ふるさと!-秋田仙北平野を歩く-

ふるさと秋田の「仙北平野」をくまなく巡り歩き、その写真とエッセイを掲載します。

★旧六郷町六郷東根を往く-1(その7)

2019年12月22日 | 旧六郷町を往く

<「六郷東根上関田」付近の県道12号>

●歩いた日:2019年11月13日(水)

●歩いた所

 ・六郷東根:東紀の国、南紀の国、下中村、上中村、鎧ケ崎、上田の尻、下田の尻、一ツ屋、蛇沢

●歩いたログ(足跡)(道のり7.6km)

(以上の地図:国土地理院)

 (📷020のところから)県道を引き返して西に少し進むと、道端に「関田円型分水工」と書かれた説明板があり、その奥に目を引く構築物が見える。

📷021:「上関田」にある「関田円型分水工」

 頭首工で取り入れた水は、手前のコンクリートの下の水路を通って円形の池?に流れ込み、さらにその水を周りに設けられた多くの穴から各方面に向かう用水路に流す仕組みである。これによって、田んぼの面積に応じた水量を公平に流す仕掛けになっている。
 水が出ている穴の上に、白い四角の札を張り付けてある。近くでみると「飯詰堰」とある。ほかに「中村堰」、「紀ノ国堰」、「六郷堰」の札も見える。水争いが絶えなかった昔の人の知恵である。
 分水工の説明板の写真を掲げるので、興味のある方はお読みいただきたい。

(「関田円型分水工」の説明板)

 なお、ここから流れ出る水路で発電を行っており、設置されているメーターを見ると、発電出力53W、積算発電量6KWHとなっている。電気のことはよく判らないが、説明板の陰にある支柱にイルミネーション用の小さな電球が付いた電線を巻き付けてあるので、夜にそれを灯す位の発電量なのであろう。
 県道に戻って、家々が連なる中を西に向かう。少しだけ進んだところで振り返る。

(「上関田」付近の「県道12号」)

 電柱の根元に分水工の説明板が見え、その左手が分水工の場所である。
 さらにしばらく進んだところで再度振り返る。

📷022:「上関田」付近の「県道12号」2

 左手に町屋風の大きな家が建つ。道端のブロックのそばに「太平山」と書かれた古い看板がある。酒屋さんだったのだろう。
 また西に進むと、道の左手奥の一軒の家の前に何やら案内板のようなものが立つ。左折してそこに立ち寄る。

📷023:「下中村」の「小西家の松」

 近づいて見ると、「美郷町名木・古木マップ」の案内板で、「小西家の松」とある。その奥にも白い標柱があって、いじけたような姿をした松がある。
 その案内板である。

(「小西家の松」の案内板)

 説明には「戦時中、六郷飛行場造成の際に着陸の障害となるため、幹の途中から切断された」とある。
 「六郷飛行場」は、戦時中というより終戦間際、ログ地図に「東明田地(ミョウデンヂ)」、「西明田地」と書かれている場所に、陸軍が造ろうとした飛行場である。調べると、陸軍は本土決戦に備えて全国各地に密かに飛行場を造る計画だったらしい。
 当時は原野だったこの場所を、周辺の学校の児童を総動員し、手作業で飛行場の整備を行ったとのこと。定期的に行っている飲み会の仲間(否、大先輩)のSさんは、「六郷東根」の出身で、この作業に動員され従事したと話していた。
 Sさんからこんな話も聞いた。整備作業をしている時に飛行機が飛んで来たので、日本の飛行機だと思って手を振った。しかし、その飛行機からいきなり機銃掃射を受け、アメリカの飛行機であることを知ったという。幸い、死傷者はいなかった。これも調べると、終戦直前のS20年7月、岩手県沖にいた空母から飛んで来た米軍の飛行機が飛行場を発見し、機銃掃射をしたもののようである。結局、飛行場は未完に終わり、陸軍の飛行機が飛び立つことはなかった。

(その8に続く)


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