ひととひとの"かかわり"は鏡のようなもの。相手に直して欲しいことがあれば、それは自分を見つめなおすチャンス!相手を変えるには時間や手間もかかりますが、自分を変えるだけならずっとカンタンです。
>妻への怒り(悲しみ?)が収まりません。アホらしい事で怒ってる自分が嫌です。妻と結婚した14年前の誕生日に俺は妻に言いました。
「毎年誕生日には○子(妻)の食べたい食事を作ってお祝いするよ」
と。
妻は
「じゃぁ、シュウマイ」
と言うので、俺は慣れない手つきで一生懸命シュウマイを作りました。
翌年また、何が食べたいのか聞くとまたシュウマイだったので、その年もつくり、それから14年間ずっと、妻の誕生日にはシュウマイを必ず作りました。
>昨夜、妻に
「そろそろ誕生日じゃん?なんか欲しい物ある?
と聞くと
「うーん、誕生日はシュウマイが食べたい」
と言うので
「うん、わかった」
と答えました。
すると妻が信じられない一言を!!
「でもさ、くーくん(俺)、シュウマイって難しいよ。作れるの?」
ええええええええっ!!!!!!!!
>補足
指摘されて気が付いたのですが、もしかしたら妻の望むシュウマイと、俺の作ってるシュウマイ、何かが違うのかもしれません。小龍包などと間違えてる(妻が?俺が?)可能性も考えてみます。
今夜シュウマイを作って
「これ、なに?」
って聞いてみようと思います。
これで
「シュウマイでしょ?」
tって答えられたら凹みそうですが(汗)。
妻への怒り(悲しみ?)が収まりません。アホらしい事で怒ってる自分が...(ヤフー知恵袋・パソコンむけ)
笑って済む話で良かった。オチはもうおわかりですね。妻さんが天然でした。でも旦那さんの悩みはシリアスです。
おなじモノを目にしていても、おなじことばで認識しているとは限らない。子どもに多い勘違いですが大人だってやらかします。これは知能とはまったく別で、おもに経験によって身につくチカラだからです。妻さんは自分が食べたいソレを「シュウマイ」だと認知していて、そのことを疑う経験がなかった。まわりもヘンだなとは思いつつ言ってあげてなかった。まあ笑って済む話です。仕事の場ではありませんから。
小さな失敗や恥ずかしい経験だってわたしたちには必要です。そうやって身に付けていった経験はだれしもあるはず。大人になると忘れてしまって、初めからできていたかの顔をしてますけどね。
今日の本題は、認知の話ではありません。当事者でないわたしたちには笑って済む話でしたが、旦那さんは本気でヘコんで怒りさえ感じています。その気持ちをぶちまける前に相談することができて良い結果をむかえることができました。相談しても誰かが解決をしてくれるわけではありません。旦那さんが他人に伝えるため、自分で気持ちを整理してことばにした。ココがポイントでした。
相談しよう。そうしよう。相談する場があるって大事なことです。
気持ちを吐き出しただけでは、ヒトは思い込みから抜け出せません(吐き出してみること自体は悪くありませんよ)。ことばに、特に文字にするってとても大事です。読み手を意識することで手紙やメールやブログだって役に立ちます。学校の作文もやはり役に立ちます。"読み手に伝えること"を意識するならね。
もし旦那さんがだれにも相談をせず怒りを妻さんにぶつけていたらどうでしょう。ちょっと怖いことが起こる気がします。ひととひとの"かかわり"は鏡のようなものです。怒りをぶつければ怒りが返ってきます。笑いに変えられればたくさんの笑いがかえってきます。
「こうあらねばならない」「こんなの当たり前だろ」、仕事や創作や結果を求めるときはこれも大きなチカラになってくれます。でもなんの限定もなしにそのままぶつければ自分へすべて返ってきます。自分のなかの「こうあらねばならない」「こんなの当たり前だろ」からは逃れることはできませんから。もしあなたが生きづらいとしたら、まわりにぶつけたぶんが返ってきているのかもしれませんよ。
だれかに相談をしたり、ことばや文字にして自分の気分を客観的に見つめなおすこと。自分から先に変わることで良い結果になるかもしれません。
親子だと特によく返ってきます。似た者同士ですからね。(塾長)
魔女のパン|「夏休みの友」の思い出
The mirror crack'd from side to side;
"The curse is come upon me," cried
The Lady of Shalott.
鏡は横にひび割れて - テニスン
>妻への怒り(悲しみ?)が収まりません。アホらしい事で怒ってる自分が嫌です。妻と結婚した14年前の誕生日に俺は妻に言いました。
「毎年誕生日には○子(妻)の食べたい食事を作ってお祝いするよ」
と。
妻は
「じゃぁ、シュウマイ」
と言うので、俺は慣れない手つきで一生懸命シュウマイを作りました。
翌年また、何が食べたいのか聞くとまたシュウマイだったので、その年もつくり、それから14年間ずっと、妻の誕生日にはシュウマイを必ず作りました。
>昨夜、妻に
「そろそろ誕生日じゃん?なんか欲しい物ある?
と聞くと
「うーん、誕生日はシュウマイが食べたい」
と言うので
「うん、わかった」
と答えました。
すると妻が信じられない一言を!!
「でもさ、くーくん(俺)、シュウマイって難しいよ。作れるの?」
ええええええええっ!!!!!!!!
>補足
指摘されて気が付いたのですが、もしかしたら妻の望むシュウマイと、俺の作ってるシュウマイ、何かが違うのかもしれません。小龍包などと間違えてる(妻が?俺が?)可能性も考えてみます。
今夜シュウマイを作って
「これ、なに?」
って聞いてみようと思います。
これで
「シュウマイでしょ?」
tって答えられたら凹みそうですが(汗)。
妻への怒り(悲しみ?)が収まりません。アホらしい事で怒ってる自分が...(ヤフー知恵袋・パソコンむけ)
笑って済む話で良かった。オチはもうおわかりですね。妻さんが天然でした。でも旦那さんの悩みはシリアスです。
おなじモノを目にしていても、おなじことばで認識しているとは限らない。子どもに多い勘違いですが大人だってやらかします。これは知能とはまったく別で、おもに経験によって身につくチカラだからです。妻さんは自分が食べたいソレを「シュウマイ」だと認知していて、そのことを疑う経験がなかった。まわりもヘンだなとは思いつつ言ってあげてなかった。まあ笑って済む話です。仕事の場ではありませんから。
小さな失敗や恥ずかしい経験だってわたしたちには必要です。そうやって身に付けていった経験はだれしもあるはず。大人になると忘れてしまって、初めからできていたかの顔をしてますけどね。
今日の本題は、認知の話ではありません。当事者でないわたしたちには笑って済む話でしたが、旦那さんは本気でヘコんで怒りさえ感じています。その気持ちをぶちまける前に相談することができて良い結果をむかえることができました。相談しても誰かが解決をしてくれるわけではありません。旦那さんが他人に伝えるため、自分で気持ちを整理してことばにした。ココがポイントでした。
相談しよう。そうしよう。相談する場があるって大事なことです。
気持ちを吐き出しただけでは、ヒトは思い込みから抜け出せません(吐き出してみること自体は悪くありませんよ)。ことばに、特に文字にするってとても大事です。読み手を意識することで手紙やメールやブログだって役に立ちます。学校の作文もやはり役に立ちます。"読み手に伝えること"を意識するならね。
もし旦那さんがだれにも相談をせず怒りを妻さんにぶつけていたらどうでしょう。ちょっと怖いことが起こる気がします。ひととひとの"かかわり"は鏡のようなものです。怒りをぶつければ怒りが返ってきます。笑いに変えられればたくさんの笑いがかえってきます。
「こうあらねばならない」「こんなの当たり前だろ」、仕事や創作や結果を求めるときはこれも大きなチカラになってくれます。でもなんの限定もなしにそのままぶつければ自分へすべて返ってきます。自分のなかの「こうあらねばならない」「こんなの当たり前だろ」からは逃れることはできませんから。もしあなたが生きづらいとしたら、まわりにぶつけたぶんが返ってきているのかもしれませんよ。
だれかに相談をしたり、ことばや文字にして自分の気分を客観的に見つめなおすこと。自分から先に変わることで良い結果になるかもしれません。
親子だと特によく返ってきます。似た者同士ですからね。(塾長)
魔女のパン|「夏休みの友」の思い出
The mirror crack'd from side to side;
"The curse is come upon me," cried
The Lady of Shalott.
鏡は横にひび割れて - テニスン