バリとゾウとゴンッ

日々の能書きダラダラと。
あれやこれや綴ります。

KARAの新曲「サンキュー サマー ラブ」聴いたぜ!これは「おもいでの夏」的だ

2013年07月13日 14時00分00秒 | 大河ドラマ
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一昨日の夜、深夜放送のオールナイトニッポンで、我が愛するKARAの新曲、
サンキュー サマー ラブ が流れた模様。




早速チェックして聴きましたよ。




チョォアヨ!

詞が凝っているというか。

ハッピーな夏というより、印象的な思い出の夏という感じか。

ちょっと深いね。

それを夏らしいディスコサウンドで展開していく所がやはりKARAらしい。

うまいね。

早く全編聴きたいもんです。

たぶんこれはまた大ヒットするでしょう。

CMでも使われんじゃね。




今後の予定だとKARAは、「ダウンタウンDX」(25日の放送?)にゲスト出演するんだって。

絶対観るカラな!

たぶん。

ヨロブンドォ チュウモォクカァセェヨォ!




そういや前に観たアメリカ映画の「おもいでの夏」ってよかったなあ。

ホント夏の思い出というか、青春の終わりというか。

やるせないんですよね。映像が。

夏を捉えていて。そして、晩夏も。

音楽も素晴らしくって。

時々口ずさみたくなるんですよね。

なぜかミッシェル・ルグランが作曲してるという。

当時、売れっ子だったんだねえ。





*初夏の長岡市の夕暮れ時のヒコウキ雲




その内容で驚いたのが、第二次世界大戦前のアメリカの一地方の若者を描いてるんだけど、今と

余り変わらない生活スタイルなんですよね。

何じゃこりゃみたいな。

これじゃ日本が勝つ訳ねえや。

それに、戦争の危機感全然なし。




アメリカの本土の連中ってそんなもんだったんだろうね。

結局、空襲を受けたのは、侵略してアメリカ領になったハワイの真珠湾だけだからね。

ある意味アメリカにとっちゃ正直痛くも痒くもなかった訳さ。




そんでも風船爆弾というものを日本が作って、アメリカ本土に着弾させてたらしいけど、

どれだけのものだったのか。




でもね、悲しい実話があって、この爆弾を掴んだアメリカの幼い子供が死んだんだって。

酷い話だよね。

風船を掴んだら爆発するなんて。

可哀相だよ。




それとね。

この新潟県長岡市の「戦災資料館」で明示されている

第二次世界大戦の長岡空襲の多くの犠牲者の写真を見ると、

その殆どが赤ちゃんや子供たちなんですよね。

ひでえことしやがるなあ。

人間のやることじゃないよ。

どう思います?子育て世代の皆さん




こうやって弱者を犠牲にするんですよ。戦争はさ。

絶対してはいけないと思う。

許せない。




人の命を軽く見る輩が許せないよ全く!!




東電、原安、政府、NHK よく考えろ!!




バカタレが!!




あっ、バカタレとは、長岡弁(新潟県長岡市)で馬鹿野郎という意味です




そんな訳で、世界に流行らすぞ!!長岡弁!!




さあ、皆で一緒に、いいろぉ~!!

いいだろう~ ということです。





コマウオヨォ! トバヨォ!



平成25年7月13日

「八重の桜」河井継之助の忠義。武装中立ガトリング砲!越後長岡藩の大反撃!ギャオス内藤公出陣!

2013年06月28日 17時28分00秒 | 大河ドラマ
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*メールマガジン「ポスティン ジャーナル」表紙。初夏の長岡市の夕暮れと飛行機雲

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週一、市外にある仕事の関係で朝早く出勤する途中、いつもここを通る。
新潟県長岡市にある栄涼寺(えいりょうじ)だ。
実家からすぐ近くにある。


長岡市栄涼寺と墓地。中越地震で墓の倒壊等があった。現在はほぼ復興している

この寺は、長岡藩・牧野家(出は、愛知県豊川市)の菩提寺という由緒ある寺だ。

自分は子供の頃、この寺の境内や墓場でよく友達と遊んだものだ。
寺の鐘も悪戯で鳴らしたりした。
そういや、墓場でロケット花火をお互いに打ち込んだりしたんだっけ。
罰当たりもいいとこだよな。



同級生の友人もいっぱいこの寺の周辺に住んでいる。
その内の一人は、そこからちょっと歩いた路地の通り沿い、第二次世界大戦の長岡空襲から免れた町内で、昔は足軽長屋だった所に今も住んでいる。
そいつは、長岡藩の足軽の子孫でやたらに厳格な家で見識が高くて、遊びに行くと居間の壁に槍とか刀が掲げられていた。それじゃここんちも祖先は、愛知県豊川市の出なのかなあ。
家の親父もそんなこと言ってたっけ。

たかが足軽だろ。いばんじゃねえよ。と、言ってみたりして。ウヒャーッ!(すまんな友人)
実は、何を隠そう自分もこの通り沿いにある家が実家だが、長岡藩とは何ら関係無い。
明治の頃に祖祖父が土地と建物を購入して住んだらしい。
だから、自分の家の裏庭でも、土を掘ったりして遊んでいると、刀の鍔が出て来たりした。

つまり、この辺も北越戊辰戦争の戦場だったのだろう。
相当の激戦地だったと聞く。
その陣頭指揮を執ったのが、三河武士のを引く長岡藩家老であり、軍事総督の河井継之助かわいつぐのすけである。
そして、この河井総督の墓が、この栄涼寺に建立されているのである。


*朝陽の中の河井継之助の墓。この時は、出勤で急いでいたためそばに行けなかった。かなりの花が供えられている。たぶん、河井継之助のファンの方だろうか。「八重の」に登場したこともあって。自分も物心ついた頃から時々、河井総督の墓に参っている。近いし

子供時代はそんなことも露知らず、この墓場で遊び呆けて無礼な振舞いをしたもんだ。

今、NHK大河ドラマ八重の」が話題であるが、今回、会津藩と同盟軍を組んだ長岡藩の関係から河井継之助がちょこっと出てきたらしい。
自分はついうっかり見逃してしまった。(再放送も)
予告は観たけど、何かスター性が排除されている印象。
まあ確かに会津藩が舞台だからね。しょうがないというか、遠慮しておいた方がいいのかも。
それに、このドラマ化の経緯は、東日本大震災からの復興(NHKと政府の配慮)の意味があると感じてる。
特に福島原発によって現在も放射能、放射性物質という見えない敵に苛まされている関東(NHKと政府も含まれんのか…何だかなあ)、北関東、福島県、東北地域に対して。(だから、越後長岡藩等の北越戊辰戦争方面は描かれなかったていうことでしょう

今、長岡市には、放射能被害から古里を追われた福島県の市民が止むに止まれず避難している
酷いよなあ東電政府。何を考えているやら。
知恵を絞って、元の古里に何とか戻れるようにしてあげなきゃだめだろ。
古里が無くなるというのは、凄く辛いことなんだよ。分かんねえのか!!
赤ちゃんとか小さいお子さんもいるんだぞ!バッキャロめ!!!

ほんで、人づてに聞いたら、その回には、長岡藩が保持していた二門のガトリング砲も出てきたんだって。
これって今でいう核武装と同様の脅威(戦略)を小国の越後長岡藩、つまり、河井継之助が企図したということでしょ。それはそれで凄いよね。その斬新な発想って。
ほんとに使えたのどうか知らないけど、お飾りでもそれなりの脅威にはなるもんだろうね。
だから、戦争ってのは、アナログでいかにデジタルを騙すかという方法も考えなくちゃいけないんじゃないか。
経費も相当浮くし。
段ボールの張りぼてでもいいんだよ精巧ならば。
それから、後の同じ長岡市出身山本五十六元帥の航空機推進論櫻井よしこ女史の空母推進論は、この河井総督の戦略から導かれてんじゃないだろうかね。

但し、この機関砲、アメリカの南北戦争の時のバッタモン、中古品だったらしい。
それを日本に売りつけてやるかと持ってきた訳だ。商人のスネルがね。(確か昨年、長岡市の米百俵祭り時代行列に、そのスネルの子孫の方が来られて出演していたんだよ)
その辺のビジネス感覚は、やっぱり抜け目ないぜ欧米人の野郎は。
もしかしてユダヤ系スイス人なのかなあ。
知らんけどさ。
この姑息な、ある意味悪徳な商法って今でも変わらんでしょ。
例えば、米軍の兵器の自衛隊への払下げとかさ。
ほんで、未だにこのガトリング砲がどこに消えたか謎のままなんだよね。

そうだ、このブログ名にある塵壺は、河井継之助の日本の太平洋側諸国の旅日記塵壺(ちりつぼ)からいただいてんだ。
塵壺って今でいうごみ箱ダストボックスだから。
旅の恥はかき捨てみたいなことから浮かんだのか知らないけどさ、日記なんかという高尚なものじゃなく、雑な繰り言というか、掃いて捨てるぐらいなメモ、ごみのようなもんだというのを意味してんだよきっと。
だから、この実物を見てみると、正に殴り書きの下手くそな字で思ったことをザアーっと書いてるだけのもんだからね。(俺もそういうスタイルで気ままにブログを書いてるつもり。ありがと河井総督!)
新潟県長岡市長岡市立中央図書館に問い合わせれば、快くこの河井継之助の日記「塵壺ちりつぼ現物を見せてくれるよ。


長岡市立中央図書館

でもこの「塵壺」に書かれているのは、入念な視察なんだよね。当時(幕末)の企業、行政、外国状勢のさ。

それにしても昔の人達は凄い。歩いて新潟県長岡市から苗場の三国峠を越えて、江戸(東京)に行き、河井総督はそっからさらに備中・岡山県高梁市、そして、九州の長崎まで歩いて、また戻ってきたというんだから。尋常じゃない。
見習わんばらこっての、おめさん。このパワー!!
でも、そういう風に視察ということならば、胸高鳴って旅したんだろうなあ。
疲れなんて感じないぐらいワクワクして。生きてるぅーってやつだよ。

この河井総督って、ほんと発想(アイディア)力も大したもんだけど、それに加えて日記を塵壺なんてネーミングするとは、ユーモアセンスにも溢れて
だから、瀕死の状態で戸板に乗せられて、会津に向けて八十里越えをする時に、
「八十里 腰抜け武士の 越す峠」
なんていう自嘲めいた川柳的な句を詠めるんだよ。
普通ならもう死ぬかもしれないという時に、そんな風に自分自身を客観視する余裕なんかあるのかと思うけど。
腰抜け武士というのは、越(越後)を抜ける武士というジョークにもなっているという訳。
また、越す峠の峠には、三国峠への思いもあったんじゃないだろうか。
江戸(東京)に向かって意気揚々と夢と希望を抱いて越えた三国峠。
絶望と惨めな思いで越える八十里越え。
そんな真逆な峠の運命の皮肉。悔しさ。
人の一生は重いね。

そういや、かのジョン・レノンが言ってただけど、「いつでも、どんな時もユーモアを忘れずにね」という言葉が浮かんできた。

スゲエなあ~後世に残る偉人の言葉って。
生きてる。
正に、これぞクリエイターだよね!!


あっ、それで、薩長側時山直八長州藩・猛将)がこの北越戊辰戦争の越後長岡の激戦で戦死し、その死を悼み、参謀の山縣有朋が、長岡市の東山の森立もったてで戦中に詠んだ短歌がこれまた素晴らしく、身に染み入って来るような名歌になってるんですよ。
「あだまもる 砦のかがり 影ふけて 夏も身にしむ 越の山風 」
(敵・長岡藩兵が守っている砦の篝火もその姿の影も消え、夜も更けて~)
ねっ凄いでしょ。イメージがぐわーっと湧いてくるというか。
何かジーンと感動するんですよね。かっこいい。
芸術家ですよ。
戦下でこんな短歌を詠めるなんて。
この言葉の中からは、長岡藩との攻防が激戦に陥いり、夏なのに身は張りつめて寒気が襲い、山肌の風が堪えるという、つまり、厳しい戦況であるという心境も伺い知れるんですよ。
この短歌が刻まれた碑が森立峠にあるんですよね。


河井継之助の墓の裏手に見えるのが上越新幹線の高架橋。その下にはJR東日本・信越線が走っている。線路の向こうが長岡市稽古町である

さあ、そんで、ギャオス内藤監督率いる新潟アルビレックスベースボールクラブ 対 群馬ダイヤモンドペガサスの試合が、上越市の高田公園野球場で先日あった。

前期優勝への一大決戦!!越後が勝つか、上州が勝つか
軍配はどちらに?その報告は後ほどこのブログで。


おお、ギャオ公様~ いざ、出陣じゃ!! はははあ~ 殿に付いて参りまするう~!!

高田と言えば、上杉謙信!!春日山城ですからね!!

「第一義」 だ!!

自分の卒業した新潟県長岡市の栖吉川のほとりにある長岡市立川崎小学校にもこの言葉が額に入れられていたという。あとで親父に聞かされた。
これは、一つに越後の理念なんだろうな。

卑怯な姑息な真似をするな。何事も一にも二にも義を、筋を通せ。死しても守れ。後世までもその志は生き続ける ということ。

そう、河井継之助や山本帯刀が、徳川幕府や会津藩への忠義・恩義を守り通したのもこういう精神が根底にあるからなんだよたぶん。
これを守らないと世の中の秩序が乱れ、全てにおいて精神性が崩壊していくということなのじゃないか。後々まで都合が悪くなるという。

いずれにせよ会津藩討伐の先兵に、もし越後長岡藩が成り下がっていたら、今でも福島県と長岡市(新潟県自体)は、隣県でありながら、国交断絶的状態になっていただろうと家の親父が語っていた。
忠義を守るというのは、現在、過去、未来を守るということにもなる。
要するに、偉人の歴史に答えを出すならば、長い目で見なけりゃならないってことなんだよ。そこを履き違えちゃダメだということ。

それで、新潟県長岡市は、謙信の母の虎御前に始まり、栖吉城、栃尾城、上杉謙信(幼年期~青年期)、乙吉城、鬼小島弥太郎、龍穏院、河田長親、与板城、直江兼続、お船、蔵王堂城、堀直寄等、戦国時代からの城下町でもあるんだよね。

因みに家の親父の実家が、与板や芹川城があった場所の近くに現在も住む○○○という家。親父の話によると実家の蔵の中で、長持ちの奥深くに、なぜかがしまわれていたのを見たと言っていた。
そこの叔父さんは、剣道の上段を持つ超凄腕。外人みたいに顔の彫が深くて、何か侍みたいな顔付きなんですよ。その娘たちは昔から敷居が高くて。弟である家の親父もやたらに規律正しくて頭が良くて、書道教室が開ける上段を持ってる。詩吟に興じるってのも何かなあ。そんで自分も侍みたいな顔してるとたまに言われるんだよね。まあ、でも関係ないか…。

また、自分の家の実家の近所に個人病院の○○○医院というのがあって、ここが古志長尾氏の家系で有名で、家の婆様やおふくろがよく○○○様とか言って一目置いてて、懸りつけ医にしていたんだよ。
確かに品と威厳があったね。
今でもそう。
何か診療に行くと、平伏してしまうような気持ちになる。

それと、ツンとした美人で、スゲエ頭のいい○という同級生の女がこの界隈にいて、やっぱり、祖先が武家の出らしく、藩医をしていたとかと、家の婆様がよく言ってた。
その家がまた格調高いレトロな雰囲気の家でさあ。金持だったんだろうなあ。
まさかあの堀直寄の関係だったんじゃないよな。

何かすげえよなあ。考えてみると。
自分の実家周辺とか、この
新潟県長岡市って。
歴史が奥深いというか。

だから、面白いんだよね。神秘的で。


クロォン ブゥタケヨォ! アン二ョォ~ン!


平成25年6月28日

「八重の桜」河井継之助の忠義。武装ガトリング砲!越後長岡藩の猛攻!ギャオス内藤公出陣!

2013年06月28日 15時00分00秒 | 大河ドラマ
◆左の写真は、クリックすると拡大されてご覧いただけます。

週一、市外にある仕事の関係で朝早く出勤する途中、いつもここを通る。
新潟県長岡市にある栄涼寺(えいりょうじ)だ。
実家からすぐ近くにある。


長岡市栄涼寺と墓地。中越地震で墓の倒壊等があった。現在はほぼ復興している

この寺は、長岡藩・牧野家(出は、愛知県豊川市)の菩提寺という由緒ある寺だ。

自分は子供の頃、この寺の境内や墓場でよく友達と遊んだものだ。
寺の鐘も悪戯で鳴らしたりした。
そういや、墓場でロケット花火をお互いに打ち込んだりしたんだっけ。
罰当たりもいいとこだよな。



同級生の友人もいっぱいこの寺の周辺に住んでいる。
その内の一人は、そこからちょっと歩いた路地の通り沿い、第二次世界大戦の長岡空襲から免れた町内で、昔は足軽長屋だった所に今も住んでいる。
そいつは、長岡藩の足軽の子孫でやたらに厳格な家で見識が高くて、遊びに行くと居間の壁に槍とか刀が掲げられていた。それじゃここんちも祖先は、愛知県豊川市の出なのかなあ。
家の親父もそんなこと言ってたっけ。

たかが足軽だろ。いばんじゃねえよ。と、言ってみたりして。ウヒャーッ!(すまんな友人)
実は、何を隠そう自分もこの通り沿いにある家が実家だが、長岡藩とは何ら関係無い。
明治の頃に祖祖父が土地と建物を購入して住んだらしい。
だから、自分の家の裏庭でも、土を掘ったりして遊んでいると、刀の鍔が出て来たりした。

つまり、この辺も北越戊辰戦争の戦場だったのだろう。
相当の激戦地だったと聞く。
その陣頭指揮を執ったのが、三河武士のを引く長岡藩家老であり、軍事総督の河井継之助かわいつぐのすけである。
そして、この河井総督の墓が、この栄涼寺に建立されているのである。


*朝陽の中の河井継之助の墓。この時は、出勤で急いでいたためそばに行けなかった。かなりの花が供えられている。たぶん、河井継之助のファンの方だろうか。「八重の」に登場したこともあって。自分も物心ついた頃から時々、河井総督の墓に参っている。近いし

子供時代はそんなことも露知らず、この墓場で遊び呆けて無礼な振舞いをしたもんだ。

今、NHK大河ドラマ八重の」が話題であるが、今回、会津藩と同盟軍を組んだ長岡藩の関係から河井継之助がちょこっと出てきたらしい。
自分はついうっかり見逃してしまった。(再放送も)
予告は観たけど、何かスター性が排除されている印象。
まあ確かに会津藩が舞台だからね。しょうがないというか、遠慮しておいた方がいいのかも。
それに、このドラマ化の経緯は、東日本大震災からの復興(NHKと政府の配慮)の意味があると感じてる。
特に福島原発によって現在も放射能、放射性物質という見えない敵に苛まされている関東(NHKと政府も含まれんのか…何だかなあ)、北関東、福島県、東北地域に対して。(だから、越後長岡藩等の北越戊辰戦争方面は描かれなかったていうことでしょう

今、長岡市には、放射能被害から古里を追われた福島県の市民が止むに止まれず避難している
酷いよなあ東電政府。何を考えているやら。
知恵を絞って、元の古里に何とか戻れるようにしてあげなきゃだめだろ。
古里が無くなるというのは、凄く辛いことなんだよ。分かんねえのか!!
赤ちゃんとか小さいお子さんもいるんだぞ!バッキャロめ!!!

ほんで、人づてに聞いたら、その回には、長岡藩が保持していた二門のガトリング砲も出てきたんだって。
これって今でいう核武装と同様の脅威(戦略)を小国の越後長岡藩、つまり、河井継之助が企図したということでしょ。それはそれで凄いよね。その斬新な発想って。
ほんとに使えたのどうか知らないけど、お飾りでもそれなりの脅威にはなるもんだろうね。
だから、戦争ってのは、アナログでいかにデジタルを騙すかという方法も考えなくちゃいけないんじゃないか。
経費も相当浮くし。
段ボールの張りぼてでもいいんだよ精巧ならば。
それから、後の同じ長岡市出身山本五十六元帥の航空機推進論櫻井よしこ女史の空母推進論は、この河井総督の戦略から導かれてんじゃないだろうかね。

但し、この機関砲、アメリカの南北戦争の時のバッタモン、中古品だったらしい。
それを日本に売りつけてやるかと持ってきた訳だ。商人のスネルがね。(確か昨年、長岡市の米百俵祭り時代行列に、そのスネルの子孫の方が来られて出演していたんだよ)
その辺のビジネス感覚は、やっぱり抜け目ないぜ欧米人の野郎は。
もしかしてユダヤ系スイス人なのかなあ。
知らんけどさ。
この姑息な、ある意味悪徳な商法って今でも変わらんでしょ。
例えば、米軍の兵器の自衛隊への払下げとかさ。
ほんで、未だにこのガトリング砲がどこに消えたか謎のままなんだよね。

そうだ、このブログ名にある塵壺は、河井継之助の日本の太平洋側諸国の旅日記塵壺(ちりつぼ)からいただいてんだ。
塵壺って今でいうごみ箱ダストボックスだから。
旅の恥はかき捨てみたいなことから浮かんだのか知らないけどさ、日記なんかという高尚なものじゃなく、雑な繰り言というか、掃いて捨てるぐらいなメモ、ごみのようなもんだというのを意味してんだよきっと。
だから、この実物を見てみると、正に殴り書きの下手くそな字で思ったことをザアーっと書いてるだけのもんだからね。(俺もそういうスタイルで気ままにブログを書いてるつもり。ありがと河井総督!)
新潟県長岡市長岡市立中央図書館に問い合わせれば、快くこの河井継之助の日記「塵壺ちりつぼ現物を見せてくれるよ。


長岡市立中央図書館

でもこの「塵壺」に書かれているのは、入念な視察なんだよね。当時(幕末)の企業、行政、外国状勢のさ。

それにしても昔の人達は凄い。歩いて新潟県長岡市から苗場の三国峠を越えて、江戸(東京)に行き、河井総督はそっからさらに備中・岡山県高梁市、そして、九州の長崎まで歩いて、また戻ってきたというんだから。尋常じゃない。
見習わんばらこっての、おめさん。このパワー!!
でも、そういう風に視察ということならば、胸高鳴って旅したんだろうなあ。
疲れなんて感じないぐらいワクワクして。生きてるぅーってやつだよ。

この河井総督って、ほんと発想(アイディア)力も大したもんだけど、それに加えて日記を塵壺なんてネーミングするとは、ユーモアセンスにも溢れて
だから、瀕死の状態で戸板に乗せられて、会津に向けて八十里越えをする時に、
「八十里 腰抜け武士の 越す峠」
なんていう自嘲めいた川柳的な句を詠めるんだよ。
普通ならもう死ぬかもしれないという時に、そんな風に自分自身を客観視する余裕なんかあるのかと思うけど。
腰抜け武士というのは、越(越後)を抜ける武士というジョークにもなっているという訳。
また、越す峠の峠には、三国峠への思いもあったんじゃないだろうか。
江戸(東京)に向かって意気揚々と夢と希望を抱いて越えた三国峠。
絶望と惨めな思いで越える八十里越え。
そんな真逆な峠の運命の皮肉。悔しさ。
人の一生は重いね。

そういや、かのジョン・レノンが言ってただけど、「いつでも、どんな時もユーモアを忘れずにね」という言葉が浮かんできた。

スゲエなあ~後世に残る偉人の言葉って。
生きてる。
正に、これぞクリエイターだよね!!


あっ、それで、薩長側時山直八長州藩・猛将)がこの北越戊辰戦争の越後長岡の激戦で戦死し、その死を悼み、参謀の山縣有朋が、長岡市の東山の森立もったてで戦中に詠んだ短歌がこれまた素晴らしく、身に染み入って来るような名歌になってるんですよ。
「あだまもる 砦のかがり 影ふけて 夏も身にしむ 越の山風 」
(敵・長岡藩兵が守っている砦の篝火もその姿の影も消え、夜も更けて~)
ねっ凄いでしょ。イメージがぐわーっと湧いてくるというか。
何かジーンと感動するんですよね。かっこいい。
芸術家ですよ。
戦下でこんな短歌を詠めるなんて。
この言葉の中からは、長岡藩との攻防が激戦に陥いり、夏なのに身は張りつめて寒気が襲い、山肌の風が堪えるという、つまり、厳しい戦況であるという心境も伺い知れるんですよ。
この短歌が刻まれた碑が森立峠にあるんですよね。


河井継之助の墓の裏手に見えるのが上越新幹線の高架橋。その下にはJR東日本・信越線が走っている。線路の向こうが長岡市稽古町である

さあ、そんで、ギャオス内藤監督率いる新潟アルビレックスベースボールクラブ 対 群馬ダイヤモンドペガサスの試合が、上越市の高田公園野球場で先日あった。

前期優勝への一大決戦!!越後が勝つか、上州が勝つか
軍配はどちらに?その報告は後ほどこのブログで。


おお、ギャオ公様~ いざ、出陣じゃ!! はははあ~ 殿に付いて参りまするう~!!

高田と言えば、上杉謙信!!春日山城ですからね!!

「第一義」 だ!!

自分の卒業した新潟県長岡市の栖吉川のほとりにある長岡市立川崎小学校にもこの言葉が額に入れられていたという。あとで親父に聞かされた。
これは、一つに越後の理念なんだろうな。

卑怯な姑息な真似をするな。何事も一にも二にも義を、筋を通せ。死しても守れ。後世までもその志は生き続ける ということ。

そう、河井継之助や山本帯刀が、徳川幕府や会津藩への忠義・恩義を守り通したのもこういう精神が根底にあるからなんだよたぶん。
これを守らないと世の中の秩序が乱れ、全てにおいて精神性が崩壊していくということなのじゃないか。後々まで都合が悪くなるという。

いずれにせよ会津藩討伐の先兵に、もし越後長岡藩が成り下がっていたら、今でも福島県と長岡市(新潟県自体)は、隣県でありながら、国交断絶的状態になっていただろうと家の親父が語っていた。
忠義を守るというのは、現在、過去、未来を守るということにもなる。
要するに、偉人の歴史に答えを出すならば、長い目で見なけりゃならないってことなんだよ。そこを履き違えちゃダメだということ。

それで、新潟県長岡市は、謙信の母の虎御前に始まり、栖吉城、栃尾城、上杉謙信(幼年期~青年期)、乙吉城、鬼小島弥太郎、龍穏院、河田長親、与板城、直江兼続、お船、蔵王堂城、堀直寄等、戦国時代からの城下町でもあるんだよね。

因みに家の親父の実家が、与板や芹川城があった場所の近くに現在も住む○○○という家。親父の話によると実家の蔵の中で、長持ちの奥深くに、なぜかがしまわれていたのを見たと言っていた。
そこの叔父さんは、剣道の上段を持つ超凄腕。外人みたいに顔の彫が深くて、何か侍みたいな顔付きなんですよ。その娘たちは昔から敷居が高くて。弟である家の親父もやたらに規律正しくて頭が良くて、書道教室が開ける上段を持ってる。詩吟に興じるってのも何かなあ。そんで自分も侍みたいな顔してるとたまに言われるんだよね。まあ、でも関係ないか…。

また、自分の家の実家の近所に個人病院の○○○医院というのがあって、ここが古志長尾氏の家系で有名で、家の婆様やおふくろがよく○○○様とか言って一目置いてて、懸りつけ医にしていたんだよ。
確かに品と威厳があったね。
今でもそう。
何か診療に行くと、平伏してしまうような気持ちになる。

それと、ツンとした美人で、スゲエ頭のいい○という同級生の女がこの界隈にいて、やっぱり、祖先が武家の出らしく、藩医をしていたとかと、家の婆様がよく言ってた。
その家がまた格調高いレトロな雰囲気の家でさあ。金持だったんだろうなあ。
まさかあの堀直寄の関係だったんじゃないよな。

何かすげえよなあ。考えてみると。
自分の実家周辺とか、この
新潟県長岡市って。
歴史が奥深いというか。

だから、面白いんだよね。神秘的で。


クロォン ブゥタケヨォ! アン二ョォ~ン!


平成25年6月28日

「八重の桜」河井継之助 ガトリング砲!越後長岡藩激戦!ギャオス内藤公出陣!

2013年06月24日 17時52分20秒 | 大河ドラマ
◆左の写真は、クリックすると拡大されてご覧いただけます。

週一、市外にある仕事の関係で朝早く出勤する途中、いつもここを通る。
新潟県長岡市にある栄涼寺(えいりょうじ)だ。
実家からすぐ近くにある。


長岡市栄涼寺と墓地。中越地震で墓の倒壊等があった。現在はほぼ復興している

この寺は、長岡藩・牧野家(出は、愛知県豊川市)の菩提寺という由緒ある寺だ。

自分は子供の頃、この寺の境内や墓場でよく友達と遊んだものだ。
寺の鐘も悪戯で鳴らしたりした。
そういや、墓場でロケット花火をお互いに打ち込んだりしたんだっけ。
罰当たりもいいとこだよな。



同級生の友人もいっぱいこの寺の周辺に住んでいる。
その内の一人は、そこからちょっと歩いた路地の通り沿い、第二次世界大戦の長岡空襲から免れた町内で、昔は足軽長屋だった所に今も住んでいる。
そいつは、長岡藩の足軽の子孫でやたらに厳格な家で見識が高くて、遊びに行くと居間の壁に槍とか刀が掲げられていた。それじゃここんちも祖先は、愛知県豊川市の出なのかなあ。
家の親父もそんなこと言ってたっけ。

たかが足軽だろ。いばんじゃねえよ。と、言ってみたりして。ウヒャーッ!(すまんな友人)
実は、何を隠そう自分もこの通り沿いにある家が実家だが、長岡藩とは何ら関係無い。
明治の頃に祖祖父が土地と建物を購入して住んだらしい。
だから、自分の家の裏庭でも、土を掘ったりして遊んでいると、刀の鍔が出て来たりした。

つまり、この辺も北越戊辰戦争の戦場だったのだろう。
相当の激戦地だったと聞く。
その陣頭指揮を執ったのが、三河武士のを引く長岡藩家老であり、軍事総督の河井継之助かわいつぐのすけである。
そして、この河井総督の墓が、この栄涼寺に建立されているのである。


*朝陽の中の河井継之助の墓。この時は、出勤で急いでいたためそばに行けなかった。かなりの花が供えられている。たぶん、河井継之助のファンの方だろうか。「八重の」に登場したこともあって。自分も物心ついた頃から時々、河井総督の墓に参っている。近いし

子供時代はそんなことも露知らず、この墓場で遊び呆けて無礼な振舞いをしたもんだ。

今、NHK大河ドラマ八重の」が話題であるが、今回、会津藩と同盟軍を組んだ長岡藩の関係から河井継之助がちょこっと出てきたらしい。
自分はついうっかり見逃してしまった。(再放送も)
予告は観たけど、何かスター性が排除されている印象。
まあ確かに会津藩が舞台だからね。しょうがないというか、遠慮しておいた方がいいのかも。
それに、このドラマ化の経緯は、東日本大震災からの復興(NHKと政府の配慮)の意味があると感じてる。
特に福島原発によって現在も放射能、放射性物質という見えない敵に苛まされている関東(NHKと政府も含まれんのか…何だかなあ)、北関東、福島県、東北地域に対して。(だから、越後長岡藩等の北越戊辰戦争方面は描かれなかったていうことでしょう

今、長岡市には、放射能被害から古里を追われた福島県の市民が止むに止まれず避難している
酷いよなあ東電政府。何を考えているやら。
知恵を絞って、元の古里に何とか戻れるようにしてあげなきゃだめだろ。
古里が無くなるというのは、凄く辛いことなんだよ。分かんねえのか!!
赤ちゃんとか小さいお子さんもいるんだぞ!バッキャロめ!!!

ほんで、人づてに聞いたら、その回には、長岡藩が保持していた二門のガトリング砲も出てきたんだって。
これって今でいう核武装と同様の脅威(戦略)を小国の越後長岡藩、つまり、河井継之助が企図したということでしょ。それはそれで凄いよね。その斬新な発想って。
ほんとに使えたのどうか知らないけど、お飾りでもそれなりの脅威にはなるもんだろうね。
だから、戦争ってのは、アナログでいかにデジタルを騙すかという方法も考えなくちゃいけないんじゃないか。
経費も相当浮くし。
段ボールの張りぼてでもいいんだよ精巧ならば。
それから、後の同じ長岡市出身山本五十六元帥の航空機推進論櫻井よしこ女史の空母推進論は、この河井総督の戦略から導かれてんじゃないだろうかね。

但し、この機関砲、アメリカの南北戦争の時のバッタモン、中古品だったらしい。
それを日本に売りつけてやるかと持ってきた訳だ。商人のスネルがね。(確か昨年、長岡市の米百俵祭り時代行列に、そのスネルの子孫の方が来られて出演していたんだよ)
その辺のビジネス感覚は、やっぱり抜け目ないぜ欧米人の野郎は。
もしかしてユダヤ系スイス人なのかなあ。
知らんけどさ。
この姑息な、ある意味悪徳な商法って今でも変わらんでしょ。
例えば、米軍の兵器の自衛隊への払下げとかさ。
ほんで、未だにこのガトリング砲がどこに消えたか謎のままなんだよね。

そうだ、このブログ名にある塵壺は、河井継之助の日本の太平洋側諸国の旅日記塵壺(ちりつぼ)からいただいてんだ。
塵壺って今でいうごみ箱ダストボックスだから。
旅の恥はかき捨てみたいなことから浮かんだのか知らないけどさ、日記なんかという高尚なものじゃなく、雑な繰り言というか、掃いて捨てるぐらいなメモ、ごみのようなもんだというのを意味してんだよきっと。
だから、この実物を見てみると、正に殴り書きの下手くそな字で思ったことをザアーっと書いてるだけのもんだからね。(俺もそういうスタイルで気ままにブログを書いてるつもり。ありがと河井総督!)
新潟県長岡市長岡市立中央図書館に問い合わせれば、快くこの河井継之助の日記「塵壺ちりつぼ現物を見せてくれるよ。


長岡市立中央図書館

でもこの「塵壺」に書かれているのは、入念な視察なんだよね。当時(幕末)の企業、行政、外国状勢のさ。

それにしても昔の人達は凄い。歩いて新潟県長岡市から苗場の三国峠を越えて、江戸(東京)に行き、河井総督はそっからさらに備中・岡山県高梁市、そして、九州の長崎まで歩いて、また戻ってきたというんだから。尋常じゃない。
見習わんばらこっての、おめさん。このパワー!!
でも、そういう風に視察ということならば、胸高鳴って旅したんだろうなあ。
疲れなんて感じないぐらいワクワクして。生きてるぅーってやつだよ。

この河井総督って、ほんと発想(アイディア)力も大したもんだけど、それに加えて日記を塵壺なんてネーミングするとは、ユーモアセンスにも溢れて
だから、瀕死の状態で戸板に乗せられて、会津に向けて八十里越えをする時に、
「八十里 腰抜け武士の 越す峠」
なんていう自嘲めいた川柳的な句を詠めるんだよ。
普通ならもう死ぬかもしれないという時に、そんな風に自分自身を客観視する余裕なんかあるのかと思うけど。
腰抜け武士というのは、越(越後)を抜ける武士というジョークにもなっているという訳。
また、越す峠の峠には、三国峠への思いもあったんじゃないだろうか。
江戸(東京)に向かって意気揚々と夢と希望を抱いて越えた三国峠。
絶望と惨めな思いで越える八十里越え。
そんな真逆な峠の運命の皮肉。悔しさ。
人の一生は重いね。

そういや、かのジョン・レノンが言ってただけど、「いつでも、どんな時もユーモアを忘れずにね」という言葉が浮かんできた。

スゲエなあ~後世に残る偉人の言葉って。
生きてる。
正に、これぞクリエイターだよね!!


あっ、それで、薩長側時山直八長州藩・猛将)がこの北越戊辰戦争の越後長岡の激戦で戦死し、その死を悼み、参謀の山縣有朋が、長岡市の東山の森立もったてで戦中に詠んだ短歌がこれまた素晴らしく、身に染み入って来るような名歌になってるんですよ。
「あだまもる 砦のかがり 影ふけて 夏も身にしむ 越の山風 」
(敵・長岡藩兵が守っている砦の篝火もその姿の影も消え、夜も更けて~)
ねっ凄いでしょ。イメージがぐわーっと湧いてくるというか。
何かジーンと感動するんですよね。かっこいい。
芸術家ですよ。
戦下でこんな短歌を詠めるなんて。
この言葉の中からは、長岡藩との攻防が激戦に陥いり、夏なのに身は張りつめて寒気が襲い、山肌の風が堪えるという、つまり、厳しい戦況であるという心境も伺い知れるんですよ。
この短歌が刻まれた碑が森立峠にあるんですよね。


河井継之助の墓の裏手に見えるのが上越新幹線の高架橋。その下にはJR東日本・信越線が走っている。線路の向こうが長岡市稽古町である

女優 【杏】 が惚れた!ラスト侍 「河井継之助」 新潟県長岡市 The Last Samurai in Japan


さあ、そんで、ギャオス内藤監督率いる新潟アルビレックスベースボールクラブ 対 群馬ダイヤモンドペガサスの試合が、上越市の高田公園野球場で先日あった。

前期優勝への一大決戦!!越後が勝つか、上州が勝つか
軍配はどちらに?その報告は後ほどこのブログで。


おお、ギャオ公様~ いざ、出陣じゃ!! はははあ~ 殿に付いて参りまするう~!!

高田と言えば、上杉謙信!!春日山城ですからね!!

「第一義」 だ!!

自分の卒業した新潟県長岡市の栖吉川のほとりにある長岡市立川崎小学校にもこの言葉が額に入れられていたという。あとで親父に聞かされた。
これは、一つに越後の理念なんだろうな。

卑怯な姑息な真似をするな。何事も一にも二にも義を、筋を通せ。死しても守れ。後世までもその志は生き続ける ということ。

そう、河井継之助や山本帯刀が、徳川幕府や会津藩への忠義・恩義を守り通したのもこういう精神が根底にあるからなんだよたぶん。
これを守らないと世の中の秩序が乱れ、全てにおいて精神性が崩壊していくということなのじゃないか。後々まで都合が悪くなるという。

いずれにせよ会津藩討伐の先兵に、もし越後長岡藩が成り下がっていたら、今でも福島県と長岡市(新潟県自体)は、隣県でありながら、国交断絶的状態になっていただろうと家の親父が語っていた。
忠義を守るというのは、現在、過去、未来を守るということにもなる。
要するに、偉人の歴史に答えを出すならば、長い目で見なけりゃならないってことなんだよ。そこを履き違えちゃダメだということ。

それで、新潟県長岡市は、謙信の母の虎御前に始まり、栖吉城、栃尾城、上杉謙信(幼年期~青年期)、乙吉城、鬼小島弥太郎、龍穏院、河田長親、与板城、直江兼続、お船、蔵王堂城、堀直寄等、戦国時代からの城下町でもあるんだよね。

因みに家の親父の実家が、与板や芹川城があった場所の近くに現在も住む○○○という家。親父の話によると実家の蔵の中で、長持ちの奥深くに、なぜかがしまわれていたのを見たと言っていた。
そこの叔父さんは、剣道の上段を持つ超凄腕。外人みたいに顔の彫が深くて、何か侍みたいな顔付きなんですよ。その娘たちは昔から敷居が高くて。弟である家の親父もやたらに規律正しくて頭が良くて、書道教室が開ける上段を持ってる。詩吟に興じるってのも何かなあ。そんで自分も侍みたいな顔してるとたまに言われるんだよね。まあ、でも関係ないか…。

また、自分の家の実家の近所に個人病院の○○○医院というのがあって、ここが古志長尾氏の家系で有名で、家の婆様やおふくろがよく○○○様とか言って一目置いてて、懸りつけ医にしていたんだよ。
確かに品と威厳があったね。
今でもそう。
何か診療に行くと、平伏してしまうような気持ちになる。

それと、ツンとした美人で、スゲエ頭のいい○という同級生の女がこの界隈にいて、やっぱり、祖先が武家の出らしく、藩医をしていたとかと、家の婆様がよく言ってた。
その家がまた格調高いレトロな雰囲気の家でさあ。金持だったんだろうなあ。
まさかあの堀直寄の関係だったんじゃないよな。

何かすげえよなあ。考えてみると。
自分の実家周辺とか、この
新潟県長岡市って。
歴史が奥深いというか。

だから、面白いんだよね。神秘的で。

女優【杏】ベタ惚れラスト侍 「河井継之助」 長岡市 The Last Samurai in Japan



クロォン ブゥタケヨォ! アン二ョォ~ン!


平成25年6月24日


昨夏、ロシアに行った時の映像アップしました。どうぞご覧 下さい

「おそロシアで発見!新種の海中生物 ドキッ!」
です。

【UMA】 おそロシアで発見!新種の海中生物 ドキッ!Creature of found in Russia!在俄羅斯發現的神秘生物!



「八重の桜」河井継之助 ガトリング砲登場!長岡藩激戦!ギャオス内藤公出陣!

2013年06月23日 15時00分00秒 | 大河ドラマ
◆左の写真は、クリックすると拡大されてご覧いただけます。

週一、市外にある仕事の関係で朝早く出勤する途中、いつもここを通る。
新潟県長岡市にある栄涼寺(えいりょうじ)だ。
実家からすぐ近くにある。


長岡市栄涼寺と墓地。中越地震で墓の倒壊等があった。現在はほぼ復興している

この寺は、長岡藩・牧野家(出は、愛知県豊川市)の菩提寺という由緒ある寺だ。

自分は子供の頃、この寺の境内や墓場でよく友達と遊んだものだ。
寺の鐘も悪戯で鳴らしたりした。
そういや、墓場でロケット花火をお互いに打ち込んだりしたんだっけ。
罰当たりもいいとこだよな。



同級生の友人もいっぱいこの寺の周辺に住んでいる。
その内の一人は、そこからちょっと歩いた路地の通り沿い、第二次世界大戦の長岡空襲から免れた町内で、昔は足軽長屋だった所に今も住んでいる。
そいつは、長岡藩の足軽の子孫でやたらに厳格な家で見識が高くて、遊びに行くと居間の壁に槍とか刀が掲げられていた。それじゃここんちも祖先は、愛知県豊川市の出なのかなあ。
家の親父もそんなこと言ってたっけ。

たかが足軽だろ。いばんじゃねえよ。と、言ってみたりして。ウヒャーッ!(すまんな友人)
実は、何を隠そう自分もこの通り沿いにある家が実家だが、長岡藩とは何ら関係無い。
明治の頃に祖祖父が土地と建物を購入して住んだらしい。
だから、自分の家の裏庭でも、土を掘ったりして遊んでいると、刀の鍔が出て来たりした。

つまり、この辺も北越戊辰戦争の戦場だったのだろう。
相当の激戦地だったと聞く。
その陣頭指揮を執ったのが、三河武士のを引く長岡藩家老であり、軍事総督の河井継之助かわいつぐのすけである。
そして、この河井総督の墓が、この栄涼寺に建立されているのである。


*朝陽の中の河井継之助の墓。この時は、出勤で急いでいたためそばに行けなかった。かなりの花が供えられている。たぶん、河井継之助のファンの方だろうか。「八重の」に登場したこともあって。自分も物心ついた頃から時々、河井総督の墓に参っている。近いし

子供時代はそんなことも露知らず、この墓場で遊び呆けて無礼な振舞いをしたもんだ。

今、NHK大河ドラマ八重の」が話題であるが、今回、会津藩と同盟軍を組んだ長岡藩の関係から河井継之助がちょこっと出てきたらしい。
自分はついうっかり見逃してしまった。(再放送も)
予告は観たけど、何かスター性が排除されている印象。
まあ確かに会津藩が舞台だからね。しょうがないというか、遠慮しておいた方がいいのかも。
それに、このドラマ化の経緯は、東日本大震災からの復興(NHKと政府の配慮)の意味があると感じてる。
特に福島原発によって現在も放射能、放射性物質という見えない敵に苛まされている関東(NHKと政府も含まれんのか…何だかなあ)、北関東、福島県、東北地域に対して。(だから、越後長岡藩等の北越戊辰戦争方面は描かれなかったていうことでしょう

今、長岡市には、放射能被害から古里を追われた福島県の市民が止むに止まれず避難している
酷いよなあ東電政府。何を考えているやら。
知恵を絞って、元の古里に何とか戻れるようにしてあげなきゃだめだろ。
古里が無くなるというのは、凄く辛いことなんだよ。分かんねえのか!!
赤ちゃんとか小さいお子さんもいるんだぞ!バッキャロめ!!!

ほんで、人づてに聞いたら、その回には、長岡藩が保持していた二門のガトリング砲も出てきたんだって。
これって今でいう核武装と同様の脅威(戦略)を小国の越後長岡藩、つまり、河井継之助が企図したということでしょ。それはそれで凄いよね。その斬新な発想って。
ほんとに使えたのどうか知らないけど、お飾りでもそれなりの脅威にはなるもんだろうね。
だから、戦争ってのは、アナログでいかにデジタルを騙すかという方法も考えなくちゃいけないんじゃないか。
経費も相当浮くし。
段ボールの張りぼてでもいいんだよ精巧ならば。
それから、後の同じ長岡市出身山本五十六元帥の航空機推進論櫻井よしこ女史の空母推進論は、この河井総督の戦略から導かれてんじゃないだろうかね。

但し、この機関砲、アメリカの南北戦争の時のバッタモン、中古品だったらしい。
それを日本に売りつけてやるかと持ってきた訳だ。商人のスネルがね。(確か昨年、長岡市の米百俵祭り時代行列に、そのスネルの子孫の方が来られて出演していたんだよ)
その辺のビジネス感覚は、やっぱり抜け目ないぜ欧米人の野郎は。
もしかしてユダヤ系スイス人なのかなあ。
知らんけどさ。
この姑息な、ある意味悪徳な商法って今でも変わらんでしょ。
例えば、米軍の兵器の自衛隊への払下げとかさ。
ほんで、未だにこのガトリング砲がどこに消えたか謎のままなんだよね。

そうだ、このブログ名にある塵壺は、河井継之助の日本の太平洋側諸国の旅日記塵壺(ちりつぼ)からいただいてんだ。
塵壺って今でいうごみ箱ダストボックスだから。
旅の恥はかき捨てみたいなことから浮かんだのか知らないけどさ、日記なんかという高尚なものじゃなく、雑な繰り言というか、掃いて捨てるぐらいなメモ、ごみのようなもんだというのを意味してんだよきっと。
だから、この実物を見てみると、正に殴り書きの下手くそな字で思ったことをザアーっと書いてるだけのもんだからね。(俺もそういうスタイルで気ままにブログを書いてるつもり。ありがと河井総督!)
新潟県長岡市長岡市立中央図書館に問い合わせれば、快くこの河井継之助の日記「塵壺ちりつぼ現物を見せてくれるよ。


長岡市立中央図書館

でもこの「塵壺」に書かれているのは、入念な視察なんだよね。当時(幕末)の企業、行政、外国状勢のさ。

それにしても昔の人達は凄い。歩いて新潟県長岡市から苗場の三国峠を越えて、江戸(東京)に行き、河井総督はそっからさらに備中・岡山県高梁市、そして、九州の長崎まで歩いて、また戻ってきたというんだから。尋常じゃない。
見習わんばらこっての、おめさん。このパワー!!
でも、そういう風に視察ということならば、胸高鳴って旅したんだろうなあ。
疲れなんて感じないぐらいワクワクして。生きてるぅーってやつだよ。

この河井総督って、ほんと発想(アイディア)力も大したもんだけど、それに加えて日記を塵壺なんてネーミングするとは、ユーモアセンスにも溢れて
だから、瀕死の状態で戸板に乗せられて、会津に向けて八十里越えをする時に、
「八十里 腰抜け武士の 越す峠」
なんていう自嘲めいた川柳的な句を詠めるんだよ。
普通ならもう死ぬかもしれないという時に、そんな風に自分自身を客観視する余裕なんかあるのかと思うけど。
腰抜け武士というのは、越(越後)を抜ける武士というジョークにもなっているという訳。
また、越す峠の峠には、三国峠への思いもあったんじゃないだろうか。
江戸(東京)に向かって意気揚々と夢と希望を抱いて越えた三国峠。
絶望と惨めな思いで越える八十里越え。
そんな真逆な峠の運命の皮肉。悔しさ。
人の一生は重いね。

そういや、かのジョン・レノンが言ってただけど、「いつでも、どんな時もユーモアを忘れずにね」という言葉が浮かんできた。

スゲエなあ~後世に残る偉人の言葉って。
生きてる。
正に、これぞクリエイターだよね!!


あっ、それで、薩長側時山直八長州藩・猛将)がこの北越戊辰戦争の越後長岡の激戦で戦死し、その死を悼み、参謀の山縣有朋が、長岡市の東山の森立もったてで戦中に詠んだ短歌がこれまた素晴らしく、身に染み入って来るような名歌になってるんですよ。
「あだまもる 砦のかがり 影ふけて 夏も身にしむ 越の山風 」
(敵・長岡藩兵が守っている砦の篝火もその姿の影も消え、夜も更けて~)
ねっ凄いでしょ。イメージがぐわーっと湧いてくるというか。
何かジーンと感動するんですよね。かっこいい。
芸術家ですよ。
戦下でこんな短歌を詠めるなんて。
この言葉の中からは、長岡藩との攻防が激戦に陥いり、夏なのに身は張りつめて寒気が襲い、山肌の風が堪えるという、つまり、厳しい戦況であるという心境も伺い知れるんですよ。
この短歌が刻まれた碑が森立峠にあるんですよね。


河井継之助の墓の裏手に見えるのが上越新幹線の高架橋。その下にはJR東日本・信越線が走っている。線路の向こうが長岡市稽古町である

さあ、そんで、ギャオス内藤監督率いる新潟アルビレックスベースボールクラブ 対 群馬ダイヤモンドペガサスの試合が、上越市の高田公園野球場で先日あった。

前期優勝への一大決戦!!越後が勝つか、上州が勝つか
軍配はどちらに?その報告は後ほどこのブログで。


おお、ギャオ公様~ いざ、出陣じゃ!! はははあ~ 殿に付いて参りまするう~!!

高田と言えば、上杉謙信!!春日山城ですからね!!

「第一義」 だ!!

自分の卒業した新潟県長岡市の栖吉川のほとりにある長岡市立川崎小学校にもこの言葉が額に入れられていたという。あとで親父に聞かされた。
これは、一つに越後の理念なんだろうな。

卑怯な姑息な真似をするな。何事も一にも二にも義を、筋を通せ。死しても守れ。後世までもその志は生き続ける。 ということ。

そう、河井継之助や山本帯刀が、徳川幕府や会津藩への忠義・恩義を守り通したのもこういう精神が根底にあるからなんだよたぶん。
これを守らないと世の中の秩序が乱れ、全てにおいて精神性が崩壊していくということなのじゃないか。後々まで都合が悪くなるという。

いずれにせよ会津藩討伐の先兵に、もし越後長岡藩が成り下がっていたら、今でも福島県と長岡市(新潟県自体)は、隣県でありながら、国交断絶的状態になっていただろうと家の親父が語っていた。
忠義を守るというのは、現在、過去、未来を守るということにもなる。
要するに、偉人の歴史に答えを出すならば、長い目で見なけりゃならないってことなんだよ。そこを履き違えちゃダメだということ。

それで、新潟県長岡市は、謙信の母の虎御前に始まり、栖吉城、栃尾城、上杉謙信(幼年期~青年期)、乙吉城、鬼小島弥太郎、龍穏院、河田長親、与板城、直江兼続、お船、蔵王堂城、堀直寄等、戦国時代からの城下町でもあるんだよね。

因みに家の親父の実家が、与板や芹川城があった場所の近くに現在も住む○○○という家。親父の話によると実家の蔵の中で、長持ちの奥深くに、なぜかがしまわれていたのを見たと言っていた。
そこの叔父さんは、剣道の上段を持つ超凄腕。外人みたいに顔の彫が深くて、何か侍みたいな顔付きなんですよ。その娘たちは昔から敷居が高くて。弟である家の親父もやたらに規律正しくて頭が良くて、書道教室が開ける上段を持ってる。詩吟に興じるってのも何かなあ。そんで自分も侍みたいな顔してるとたまに言われるんだよね。まあ、でも関係ないか…。

また、自分の家の実家の近所に個人病院の○○○医院というのがあって、ここが古志長尾氏の家系で有名で、家の婆様やおふくろがよく○○○様とか言って一目置いてて、懸りつけ医にしていたんだよ。
確かに品と威厳があったね。
今でもそう。
何か診療に行くと、平伏してしまうような気持ちになる。

それと、ツンとした美人で、スゲエ頭のいい○という同級生の女がこの界隈にいて、やっぱり、祖先が武家の出らしく、藩医をしていたとかと、家の婆様がよく言ってた。
その家がまた格調高いレトロな雰囲気の家でさあ。金持だったんだろうなあ。
まさかあの堀直寄の関係だったんじゃないよな。

何かすげえよなあ。考えてみると。
自分の実家周辺とか、この
新潟県長岡市って。
歴史が奥深いというか。

だから、面白いんだよね。神秘的で。


クロォン ブゥタケヨォ! アン二ョォ~ン!


平成25年6月23日

今日は、 KARAのKAMILIA´03!Tジョイ長岡で生中継! ヨロブン カチ ガアヨ!

2013年06月23日 14時02分00秒 | 大河ドラマ
◆左の写真は、クリックすると拡大されてご覧いただけます。

いやあ先日、新潟県長岡市の駅前(西口)にある金券ショップがやってるチケット「ぴあ」に行って買ってきましたよ。
今日開催の KARA KAMILIA SCHOOL 2013 の前売チケット(3500円)。
コンビニだと16:00までだったけど、ここは、18:00まで受付大丈夫だったのでギリギリセーフで購入。
やったあ~入手!



KARA KAMILIA SCHOOL 2013」前売チケット。ゲット

関係ないけど、この店にいる猫ちゃんが可憐で可愛いんだよね。
店主はニヒルというか、無愛想というか。

まあ、ゲットできたんで一安心。

そんで調べたら、当日券の販売もするみたいだよ。


さあ、いよいよ 今日6/23()16:00
KARA KAMIRIA SCHOOL 2013 開演ですよ!!
ほんで、自分は Tジョイ長岡生中継ライブ ライブビューイング に行きます!

入場者全員には、KAMIRIA SCHOOL 学生証プレゼントの特典があるんだって。やったあー!


あっ、でも数年前に、ソウルでのKAMILIA生中継もTジョイ長岡で観たんだよね。


*その時のKARAのキーホルダーの特典。常に鞄につけてるよ

とにかく一度は生で見たいのだけれど、なかなかそこまで行くまでの気力が追い付かずっていうところかなあ。
歳のせいもあるし。

K-POPを生で観たのは、この長岡市で毎年夏に開かれる「音楽と髭達」という一大野外ライブで、CNBLUEというロックバンドを前に見ただけ。
結構そのペンの人達(殆ど女性陣)が見に来てたよね。
なかなかいいセンスのバンドだったなあ。

今日のKARAはどんな感じだろう。
横浜アリーナだから、当然日本発売の歌が中心なんだろうな。
夏も近いし、「GO GO サマー!」とか当然歌うよねきっと。
バイハピ!が見てええ!

それと、「HONEY」「同じ気持ち」「アンブレラ」とかやらねえかなあ。

KARAを知ったのは、セブンイレブンに入った時に流れていたBGMの「ミスター」からなんだよね。
何かいい感じの歌がまた出てきたねえみたいな感じで、てっきり日本のソウル系の女性歌手なのかと思ってたら、KARAだったという。
それからYoutubeのPVでさらに嵌まりまくった。
今でもそう。大体いつも何かしら見てるもんね。

2年前には韓国・明洞に2回も行って来たしね。
KARAには会えなかったけど。
サムゲタンとマッコルリ、それとジャージャーミョンがスゲエ美味かったよ!
足つぼマッサージも気持ち良かったなあ。
日本に帰って来てからも足がポカポカして、何か軽くてさあ。

はっきり言おう。マジに、これだけ惹きつけられたアイドルグループはこれまで無い
KARAの5人が個性を持ち、それぞれが甲乙つけがたい魅力(オーラ)を放っている。
そして、どんな時にも見せる5人の愛くるしい天真爛漫な明るさが何人からも支持される所以だろうなあ。



*パソコンのデスクトップ画面は、KARA!ちょっと古いけどパルティの広告用背景から。益若つばさと物議をかもした…。どちらも可愛いよオレ的に


ヨロブン! カチ ガアヨオ!

平成25年6月23日

「八重の桜」 河井継之助総督 登場!脅威ガトリング砲!ギャオス内藤公出陣!

2013年06月22日 17時30分00秒 | 大河ドラマ
◆左の写真は、クリックすると拡大されてご覧いただけます。

週一、市外にある仕事の関係で朝早く出勤する途中、いつもここを通る。
新潟県長岡市にある栄涼寺(えいりょうじ)だ。
実家からすぐ近くにある。


長岡市栄涼寺と墓地。中越地震で墓の倒壊等があった。現在はほぼ復興している

この寺は、長岡藩・牧野家(出は、愛知県豊川市)の菩提寺という由緒ある寺だ。

自分は子供の頃、この寺の境内や墓場でよく友達と遊んだものだ。
寺の鐘も悪戯で鳴らしたりした。
そういや、墓場でロケット花火をお互いに打ち込んだりしたんだっけ。
罰当たりもいいとこだよな。



同級生の友人もいっぱいこの寺の周辺に住んでいる。
その内の一人は、そこからちょっと歩いた路地の通り沿い、第二次世界大戦の長岡空襲から免れた町内で、昔は足軽長屋だった所に今も住んでいる。
そいつは、長岡藩の足軽の子孫でやたらに厳格な家で見識が高くて、遊びに行くと居間の壁に槍とか刀が掲げられていた。それじゃここんちも祖先は、愛知県豊川市の出なのかなあ。
家の親父もそんなこと言ってたっけ。

たかが足軽だろ。いばんじゃねえよ。と、言ってみたりして。ウヒャーッ!(すまんな友人)
実は、何を隠そう自分もこの通り沿いにある家が実家だが、長岡藩とは何ら関係無い。
明治の頃に祖祖父が土地と建物を購入して住んだらしい。
だから、自分の家の裏庭でも、土を掘ったりして遊んでいると、刀の鍔が出て来たりした。

つまり、この辺も北越戊辰戦争の戦場だったのだろう。
相当の激戦地だったと聞く。
その陣頭指揮を執ったのが、三河武士のを引く長岡藩家老であり、軍事総督の河井継之助かわいつぐのすけである。
そして、この河井総督の墓が、この栄涼寺に建立されているのである。


*朝陽の中の河井継之助の墓。この時は、出勤で急いでいたためそばに行けなかった。かなりの花が供えられている。たぶん、河井継之助のファンの方だろうか。「八重の」に登場したこともあって。自分も物心ついた頃から時々、河井総督の墓に参っている。近いし

子供時代はそんなことも露知らず、この墓場で遊び呆けて無礼な振舞いをしたもんだ。

今、NHK大河ドラマ八重の」が話題であるが、今回、会津藩と同盟軍を組んだ長岡藩の関係から河井継之助がちょこっと出てきたらしい。
自分はついうっかり見逃してしまった。(再放送も)
予告は観たけど、何かスター性が排除されている印象。
まあ確かに会津藩が舞台だからね。しょうがないというか、遠慮しておいた方がいいのかも。
それに、このドラマ化の経緯は、東日本大震災からの復興(NHKと政府の配慮)の意味があると感じてる。
特に福島原発によって現在も放射能、放射性物質に苦しめられている関東(NHKと政府も含まれんのか…何だかなあ)、北関東、福島県、東北地域に対して。(だから、越後長岡藩等の北越戊辰戦争方面は描かれなかったていうことでしょう

今、長岡市には、放射能被害から古里を追われた福島県の市民が止むに止まれず避難している
酷いよなあ東電政府。何を考えているやら。
知恵を絞って、元の古里に何とか戻れるようにしてあげなきゃだめだろ。
古里が無くなるというのは、凄く辛いことなんだよ。分かんねえのか!!
赤ちゃんとか小さいお子さんもいるんだぞ!バッキャロめ!!!

ほんで、人づてに聞いたら、その回には、長岡藩が保持していた二門のガトリング砲も出てきたんだって。
これって今でいう核武装と同様の脅威(戦略)を小国の越後長岡藩、つまり、河井継之助が企図したということでしょ。それはそれで凄いよね。その斬新な発想って。
ほんとに使えたのどうか知らないけど、お飾りでもそれなりの脅威にはなるもんだろうね。
だから、戦争ってのは、アナログでいかにデジタルを騙すかという方法も考えなくちゃいけないんじゃないか。
経費も相当浮くし。
段ボールの張りぼてでもいいんだよ精巧ならば。
それから、後の同じ長岡市出身山本五十六元帥の航空機推進論櫻井よしこの空母推進論は、この河井総督の戦略から導かれてんじゃないだろうかね。

但し、この機関砲、アメリカの南北戦争の時のバッタモン、中古品だったらしい。
それを日本に売りつけてやるかと持ってきた訳だ。商人のスネルがね。(確か昨年、長岡市の米百俵祭り時代行列に、そのスネルの子孫の方が来られて出演していたんだよ)
その辺のビジネス感覚は、やっぱり抜け目ないぜ欧米人の野郎は。
もしかしてユダヤ系スイス人なのかなあ。
知らんけどさ。
この姑息な、ある意味悪徳な商法って今でも変わらんでしょ。
例えば、米軍の兵器の自衛隊への払下げとかさ。
ほんで、未だにこのガトリング砲がどこに消えたか謎のままなんだよね。

そうだ、このブログ名にある塵壺は、河井継之助の日本の太平洋側諸国の旅日記塵壺(ちりつぼ)からいただいてんだ。
塵壺って今でいうごみ箱ダストボックスだから。
旅の恥はかき捨てみたいなことから浮かんだのか知らないけどさ、日記なんかという高尚なものじゃなく、雑な繰り言というか、掃いて捨てるぐらいなメモ、ごみのようなもんだというのを意味してんだよきっと。
だから、この実物を見てみると、正に殴り書きの下手くそな字で思ったことをザアーっと書いてるだけのもんだからね。(俺もそういうスタイルで気ままにブログを書いてるつもり。ありがと河井総督!)
新潟県長岡市長岡市立中央図書館に問い合わせれば、快くこの河井継之助の日記「塵壺ちりつぼ現物を見せてくれるよ。


長岡市立中央図書館

でもこの「塵壺」に書かれているのは、入念な視察なんだよね。当時(幕末)の企業、行政、外国状勢のさ。

それにしても昔の人達は凄い。歩いて新潟県長岡市から苗場の三国峠を越えて、江戸(東京)に行き、河井総督はそっからさらに備中・岡山県高梁市、そして、九州の長崎まで歩いて、また戻ってきたというんだから。尋常じゃない。
見習わんばらこっての、おめさん。このパワー!!
でも、そういう風に視察ということならば、胸高鳴って旅したんだろうなあ。
疲れなんて感じないぐらいワクワクして。生きてるぅーってやつだよ。

この河井総督って、ほんと発想(アイディア)力も大したもんだけど、それに加えて日記を塵壺なんてネーミングするとは、ユーモアセンスにも溢れて
だから、瀕死の状態で戸板に乗せられて、会津に向けて八十里越えをする時に、
「八十里 腰抜け武士の 越す峠」
なんていう自嘲めいた川柳的な句を詠めるんだよ。
普通ならもう死ぬかもしれないという時に、そんな風に自分自身を客観視する余裕なんかあるのかと思うけど。
腰抜け武士というのは、越(越後)を抜ける武士というジョークにもなっているという訳。
また、越す峠の峠には、三国峠への思いもあったんじゃないだろうか。
江戸(東京)に向かって意気揚々と夢と希望を抱いて超えた三国峠。
絶望と惨めな思いで超える八十里越え。
そんな真逆な峠の運命の皮肉。悔しさ。
人の一生は重いね。

そういや、かのジョン・レノンが言ってただけど、「いつでも、どんな時もユーモアを忘れずにね」という言葉が浮かんできた。

スゲエなあ~後世に残る偉人の言葉って。
生きてる。
正に、これぞクリエイターだよね!!


あっ、それで、薩長側時山直八長州藩・猛将)がこの北越戊辰戦争の越後長岡の激戦で戦死し、その死を悼み、参謀の山縣有朋が、長岡市の東山の森立もったてで戦中に詠んだ短歌がこれまた素晴らしく、身に染み入って来るような名歌になってるんですよ。
「あだまもる 砦のかがり 影ふけて 夏も身にしむ 越の山風 」
(敵・長岡藩兵が守っている砦の篝火もその姿の影も消え、夜も更けて~)
ねっ凄いでしょ。イメージがぐわーっと湧いてくるというか。
何かジーンと感動するんですよね。かっこいい。
芸術家ですよ。
戦下でこんな短歌を詠めるなんて。
この言葉の中からは、長岡藩との攻防が激戦に陥いり、夏なのに身は張りつめて寒気が襲い、山肌の風が堪えるという、つまり、厳しい戦況であるという心境も伺い知れるんですよ。
この短歌が刻まれた碑が森立峠にあるんですよね。


河井継之助の墓の裏手に見えるのが上越新幹線の高架橋。その下にはJR東日本・信越線が走っている。線路の向こうが長岡市稽古町である

さあ、そんで、ギャオス内藤監督率いる新潟アルビレックスベースボールクラブ 対 群馬ダイヤモンドペガサスの試合が、上越市の高田公園野球場で先日あった。

前期優勝への一大決戦!!越後が勝つか、上州が勝つか
軍配はどちらに?その報告は後ほどこのブログで。


おお、ギャオ公様~ いざ、出陣じゃ!! はははあ~ 殿に付いて参りまするう~!!

高田と言えば、上杉謙信!!春日山城ですからね!!

「第一義」 だ!!

自分の卒業した新潟県長岡市の栖吉川のほとりにある長岡市立川崎小学校にもこの言葉が額に入れられていたという。あとで親父に聞かされた。
これは、一つに越後の理念なんだろうな。

卑怯な姑息な真似をするな。何事も一にも二にも義を、筋を通せ。死しても守れ ということ。

そう、河井継之助や山本帯刀が、徳川幕府や会津藩への忠義・恩義を守り通したのもこういう精神が根底にあるからなんだよたぶん。
これを守らないと世の中の秩序が乱れ、全てにおいて精神性が崩壊していくということなのじゃないか。

いずれにせよ会津藩討伐の先兵に、もし越後長岡藩が成り下がっていたら、今でも福島県と長岡市(新潟県自体)は、隣県でありながら、国交断絶的状態になっていただろうと家の親父が語っていた。
要するに、歴史に答えを出すならば、長い目で見なけりゃならないってことなんだよ。そこを履き違えちゃダメだということ。

それで、新潟県長岡市は、謙信の母の虎御前に始まり、栖吉城、栃尾城、上杉謙信(幼年期~青年期)、乙吉城、鬼小島弥太郎、龍穏院、河田長親、与板城、直江兼続、お船、堀直寄等、戦国時代からの城下町でもあるんだよね。

因みに家の親父の実家が、与板や芹川城があった場所の近くに現在も住む○○という家。親父の話によると実家の蔵の中で、長持ちの奥深くに、なぜかがしまわれていたのを見たと言っていた。
そこのおじさんは、剣道の上段を持つ超凄腕。うちの親父もやたらに規律正しくて頭がよくて、書道教室が開ける上段を持ってる。詩吟に興じるってのも何かなあ。まあ、でも関係ないか…。

また、自分の家の実家の近所に個人病院の○○医院というのがあって、ここが古志長尾氏の家系で有名で、家の婆様やおふくろがよく○○様とか言って一目置いてて、懸りつけ医にしていたんだよ。
確かに品と威厳があったね。
今でもそう。
何か診療に行くと、平伏してしまうような気持ちになる。

それと、ツンとした美人で、スゲエ頭のいい○という同級生の女がこの界隈にいて、やっぱり、祖先が武家の出らしく、藩医をしていたとかと、家の婆様がよく言ってた。
その家がまた格調高いレトロな雰囲気の家でさあ。金持だったんだろうなあ。
まさかあの堀直寄の関係だったんじゃないよな。

何かすげえよなあ。考えてみると。
自分の実家周辺とか、この
新潟県長岡市って。
歴史が奥深いというか。

だから、面白いんだよね。神秘的で。


クロォン ブゥタケヨォ! アン二ョォ~ン!


平成25年6月22日

「八重の桜」 河井継之助 総督登場!ガトリング砲発射!ギャオス内藤公出陣!

2013年06月20日 20時30分00秒 | 大河ドラマ
◆左の写真は、クリックすると拡大されてご覧いただけます。

週一、市外にある仕事の関係で朝早く出勤する途中、いつもここを通る。
新潟県長岡市にある栄涼寺(えいりょうじ)だ。
実家からすぐ近くにある。


長岡市栄涼寺と墓地。中越地震で墓の倒壊等があった。現在はほぼ復興している

この寺は、長岡藩・牧野家(出は、愛知県豊川市)の菩提寺という由緒ある寺だ。

自分は子供の頃、この寺の境内や墓場でよく友達と遊んだものだ。
寺の鐘も悪戯で鳴らしたりした。
そういや、墓場でロケット花火をお互いに打ち込んだりしたんだっけ。
罰当たりもいいとこだよな。



同級生の友人もいっぱいこの寺の周辺に住んでいる。
その内の一人は、そこからちょっと歩いた路地の通り沿い、第二次世界大戦の長岡空襲から免れた町内で、昔は足軽長屋だった所に今も住んでいる。
そいつは、長岡藩の足軽の子孫でやたらに厳格な家で見識が高くて、遊びに行くと居間の壁に槍とか刀が掲げられていた。それじゃここんちも祖先は、愛知県豊川市の出なのかなあ。
家の親父もそんなこと言ってたっけ。

たかが足軽だろ。いばんじゃねえよ。と、言ってみたりして。ウヒャーッ!(すまんな友人)
実は、何を隠そう自分もこの通り沿いにある家が実家だが、長岡藩とは何ら関係無い。
明治の頃に祖祖父が土地と建物を購入して住んだらしい。
だから、自分の家の裏庭でも、土を掘ったりして遊んでいると、刀の鍔が出て来たりした。

つまり、この辺も北越戊辰戦争の戦場だったのだろう。
相当の激戦地だったと聞く。
その陣頭指揮を執ったのが、三河武士のを引く長岡藩家老であり、軍事総督の河井継之助かわいつぐのすけである。
そして、この河井総督の墓が、この栄涼寺に建立されているのである。


*朝陽の中の河井継之助の墓。この時は、出勤で急いでいたためそばに行けなかった。かなりの花が供えられている。たぶん、河井継之助のファンの方だろうか。「八重の」に登場したこともあって。自分も物心ついた頃から時々、河井総督の墓に参っている。近いし

子供時代はそんなことも露知らず、この墓場で遊び呆けて無礼な振舞いをしたもんだ。

今、NHK大河ドラマ八重の」が話題であるが、今回、会津藩と同盟軍を組んだ長岡藩の関係から河井継之助がちょこっと出てきたらしい。
自分はついうっかり見逃してしまった。(再放送も)
予告は観たけど、何かスター性が排除されている印象。
まあ確かに会津藩が舞台だからね。しょうがないというか、遠慮しておいた方がいいのかも。
それに、このドラマ化の経緯は、東日本大震災からの復興(NHKと政府の配慮)の意味があると感じてる。
特に福島原発によって現在も放射能、放射性物質に苦しめられている関東(NHKと政府も含まれんのか…何だかなあ)、北関東、福島県、東北地域に対して。(だから、越後長岡藩等の北越戊辰戦争方面は描かれなかったていうことでしょう

今、長岡市には、放射能被害から古里を追われた福島県の市民が止むに止まれず避難している
酷いよなあ東電政府。何を考えているやら。
知恵を絞って、元の古里に何とか戻れるようにしてあげなきゃだめだろ。
古里が無くなるというのは、凄く辛いことなんだよ。分かんねえのか!!
赤ちゃんとか小さいお子さんもいるんだぞ!バッキャロめ!!!

ほんで、人づてに聞いたら、その回には、長岡藩が保持していた二門のガトリング砲も出てきたんだって。
これって今でいう核武装と同様の脅威(戦略)を小国の越後長岡藩、つまり、河井継之助が企図したということでしょ。それはそれで凄いよね。その斬新な発想って。
ほんとに使えたのどうか知らないけど、お飾りでもそれなりの脅威にはなるもんだろうね。
だから、戦争ってのは、アナログでいかにデジタルを騙すかという方法も考えなくちゃいけないんじゃないか。
経費も相当浮くし。
段ボールの張りぼてでもいいんだよ精巧ならば。
それから、後の同じ長岡市出身山本五十六元帥の航空機推進論櫻井よしこの空母推進論は、この河井総督の戦略から導かれてんじゃないだろうかね。

但し、この機関砲、アメリカの南北戦争の時のバッタモン、中古品だったらしい。
それを日本に売りつけてやるかと持ってきた訳だ。商人のスネルがね。(確か昨年、長岡市の米百俵祭り時代行列に、そのスネルの子孫の方が来られて出演していたんだよ)
その辺のビジネス感覚は、やっぱり抜け目ないぜ欧米人の野郎は。
もしかしてユダヤ系スイス人なのかなあ。
知らんけどさ。
この姑息な、ある意味悪徳な商法って今でも変わらんでしょ。
例えば、米軍の兵器の自衛隊への払下げとかさ。
ほんで、未だにこのガトリング砲がどこに消えたか謎のままなんだよね。

そうだ、このブログ名にある塵壺は、河井継之助の日本の太平洋側諸国の旅日記塵壺(ちりつぼ)からいただいてんだ。
塵壺って今でいうごみ箱ダストボックスだから。
旅の恥はかき捨てみたいなことから浮かんだのか知らないけどさ、日記なんかという高尚なものじゃなく、雑な繰り言というか、掃いて捨てるぐらいなメモ、ごみのようなもんだというのを意味してんだよきっと。
だから、この実物を見てみると、正に殴り書きの下手くそな字で思ったことをザアーっと書いてるだけのもんだからね。(俺もそういうスタイルで気ままにブログを書いてるつもり。ありがと河井総督!)
新潟県長岡市長岡市立中央図書館に問い合わせれば、快くこの河井継之助の日記「塵壺ちりつぼ現物を見せてくれるよ。


長岡市立中央図書館

でもこの「塵壺」に書かれているのは、入念な視察なんだよね。当時(幕末)の企業、行政、外国状勢のさ。

それにしても昔の人達は凄い。歩いて新潟県長岡市から苗場の三国峠を越えて、江戸(東京)に行き、河井総督はそっからさらに備中・岡山県高梁市、そして、九州の長崎まで歩いて、また戻ってきたというんだから。尋常じゃない。
見習わんばらこっての、おめさん。このパワー!!
でも、そういう風に視察ということならば、胸高鳴って旅したんだろうなあ。
疲れなんて感じないぐらいワクワクして。生きてるぅーってやつだよ。

この河井総督って、ほんと発想(アイディア)力も大したもんだけど、それに加えて日記を塵壺なんてネーミングするとは、ユーモアセンスにも溢れて
だから、瀕死の状態で戸板に乗せられて、会津に向けて八十里越えをする時に、
「八十里 腰抜け武士の 越す峠」
なんていう自嘲めいた川柳的な句を詠めるんだよ。
普通ならもう死ぬかもしれないという時に、そんな風に自分自身を客観視する余裕なんかあるのかと思うけど。
腰抜け武士というのは、越(越後)を抜ける武士というジョークにもなっているという訳。
また、越す峠の峠には、三国峠への思いもあったんじゃないだろうか。
江戸(東京)に向かって意気揚々と夢と希望を抱いて超えた三国峠。
絶望と惨めな思いで超える八十里越え。
そんな真逆な峠の運命の皮肉。悔しさ。
人の一生は重いね。

そういや、かのジョン・レノンが言ってただけど、「いつでも、どんな時もユーモアを忘れずにね」という言葉が浮かんできた。

スゲエなあ~後世に残る偉人の言葉って。
生きてる。
正に、これぞクリエイターだよね!!


あっ、それで、薩長側時山直八長州藩・猛将)がこの北越戊辰戦争の越後長岡の激戦で戦死し、その死を悼み、参謀の山縣有朋が、長岡市の東山の森立もったてで戦中に詠んだ短歌がこれまた素晴らしく、身に染み入って来るような名歌になってるんですよ。
「あだまもる 砦のかがり 影ふけて 夏も身にしむ 越の山風 」
(敵・長岡藩兵が守っている砦の篝火もその姿の影も消え、夜も更けて~)
ねっ凄いでしょ。イメージがぐわーっと湧いてくるというか。
何かジーンと感動するんですよね。かっこいい。
芸術家ですよ。
戦下でこんな短歌を詠めるなんて。
この言葉の中からは、長岡藩との攻防が激戦に陥いり、夏なのに身は張りつめて寒気が襲うほど山肌の風が堪えるという、つまり、厳しい戦況であるという心境も伺い知れるんですよ。
この短歌が刻まれた碑が森立峠にあるんですよね。


河井継之助の墓の裏手に見えるのが上越新幹線の高架橋。その下にはJR東日本・信越線が走っている。線路の向こうが長岡市稽古町である

さあ、そんで、ギャオス内藤監督率いる新潟アルビレックスベースボールクラブ 対 群馬ダイヤモンドペガサスの試合が、上越市の高田公園野球場で先日あった。

前期優勝への一大決戦!!越後が勝つか、上州が勝つか
軍配はどちらに?その報告は後ほどこのブログで。


おお、ギャオ公様~ いざ、出陣じゃ!! はははあ~ 殿に付いて参りまするう~!!

高田と言えば、上杉謙信!!春日山城ですからね!!

「第一義」 だ!!

自分の卒業した新潟県長岡市の栖吉川のほとりにある長岡市立川崎小学校にもこの言葉が額に入れられていたという。あとで親父に聞かされた。
これは、一つに越後の理念なんだろうな。
卑怯な姑息な真似をするな。何事も一にも二にも義を、筋を通せ。死しても守れということ。
そう、河井継之助が徳川幕府や会津藩への忠義・恩義を守り通したのもこういう精神が根底にあるんだよたぶん。
これを守らないと世の中の秩序が乱れ、全てにおいて精神性が崩壊していくということなのじゃないか。

それで、新潟県長岡市は、謙信の母の虎御前に始まり、栖吉城、栃尾城、上杉謙信(幼年期~青年期)、乙吉城、鬼小島弥太郎、龍穏院、河田長親、与板城、直江兼続、お船、堀直寄等、戦国時代からの城下町でもあるんだよね。

因みに家の親父の実家が、与板や芹川城があった場所の近くに現在も住む○○という家。親父の話によると実家の蔵の中で、長持ちの奥深くに、なぜか刀がしまわれていたのを見たと言っていた。
そこのおじさんは、剣道の上段を持つ超凄腕。うちの親父もやたらに規律正しくて頭がよくて、書道教室が開ける上段を持ってる。詩吟に興じるってのも何かなあ。まあ、でも関係ないか…。

また、自分の家の実家の近所に個人病院の○○医院というのがあって、ここが古志長尾氏の家系で有名で、家の婆様やおふくろがよく○○様とか言って一目置いてて、懸りつけ医にしていたんだよ。
確かに品と威厳があったね。
今でもそう。
何か診療に行くと、平伏してしまうような気持ちになる。

それと、ツンとした美人で、スゲエ頭のいい○という同級生の女がこの界隈にいて、やっぱり、祖先が武家の出らしく、藩医をしていたとかと、家の婆様がよく言ってた。
その家がまた格調高いレトロな雰囲気の家でさあ。金持だったんだろうなあ。
まさかあの堀直寄の関係だったんじゃないよな。

何かすげえよなあ。考えてみると。
自分の実家周辺とか、この
新潟県長岡市って。
歴史が奥深いというか。

だから、面白いんだよね。神秘的で。


クロォン ブゥタケヨォ! アン二ョォ~ン!


平成25年6月20日

「八重の桜」 河井継之助 大登場!ガトリング砲発射!ギャオス内藤公の出陣!

2013年06月20日 15時00分00秒 | 大河ドラマ
◆左の写真は、クリックすると拡大されてご覧いただけます。

週一、市外にある仕事の関係で朝早く出勤する途中、いつもここを通る。
新潟県長岡市にある栄涼寺(えいりょうじ)だ。
実家からすぐ近くにある。


長岡市栄涼寺と墓地。中越地震で墓の倒壊等があった。現在はほぼ復興している

この寺は、長岡藩・牧野家(出は、愛知県豊川市)の菩提寺という由緒ある寺だ。

自分は子供の頃、この寺の境内や墓場でよく友達と遊んだものだ。
寺の鐘も悪戯で鳴らしたりした。
そういや、墓場でロケット花火をお互いに打ち込んだりしたんだっけ。
罰当たりもいいとこだよな。



同級生の友人もいっぱいこの寺の周辺に住んでいる。
その内の一人は、そこからちょっと歩いた路地の通り沿い、第二次世界大戦の長岡空襲から免れた町内で、昔は足軽長屋だった所に今も住んでいる。
そいつは、長岡藩の足軽の子孫でやたらに厳格な家で見識が高くて、遊びに行くと居間の壁に槍とか刀が掲げられていた。それじゃここんちも祖先は、愛知県豊川市の出なのかなあ。
家の親父もそんなこと言ってたっけ。

たかが足軽だろ。いばんじゃねえよ。と、言ってみたりして。ウヒャーッ!(すまんな友人)
実は、何を隠そう自分もこの通り沿いにある家が実家だが、長岡藩とは何ら関係無い。
明治の頃に祖祖父が土地と建物を購入して住んだらしい。
だから、自分の家の裏庭でも、土を掘ったりして遊んでいると、刀の鍔が出て来たりした。

つまり、この辺も北越戊辰戦争の戦場だったのだろう。
相当の激戦地だったと聞く。
その陣頭指揮を執ったのが、三河武士のを引く長岡藩家老であり、軍事総督の河井継之助かわいつぐのすけである。
そして、この河井総督の墓が、この栄涼寺に建立されているのである。


*朝陽の中の河井継之助の墓。この時は、出勤で急いでいたためそばに行けなかった。かなりの花が供えられている。たぶん、河井継之助のファンの方だろうか。「八重の」に登場したこともあって。自分も物心ついた頃から時々、河井総督の墓に参っている。近いし

子供時代はそんなことも露知らず、この墓場で遊び呆けて無礼な振舞いをしたもんだ。

今、NHK大河ドラマ八重の」が話題であるが、今回、会津藩と同盟軍を組んだ長岡藩の関係から河井継之助がちょこっと出てきたらしい。
自分はついうっかり見逃してしまった。(再放送も)
予告は観たけど、何かスター性が排除されている印象。
まあ確かに会津藩が舞台だからね。しょうがないというか、遠慮しておいた方がいいのかも。
それに、このドラマ化の経緯は、東日本大震災からの復興(NHKと政府の配慮)の意味があると感じてる。
特に福島原発によって現在も放射能、放射性物質に苦しめられている関東(NHKと政府も含まれんのか…何だかなあ)、北関東、福島県、東北地域に対して。(だから、越後長岡藩等の北越戊辰戦争方面は描かれなかったていうことでしょう

今、長岡市には、放射能被害から古里を追われた福島県の市民が止むに止まれず避難している
酷いよなあ東電政府。何を考えているやら。
知恵を絞って、元の古里に何とか戻れるようにしてあげなきゃだめだろ。
古里が無くなるというのは、凄く辛いことなんだよ。分かんねえのか!!
赤ちゃんとか小さいお子さんもいるんだぞ!バッキャロめ!!!

ほんで、人づてに聞いたら、その回には、長岡藩が保持していた二門のガトリング砲も出てきたんだって。
これって今でいう核武装と同様の脅威(戦略)を小国の越後長岡藩、つまり、河井継之助が企図したということでしょ。それはそれで凄いよね。その斬新な発想って。
ほんとに使えたのどうか知らないけど、お飾りでもそれなりの脅威にはなるもんだろうね。
だから、戦争ってのは、アナログでいかにデジタルを騙すかという方法も考えなくちゃいけないんじゃないか。
経費も相当浮くし。
段ボールの張りぼてでもいいんだよ精巧ならば。
それから、後の同じ長岡市出身山本五十六元帥の航空機推進論櫻井よしこの空母推進論は、この河井総督の戦略から導かれてんじゃないだろうかね。

但し、この機関砲、アメリカの南北戦争の時のバッタモン、中古品だったらしい。
それを日本に売りつけてやるかと持ってきた訳だ。商人のスネルがね。(確か昨年、長岡市の米百俵祭り時代行列に、そのスネルの子孫の方が来られて出演していたんだよ)
その辺のビジネス感覚は、やっぱり抜け目ないぜ欧米人の野郎は。
もしかしてユダヤ系スイス人なのかなあ。
知らんけどさ。
この姑息な、ある意味悪徳な商法って今でも変わらんでしょ。
例えば、米軍の兵器の自衛隊への払下げとかさ。
ほんで、未だにこのガトリング砲がどこに消えたか謎のままなんだよね。

そうだ、このブログ名にある塵壺は、河井継之助の日本の太平洋側諸国の旅日記塵壺(ちりつぼ)からいただいてんだ。
塵壺って今でいうごみ箱ダストボックスだから。
旅の恥はかき捨てみたいなことから浮かんだのか知らないけどさ、日記なんかという高尚なものじゃなく、雑な繰り言というか、掃いて捨てるぐらいなメモ、ごみのようなもんだというのを意味してんだよきっと。
だから、この実物を見てみると、正に殴り書きの下手くそな字で思ったことをザアーっと書いてるだけのもんだからね。(俺もそういうスタイルで気ままにブログを書いてるつもり。ありがと河井総督!)
新潟県長岡市長岡市立中央図書館に問い合わせれば、快くこの河井継之助の日記「塵壺ちりつぼ現物を見せてくれるよ。


長岡市立中央図書館

でもこの「塵壺」に書かれているのは、入念な視察なんだよね。当時(幕末)の企業、行政、外国状勢のさ。

それにしても昔の人達は凄い。歩いて新潟県長岡市から苗場の三国峠を越えて、江戸(東京)に行き、河井総督はそっからさらに備中・岡山県高梁市、そして、九州の長崎まで歩いて、また戻ってきたというんだから。尋常じゃない。
見習わんばらこっての、おめさん。このパワー!!
でも、そういう風に視察ということならば、胸高鳴って旅したんだろうなあ。
疲れなんて感じないぐらいワクワクして。生きてるぅーってやつだよ。

この河井総督って、ほんと発想(アイディア)力も大したもんだけど、それに加えて日記を塵壺なんてネーミングするとは、ユーモアセンスにも溢れて
だから、瀕死の状態で戸板に乗せられて、会津に向けて八十里越えをする時に、
「八十里 腰抜け武士の 越す峠」
なんていう自嘲めいた川柳的な句を詠めるんだよ。
普通ならもう死ぬかもしれないという時に、そんな風に自分自身を客観視する余裕なんかあるのかと思うけど。
腰抜け武士というのは、越(越後)を抜ける武士というジョークにもなっているという訳。
また、越す峠の峠には、三国峠への思いもあったんじゃないだろうか。
江戸(東京)に向かって意気揚々と夢と希望を抱いて超えた三国峠。
絶望と惨めな思いで超える八十里越え。
そんな真逆な峠の運命の皮肉。悔しさ。
人の一生は重いね。

そういや、かのジョン・レノンが言ってただけど、「いつでも、どんな時もユーモアを忘れずにね」という言葉が浮かんできた。

スゲエなあ~後世に残る偉人の言葉って。
生きてる。
正に、これぞクリエイターだよね!!


あっ、それで、薩長側時山直八長州藩・猛将)がこの北越戊辰戦争の越後長岡の激戦で戦死し、その死を悼み、参謀の山縣有朋が、長岡市の東山の森立もったてで戦中に詠んだ短歌がこれまた素晴らしく、身に染み入って来るような名歌になってるんですよ。
「あだまもる 砦のかがり 影ふけて 夏も身にしむ 越の山風 」
(敵・長岡藩兵が守っている砦の篝火もその姿の影も消え、夜も更けて~)
ねっ凄いでしょ。イメージがぐわーっと湧いてくるというか。
何かジーンと感動するんですよね。かっこいい。
芸術家ですよ。
戦下でこんな短歌を詠めるなんて。
この言葉の中からは、長岡藩との攻防が激戦に陥いり、夏なのに身は張りつめて寒気が襲うほど山肌の風が堪えるという、つまり、厳しい戦況であるという心境も伺い知れるんですよ。
この短歌が刻まれた碑が森立峠にあるんですよね。


河井継之助の墓の裏手に見えるのが上越新幹線の高架橋。その下にはJR東日本・信越線が走っている。線路の向こうが長岡市稽古町である

さあ、そんで、ギャオス内藤監督率いる新潟アルビレックスベースボールクラブ 対 群馬ダイヤモンドペガサスの試合が、上越市の高田公園野球場で先日あった。

前期優勝への一大決戦!!越後が勝つか、上州が勝つか
軍配はどちらに?その報告は後ほどこのブログで。


おお、ギャオ公様~ いざ、出陣じゃ!! はははあ~ 殿に付いて参りまするう~!!

高田と言えば、上杉謙信!!春日山城ですからね!!

「第一義」 だ!!

自分の卒業した新潟県長岡市の栖吉川のほとりにある長岡市立川崎小学校にもこの言葉が額に入れられていたという。あとで親父に聞かされた。
これは、一つに越後の理念なんだろうな。
卑怯な姑息な真似をするな。何事も一にも二にも義を、筋を通せ。死しても守れということ。
そう、河井継之助が徳川幕府や会津藩への忠義・恩義を守り通したのもこういう精神が根底にあるんだよたぶん。
これを守らないと世の中の秩序が乱れ、全てにおいて精神性が崩壊していくということなのじゃないか。

それで、新潟県長岡市は、謙信の母の虎御前に始まり、栖吉城、栃尾城、上杉謙信(幼年期~青年期)、乙吉城、鬼小島弥太郎、龍穏院、河田長親、与板城、直江兼続、お船、堀直寄等、戦国時代からの城下町でもあるんだよね。

因みに家の親父の実家が、与板や芹川城があった場所の近くに現在も住む○○という家。親父の話によると実家の蔵の中で、長持ちの奥深くに、なぜか刀がしまわれていたのを見たと言っていた。
そこのおじさんは、剣道の上段を持つ超凄腕。うちの親父もやたらに規律正しくて頭がよくて、書道教室が開ける上段を持ってる。詩吟に興じるってのも何かなあ。まあ、でも関係ないか…。

また、自分の家の実家の近所に個人病院の○○医院というのがあって、ここが古志長尾氏の家系で有名で、家の婆様やおふくろがよく○○様とか言って一目置いてて、懸りつけ医にしていたんだよ。
確かに品と威厳があったね。
今でもそう。
何か診療に行くと、平伏してしまうような気持ちになる。

それと、ツンとした美人で、スゲエ頭のいい○という同級生の女がこの界隈にいて、やっぱり、祖先が武家の出らしく、藩医をしていたとかと、家の婆様がよく言ってた。
その家がまた格調高いレトロな雰囲気の家でさあ。金持だったんだろうなあ。
まさかあの堀直寄の関係だったんじゃないよな。

何かすげえよなあ。考えてみると。
自分の実家周辺とか、この
新潟県長岡市って。
歴史が奥深いというか。

だから、面白いんだよね。神秘的で。


クロォン ブゥタケヨォ! アン二ョォ~ン!


平成25年6月20日

「八重の桜」 河井継之助登場!出たガトリング砲!ギャオス内藤、一大決戦!

2013年06月18日 10時30分00秒 | 大河ドラマ

◆左の写真は、クリックすると拡大されてご覧いただけます。

週一、市外にある仕事の関係で朝早く出勤する途中、いつもここを通る。
新潟県長岡市にある栄涼寺(えいりょうじ)だ。
実家からすぐ近くにある。


長岡市栄涼寺と墓地。中越地震で墓の倒壊等があった。現在はほぼ復興している

この寺は、長岡藩・牧野家(出は、愛知県豊川市)の菩提寺という由緒ある寺だ。

自分は子供の頃、この寺の境内や墓場でよく友達と遊んだものだ。
寺の鐘も悪戯で鳴らしたりした。
そういや、墓場でロケット花火をお互いに打ち込んだりしたんだっけ。
罰当たりもいいとこだよな。



同級生の友人もいっぱいこの寺の周辺に住んでいる。
その内の一人は、そこからちょっと歩いた路地の通り沿い、第二次世界大戦の長岡空襲から免れた町内で、昔は足軽長屋だった所に今も住んでいる。
そいつは、長岡藩の足軽の子孫でやたらに厳格な家で見識が高くて、遊びに行くと居間の壁に槍とか刀が掲げられていた。それじゃここんちも祖先は、愛知県豊川市の出なのかなあ。
家の親父もそんなこと言ってたっけ。

たかが足軽だろ。いばんじゃねえよ。と、言ってみたりして。ウヒャーッ!(すまんな友人)
実は、何を隠そう自分もこの通り沿いにある家が実家だが、長岡藩とは何ら関係無い。
明治の頃に祖祖父が土地と建物を購入して住んだらしい。
だから、自分の家の裏庭でも、土を掘ったりして遊んでいると、刀の鍔が出て来たりした。

つまり、この辺も北越戊辰戦争の戦場だったのだろう。
相当の激戦地だったと聞く。
その陣頭指揮を執ったのが、長岡藩家老であり、軍事総督の河井継之助かわいつぐのすけである。
そして、この河井総督の墓が、この栄涼寺に建立されているのである。


*朝陽の中の河井継之助の墓。この時は、出勤で急いでいたためそばに行けなかった。かなりの花が供えられている。たぶん、河井継之助のファンの方だろうか。「八重の」に登場したこともあって。自分も物心ついた頃から時々、河井総督の墓に参っている。近いし

子供時代はそんなことも露知らず、この墓場で遊び呆けて無礼な振舞いをしたもんだ。

今、NHK大河ドラマ八重の」が話題であるが、今回、会津藩と同盟軍を組んだ長岡藩の関係から河井継之助がちょこっと出てきたらしい。
自分はついうっかり見逃してしまった。(再放送も)
予告は観たけど、何かスター性が排除されている印象。
まあ確かに会津藩が舞台だからね。しょうがないというか、遠慮しておいた方がいいのかも。
それに、このドラマ化の経緯は、東日本大震災からの復興(NHKと政府の配慮)の意味があると感じてる。
特に福島原発によって現在も放射能、放射性物質に苦しめられている関東(NHKと政府も含まれんのか…何だかなあ)、北関東、福島県、東北地域に対して。(だから、越後長岡藩等の北越戊辰戦争方面は描かれなかったていうことでしょう

今、長岡市には、放射能被害から古里を追われた福島県の市民が止むに止まれず避難している
酷いよなあ東電も政府も。何を考えているやら。
知恵を絞って、元の古里に何とか戻れるようにしてあげなきゃだめだろ。
古里が無くなるというのは、凄く辛いことなんだよ。分かんねえのか!!
赤ちゃんとか小さいお子さんもいるんだぞ!バッキャロめ!!!

ほんで、人づてに聞いたら、その回には、長岡藩が保持していた二門のガトリング砲も出てきたんだって。
これって今でいう核武装と同様の脅威(戦略)を小国の越後長岡藩、つまり、河井継之助が企図したということでしょ。それはそれで凄いよね。その斬新な発想って。
ほんとに使えたのどうか知らないけど、お飾りでもそれなりの脅威にはなるもんだろうね。
だから、戦争ってのは、アナログでいかにデジタルを騙すかという方法も考えなくちゃいけないんじゃないか。
経費も相当浮くし。
段ボールの張りぼてでもいいんだよ精巧ならば。
それから、後の同じ長岡市出身山本五十六元帥の航空機推進論櫻井よしこの空母推進論は、この河井総督の戦略から導かれてんじゃないだろうかね。

但し、この機関砲、アメリカの南北戦争の時のバッタモン、中古品だったらしい。
それを日本に売りつけてやるかと持ってきた訳だ。商人のスネルがね。(確か昨年、長岡市の米百俵祭り時代行列に、そのスネルの子孫の方が来られて出演していたんだよ)
その辺のビジネス感覚は、やっぱり抜け目ないぜ欧米人の野郎は。
もしかしてユダヤ系スイス人なのかなあ。
知らんけどさ。
この姑息な、ある意味悪徳な商法って今でも変わらんでしょ。
例えば、米軍の兵器の自衛隊への払下げとかさ。
ほんで、未だにこのガトリング砲がどこに消えたか謎のままなんだよね。

そうだ、このブログ名にある塵壺は、河井継之助の日本の太平洋側諸国の旅日記塵壺(ちりつぼ)からいただいてんだ。
塵壺って今でいうごみ箱ダストボックスだから。
旅の恥はかき捨てみたいなことから浮かんだのか知らないけどさ、日記なんかという高尚なものじゃなく、雑な繰り言というか、掃いて捨てるぐらいなメモ、ごみのようなもんだというのを意味してんだよきっと。
だから、この実物を見てみると、正に殴り書きの下手くそな字で思ったことをザアーっと書いてるだけのもんだからね。(俺もそういうスタイルで気ままにブログを書いてるつもり。ありがと河井総督!)
新潟県長岡市長岡市立中央図書館に問い合わせれば、快くこの河井継之助の日記「塵壺ちりつぼ現物を見せてくれるよ。


長岡市立中央図書館

でもこの「塵壺」に書かれているのは、入念な視察なんだよね。当時(幕末)の企業、行政、外国状勢のさ。

それにしても昔の人達は凄い。歩いて新潟県長岡市から苗場の三国峠を越えて、江戸(東京)に行き、河井総督はそっからさらに備中・岡山県高梁市、そして、九州の長崎まで歩いて、また戻ってきたというんだから。尋常じゃない。
見習わんばらこっての、おめさん。このパワー!!
でも、そういう風に視察ということならば、胸高鳴って旅したんだろうなあ。
疲れなんて感じないぐらいワクワクして。生きてるぅーってやつだよ。

この河井総督って、ほんと発想(アイディア)力も大したもんだけど、それに加えて日記を塵壺なんてネーミングするとは、ユーモアセンスにも溢れて
だから、瀕死の状態で戸板に乗せられて、会津に向けて八十里越えをする時に、
「八十里 腰抜け武士の 越す峠」
なんていう自嘲めいた川柳的な句を詠めるんだよ。
普通ならもう死ぬかもしれないという時に、そんな風に自分自身を客観視する余裕なんかあるのかと思うけど。
腰抜け武士というのは、越(越後)を抜ける武士というジョークにもなっているという訳。
また、越す峠の峠には、三国峠への思いもあったんじゃないだろうか。
江戸(東京)に向かって意気揚々と夢と希望を抱いて超えた三国峠。
絶望と惨めな思いで超える八十里越え。
そんな真逆な峠の運命の皮肉。悔しさ。
人の一生は重いね。

そういや、かのジョン・レノンが言ってただけど、「いつでも、どんな時もユーモアを忘れずにね」という言葉が浮かんできた。

スゲエなあ~後世に残る偉人の言葉って。
生きてる。
正に、これぞクリエイターだよね!!


あっ、それで、薩長側時山直八長州藩・猛将)がこの北越戊辰戦争の越後長岡の激戦で戦死し、その死を悼み、参謀の山縣有朋が、長岡市の東山の森立もったてで戦中に詠んだ短歌がこれまた素晴らしく、身に染み入って来るような名歌になってるんですよ。
「あだまもる 砦のかがり 影ふけて 夏も身にしむ 越の山風 」
(敵・長岡藩兵が守っている砦の篝火もその姿の影も消え、夜も更けて~)
ねっ凄いでしょ。イメージがぐわーっと湧いてくるというか。
何かジーンと感動するんですよね。かっこいい。
芸術家ですよ。
戦下でこんな短歌を詠めるなんて。
この言葉の中からは、長岡藩との攻防が激戦に陥いり、夏なのに身は張りつめて寒気が襲うほどの山風が吹き付けるという、つまり、厳しい戦況であるという心境も伺い知れるんですよ。
この短歌が刻まれた碑が森立峠にあるんですよね。


河井継之助の墓の裏手に見えるのが上越新幹線の高架橋。その下にはJR東日本・信越線が走っている。線路の向こうが長岡市稽古町である

さあ、そんで、ギャオス内藤監督率いる新潟アルビレックスベースボールクラブ 対 群馬ダイヤモンドペガサスの試合が、上越市の高田公園野球場で先日あった。

前期優勝への一大決戦!!越後が勝つか、上州が勝つか
軍配はどちらに?その報告は後ほどこのブログで。


おお、ギャオ公様~ いざ、出陣じゃ!! はははあ~ 殿に付いて参りまするう~!!

高田と言えば、上杉謙信!!春日山城ですからね!!

「第一義」だ!!

自分の卒業した新潟県長岡市の栖吉川のほとりにある長岡市立川崎小学校にもこの言葉が額に入れられていたという。あとで親父に聞かされた。
これは、一つに越後の理念なんだろうな。
卑怯な姑息な真似をするな。何事もまず第一に義、筋を通せということ。
そう、河井継之助が徳川幕府や会津藩への忠義を守り通したのもこういう精神が根底にあるんだよたぶん。
これを守らないと世の中の秩序が乱れ、全てにおいて精神性が崩壊していくということなのじゃないか。

それで、新潟県長岡市は、謙信の母の虎御前に始まり、栖吉城、栃尾城、乙吉城、鬼小島弥太郎、龍穏院、河田長親、与板城、直江兼続、お船、堀直寄等、戦国時代から上越市と歴史的に超深い関係がある城下町でもあるんだよね。

因みに家の親父の実家が、与板や芹川城があった場所の近くに現在も住む○○○という家。親父の話によると実家の蔵の中で、長持ちの奥深くに、なぜか刀がしまわれていたのを見たと言っていた。
そこのおじさんは、剣道の上段を持つ超凄腕。うちの親父もやたらに規律正しくて頭がよくて、書道教室が開ける上段を持ってる。詩吟に興じるってのも何かなあ。まあ、でも関係ないか…。

また、自分の家の実家の近所に個人病院の○○○医院というのがあって、ここが古志長尾氏の家系で有名で、家の婆様やおふくろがよく○○○様とか言って一目置いてて、懸りつけ医にしていたんだよ。
確かに品と威厳があったね。
今でもそう。
何か診療に行くと、平伏してしまうような気持ちになる。

それと、ツンとした美人で、スゲエ頭のいい○○という同級生の女がこの界隈にいて、やっぱり、祖先が武家の出らしく、藩医をしていたとかと、家の婆様がよく言ってた。
その家がまた格調高いレトロな雰囲気の家でさあ。金持だったんだろうなあ。
まさかあの堀直寄の関係だったんじゃないよな。

何かすげえよなあ。考えてみると。
自分の実家周辺とか、この
新潟県長岡市って。
歴史が奥深いというか。

だから、面白いんだよね。神秘的で。


クロォン ブゥタケヨォ! アン二ョォ~ン!


平成25年6月18日