今朝、祖母が帰らぬ人となりました。
91歳、肺炎により。
不孝の孫ながら、冥福を祈ります。
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告白という程でもないけれど、うちの祖母は創価学会の会員でありました。
数十年前に、最愛の人間を失った祖母。
心の拠りどころを失ったとき、救いの手を差し伸べてくれたのでしょう。
僕は素直に、それは祖母の意思を尊重したい。
この宗教の匂いがしただけで、その人を敬遠し、まるで人格さえも否定する人がいる、でも僕は違う。
かといって、すべてを肯定することはできなかった。
折伏活動。
入信していない人からみれば、ただの勧誘である。
祖母は、これが過ぎた。
詳しいことは知らないが、親族全員を入信させるに至った。
たった一人を除いて。
そのたった一人の、息子が、僕だ。
親戚全員が学会員の中にあって、唯一無宗派を貫く父。
当然、祖母は何度も折伏を試みる。
電話のときもあった。
片道2時間かけて、わざわざ家に来たこともあった。
父はあくまで、創価学会には入らないという固い意志。
祖母を黙らせておくために、読みもしない聖教新聞の購読料を払っていた時期もあったという。
「これ以上その話をしたら、親子の縁を切ります」と、電話越しに父が言うのを聞いた記憶がある。
そんな家庭の中で育てられた僕。
物心ついたころには、学会に対する先入観は既にできあがってしまっていた。
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今までお付き合いしたうち、学会員の女性がいました。
付き合いはじめて、少し経ったとき、打ち明けられました。
父と祖母のやりとりは、子どもながら脳裏に焼きついている。
目の前の女性は、「学会員だからって嫌いにならないでください」と言う。
当時の自分にとっては、難問でした。
僕がとった行動は、創価学会について勉強すること。
なるべく客観的に記述してある本を探して、読んで。
父にそれとなく内情を聞いたりして。
(父は冠婚葬祭業に就いていたため、それなりに宗教の知識はある)
デートがてら、講演会についていったこともあったなぁ。
すべては、彼女を受け入れるための、僕なりの努力でした。
そしてそれは、自分の価値観への挑戦でもあったのです。
結果、今の僕は、余計な偏見は捨て、一つの組織として、わりと客観視できる程度にはなったつもりです。
少なくとも、父の考えをそのまま受け入れることはしていません。
そういう訳で、僕は皆よりちょっとだけ創価学会について詳しくて、ちょっとだけ考えを持っています。
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僕が祖母と最後に接したのは、もう十年くらい前になるのかもしれない。
市内の展覧会で金賞を獲って、額に入れて飾ってあった習字を、上手上手と何度も見て褒めてくれた、満面の笑顔で頭を撫でてくれた、たぶんそれが最後だ。
ここ数年、祖母の調子が悪く、もう長くないというのは、父から聞いていたから、その日が訪れる覚悟は心のどこかでしていた。
ただ、それが現実になると、平穏ではいられないものである。
結局、次に会うのが告別式だと、やはり僕は不孝の孫だ。
それでも、不思議な縁から勉強した成果が、おばあちゃんに見せられるかもしれない。
創価学会の葬儀(友人葬といいます)は、意味づけが通常の葬儀と違う。
通常は、死によって成仏、つまり仏と成るわけだが、学会の教義はあくまで「即身成仏」、つまり生きながら仏と成る。
したがって友人葬は、既に成仏した人間に対する報恩感謝の念を持って行う儀式。
僕にできること、それは、祖母に対する感謝の念を持って、告別式に臨むことなのかもしれない。
僕は素直に、それは祖母の意思を尊重したい。
おばあちゃん、ありがとう。そして、さようなら。
どうか、安らかに。