臨終を予め期して、両手に印を結び、安坐して化す。寿は七十五、臘は六十二。後十年、其の徒明全、復山中に来たりて、捐楮券千緡を諸庫に寄せて、転息して七月五日の忌、冥飯を設ける為とす。衆の本孝なり。
このようにある。そこで、ここで考えてみたいのはこの供養自体がいつ行われたかということである。1215年に亡くなったとして10年と考えると、「十回忌」といえば1224年になる。または、10年後といえば、1225年になる。しかし、1225年の7月であるとすると、既に栄西忌の7月5日の段階では明全和尚は遷化しておられる(1225年5月27日)。よって、普通に考えるならば、1224年であるとしたいのだが、問題はこの『祠堂記』本文そのものである。
『祠堂記』の「其の徒明全」以下を虚心に読むと、明全和尚が山中に来て、「捐楮券千緡」を諸庫に寄せて、七月五日の忌に「冥飯」を設けたと見える。明全和尚が天童山に入ったのは、1223年の5月である。よって、5月に山内に入って(いずれかの機会に)金銭を諸寮に納めて、そして供養を修行したという事になるだろう。
だとすれば、この栄西忌は、「1223年」であるような気がする。そして、「後十年」というのは厳密な年月を示すというより、「十年くらいして」という意味で捉えて良いのかもしれない。そもそも、現代であれば「七回忌」「十三回忌」とかを修行するけれども、この当時は定形の年回供養は無かったという(とはいえ、供養の不在を意味しないのが、難しい。道元禅師は育父(実父)のため、20年を過ぎてから供養を行っている)。だから、具体的な年回供養を目指して行ったというよりも、天童山に多大なる貢献をした栄西禅師の弟子であることを内外に示し、同時に「本孝」を実現するための行いであったと判断した方が、分かり易い。
後は、もし供養が行われたとして、これをどのように行ったか?なのであるが、今であれば「祖師忌」といって、祖師を供養するための読経を中心とした法要が営まれるけれども、ここでは「冥飯」とあるので、むしろ食事を供養したと見る方が良いのかもしれない。そういえば、道元禅師と問答をした阿育王山の典座も、5月5日の端午の節句に、修行僧に食事を供養するため、買い物に来たのであった。
もう100年もすると、こういう祖師忌が整備されていくので、現代と大きな相違は無くなるが、その直前となるこの時代、多分に供養は食事であったような気がする。いや、法要をやったというのなら、それはそれで良いのだが、道元禅師やその同時代の祖師(臨済宗含む)の語録からは、それが分かりにくいので、拙僧には判断しようが無いというだけなのである。
ただし、道元禅師の『正法眼蔵』「看経」巻には、「大衆為亡僧看経」とある。これは尊宿には適用されなかったのかな。まぁ、当時、亡僧のままで亡くなることは、修行未了で地獄に堕ちるとでも考えられていたようなので、その「報地を荘厳」するための供養であるとすれば、やっぱり亡僧看経は亡僧のため、であろう。ただ、同じように、祖師に対しても読経などの善行を回向した可能性までは否定できない・・・いや?無いか?
この辺は、更に要参究である。今日は、明全和尚忌であるため、その行実の一端を拝しつつ、御供養としたい。
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