。まぎれもない非戦闘員虐殺事件である。
麻山事件
ソ連侵攻直後の同年八月九日、満州東安省鶏寧県庁は、県内在住日本人開拓団に避難命令を発した。それを受けたハタホ開拓団約一千名は、荷馬車で牡丹江に向かった。一行は、日本の統制を離れた満州治安軍の反乱部隊とソ連戦車隊の双方の来襲を受け、「敵の手で辱められるよりは」と、婦女子四百余名が男子団員の銃によって命を絶たれた。
そして、あの白衣の天使たちの悲劇も起こりました。
どういうわけか、我が国の進歩的といわれる人々はドイツ、東欧、そして満州、朝鮮にてのソ連軍の人道及び国際法に反する蛮行に対して非難することは無い。
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