今日の毎日新聞社説
教育基本法改正 “消化試合”では立つ瀬がない
政局がらみの駆け引きを経て、参議院に舞台を移した教育基本法改正案審議が盛り上がらない。日程に目盛りを合わせ、砂時計のごとくただ時を消費しているかのようだ。
今国会審議に並行して表面化した「いじめ」「履修不足」「タウンミーティングのやらせ」「教育委員会の形がい化」は基本法論議の背骨の強度を問う試金石といっていい。これを具体的テーマに解決・改善策を積極的に論じ合う中で、基本法改正の当否や新たな理念にも論議は発展し得るはずだ。
例えば、表面化した問題はこうしたことを問うている。いま学校や先生たちは子供の世界にどう向き合い、信頼関係を結んでいるか。真の学力は何で、どう身に着け、どう測るか。文部科学省は世論をどう受け止めてきたのか。そもそも政策に反映させてきたのか。文科省から全国の教育委員会に出向している官僚たちは、その形がい化の実態は百も承知だったはずではないか……。
一方、1990年代以降、急変転する「教育改革」の方向と内容に学校現場は戸惑ってきた。東京大学の基礎学力研究開発センターが今夏、全国の公立小中学校の3分の1の校長を対象に調査したところ、66%が基本法改正に否定的で、85%は「教育改革が速すぎて現場がついていけない」という。
文科省から「生きる力育成」「ゆとり」が称揚されたかと思えば、いま「学力向上」「競争」「学校評価」が強調される。さらに「再生」の掛け声のもと、制度改編が進もうとしている。落ち着いてじっくり取り組ませてほしいと願う先生は少なくない。
それだけではない。前記調査によると、子供の間の学力格差、地域間格差、公立私立間の格差の拡大を8割前後が懸念している。だが、国会の基本法改正論議は「全員に学力向上と規範意識を」などと抽象論が繰り返されるばかりで、現場の危機意識にしっかり呼応するものがない。
考えてみれば、審議に集まった議員、官僚のほぼ全員が現行基本法下で教育を受けたはずだ。よく「子供のころは」と昭和30年代あたりの懐旧めいた話も出る。そしてその時代も現行法下である。
それを「矛盾している」と突くのではない。ただ、60年近いこの基本法が時代にそぐわず、社会の要請に応えきれないから書き換えるというのであれば、自身の教育体験も含めもっと内実を論じ、説得力のある問題提起をすべきだろう。今のままでは「占領時代という史上例外的な異様な時期に押しつけられた法だから変える」という論法ばかりが印象づけられる。
そして、あと○時間やればいい、というような感覚で日程消化-成立の運びとなったのでは、理念の結晶とされる基本法も立つ瀬がないではないか。論じ合い、考えをもみ合い、広く納得し合う時間を惜しんでは、将来もっと惜しむ事態を招来しかねない。
今国会で成立の公算大といえども、時の限り「言論の府」らしい中身ある論議の高揚を望みたい。
毎日新聞 2006年11月25日 0時17分