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2005-12-24 日 今日の東京新聞

2006-12-24 06:32:58 | 「保存している記事」から

2006年12月24日付 東京新聞社説

週のはじめに考える 気になる『愛国教育』

 「国を愛する態度を養う」ことが教育の目標に加えられました。さまざまな危うさを感じます「いつか来た道」にならないか。ことし一番心配になったことです。

 「改正教育基本法などは、戦後レジーム(体制)から脱却して、新たな国づくりをする礎です。この国会での成立は大きな第一歩です」

 安倍晋三首相は、臨時国会後の記者会見で満足な表情を見せました。

 長年の念願だった教育基本法が五十九年ぶりに改定され、目標として「我が国と郷土を愛する…態度を養う」(第二条)という文言が盛り込まれたからです。

 しかし、国会審議が順調にいったわけではありません。

■ 戦前の教訓を忘れずに

 「『国を愛する態度』とは、歴史や文化、伝統、自然を愛する気持ちをはぐくむことだ。統治機構としての国が行うことを愛せよということではない」

 安倍首相は、こうした答弁を何回も繰り返しました。「愛国教育」に数多くの懸念や疑問、心配がぶつけられたためです。

 一つは戦前の「愛国教育」の“後遺症”のためです。

 時の軍部独裁政権は「忠君愛国」の名のもとに国論を統一し、「国のために命をささげる」教育を徹底しました。その結果、「一億火の玉」、無謀な戦争に突入して、この国は亡国寸前の憂き目を見ました。

 さらに、時々の政治課題や経済の動き、世の中の風潮と関係ない純粋培養のような愛国心はあり得るのかという疑問もあります。

 新基本法では「教育の中立」を残しながらも、わざわざ「法律の定めるところにより行う」という文言を付け加えました。法律に基づく指導や通達の効力が強化される、教育の現場からの心配です。

 「国を愛する態度」の表し方を文部科学省や教育委員会が決め、学校へ指示、命令することはないのか。

■ 多様な愛し方がある

 「国旗国歌法」制定の際、時の首相が「強制しない」と明言したにもかかわらず、教育委員会の方針に従わない職員を処分した自治体が実際に出てきています。

 統治者が愛すべき「国」と「統治機構としての国」とを区別するのはそう簡単ではありません。

 もう一つ心配なのは、首相の戦後認識です。「地域や国に対する愛情などの価値観をおろそかにした」と言いますが、そうでしょうか。

 先輩や私たちは、敗戦の廃虚の中から立ち上がり、少しでも豊かな国へと勉強し、額に汗して働いてきました。口にしなくともこれは立派な愛国心でしょう。

 首相を取り巻く政治家や学者の中には、戦前への反省を「自虐史観」、戦後の国家運営の理念を示した憲法や旧基本法を「米国の押しつけ」と切り捨てる傾向があります。

 しかし、戦前の失敗から多くを学び、占領下でも英知を駆使して、少しでもいい国へと努力した結果としていまの日本があります。

 過去を都合よく解釈しての現状認識や未来像は独善になります。「戦後体制からの脱却」が「戦後に行った反省の忘却」では困ります。

 また、長く続いた景気低迷で自信を失った反動、それに韓国や中国の反日に対する反発もあって、いまこの国には排他的で偏狭なナショナリズムがはびこっています。

 こんな風潮や戦後認識が国を愛する教育に反映されては大変です。

 偏狭な愛国教育は亡国を招く-これが戦前の教訓の一つです。

 もともと「愛」という「心の問題」を法律の対象にすること自体に違和感があります。まして、時の権力が愛し方を決めるとなれば、多様性を損なう恐れがあります。

 いま戦前を振り返れば、当時の国策に反対するのが最も愛国的だったという理屈も成り立ちます。各個人によるさまざまな国の愛し方を認めることが国を誤らない最良の方法です。

 「学校で歴史的な事実を教えることで、結果的には国を愛する態度が養われてくる」

 歴史教育の必要性を強調した伊吹文明文科相の答弁です。「愛国心は結果」はその通りと思います。

 学校では、各教科で歴史、伝統、文化、風土などをしっかり教えることです。そこまでで十分です。

 こうした学習を通じて、子供たちはこの国がいかなる国か、愛するに足る国であるかは、おのずと分かってくるはずです。

■ 厳しい監視が必要

 改定基本法に基づく、具体的な指導要領や方針はこれからです。再び国を誤らないように、特に基本法改定に反対した国民や政党は厳しく監視する必要があります。危ういとなれば新基本法の改正や廃止も。これも国の愛し方の一つです。

 本来、政治家がやるべき仕事は、国民に国を愛せよと言うことではなく、国民が愛するに値する国づくりに心血を注ぐことでしょう。

 安倍政権はその方向に進んでいるか。来年夏の参院選は国民が初めて審判する機会になります。

 


2006-12-16 土 今日の琉球新報

2006-12-16 10:15:11 | 「保存している記事」から

「社説--比べて読めば面白い」
朝日 毎日 読売 日経 産経 東京 北海道 中国 西日本 沖縄タイムス 琉球新報

2006年12月16日付 琉球新報社説

教育基本法改正・懸念は残されたままだ

 教育基本法の改正案が参院本会議で与党の賛成多数で可決、成立した。1947年の制定以来、59年目にして初めて改定となった。

 教育基本法改正案は、衆院特別委員会、本会議でも与党の単独で採決され、参院でも与党単独での力ずくの採決となった。与党側は、審議は十分尽くしたとするが、果たしてそうだろうか。「成立ありき」の感がぬぐえない。

 国会での論議を聴いていても、高校の社会科未履修問題などに時間が割かれた。そのことは重要だが、なぜ教育基本法改正が必要なのか、改正で教育をどう変えていくのかなど、改正の本体を問う論議は少なかった。政府側の説明も不十分だった。

 教育が現在、解決すべき問題を抱えていることは、多くの国民の共通の認識だろう。しかし、その解決が教育基本法改正とどうつながるのか、政府、与党から明確な答えを聞くことはできなかった。

 教育基本法は、憲法と同じく戦後の日本の進むべき方向性を示してきた重要な法律だ。改正は慎重の上にも慎重を期して当然だ。

 教育は「国家100年の大計」といわれる。その理念を定めた基本法が国民合意とはほど遠く、数を頼みの成立では、将来に禍根を残すことになる。

 改正する理由について政府、与党は「個人重視で低下した公の意識の修正」や「モラル低下に伴う少年犯罪の増加など教育の危機的状況」などを挙げる。

 しかし、教育を取り巻く問題がすべて現行の教育基本法にあるとするのは、無理がある。

 安倍晋三首相は、いじめ問題などについて「対応するための理念はすべて政府案に書き込んである」と繰り返した。「公共の精神」や「国を愛する態度」といった精神論を付け加えることで果たして問題が解決できるのか。

 むしろ、現行法の最も重要な理念である「個の尊重」が、教育現場で本当に生かせるような枠組みづくりが必要なのではないか。

 教育と政治の関係も大きく変わる。現行法では「教育は、不当な支配に服することなく」とされているが、改正法では「この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり」が付け加えられた。

 国会で多数をとって法律を制定させれば、教育内容に介入することも容易になる。教育が時の政権の思惑によって変えられることになりはしないか。

 改正法が成立したことで、政府は教育振興基本計画を定め、関連法案の改正に着手する。しかし、基本法改正への懸念は残されたままだ。政府は、計画策定などの論議の中で国民の懸念に十分に応える必要がある。

(12/16 9:38)

 


2006-12-16 土 今日の沖縄タイムス

2006-12-16 10:06:37 | 「保存している記事」から

「社説--比べて読めば面白い」
朝日 毎日 読売 日経 産経 東京 北海道 中国 西日本 沖縄タイムス 琉球新報

2006年12月16日付 沖縄タイムス社説

改正教基法成立 政治に翻弄されるな

 安倍内閣が今国会の最重要法案と位置付けていた改正教育基本法が自民、公明の与党の賛成多数で可決、成立した。一九四七年の制定以来、野党がこぞって反対する中での改正である。

 「世論誘導」と非難されたタウンミーティングに象徴されるように、民意をないがしろにしてきた過去の教育行政の検証もなく、内閣不信任決議案や問責決議案などが飛び交う中での力ずくの成立である。

 不信任案の提案理由を説明した民主党の菅直人代表代行は「政府主催タウンミーティング(の運営)を官僚に丸投げする姿勢こそが安倍内閣の改革が偽者であることの証明だ」と厳しく批判した。

 これに対して、自民党の石原伸晃幹事長代理は「タウンミーティング問題で給与を国庫返納した首相のけじめは誠に潔い。内閣不信任案は正当性もなく、まったく理不尽だ」と反対した。

 国民はどう思っただろうか。国会で多数派をとれば、何でも介入できる道が開かれるという「数の力」への諦念、あるいは無力感ではないのか。

 約六十年ぶりの改正審議は、改正教基法の成立を最優先した政府、与党の思惑で事実上閉幕したと言えよう。

 それにしても、政治が教育内容に踏み込む道が開かれたのは納得できず、残念でならない。

 改正教基法には、これまで歯止めとなってきた「教育は不当な支配に服することなく」との言葉は残ったが、「この法律及び他の法律によって行われるべき」との文言が加わった。

 「法に基づく命令、指導は不当な支配ではない」(政府答弁)としているように、歯止めは限りなく無力化されている。

 教育が政治に翻弄される宿命を負うことになりかねない。返す返すも歴史に禍根を残したと言わざるを得ない。

 安倍晋三首相は「新しい時代にふさわしい基本法の改正が必要」と国会審議で繰り返し、現行法の「個」の尊重から「公」重視へと基本理念を変えた。新たに「公共の精神」「伝統と文化の尊重」などの理念も掲げた。

 だが、こうした理念がいじめなど現代の子どもの抱える問題の解決につながるかどうかは極めて疑問だ。

 日本人として、国と郷土を愛することは当然である。しかし、「内心の自由にはなにびとも介入できない」ように、法律は行為の在り方を定めるのであって、心の在り方を決めるものではない。

 安倍首相の教育改革論議は、現状を打破したいあまりに教育全体をどうするかの哲学に欠けていたと言いたい。

 


2006-12-16 土 今日の西日本新聞

2006-12-16 09:47:20 | 「保存している記事」から

「社説--比べて読めば面白い」
朝日 毎日 読売 日経 産経 東京 北海道 中国 西日本 沖縄タイムス 琉球新報

2006年12月15日付 西日本新聞社説

「禍根を残す」は杞憂だろうか 教育基本法の改正

 「戦後」という時代の1つの転換点となるのだろうか。

 「教育の憲法」と呼ばれ、戦後教育を理念的に支えてきた教育基本法の改正案が、14日の参院特別委員会で可決された。参院本会議で採決され、成立する運びだ。

 1955年に保守合同で誕生した自民党は、この法律の改正を結党以来の悲願としてきた。歴代の首相が改正を志し、模索しては挫折してきた経緯を考えると、大願成就といえるだろう。

 「戦後レジーム(体制)からの脱却」を唱え、「戦後生まれの初の総理」を自任する安倍晋三首相の政権下で改正が実現することに、政治的な潮目の変化を読み取ることも、あるいは可能なのかもしれない。

 しかし、戦後のわが国にとって「歴史的な」という形容すら過言ではない法律の改正であるはずなのに、国民が沸き立つような期待感や高揚感を一向に共有できないのは、なぜだろう。

 「今なぜ、基本法を改正する必要があるのか」「改正すれば、わが国の教育はどう変わるのか」。こうした国民の切実な疑問が、残念ながら最後まで解消されなかったからではないか。

 政府や与党は、過去の重要法案に要した審議時間に照らして「審議は尽くした」と主張する。だが、ことは憲法に準じる教育基本法の改正である。

 幅広い国民的な合意の形成こそ、不可欠な前提だったはずだ。私たちは、そのことを何度も繰り返し主張してきた。国民の間で改正の賛否はなお分かれている。政府・与党が説明責任を十分に果たしたとも言い難い。

 教育は「国家100年の大計」である。その基本法を改めるのに「拙速ではなかったか」という疑義が国民にわだかまるようでは、将来に禍根を残さないか。改正が現実となる今、それが何よりも心配でならない。

 現行法は終戦間もない1947年3月に施行された。「われらは、さきに、日本国憲法を確定し」という書き出しの前文で始まり、憲法で定める理想の実現は「根本において教育の力にまつべきものである」と宣言した。

 教育勅語に基づく戦前の軍国主義教育に対する痛切な反省と断固たる決別の意識があったことは明らかだ。

 だが、「個人の尊厳」や「個人の価値」を重視するあまり、社会規範として身に付けるべき道徳の観念や公共心が軽視され、結果的に自己中心的な考えが広まり、ひいては教育や社会の荒廃を招いたのではないか。そんな改正論者の批判にもさらされてきた。

 改正教育基本法は、現行法にない「愛国心」を盛り込み、「公共の精神」に力点を置く。「個」から「公」へ軸足を移す全面改正ともいわれる。

 愛国心が大切だという考えは否定しない。公共の精神も大事にしたい。しかし、それらが教育基本法に条文として書き込まれると、国による教育の管理や統制が過度に強まることはないのか。時の政府に都合がいいように拡大解釈される恐れは本当にないのか。

 「それは杞憂(きゆう)だ」というのであれば、政府は、もっと丁寧に分かりやすく国民に語りかけ、国会も審議を尽くしてもらいたかった。

 折しも改正案の国会審議中に、いじめを苦にした子どもの自殺が相次ぎ、高校必修科目の未履修や政府主催の教育改革タウンミーティングで改正論を誘導する「やらせ質問」も発覚した。

 一体、何のための教育改革であり、教育基本法の改正なのか。論議の手掛かりには事欠かなかったはずだ。

 にもかかわらず、「100年の大計」を見直す国民的な論議は広がらず、深まりもしなかった。

 むしろ、教育基本法よりも改めるのに急を要するのは、文部科学省や教育委員会の隠ぺい体質や事なかれ主義であり、目的のためには手段を選ばないような政府の姑息(こそく)な世論誘導の欺まんだった‐といえるのではないか。

 現行法は国を愛する心や態度には触れていないが、第1条「教育の目的」で「真理と正義」を愛する国民の育成を掲げている。政府や文科省、教育委員会は、そもそも基本法のこうした普遍的な理念を理解し、率先して体現する不断の努力をしてきたのか、とさえ疑いたくなる。

 教育基本法の改正は、安倍首相が公言する憲法改正の一里塚とも、布石ともいわれる。

 「連合国軍総司令部の占領統治下で制定された」「制定から約60年も経過し、時代の変化に応じて見直す時期にきた」といった論拠でも共通点が少なくない。

 しかし、法律の本体よりむしろ、占領下の制定という過程や背景を問題視するのであれば、最終的に反対論や慎重論を多数決で押し切ろうとする今回の改正もまた、「不幸な生い立ち」を背負うことにはならないのか。

 永い歳月が経過して環境も変わったから‐という論法にしても、「100年の大計」という教育の根本法に込められた魂に照らせば、「まだ約60年にすぎない」という別の見方もまた、成り立つのではないか。

 教育基本法の改正が性急な憲法改正論議の新たな突破口となることには、強い危惧(きぐ)の念を抱かざるを得ない。

 「教育の憲法」の改正は、本当に脱却すべき戦後とは何か‐という重い問いを私たち国民に突きつけてもいる。

=2006/12/15付 西日本新聞朝刊=

2006年12月15日00時12分


2006-12-16 土 今日の中国新聞

2006-12-16 09:41:33 | 「保存している記事」から

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2006年12月16日付 中国新聞社説

改正教育基本法 政治の現場介入避けよ

憲法に準じるほどの重みを持つ法律の改正が、数の力で押し切られた。参院本会議できのう、改正教育基本法が自民、公明の与党の賛成で可決、成立した。

 教基法の改正は一九四七年の制定以来初めてである。戦後社会に定着してきただけに、審議を尽くし合意へ努力を重ねるべきだった。それが衆院で野党欠席のまま採決したのに続いての強引な手法である。子どもたちの未来に責任は持てるのだろうか。

 改正教基法は「公共の精神」を前面に打ち出し、教育の目標に「我が国と郷土を愛する態度を養う」と明示した。国の関与を強める表現も盛り込まれた。能力対応の教育、家庭の責任、教員の養成と研修の充実も並ぶ。心の中まで踏み込み、運用次第では圧力が家庭にまで及ぶ可能性さえある。

 これで教育現場はどうなるか。学校のランク付けが進み、家庭は子育て状況をチェックされ、教員は「教師塾」へ通わざるを得なくなる…。そんな背筋が寒くなるような未来像が描かれるほどだ。

 教育再生に必要なのは、管理強化と競争原理の導入で、現場のストレスをさらに高めることではない。子どもたちの自立心を育てることだ。改正教基法により政府がつくる教育振興基本計画の成立過程を監視しなければならない。国の思惑を地域と自治体ではね返す力を蓄える方法を考えたい。

 改正へ向けた実質審議は十月末から始まった。これに合わせるかのように、いじめに絡む子どもや先生の自殺が相次ぎ、高校で必修科目の履修漏れが明るみに出た。教育改革タウンミーティングの「やらせ」質問まで発覚した。荒廃は政府から教育現場まで及んでいることが目の当たりになった。

 対応策をめぐり審議は多くの時間をかけた。だが解決する道が教基法改正にどうつながるかは見えなかった。改正の必要性についても十分な説明はないままだ。

 臨時国会が会期末を迎え、きのうは与野党が激しい攻防を繰り広げた。選挙対策と絡めた野党の戦術を自民首脳が「邪道」と批判する場面もあった。対立の構図からは、教基法が政争の具におとしめられた姿が浮き彫りになった。

 教基法に合わせて「防衛省」昇格関連法も成立した。「戦後レジーム(体制)からの脱却」を掲げる安倍晋三首相は、次は憲法改正へ向けて走りそうな勢いである。同じような事態を繰り返してはならない。

 


2006-12-16 土 今日の北海道新聞

2006-12-16 09:33:06 | 「保存している記事」から

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2006年12月16日付 北海道新聞社説

改正教育基本法が成立*改正教育基本法が成立

 憲法とともに戦後日本の民主主義を支えた教育基本法が改正された。

 改正法は「わが国と郷土を愛する態度」などを条文に盛り込んだ。戦後教育の枠組みと理念を根底から変える内容だ。

 新しい法律の下で、教育はどう変わるだろう。

 「国を愛せ」と教師が子供たちに強く求める場面が起きないか。そんな授業を受ける子供たちの態度が「評価」につながらないか。教育現場の創意工夫はどこまで生かされるだろう。

 こうした点の審議が必ずしも十分だったとは思えない。改正に国民の合意ができていたともいえない。

 数の力を背景に、今国会で改正法の成立を図った政府・与党のやり方は強引だった。

 安倍首相は、占領時代に制定された教育基本法と憲法の改正は、「自民党結党以来の悲願」だとしていた。

 それほど重要なら、国民への丁寧な説明と合意形成の真摯(しんし)な努力を重ねる必要があったはずだ。

 次の課題は憲法改正ということになるのか。国の基本にかかわる問題で、「数の力」に頼る姿勢は、許されるものではない。

*「国家」重視に軸足を移す

 教育基本法は一九四七年、戦前の国家中心教育への深い反省を踏まえて制定された。

 前文で「個人の尊厳」を基本とする教育理念を掲げ、憲法の理念の実現を「教育の力」に託した。

 これに対し、改正法は「わが国と郷土を愛する態度」や「公共の精神」などの徳目を「教育目標」に掲げた。

 教育理念の軸足を「個人」から「国家社会」の重視に移した。

 しかし、そもそも法で、内心にかかわる「教育目標」を定めることは、憲法が保障する「思想と良心の自由」にそぐわないのではないか。

 中国や旧ソ連のような社会主義国を除けば、多くの先進国では「国を愛する態度」のような内心の問題まで国法では定めていない。

 教育目標に徳目を並べ、評価までするという日本の教育は、異質と見られるのではないか。

 「わが国や郷土を愛する態度」を自然にはぐくむことは、国民として大切なことだろう。

 「公共の精神」を身につけることも、社会生活を営むうえで欠かせない。

 それを法律に書き込み、子どもが学ぶ態度まで評価するとなると話は別だ。国による管理や統制が過度に強まる懸念がぬぐえない。

*法の名の下で行政介入も

 改正法で見逃せないのは、教育行政のあり方に関する条文の変更だ。

 改正前の基本法一○条は、教育は「不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負う」と定めている。

 戦前の国家統制への反省を踏まえ、行政の教育への介入を防ぐ役割を果たしてきた。

 改正法は、「国民全体に対し直接に責任を負う」という文言を削除し、新たに「法律の定めるところ」によって教育を行うと定めた。

 現場の教師はこれまで、「国民全体に直接に責任を負う」という条文があったからこそ、父母や子どもたちとともに、創意工夫のある教育活動を試みることができた。

 しかし、法改正によって、時の政府が法律や指導要領を決め、それに基づいて教育内容が厳密に規定されれば、教員は行政の一員としての役割を強いられる。

 教育法学者からは、政治や官僚の不当な圧力からの独立と自由を目指した当初の立法の趣旨が、法改正で逆転したという見方が出ている。

 文科省は教員評価制度の導入を一部の学校で始めている。制度の運用によっては、教師の仕事が国の決めた教育目標をどこまで実現したかという観点から評価されかねない。

 こうした問題をはらんでいたからこそ国民の間に懸念の声は強かった。

 東大が十月にまとめた全国アンケートでは、公立小中学校の管理職の三人に二人が「現場の混乱」を理由に改正に反対していた。

 ところが安倍首相は国会で「国民的合意は得られた」と繰り返した。

 政府のタウンミーティングでは、姑息(こそく)な世論誘導も明らかになった。

*施策の吟味が欠かせない

 「教育基本法は個人の価値を重視しすぎている。戦後教育は道徳や公共心が軽視され、教育の荒廃を招いた」

 自民党内の改正論者は、このように基本法を批判してきた。

 教育現場は、子どもの学力低下やいじめなど多くの課題を抱えている。しかし、教育荒廃の原因は基本法に問題があったからではない。

 むしろ、文科省や教育委員会が、基本法の理念を軽視し、実現に向けた努力を怠ってきたのが現実ではないか。

 文科省は今後、改正法に基づき具体的な教育政策を網羅した「教育振興基本計画」を策定する。

 教育改革の名のもとに打ち出される施策の中身を、学校現場と父母は十分に吟味し、子どもの成長に役立つ施策かどうかを見極める必要がある。

 改正法の下での教育現場の変化を、注意深く見守らねばなるまい。

 


2006-12-16 土 今日の東京新聞

2006-12-16 09:25:07 | 「保存している記事」から

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朝日 毎日 読売 日経 産経 東京 北海道 中国 西日本 沖縄タイムス 琉球新報

2006年12月16日付 東京新聞社説

行く先は未来か過去か 教育基本法59年ぶり改定

 教育基本法が五十九年ぶりに改定された。教育は人づくり国づくりの基礎。新しい時代にふさわしい法にとされるが、確かに未来に向かっているのか、懸念がある。

 安倍晋三首相が「美しい国」実現のためには教育がすべてとするように、戦後日本の復興を担ってきたのは憲法と教育基本法だった。

 「民主的で文化的な国家建設」と「世界の平和と人類の福祉に貢献」を決意した憲法。

 その憲法の理想の実現は「根本において教育の力にまつべきものである」とし、教育基本法の前文は「個人の尊厳を重んじ」「真理と平和を希求する人間の育成」「個性ゆたかな文化の創造をめざす」教育の普及徹底を宣言していた。

■普遍原理からの再興

 先進国中に教育基本法をもつ国はほとんどなく、法律に理念や価値を語らせるのも異例だが、何より教育勅語の存在が基本法を発案させた。

 明治天皇の勅語は皇民の道徳と教育を支配した絶対的原理。日本再生には、その影響力を断ち切らなければならなかったし、敗戦による国民の精神空白を埋める必要もあった。

 基本法に込められた「個人の尊厳」「真理と正義への愛」「自主的精神」には、亡国に至った狭隘(きょうあい)な国家主義、軍国主義への深甚な反省がある。より高次の人類普遍の原理からの祖国復興と教育だった。

 一部に伝えられる「占領軍による押しつけ」論は誤解とするのが大勢の意見だ。のちに中央教育審議会に引き継がれていく教育刷新委員会に集まった反共自由主義の学者や政治家の熟慮の結実が教育基本法だった。

 いかなる反動の時代が来ようとも基本法の精神が書き換えられることはあるまいとの自負もあったようだ。しかし、改正教育基本法は成立した。何が、どう変わったのか。教育行政をめぐっての条文改正と価値転換に意味が集約されている。

■転換された戦後精神

 教育が国に奉仕する国民づくりの手段にされてきた戦前の苦い歴史がある。国、行政の教育内容への介入抑制が教育基本法の核心といえ、一〇条一項で「教育は不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきもの」となっていた。

 国旗・国歌をめぐる訴訟で、東京地裁が九月、都教育委員会の通達を違法とし、教職員の処分を取り消したのも、基本法一〇条が大きな根拠だった。各学校の裁量の余地がないほど具体的で詳細な通達を「一定の理論や観念を生徒に教え込むことを強制する『不当な支配』」としたのだった。不当な支配をする対象は国や行政が想定されてきた。

 これまでの基本法を象徴してきた「不当な支配」の条文は、改正教育基本法では一六条に移され「教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきもの」と改められた。

 政令や学習指導要領、通達も法律の一部。国や行政が不当な支配の対象から外され、教育内容に介入することに正当性を得ることになる。この歴史的転換に深刻さがある。

 前文と十八条からの改正教育基本法は、新しい基本法といえる内容をもつ。教育基本法の改定とともに安倍首相が政権の最重要課題としているのが憲法改正だが、「新しい」憲法と「新しい」教育基本法に貫かれているのは権力拘束規範から国民の行動拘束規範への価値転換だ。

 自民党の新憲法草案にうかがえた国民の行動規範は、改定教育基本法に「公共の精神」「伝統と文化の尊重」など二十項目以上の達成すべき徳目として列挙されている。

 権力が腐敗し暴走するのは、歴史と人間性研究からの真理だ。その教訓から憲法と憲法規範を盛り込んだ教育基本法によって権力を縛り、個人の自由と権利を保障しようとした立憲主義の知恵と戦後の基本精神は大きく変えられることになる。

 公共の精神や愛国心は大切だし、自然に身につけていくことこそ望ましい。国、行政によって強制されれば、教育勅語の世界へ逆行しかねない。内面への介入は憲法の保障する思想・良心の自由を侵しかねない。新しい憲法や改正教育基本法はそんな危険性を内在させている。

■悔いを残さぬために

 今回の教育基本法改定に現場からの切実な声があったわけでも、具体的問題解決のために緊急性があったわけでもない。むしろ公立小中学校長の三分の二が改定に反対したように、教育現場の賛同なき政治主導の改正だった。

 現場の教職員の協力と実践、献身と情熱なしに愛国心や公共の精神が習得できるとは思えない。国や行政がこれまで以上に現場を尊重し、その声に耳を傾ける必要がある。

 安倍首相のいう「二十一世紀を切り開く国民を育成する教育にふさわしい基本法」は、同時に復古的で過去に向かう危険性をもつ。改定を悔いを残す思い出としないために、時代と教育に関心をもち続けたい。

 


2006-12-16 土 今日の産経新聞

2006-12-16 09:19:10 | 「保存している記事」から

「社説--比べて読めば面白い」
朝日 毎日 読売 日経 産経 東京 北海道 中国 西日本 沖縄タイムス 琉球新報

2006年12月16日付 産経新聞主張

教育基本法改正 「脱戦後」へ大きな一歩だ

 教育基本法改正案が参院本会議で可決、成立した。現行の教育基本法が占領下の昭和22年3月に制定されて以来、約60年ぶりの改正である。安倍内閣が掲げる「戦後体制からの脱却」への大きな一歩と受け止めたい。

 改正法には、現行法にない新しい理念が盛り込まれている。特に、「我が国と郷土を愛する態度」「伝統と文化の尊重」「公共の精神」「豊かな情操と道徳心」などは、戦後教育で軽視されがちだった教育理念である。

 一部のマスコミや野党は愛国心が押しつけられはしないかと心配するが、愛国心というものは、押しつけられて身につくものではない。日本の歴史を学び、伝統文化に接することにより、自然に養われるのである。

 学習指導要領にも「歴史に対する愛情」や「国を愛する心情」がうたわれている。子供たちが日本に生まれたことを誇りに思い、外国の歴史と文化にも理解を示すような豊かな心を培う教育が、ますます必要になる。形骸(けいがい)化が指摘されている道徳の時間も、本来の規範意識をはぐくむ徳育の授業として充実させるべきだろう。

 家庭教育と幼児教育の規定が新設されたことの意義も大きい。近年、親による児童虐待や子が親を殺すという痛ましい事件が相次いでいる。いじめや学級崩壊なども、家庭のしつけが不十分なことに起因するケースが多い。親は、子供にとって人生で最初の教師であることを忘れるべきではない。

 教育行政について「不当な支配に服することなく」との文言は残ったが、教職員らに法を守ることを求める規定が追加された。国旗国歌法や指導要領などを無視した一部の過激な教師らによる違法行為が許されないことは、改めて言うまでもない。

 同法改正では、民主党も対案を出していた。政府案と共通点が多かったが、与党との修正協議に応じず、改正そのものに反対する共産、社民党と歩調を合わせたのは、残念である。

 安倍晋三首相は、日本人が自信と誇りをもてる「美しい国」を目指している。国づくりの基本は教育である。政府の教育再生会議で、新しい教育基本法の理念を踏まえ、戦後教育の歪(ゆが)みを正し、健全な国家意識をはぐくむための思い切った改革を期待する。

(2006/12/16 05:56)

 


2006-12-16 土 今日の日本経済新聞

2006-12-16 09:14:08 | 「保存している記事」から

「社説--比べて読めば面白い」
朝日 毎日 読売 日経 産経 東京 北海道 中国 西日本 沖縄タイムス 琉球新報

2006年12月16日付 日本経済新聞社説

改正教育基本法をどう受け止めるか

 占領下の1947年に制定されて以来、一度も手が加えられてこなかった教育基本法の全面改正案が参院で可決され、成立した。6年前に教育改革国民会議が同法の見直しを提言して以来、「愛国心」の表現などをめぐり延々と議論が繰り返されてきた末の「新法」誕生である。

 改正で何がどう変わるのか。教基法はあくまで理念をうたった法律であり、いじめ問題などに揺れる学校の姿がすぐに変わるわけではない。しかし教育行政に対する国の関与を重視した項目が散見されることには改めて注意を払いたい。解釈や運用、関連法の改正次第では現場にじわじわと影響を及ぼす問題である。

 たとえば、「国は(中略)教育に関する施策を総合的に策定し、実施しなければならない」という条文がある。また「教育は、不当な支配に服することなく」という現行法の条文に続けて「この法律及び他の法律に定めるところにより行われるべきもの」との一文も加えている。

 子どもたちの学力と規範意識を保障するための大きな方向性を国が示すことは必要だろう。しかし文部科学省がいたずらに条文を拡大解釈し権限強化を図るとすれば、かねて弊害が指摘されてきた中央集権的な教育行政が強化され、地域や学校の創意工夫と競い合いを促そうという分権の流れに逆行することになる。

 この懸念は「教育振興基本計画」の策定を政府に義務付けたことにも共通する。同省は事細かな目標を設けて現場を拘束しないよう意識すべきである。計画には、むしろ制度の弾力化や規制緩和を図る方策を盛り込むこともできるのではないか。

 改正法は地方自治体がその実情に応じた教育行政を展開するよう明記し、国と地方の「適切な役割分担」にも触れている。そうした条文があることも忘れてはならない。

 バランスのとれた対応が必要なのは、「我が国と郷土を愛する態度を養う」などの解釈も同様である。学校現場に機械的に当てはめるのではなく、子どもたちの実情に即した柔軟な運用に努めてもらいたい。

 長期間の国会審議を通じて残念だったのは、与野党の歩み寄りが全くみられなかったことである。民主党は分権にも配慮した対案を持ちながら与党との対決に終始してしまった。本来なら、共同修正を図る局面もあったのではないだろうか。

 教育に対する国民の要請はきわめて多様で、時代とともに変化し続けている。およそ60年ぶりという歴史的改正ではあるが、そんな実情を踏まえた対応を望みたい。

 


2006-12-16 土 今日の読売新聞

2006-12-16 09:09:05 | 「保存している記事」から

「社説--比べて読めば面白い」
朝日 毎日 読売 日経 産経 東京 北海道 中国 西日本 沖縄タイムス 琉球新報

2006年12月16日付 読売新聞社説

教育基本法改正 さらなる国民論議の契機に

 教育基本法が一新された。1947年(昭和22年)の制定から60年、初めての改正だ。

 「教育の憲法」の生まれ変わりは新しい日本の教育の幕開けを意味する。この歴史的転換点を、国民全体で教育のあり方を考えるきっかけとしたい。

 見直しの必要性を説く声は制定の直後からあった。そのたびに左派勢力の「教育勅語、軍国主義の復活だ」といった中傷にさらされ、議論すらタブー視される不幸な時代が長く続いた。

 流れを変えた要因の一つは、近年の教育の荒廃だった。いじめや校内暴力で学校が荒れ、子どもたちが学ぶ意欲を失いかけている。地域や家庭の教育力も低下している。

 現行基本法が個人・個性重視に偏りすぎているため、「公共の精神」や「規律」「道徳心」が軽視されて自己中心的な考え方が広まったのではないか。新たに家庭教育や幼児期教育、生涯教育なヌについて時代に合った理念を条文に盛り込む必要があるのではないか。そうした指摘が説得力を持つようになってきた。

 改正論議に道筋をつけたのは2000年末、首相の私的諮問機関「教育改革国民会議」が出した報告書だった。基本法見直しが初めて、正式に提言された。

 これを受け、中央教育審議会が「新しい時代にふさわしい」基本法の在り方などを答申。与党内でも改正に向けた検討が本格化し、ようやく今年4月、政府の全面的な改正案が国会に提出された。

 ◆6年にわたる改正論議

 この6年、基本法改正については様々な角度から検討され、十分な論議が続けられてきたと言っていいだろう。

 その中には「愛国心」をめぐる、不毛な論争もあった。

 条文に愛国心を盛り込むことに、左派勢力は「愛国心の強制につながり、戦争をする国を支える日本人をつくる」などと反対してきた。

 平和国家を築き上げた今の日本で、自分たちが住む国を愛し、大切に思う気持ちが、どうして他国と戦争するというゆがんだ発想になるのだろう。

 基本法の改正を「改悪」と罵(ののし)り、阻止するための道具に使ったにすぎない。

 この問題は、民主党が独自の日本国教育基本法案の前文に「日本を愛する心を涵養(かんよう)し」と明記したことで決着した感がある。政府法案は「教育の目標」の条文中に「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する…態度を養う」と入れた。むしろ民主党案の方が直接的で素直な表現だった。

 ともあれ、改正基本法の成立を歓迎したい。その精神にのっとって、日本の歴史や伝統、文化を尊重し、国を愛する心を育てるような教育が行われることが期待される。さらに家庭、地域での教育も充実されて、次代を担う子どもや若者たちが、日本人として誇りを持って育っていってほしい。

 ◆関連する課題は多い

 そのために文部科学省など政府が取り組むべき課題は山積している。

 まずは学習指導要領や学校教育法など関係法規の見直しである。

 指導要領は、改正基本法に愛国心や伝統・文化の尊重、公共の精神などが盛られたことで、社会科や道徳の指導内容が変わってくる可能性がある。愛国心などの諸価値は、どれも国民として大切なものだ。子どもたちの白紙の心に、正しくしっかりと教えてもらいたい。

 「学力低下」の懸念から、授業時間数や教える内容を増やす必要性も叫ばれている。高校の「必修逃れ」問題では、指導要領の必修科目の設定が今のままで良いのか、といった議論も起きている。

 小学校の英語「必修化」論議など暫時“保留”になっていた指導要領絡みの施策の検討が一斉に動き出すだろう。

 学校制度の基準を定めた学校教育法の改正、教育委員会について定めた地方教育行政組織運営法、教員の免許法などの見直しも必要だ。安倍首相直属の「教育再生会議」でも検討している。

 もう一つの課題は、国と地方が役割分担を明確にし、計画的に教育施策を進めていくための「教育振興基本計画」の策定である。

 ◆国と地方の役割示せ

 「全国学力テストを実施し、指導要領改善を図る」「いじめ、校内暴力の『5年間で半減』を目指す」「司法教育を充実させ、子どもを自由で公正な社会の責任ある形成者に育てる」――計画に盛り込む政策目標案を、中教審もすでに、いくつか具体的に例示している。

 国が大枠の方針を示すことは公教育の底上げの意味でも必要だ。同時に、学校や地域の創意工夫の芽が摘まれることのないよう、現場の裁量の範囲を広げる施策も充実させてほしい。

 焦る必要はないだろう。教育は「国家百年の計」である。国民の教育への関心もかつてないほどに高い。教育再生会議などの提言も聞きながら、じっくりと新しい日本の教育の将来像を練り上げてもらいたい。

2006年12月16日1時52分  読売新聞)
 

2006-12-16 土 今日の毎日新聞

2006-12-16 09:00:00 | 「保存している記事」から

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2006年12月16日付 毎日新聞社説

新教育基本法 これで「幕」にしてはいけない

 教育基本法改正案が成立した。なぜ今改正が必要なのか。私たちは問いかけてきたが、ついに明確にされないまま国会は幕切れとなった。「占領期の押しつけ法を変える」ことが最大の動機とみるべきなのか。そうだとすれば「教育」が政治利用されたことになる。

 だが法として成立する以上、全国の教育現場はこれと向き合う。まず公共心や国の権能を重視する改正法の特徴の一つは「教育の目標」だ。5項に整理して徳目を列記し「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する態度」を盛り込む。子の教育は保護者に第一義的責任があると明記し、生涯学習や幼児期の教育の必要性も説く。そして全体的な教育振興基本計画を国が定め、地方公共団体はこれを見ながら施策計画を定めるという。

 個別の徳目や親の責任などは自然な理想や考え方といえるだろう。ただ、列記しなくても、これらは現行法下の教育現場でも否定されてはいない。授業や生活を通じて学び取っていることではないか。網羅しなくても、生涯学習や幼児教育などの分野は社会に定着しており、是正が必要なら基本法をまたず個別にできるはずだ。

 列記されることで、これらの考え方が押しつけられたり、画一的な形や結果を求める空気が広がりはしないか。振興基本計画に忠実である度合いを各地方が競い合うことになりはしないか--。

 こうした疑問や懸念を学校など教育現場は持つが、国会審議ではこれに答えていない。はっきりさせておかなければならないのは、改正法は決して国にフリーハンドを与える全権付与法ではなく、これで教育内容への介入が無制限に許されるものではないことだ。改正法第16条の「法律の定めるところにより行われる」の記述によって「国が法に沿って行えば、禁じられた『不当な支配』にはならない」と政府見解はいう。

 だが教育権などについて争った旭川学力テスト事件最高裁判決(1976年)は、国の介入を認めつつも「必要かつ相当な範囲」とし、また「不当な支配」とは「国民の信託に応えない、ゆがめる行為」との考え方を示した。恣意(しい)的介入を戒めたもので、国は抑制的な姿勢を常に忘れてはならない。

 国会審議に並行して、いじめ、大量履修不足、タウンミーティングのやらせ発言工作など、事件と呼ぶべき問題や不祥事が相次いだ。新時代にふさわしい基本法をといいながら、内閣、文部科学省、教育委員会など行政当局は的確な対処ができず、後手に回って不信を広げた。法改正を説きながら、その実は現行の教育行政組織や諸制度がきちんと運用しきれていないという有り様を露呈したのだ。

 次の国会で基本法に連動する学校教育法など関連法規の改正審議が始まる。日常の教育現場に直接かかわってくるのはこれだ。注意をそらしてはいけない。基本法改正審議の中であいまいだった諸問題や疑念をただす機会だ。

 「一件落着」では決してない。

毎日新聞 2006年12月16日 0時16分

 


2006-12-16 土 今日の朝日新聞

2006-12-16 06:41:28 | 「保存している記事」から

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2006年12月16日付 朝日新聞社説

教育と防衛 「戦後」がまた変わった

 改正教育基本法と、防衛庁を「省」に昇格させる改正防衛庁設置法が、同じ日に成立した。

 長く続いてきた戦後の体制が変わる。日本はこの先、どこへ行くのだろうか。

 安倍首相は著書「美しい国へ」で、戦後の日本が先の戦争の原因をひたすら国家主義に求めた結果、国家すなわち悪との見方が広まった、と指摘する。

 そして、国家的な見地からの発想を嫌うことを「戦後教育の蹉(さ)跌(てつ)のひとつである」と書いている。

 そのつまずきを正し、国家という見地から教育を見直したい。安倍首相には、そんな思いがあったのだろう。

 教育基本法の改正で焦点となったのは「愛国心」である。改正法には「(伝統と文化を)はぐくんできた我が国と郷土を愛する」という文言が盛り込まれた。公明党は当初、「国を大切にする」を提案したが、官房長官だった安倍氏は「国は鉛筆や消しゴム並みではない」と述べて、「愛する」にこだわった。

 教育の独立を規定した条項も改正の対象になった。

 いまの教育基本法は、戦前の教育が「忠君愛国」でゆがめられ、子どもたちを戦場へと駆り立てたことを反省し、国民の決意を表す法律としてつくられた。「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われる」と定めている。国の政治的な介入に対しても歯止めをかけた。

 その文言の後段が「法律の定めるところにより行われる」と改められた。現行法とはちがって、国の教育行政に従え、ということになりかねない。

 安倍首相は、防衛のあり方についても「美しい国へ」で異を唱えている。

 安全保障を他国にまかせ、経済を優先させて豊かになった。「だが精神的には失ったものも大きかったのではないか」と述べている。

 日本は戦後、再び持った武力組織を軍隊にはせず、自衛隊とした。組織も内閣府の外局に置いた。自衛隊や防衛庁の抑制的なありようは、軍事に重きを置かない国をつくろうという国民の思いの反映であり、共感を得てきた。

 省に昇格したからといって、すぐに自衛隊が軍になり、専守防衛の原則が変わるわけではない。それでも、日本が次第に軍事を優先する国に変わっていくのではないか。そこに愛国心教育が加わると、その流れを加速するのではないか。そんな心配がぬぐえない。

 二つの法律改正をめぐっては、国民の賛否も大きく分かれていた。その重さにふさわしい審議もないまま、法の成立を急いだことが残念でならない。

 戦後60年近く、一字も変えられることのなかった教育基本法の改正に踏み切った安倍首相の視線の先には、憲法の改正がある。

 この臨時国会が、戦後日本が変わる転換点だった。後悔とともに、そう振り返ることにならなければいいのだが。

 


2006-12-04 月 アスパラクラブ のコラムAICから

2006-12-04 10:46:34 | 「保存している記事」から

気持ちが日刊ゲンダイになっていく

「日刊ゲンダイ」という夕刊紙は、会社帰りのサラリーマンにとって心のカタルシスになるのだろう。1面はそのときの首相への罵詈雑言、2面に回って、それを暴かない「大手マスコミ」への批判、そして最後に、「国民もなめられたものだ」と嘆いて、我が身のふがいなさに返る。

この「硬面」の定番コースが終わると、芸能ゴシップでお昼のワイドショーで知識豊富な妻に対抗する武器を備え、さらにおじさんが好きそうな夜のお遊びやお楽しみの話がふんだんにあって、最後はスポーツや競馬が裏面にきて終わる。帰宅する電車の中で読んでいても、表面も裏面も、ハダカは出てこないから、安心して読める。

このごろ、この新聞の「硬面」にやけに共感してしまう。だって、このところの安倍政権のやりかたを見ていると、本当に国民のことなんか、これっぽっちも考えていない、という気になってくるからだ。もう気持ちはかぎりなく日刊ゲンダイだ。

だいたい「郵政解散」の造反議員を復帰させるなんて、国民をなめるのもいい加減にしろと言いたい。選挙の時は、「有権者が郵政民営化に賛成する議員を選べないのはおかしい」というあまりにも正当なスジ論で、造反議員を除名して「刺客」を放ったのに、わずか1年で「情」に名を借りて戻す。来年の参院選目当てが見え見えではないか。次は有権者がスジを通す番だと言いたくなるような茶番劇ではないか。

それを黙認しているのが安倍首相だが、黙認といえば、中川政調会長(4日配信時の幹事長とあるのは間違いでした)や麻生外相の「核保有の論議ぐらい、いいじゃないか」論も、首相の事実上の黙認だ。

9・11以降の米国が何よりも核拡散を嫌っているときに、日本がNPT(核不拡散条約)体制を離脱して、どうやって国際社会で生きていくのか、どうやって日米同盟を維持するのか、展望を示せるわけがないのに、「核を持ちたい」という願望だけを、北朝鮮や中国に見せておこうというのだろう。

これまでの憲法改正論議で、私は「護憲的改憲論」(憲法の平和精神を生かしながら、自衛のための軍事力などを憲法で明記する)に傾いていたが、安倍改憲内閣の危うさを見て、ただの護憲に趣旨替えをした。この内閣のもとでは、憲法の平和精神を生かすなどという論議はできるはずがない。「平和」は真っ先にゴミ箱に捨てられる運命だ。

来年度予算をめぐる論議もひどいものだ。巨額の財政赤字で日本は破滅するみたいな財政キャンペーンのもとで、このところの予算は歳出削減が続いてきた。公務員の人員も賃金も切らないで、歳出だけ減らすことは、国民への公的なサービスが減らすことと同じだ。国民は財政再建のためならば仕方がないと、我慢をしてきたのに、安倍首相の主導で、会長のクビをすげ替えたという政府税調は、企業減税に前向きの姿勢を示す答申を出した。

「国際競争力」というご紋を示せば、国民がはいつくばると思っているのだろうか。介護保険は介護の水準を落とす、障害者への支援は削り取る、こんどは生活保護も減らす。その一方で、企業には減税する、というのでは、いったいどこを向いた内閣かと言いたい。

企業にお金が回れば、賃金にもはね返って、国民も豊かになる。株主優遇のご時世では、そんなことも言いづらいだろうが、そこになにがしかの理屈はある。しかし、なぜ、生活者としての国民に公共サービスの削減、恒久的だったはずの定率減税を削減する一方で、企業におまけを与えようとするのか。財政再建という国家的な課題に企業部門は貢献しなくてもいいのか、それとも、財政赤字は公共サービスを切るための理由付けだけなのか。

もちろん安倍首相や中川幹事長は、「成長戦略」というのは情報化が進む「第3次産業革命」を前提にしての話で、景気の循環よりも長い期間を見てのことだと、そうした疑問に答えるだろう。しかし、財政の赤字体質からの脱却という目標からみると、「成長戦略」を論議する前に、景気の下降で目標が揺らいでしまうことになりかねない。

経団連も、財政赤字には知らんぷりで、企業減税だ、法人税の引き下げだ、とわめくのなら、国家や国民などという言葉はやめて、ただのロビイストだと言ってほしい。そんなロビイストの代表が政府の経済財政諮問会議で、国家や国民のための経済政策を語っているかと考えると、村上ファンドやホリエモンや、「住基ネットを使っても受信料を取りたい」という強欲なNHK会長までも、かわいく見えてくる。

これだけ、よってたかって弱い者いじめをしておいて、子どもたちには「いじめをやめよう」なんて、虫が良すぎないか。文部省が24時間態勢で子どもからの電話を受け付けるというのなら、厚生労働省も、障害者、生活保護者、ドミニカ移民、残留孤児などからの電話を24時間受け付ける窓口を設けてはどうか。鳴りっぱなしになること間違いなしだ

いやはや、日刊ゲンダイ風もいいが、自分の「品格」が許さない、という人もいるだろう。そういう方には、神野直彦・井出英策編『希望の構想-分権・社会保障・財政改革のトータルプラン』(岩波書店)を読むことをお勧めしたい。

市場経済と「小さな政府」に頼った国家のありかたが世界的にも行き詰まっていることを示しながら、もっと弱者に配慮した「ほどよい政府」をつくるための処方箋が明示されている。

最後に、上記の本に書かれている警告の一節を紹介して、この稿を終えたい。

「強きを助け、弱きを挫く」という市場論理が支配する経済システムの結果を、政治システムが「弱きを助け、強きを挫く」という論理で跳ね返して社会統合を図っていくのではなく、政治システムが嵩にかかって「強きを助け、弱きを挫く」という論理を振りかざした末路は悲惨である。

 


2006-12-02 土 「社説--比べて読めば面白い」 中国残留孤児判決

2006-12-02 06:58:18 | 「保存している記事」から

朝日 毎日 東京 北海道 神戸 中国 西日本

2006年12月02日付 西日本新聞社説

国の無策が指弾された 中国残留孤児

 中国残留孤児に関する国の施策は怠慢であると厳しく指弾し、国に初めて賠償を命じる判決を神戸地裁が示した。

 国は、敗戦後に旧満州(中国東北部)から残留孤児たちを速やかに帰国させなかったことや、永住帰国した後も自立支援策が極めて貧弱だったと批判されたことを誠実に受け止め、ずさんな対応を繰り返してきたことを猛省すべきである。

 判決は、国は少なくとも集団引き揚げが終了した1958年以降、早期帰国を実現すべき政治的責任を負っていたが、これを怠った、と指摘した。

 さらに、日中国交正常化後、孤児の帰国支援に向けた政策の遂行を怠り、帰国制限を行うなどして孤児の帰国を大幅に遅らせたと指摘した。

 永住帰国した孤児の大半が日本社会への適応が難しい年齢となっていたのは、救済責任を果たそうとしなかった政府の無策と違法な行政行為が積み重なった結果である、と厳しく批判した。

 神戸地裁は、原告の残留孤児61人には国家賠償の請求を認め、総額約4億6000万円を支払うよう国に命じた。請求を棄却した4人については、民法上の賠償請求権が消滅する「除斥期間」の経過を理由に権利が消滅したと判断した。

 国の支援策の過ちを明確に認め、残留孤児たちの切実な願いに応えた画期的な判決と評価できる。孤児たちの多くは光明を得た思いに違いない。

 国の自立支援策の失敗は、何より孤児の現状が物語っている。

 祖国にやっとの思いで帰国できた孤児たちの約6割が生活保護を受け、帰国を後悔している人は16%もいることが、厚労省の調査で明らかになっている。

 永住帰国した孤児の約8割にあたる2000人を超える原告たちが、全国で係争中の集団訴訟の1つが国家賠償を求める判決となったことで、ほかの訴訟に大きな影響を与えそうだ。孤児対策についても見直しにつながることが期待される。

 ただ、司法判断は揺れている。集団訴訟で初の判決となった昨年の大阪地裁判決は、戦争損害による犠牲は国民が等しく受忍すべきとし、請求を棄却した。

 今回の神戸地裁判決は、この主張を明確に否定し、国は当初残留孤児を外国人として扱い、帰国を希望しても親族の同意や身元保証人を必要とするなど、帰国を妨げる違法措置があったとしている。

 注視すべきは、北朝鮮の拉致被害者に対する対応と、孤児支援策の格差を指摘したことだ。孤児たちには、拉致被害者が法律上受ける支援措置と同等の自立支援措置を受ける権利があるという。

 高齢化が進む孤児たちは、国の心からの謝罪を求めている。孤児たちの「日本人として、人間らしく生きる権利を」との切実な願いをいつまでも放置していては、国の人権感覚が問われかねない。

 国は孤児の支援策について、抜本見直しを迫られていることを自覚すべきだ。

=2006/12/02付 西日本新聞朝刊=

 


2006-12-02 土 「社説--比べて読めば面白い」 中国残留孤児判決

2006-12-02 06:51:34 | 「保存している記事」から

朝日 毎日 東京 北海道 神戸 中国 西日本

2006年12月02日付 中国新聞社説

中国残留孤児判決 国は救済に本腰入れよ

 神戸地裁できのう出た判決は画期的だったといえる。中国残留孤児が起こしていた全国十五地裁の集団訴訟で初めて、原告側の請求を認め、国に総額約四億六千八百万円の国家賠償を命じる判決が言い渡された。

 「大きな勇気をもらった」「救済への道が開ける」。法廷や支援の集会で、そんな喜びの声が飛び交ったのも無理はない。年老いた原告たちにとって、待ちわびた知らせだったに違いない。

 安倍晋三首相は判決を受け、「国としてもきめ細かな支援を行いたい」と述べた。判決では、北朝鮮拉致被害者と同等の自立支援策を残留孤児にも求めている。国の「本気度」が試される事態だ。

 今回の訴訟では、兵庫県などの孤児六十五人が提訴。日本への早期帰国実現や帰国後の自立支援を怠った、として国に一律三千三百万円の賠償を求めていた。

 橋詰均裁判長は原告の訴えをほぼ認め、六十一人について「孤児の帰国に際し、身元保証を要求するなどの措置が帰国を制限する違法な行政行為に当たる」と国の賠償責任を認定。残りの四人については、帰国時期が早かったと判断し、二十年で賠償請求権が消滅する「除斥期間」を適用して請求を棄却した。

 判決文の言葉が重い。旧満州(中国東北部)に、一般の邦人を無防備な状態に置いた戦前の政府の政策は、自国民の生命、身体を著しく軽視する無慈悲な政策だったというほかない―と指弾。平和憲法の理念を国政のよりどころとする戦後の政府も、孤児を救済すべき高度な政治的責任を負っているとしている。

 原告側の請求を棄却した昨年七月の大阪地裁も、判決の中では「孤児が中国や帰国後の日本で不利益を受けた実態は看過できない」としていた。

 今年二月に東京地裁であった中国残留婦人訴訟の判決は、原告が受けた被害の甚大さなどに言及。「裁量権逸脱や違法性を認める可能性も十分にあった」と国側の対応を批判した。

 今回の判決は、こうした司法判断の流れに立脚していると見るべきではないか。日中国交正常化から三十四年。永住帰国した孤児約二千五百人の八割以上が祖国を訴える集団訴訟に加わり、生活保護を受ける人も半数を超す。永住帰国を後悔する孤児も少なくない。今回の判決を機に、孤児たちの戦後の清算にも弾みをつけたい。