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2007-01-03 水 毎日新聞社説  政治決戦 「劇場型」はもう要らない

2007-01-03 15:10:44 | 「保存している記事」から

シリーズ【毎日新聞社説】 07年、もっと前へ   <<前へ  目次  次へ>>

2007年01月03日(水曜日)付

07年もっと前へ 政治決戦 「劇場型」はもう要らない

 ◇有権者が政策競争促そう

 「最近、政治がつまらなくなった」--。こんな声をよく聞く。安倍晋三内閣の支持率は昨年12月の毎日新聞調査で46%に落ち込んで、今や「顔が見えない」が安倍首相評の定番だ。かといって野党支持が拡大しているわけでもない。再び増えているのは「支持政党はない」という無党派層だ。

 今年7月には参院選がある。自民党が大敗すれば、安倍首相は早々に進退が問われる可能性がある。対する民主党の小沢一郎代表は参院で自民、公明の与党を過半数割れに追い込み、早期の衆院解散・総選挙を迫るシナリオを描く。

 今月25日開会する通常国会では参院選をにらんだ与野党攻防が始まる。春には東京都知事選をはじめとする統一地方選も控えている。そんな大事な政治決戦の年でありながら、国民の関心が薄らいでいるとしたら、これもまた「政治の危機」と言うべき事態である。

 ◇「組織」頼る自民と民主

 5年半の小泉政権時代が終わって3カ月余が経過した。電撃的な北朝鮮訪問や刺客騒動、そして靖国参拝……。小泉純一郎前首相は「ワイドショー政治」と言われながらも確かに国民の目を政治に引き寄せてきた。

 しかし、「小泉劇場は面白かった」と懐かしんでいるばかりではいられない。劇場型政治の狂騒を経て、また一歩、日本の政治が新しい段階に踏み出せるかどうか。私たちは今、そんな重要な岐路に立っている。

 残念ながら政界では時計の針を戻すような動きが目立つ。

 好調な出足がうそのように安倍政権は早くも失速している。自民党が若い安倍首相をリーダーに選んだ最大の理由が「国民的人気」だったことを考えれば支持率低下は一段と深刻だ。だが、支えるべき自民党も首相の人気回復を図ろうとしているようには見えない。かえって「前首相に比べて怖くない」と官邸より党の発言力が強まるのを歓迎している様子である。

 かつて自民党は「党高政低」「権力の二重構造」と言われ、首相の影は薄かった。党は選挙で応援してくれる既存の支持者を大切にし、それが政策にも反映されてきた。結果、もたらされたのが政官業の癒着構造だった。「それでは日本は立ち行かない」との声が強まったから、官邸主導を目指す一連の政治改革が進んだはずだ。そして、郵政民営化をはじめ、「自民党の支持基盤を崩しても改革を」という姿勢に多くの国民が期待したからこそ、小泉政権は大きな支持を得たのではなかったか。

 ところが、改革を前に進めるどころではない。自民党は旧来の支持組織や業界を重視する方向に戻りつつある。郵政造反組の復党が象徴的だ。復党を急いだ最大の理由は参院選を前に造反組の後援会や支持団体を味方につけたかったからである。

 もちろん、格差問題など小泉時代の負の側面は是正が必要だ。だが、改革はまだ緒についたばかりだというのに小泉改革に不満だった「身内」への癒やしばかりに目が向いているように思える。

 あてにならない無党派より、頼りは組織票ということなのだろう。傾向は民主党も同じだ。小沢代表は農協や漁協などを精力的に回り、参院選比例代表には自民党寄りと見られていた組織・団体からも候補を擁立する方針だ。これが自民党の危機感をあおっているのは確かだが、選挙戦術を優先する余り、政党の柱というべき政策がいささか二の次になってはいないか。

 民主党がまとめた「政権政策の基本方針」には、従来の消費税率引き上げ方針を撤回し、高校教育の無償化や零細農家への所得補償などが盛り込まれた。だが、肝心の財源の裏づけは乏しく、自民党からも「バラマキだ」と批判を受けている。

 国民の痛みを伴っても必要なら具体的に数値を盛り込んで提示する。民主党はマニフェスト時代を意識し、綿密な政策作りをしてきた。それが政権担当能力をアピールする武器だったのに「あれもやります、これもやります」の旧来型公約に戻ろうとしている。

 ◇前哨戦は統一地方選

 かつて「(無党派層が)寝てしまってくれれば……」と語った首相がいたのを思い出そう。今また自民党などでささやかれているのは「投票率が低い方が有利では」といった話だ。

 組織に縛られず、個人の意思で投票する人は確実に増えている。無党派層は決して無関心層とイコールではない。にもかかわらず、「そんな人たちは投票所に行ってくれるな」と言わんばかりに政党は軽視しているのだ。有権者はもっと怒りの声をあげていい。

 幸い、参院選まで半年以上ある。注目したいのは統一地方選だ。地方では政策立案を重視する首長候補や議員候補が徐々に増えている。有権者は候補者が掲げる政策を十分、見すえて投票しよう。それは自分たちが、どんな政治家を望み、どんな政策を優先しているか、鈍感な政党に知らしめる好機となる。

 劇場型のブームがない分、各党のマニフェストをじっくり吟味する環境が整ったとも言えるのだ。「つまらない」という不満は脇に置き、私たち有権者が政党の政策競争、改革競争を促す。そんな年としたい。

毎日新聞 2007年1月3日 東京朝刊

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2007-01-03 水 北海道新聞社説 格差と貧困への対策急務

2007-01-03 06:53:38 | 「保存している記事」から

北海道新聞社説 シリーズ 何を変え 何を守るか 

2007年01月03日(水曜日)付

何を変え 何を守るか *2* 格差と貧困への対策急務

 嫌な言葉だが「勝ち組・負け組」、「下流社会」が流行語となり、すっかり定着してしまった。

 格差は小泉純一郎前首相が進めた構造改革の「負の遺産」としてさまざまな分野で拡大した。安倍晋三政権になってもその傾向は変わらず、むしろ深刻になっている。

 かつて「マル金(金持ち)」「マルビ(貧乏)」という言葉がはやったことがある。一九八○年代半ば、日本経済はバブルの絶頂期に向かって突き進んでいた。

 そのころから国民の意識は変化していたのだろう。だが、当時と大きく違うのは社会のひずみが若者に集中してあらわれていることだ。

 広がる格差とどう向き合い、どう是正すればいいのか。日本社会のあり方が問われている。

*現実を直視することから

 東京都内のネットカフェは、フリーターが寝泊まりする場となっているところも少なくない。

 パソコンとリクライニングシートがあるだけの狭い部屋だが、深夜に入店すれば朝まで千円ちょっとで過ごせる。

 住む家のない若者らが昼間は派遣やパートで働き、夜になると戻ってくる。常連も多い。

 ある民間研究機関の推計によると、フリーターの平均年収は百六万円にすぎない。

 いくら働いても生活保護水準に満たない収入しか得られない。残酷な言葉だが「ワーキングプア」(働く貧困層)だ。これでは独立して生活するのは難しいだろう。

 格差問題はいまや高所得者と低所得者の階層分化ではすまず、貧困問題としてとらえなければならないところまできている。

 この現実をしっかりと直視することが、格差是正に向けた議論の出発点になるのではないか。

 フリーターの多くは、九○年代後半の就職氷河期に定職に就けなかった人たちだ。

 能力が十分あるのに正規雇用されなかった人もいて、企業にとっては都合のいいときだけ使える雇用の緩衝材となっている。

 戦後最長といわれる景気拡大で、一部の大学では「バブル期並み」の売り手市場となっている。だが、企業は新卒の採用には意欲的でも、フリーターなどの正社員化には極めて消極的だ。

 四百万人ともいわれるフリーターがこのまま四十代、五十代を迎えたら、日本はいったいどんな社会になるのだろう。

 大企業はここ数年、空前の好決算に沸いている。企業の社会的責任として、雇用システムの見直しを真剣に検討すべきときだ。

*問われるべき政府の姿勢

 「格差が出ることは悪いことではない」。小泉前首相は国会で、格差を容認する発言を繰り返した。経済効率を高めるために所得格差の拡大はやむを得ない、という信念からだったのだろう。

 ライブドア前社長の堀江貴文被告も同じようなことをいっている。「それで将来格差がひらいたっていいじゃありませんか。みんなエリートに食べさせてもらえば」。その著書「儲(もう)け方入門」での発言だ。

 ニートやフリーターが社会問題となる一方で、東京・六本木の高層ビルにオフィスを構えた堀江被告らはヒルズ族と呼ばれ、派手な生活が一部でもてはやされた。

 小泉政権ではこうした人たちが持ち上げられ、格差を助長するような政策がとられてきた。

 確かに経済の活性化には一定の競争は必要だが、だからといって格差拡大を放置していいということにはならない。社会から貧困をなくすことは政府の役割のはずだ。

 安倍首相になって所信表明演説で「格差を感じる人に光を当てるのが政治の役割だ」と述べるなど、方向転換したかにみえた。

 だが、新年度予算案に盛り込まれた再チャレンジ支援策は、相談窓口の増設など既存の政策の焼き直しばかりだ。そこには格差問題を真正面から受け止めようという姿勢はまったくみられない。

*「機会の平等」をどう確保

 昨年末の政府税制調査会総会でのことだ。

 一部の委員から格差問題への対応が提起されたが、結局は成長重視の声にかき消され、答申にはほとんど反映されなかった。

 税を通じた高所得者から低所得者への所得再配分が、格差是正への有効な手段であることは間違いない。

 ところが日本ではこの二十年間で所得税の最高税率が大幅に引き下げられ、高所得者が優遇される一方で低所得者には不利な税制に移行している。再配分機能は低下しており、見直しは必要だ。

 政府の役割でもう一つ重要なのは「機会の平等」の確保だ。

 高所得者の子供しかいい教育を受けられないのでは、格差は固定化してしまう。努力や能力次第で進学できるよう、公立学校や奨学金制度の充実が急がれる。

 格差を完全になくすことは難しいだろう。だが、低所得でも安心して働き暮らせるような社会をつくることは、緊急の課題だ。

 政府は自らに課せられた責任の重さを自覚してほしい。

 


2007-01-01 月 元日の琉球新報社説

2007-01-01 06:41:48 | 「保存している記事」から

「社説--比べて読めば面白い」
朝日 毎日 読売 日経 産経 東京 北海道 京都 神戸 中国 西日本 沖縄タイムス 琉球新報

2007年01月01日(月曜日)付 琉球新報社説

今年を振り返る・命の大切さを考えた1年 すさんだ社会にピリオドを

 児童生徒のいじめ自殺、幼児虐待、飲酒運転事故多発に代表されるように、今年は例年にも増して命の大切さについて考えさせられた1年だった。「一人の生命は全地球よりも重い」という言葉があるが、それは何物にも替え難い、掛け替えのないものというメッセージにほかならない。

 誰にも相談できず、一人で悩み抜いた末に自ら命を絶つことを選択してしまった子どもたち。理不尽な事件・事故で死に追いやられた人や、残された家族。彼らの深い悲しみ、無念さを思うといたたまれない。

■多発した「理不尽」

 周囲はもう少し手を差し伸べてやれなかったか。長年指摘されてきた問題を、対応せずに放置してこなかったか。年の瀬も押し詰まったが、一人一人が胸に手を当て、省みる時間をつくりたい。

 国内では、福岡県で10月、中学2年の男子生徒が「いじめられ、生きていけない」と遺書を残し、自宅倉庫で首つり自殺をした。岐阜県でも同月、中学2年の女子が自宅で首つり自殺。同じ部活動の生徒名を記し「これでお荷物が減るからね」と書き残していた。

 このほかにも、いじめが原因とされる自殺は愛媛県、北海道、埼玉県、山形県などで相次いだ。自殺者の多くは、心身両面で恒常的に陰湿ないじめを受けていたが、学校側には「いじめが原因かどうか分からない」などと、事の重大さを受け止めない発言も目立ち、父母らの怒りを買った。

 いじめ問題で傍観者になってはいけない。教師も周りの生徒も、父母も、そして地域の人々も、それぞれが深刻に受け止め、根絶に立ち向かう勇気を持ちたい。

 痛ましさは飲酒運転事故も同じだ。福岡市で8月、飲酒運転の市職員の車に追突された会社員の車が博多湾に転落、乗っていた幼児3人が命を落とした。沖縄でも伊平屋村で飲酒運転の教諭の車が同僚をひき、死亡させた。

 以後、飲酒運転根絶に向けた運動が全国的に展開され、同乗や車両提供者にも罰則を科す制裁強化の道交法改正試案がまとまった。厳罰化には異論もあろうが、一瞬にして命を奪う惨劇を考えれば、これまでが甘すぎたとも言える。

 理不尽の最たるものは、沖縄の米軍基地問題だ。日米両政府が最終合意した普天間飛行場移設案など再編内容は、住民の負担軽減というよりも、生命の危険も含めて新たな重圧を強いるもので、政府に翻弄(ほんろう)される構図を残した。

 「国家の品格」という本が年間ベストセラーの1位になったが、品格を疑う不祥事も多発した。公共工事をめぐる官製談合事件で福島、和歌山、宮崎の各県知事が逮捕され、岐阜県では前知事時代の巨額裏金が発覚した。権力を握る県政トップの統治能力が疑われては、地方分権もままならない。

 沖縄では県発注工事で談合を繰り返していた152社が、公正取引委員会から総額30億円余の課徴金納付を命じられる前代未聞の大量処分があった。談合は「必要悪」でなく「絶対悪」ということを肝に銘じたい。

 発足3カ月の安倍政権は、相次ぐ不祥事に揺れた。「国民との対話」をうたった内閣府タウンミーティングで「やらせ」が恒常化していたことが明らかになり、「官官対話」と批判を浴びた。

 官舎に不適切に入居していた政府税制調査会長、政治資金収支報告書を不適切に処理していた行革担当相が相次いで辞任。郵政「造反組」の復党問題もあり、内閣支持率は陰りを見せている。

 不祥事を横目に「国と郷土を愛する態度」を盛り込んだ改正教育基本法が成立。「防衛省」関連法も成立し、自衛隊海外派遣が本務となった。なし崩し的に平和憲法まで変えないか警戒したい。

■心強い若者の奮闘

 沖縄にとって救いは、好調な観光と健康ブーム、地域再生の動き、スポーツ・芸能分野での若い人たちの活躍などだろう。

 女子ゴルフは宮里藍と諸見里しのぶが米国ツアーに本格参戦し、宮里美香はアジア大会で銀メダルを射止めた。サッカーでは我那覇和樹が日本代表に入り、県少年男子は国体を制した。甲子園での八重山商工の離島旋風も記憶に新しい。県出身ミュージシャンはヒットチャートをにぎわせた。

 次代を担う若者たちの奮闘は心強い。すさんだ社会にピリオドを打ち、新年は沖縄から新しい風を吹かせてみたい。

(12/31 10:14)

 


2007-01-01 月 元日の沖縄タイムス社説

2007-01-01 06:35:42 | 「保存している記事」から

「社説--比べて読めば面白い」
朝日 毎日 読売 日経 産経 東京 北海道 京都 神戸 中国 西日本 沖縄タイムス 琉球新報

2007年01月01日(月曜日)付 沖縄タイムス社説

【新年を迎えて】 「共生」を見つめ直そう

不思議なガジュマルの花

 自然界には奇妙なものや不思議なものがいっぱいある。沖縄の至る所で繁茂し、私たちの身近にある「ガジュマルの花」もその一つに違いない。

 だが、ガジュマルの花を知っている人は少ないのではないか。大方の人は「果実は知っているが、花は見たことがない」と答える。「花が咲くの?」と首をかしげる人も多い。

 それもそのはずだ。ガジュマルの花は果実の中に咲くため外からは見えない。「隠花植物」という文字通り、隠れて咲く花だ。

 昨年暮れ、植物に詳しい海洋博記念公園の花城良廣本部長にその花を見せてもらった。

 ガジュマルの果実そのものが直径一センチ前後と小さいため、花はさらに微小だ。果実を小刀で真ん中から切ると、花嚢という袋の中に黄色または淡黄色の繊維状の花が群れているのが見える。神秘的な雰囲気になる。

 「自然は飛躍をなさず」と言ったのは、スウェーデンの植物学者カール・リンネである。「芽から葉・蕾・花・実」という順序を一つも飛ばさない自然の法則を説いた。花が咲くと、果実が淡紅色から黒紫色に熟するガジュマルにもぴたり当てはまる。

 隠花植物はクワ科のイチジク属で、東南アジア、アフリカ、中南米など熱帯を中心に約七百五十種が分布しているという。

 日本では十種以上、そのうち県内で生育しているのはガジュマル、アコウ、オオイタビ、ハマイヌビワ、オオバイヌビワの五種だ。

 花城本部長の話は、さらに興味深くなる。「あの偉大な植物学者・リンネさえ理解できなかったことが最近の研究で分かってきた」と言う。

 ガジュマルを含めたイチジク属の果実を割ってみると、中にはハチの巣のように小さな羽虫がいっぱい入っている。

 主に夏場に多く見られる現象で、くだんの海洋博公園では、冬場のせいで一匹も見られなかった。

 標本を見せてもらったが、全長一ミリほどで、虫めがね、いや、ほとんど顕微鏡の世界だ。羽虫の名は「イチジクコバチ」という。

イチジクコバチの「住み家」

 イチジク属の植物とコバチ(小さな)は、太古の時代から「共生」関係を結んでおり、互いに助け合って生きている。蜂 DNAの塩基配列などといった分子生物学の目覚ましい進歩によって分かるようになったらしい。

 イチジクもガジュマルも、この小さな昆虫がいなければ実を結ばないし、小昆虫の方もイチジク属の植物がなければ産卵、繁殖ができない。

 ガジュマルの花は、コバチにとって生き、成長し、子孫を残すための立派な「住み家」である。コバチの幼虫は、花の子房を食べて育つとされ、食糧まで与えているのだ。

 この恩に報いて、コバチはガジュマルの花の送粉、受粉の仲介役を担っているのである。

 ガジュマルは、険しい岩場や高い建物の上にまでよじ登っていく。他の木に寄生すると、気根を絡みつかせてその木を絞め殺すほどに生命力が強い。

 昨年末、うるま市で商店街のアーケード上に根を下ろし、数十年生き抜いた「ど根性ガジュマル」が、建物の取り壊しで移植された。

 コンクリートを割って生えたり、高い建物にまでよじ登るのは、イチジクコバチの仲介でそのガジュマルの種子が発芽するからである。

「個」が「孤」に陥る格差社会

 ガジュマルの花の話は、かなり蛇行したが、地球温暖化のように大自然の法則を破壊しているのはやはり人間ではないか、との思いがますます強くなった。

 自然の猛威である台風、津波、地震などの異常発生も、自然の法則に人間が立ち入って、手を加え過ぎたのではないか、との「因果律」を考える。

 鳥はひなをかえす時、親鳥が卵の殻をくちばしで叩いて割るタイミングを逸しない。早過ぎてもいけないし、遅過ぎてもいけない。「卒啄の機」を本能的に知っているのだ。

 私たちは今、かつての地域社会に見られた「共生」や「共感」が失われ、多くの人が「個」に分断され、「生きづらさ」を感じているように思う。

 格差社会が広がれば、個は「孤」に陥り、共生の心も育つはずがない。

 自然界に学ぶべきことは、想像以上に多い。美を競うのでもなく、隠れて咲く花があることも忘れたくない。

 


2007-01-01 月 元日の西日本新聞社説

2007-01-01 06:32:08 | 「保存している記事」から

「社説--比べて読めば面白い」
朝日 毎日 読売 日経 産経 東京 北海道 京都 神戸 中国 西日本 沖縄タイムス 琉球新報

2007年01月01日(月曜日)付 西日本新聞社説

あらためて、地域主義を誓う

 「たしかな明日」が見えないままに、年が明けた。

 バブルの崩壊とデフレ不況で長く続いた「失われた時代」からようやく抜け出せる。そう思ったら、今度は人口が減り始めた。少子高齢化と人口減の同時進行である。しかも、テンポは想像していた以上に速い。

 同時に、経済財政の構造改革は、日本経済に活力を与え国際競争力を強めることが時代の要請とはいえ、社会に格差を広げた。

 経験したことのない人口減社会と格差社会の到来である。「たしかな明日」が見えない要因もここにある。

 それをどう克服し、私たちの国が戦後築いてきた「豊かで平和な社会」をいかに持続していくか。

 その処方箋(しょほうせん)を示し、実現する責任を負う政治のリーダーシップがかつてなく問われる。同時に、それを監視する私たち新聞もジャーナリズムとしての役割と力量が問われる。そんな時代状況にいま、ある。


人口減と高齢化の中で


 出生率がこのままなら、50年後の日本の人口は現在の1億2700万人から8900万人に減少し、65歳以上の高齢者の割合が約4割に達する見通しだという。

 年末に公表された、わが国の「将来人口推計」のデータである。

 あまり想像したくない日本の将来の姿ではある。だが、私たちはこれを現実として受け入れなければならない。これからは人口減と超高齢化を前提に社会の仕組みを考えなくてはならないということである。

 人口減と高齢化の同時進行で、働ける世代が高齢者や子どもを支えるという現在の社会システムはいずれ立ち行かなくなる。年金や医療など社会保障は、いまのままの制度では財政的に破綻(はたん)する、と多くの専門家も指摘する。

 経済政策では、成年人口の減少に伴う生産性の縮小で、消費や税収、貯蓄が減り、財政危機や経済の停滞など深刻な事態も予想される。

 そうした事態を避けるためには当然、人口減と高齢化に対応できる社会システムへの変革が必要になる。それがいま政治の最大の課題であり、時代の要請でもある。

 政治もその要請に応え、1990年代後半からさまざまな改革を行ってきた。が、それらは財政再建や経済活力の再生など、国家と経済力の維持強化に主眼が置かれたものだった。

 国に活力が出れば、国民も豊かになる。その発想が間違っているとは言わない。国の舵(かじ)取りをする側からすれば適切で効率的な改革手法だろう。だが、そこでは地域社会や社会的弱者への目配りは手薄になりがちだ。

 「聖域なき構造改革」を掲げた小泉政治の5年半が、そのことを示している。「小泉改革」は行財政の効率化と市場原理に基づいて規制緩和や民営化を推し進め、競争によって経済に活力をよみがえらせた。

 が一方で、これまでにない競争社会の出現は、企業や個人の間に「所得格差」を広げ、行財政の効率化と財政再建は、大都市と地方の「地域格差」を一層大きくした。

 年金や医療などの社会保障も、給付と負担という財政上の数字合わせの側面が重視され、負担増と給付減の流れが世代間の不公平感を強めた。

 このまま格差や世代間の不公平感が広がり続ければ、日本社会に深刻な亀裂が生じかねない。


格差に向き合う政治を


 人口減と高齢化に対応できる社会経済システムへの改革が、政治に課せられた要請とはいえ、改革に伴う痛みや格差をどう緩和するかも政治に欠かせない視点であるはずだ。それは改革を進める政治の責任でもある。

 だからこそ、痛みや格差社会に真剣に向き合う政治がいま求められる。

 その際、人口減と少子高齢社会の影響は、地域によって大きなばらつきがあることを忘れてはならない。

 首都圏や大都市ではこれからも人口集積が進むだろうが、地方の中山間地域では過疎化と高齢化が深刻だ。

 九州の中山間地域では「将来人口推計」が示す50年後の姿が、既に現実になっている。九州では30年後に65歳以上の高齢者が4割を超える町村が100を超えるとの予測もある。高齢化率が既に5割を超え、近隣住民による「支え合い」さえ難しくなっている「限界集落」も目立ち始めた。

 人口減と少子高齢社会がもたらした地域格差の縮図である。

 こうした地域をすくい上げ、ともに豊かさを享受できる国づくりをするのが政治の本旨だろう。だが、経済効率と目に見える効果を重視する国の社会システム改革に、地域の実情に見合ったきめ細かさは期待できない。どうしても中央からの発想になる。

 どうすれば地域格差を緩和し、九州地域の都市と地方が豊かさと安定を共有できるか。国の政治に過度に期待せず、地域社会が問題意識を共有し、中央に実情と処方箋を発信して政治を動かす。その熱意と行動が求められる。

 それが地域の「たしかな明日」につながるはずだ。九州に依拠するブロック紙として、私たちはその先頭に立つ覚悟である。

 × × ×

 西日本新聞の前身である福岡日日新聞は大正15年4月、創刊50年の社説でこう書いている。「地方新聞の職責は、いかにして日本人の思想や制度や風俗を東京化すべきかにあらずしていかに東京化を防止すべきかにある。政治家に今後研究すべきものありとせば、そは地方の趨向(すうこう)ならざるべからず、学ぶべきものありとせば、そは地方の問題ならざるべからず」

 この強烈な地域主義こそ、福日いらいの西日本新聞の伝統である。その根底には、地域社会こそが民主主義の基盤であり、国の安定と発展につながるという信念がある。

 西日本新聞はことし創刊130年を迎える。80年後のいまも、この伝統と信念は変わらない。

=2007/01/01付 西日本新聞朝刊= 2007年01月01日00時06分
 

2007-01-01 月 元日の中国新聞社説

2007-01-01 06:25:48 | 「保存している記事」から

「社説--比べて読めば面白い」
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2007年01月01日(月曜日)付 中国新聞社説

自立する地方へ もっと「分権」、住民の「自治」を

 地方という「窓」がある。そこから分権のあるべき姿を見据え、自立する道を探りたい。地方に生きる者が担うべき大切な役割だからだ。

 自ら考え、決めることが自治の原点という。住民と自治体が一緒に「明日の姿」を探ろう。地方財政は厳しい。人口の減少も地方ほど激しい。条件は決してよくない。だが冷静に状況を見詰めた上で、「地域主権」に挑もう。住民本位の自治を地方が実証し、発信することに力を注ぎたい。

 四月に統一地方選、七月には参院選と選挙が続く。これは単に選良や代弁者を選ぶ手続きではない。住民にとって、「選ぶ」ことを通して地域、地方、国がどうあればいいか熟考する機会である。活力をもたらす行政権限と財源が、より住民の身近になる方策を引き寄せることでもある。地方の将来を自らが問う契機にしよう。

 「平成の大合併」が一段落し、枠組みは大きく変わった。

 中国地方の五県では、三百十八市町村が百十四市町村に減った。なかでも広島県は八十六市町村が二十三市町に激減し、減少率73・3%は全国一だ。合併による効率的な行財政運営で基盤を強めようというのが理由だが、税財源の乏しい多くの過疎自治体が合併特例債などに頼って生き残りをかけたのが実態だろう。

 合併後の検証を

 今、必要なのは合併後の現状を十分に検証することだ。中心部から遠くなった旧町村では役場が支所になり、行政機能は薄れた。町の中の一極集中は強まる。合併した町村の融和を図ることも急務だ。自治体が広域になることで行政と住民の距離が遠くなっては、合併が分権の受け皿になり得ない。

 合併の優等生とされる広島県では、合併市町に対して県から「事務・権限の移譲」が加速している。二〇〇九年度までの五年間で百八十九項目を移す。福祉、まちづくりに関する権限を中心に、二重行政をなくして、身近な施策を進める狙いだ。市町ごとにほしい権限を聞いて移す方式を取り、先進例ともいわれた。

 それでも現実には厳しさが伴う。生活保護の権限を受ける過疎の町では、対象世帯を就労支援する職場が少ない。合併で役場職員は減って、事務量は増える。権限移譲の受け皿づくりは簡単にはいかない。必要な施策を選ぶ自治体の責任と力量も求められる。分権の理念を具体化する努力が重要だ。乗り越えねばならない課題である。

 省庁の抵抗排せ

 昨年の臨時国会で地方分権改革推進法が成立した。十一年前の地方分権推進法に続く、第二期改革のスタートになる。しかし、これまで国が分権に積極的だったとは決して言えない。旧法下では国の機関委任事務を廃止し、国と地方の「上下」関係を一応「対等・協力」に替えた。だが、権限移譲を渋る省庁の強い抵抗には切り込めていない。しかも、小泉内閣の三位一体改革では国の財政再建が優先され、補助金削減より移譲財源は少なかった。とても分権改革が進んだとはいえない。

 今回こそ国と地方が担うべき権限を整理し、省庁の抵抗を封じて本格的な分権体制をつくる責任が国にはある。

 ただ、心配なのは山間地が瀕死(ひんし)の状態にあることだ。過疎自治体では生活機能を維持できない集落が急増する。高齢化などによる耕作放棄地が、中国地方では全農地の17%と全国最高水準に達している。さらにバブル崩壊後の改革、競争至上の物差しからは完全にこぼれて、ムラが消えていく。その状況を立て直すのは並大抵でない。

 自治体と住民が結束しよう。人は減っても、支え合って「住みやすい」地域をつくろう。そこに人が暮らしているのだ。農業再生には集落営農を組織化したり、担い手になり得ない農家を支える救済包囲網をつくろう。

 地域の活性化には、団塊世代の帰農を含めたU・Iターンを一層進めたい。もちろん克服する課題は多い。移住する側と受け入れ側が、ともにはっきりした戦略と意思を持つことだ。単なる人集めや田舎願望だけではミスマッチが起きる。価値観を共有したい。

 何より人づくり

 もう一つは山間地と都市の共存だ。互いが違う機能と役割を担い、足らざるを補完し合う。農山村にはたくさんの価値がある。水源であり、自然の癒やしであり、農産物の生産地…。その機能が失われれば都市も生きてはいけない。前向きな共生が今こそ大切だ。

 何より地域の人づくり機能を高める必要がある。そこに行けば学べる教育や特性を高めたい。大学を含め、行政と住民が努力を重ねよう。人づくりが人を呼ぶ。そうした地域づくりを後押しする分権でなくては意味がない。

 分権を生かす自治体や住民も、自分たちの町に要る施策は何か。どんな役目を果たせばいいのかを見定めよう。本物の「自治の目線」を持ちたい。住民参画の態勢を確かなものにしよう。「そこに暮らす」視点で「受益と役割」を考えることだ。住民だって、本当に進むべき方向が見えたら、我慢しながらでも前に進める。その協働意識が自治の原点ではないか。

 画一の制度や施策が機能する時代は終わった。だからこそ住民自らが考え、地域や地方に合った行き方を決める必要がある。合併の次に道州制の議論がある。それも、自治体の権限が強化された上での話だ。道州制の基礎には「地域主権」がなければならない。

 生き生きした地方の自治があってはじめて、国全体が健全に発展する。分権社会の意味はそこにある。

 


2007-01-01 月 元日の神戸新聞社説

2007-01-01 06:22:47 | 「保存している記事」から

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2007年01月01日(月曜日)付 神戸新聞社説

地域の遺伝子/足元にある価値を掘り起こそう

 地方がもっと元気にならないと。これからは地方がリードする。そんな声が飛び交って、ずいぶん時間が過ぎた気がする。

 昨年秋、安倍首相も初の所信表明演説で強調した。「地方の活力なくして国の活力はありません」と。古くは明治・大正期の作家、徳富蘆花が「国家の実力は地方に存する」との考えを述べている。

 地方あってこその、国。時代を超えた真理といえるだろうか。

 ところが、現状は期待どおりとはいい難い。もちろん、濃淡はある。だが、一極集中はさらに進み、火が消えたような「シャッター通り」と首都・東京のにぎわいとの落差が際立つ。景気回復による税収増も、企業が少ない過疎地には縁が薄い。「限界集落」という最近よく聞く言葉が、「地域おこし」が叫ばれたころとは異なる様相をうかがわせる。

 「違い」では済まない地域間の「格差」が生まれ、小泉改革の五年あまりで、むしろ痛みは深まったという指摘もある。

 この流れを、変えていかねばならない。二〇〇七年、あの声を本物にすることが、いよいよ重い課題だ。

二つの再生シナリオ 活気を失った地域社会を、どのように立て直すのか。神野直彦・東大教授は「地域再生の経済学」(中公新書)の中で二つのシナリオを示している。

 一つ目は、あくまで工場誘致など従来の路線の延長上に活路を探る道だ。市場主義や民活がキーワードになるだろう。もう一つは環境や生活様式、つまり広く地域文化の復興を図ろうという方向である。

 いずれも、持続可能性をうたう。だが、前者が経済成長の持続を視野に入れるのに対し、後者は人間の生活の場としての持続をめざしており、それが生産活動をも活性化させる。神野さんは、そう指摘した。

 あらためて、わたしたちの足元に目を向けてみよう。そこには自然や歴史遺産、まちの景観、伝統行事や産業など、さまざまな蓄積がある。それらが重なり合って、地域の個性をつくってきた。

 住んでいる人にとっては、あって当たり前なので、値打ちが実感しにくいかもしれない。しかし、そうした「地域の遺伝子」を受け継ぐことが再生のカギ、と足立裕司・神戸大教授(建築史)は説く。

 朝来、養父両市などが連携して進めている「鉱石の道」プロジェクト。わが国の近代化を支えた明延、神子畑、生野の鉱山施設を結び、残っている産業遺産を活用して再生をめざす構想で、足立さんも調査や助言を続けてきた。

 すぐに活性化が図れるわけではないだろう。だが、自分のまちが近代日本の礎(いしずえ)になったという誇りを取り戻せる。過去と同じように、地域の未来を個性的にする。住み続けたいと思わせる魅力につながる。

 かつての五つの国から成る兵庫県は懐が深い。建造物だけでも「身の回りに材料はいっぱいある」と足立さんは言う。ただし放っておけば、消えていく。

 世はあげてグローバル化の時代だ。効率をめざすなら、同じ物差し、画一化したやり方が手っ取り早い。それが暮らしのレベルを上げてきたことも確かだろう。

 とはいえ、地球を覆う時代の潮流に気をとられ、多様な営みをはぐくんできたローカルへの視線がおろそかになるようでは、本末転倒になりかねない。

 すぐそばにある価値を知り、隠れた可能性を掘り起こす。回りくどいようだが、立て直しへの第一歩なのだろう。

幸福度を指標にして インドの北東部、ヒマラヤ山脈のはずれにブータンという小さな国がある。

 統計の上では豊かとはいえないこの山国が、近年、世界の注目を集めるようになった。満足度を生産量ではなく幸せの度合いで計ろうという新しい指標を編み出し、国づくりに生かしているからだ。「国民総幸福量(GNH)」と呼ぶ。

 日本と経済規模が違う、歴史や宗教など背景が違う、と指摘するのは簡単だ。単純に善しあしをいうこともできない。ただ、国内総生産(GDP)という、いわば国際標準にこだわらず、自分たちの価値観で独自の歩みを探る。そんな試みがあることは、知っておいて無駄ではあるまい。

 新しい年、国の政治や経済・財政、教育などの動きがどうなるか。分権の第二ステージが幕を開け、四年に一度の統一地方選挙も控えている。わたしたちの選択を含め、地方自治が問われるときだ。

 テーマが山積するなか、ローカルの課題や目線にこだわれば「東京」では見えないもの、グローバルに通じるものが見えてくるかもしれない。そんなことを考えながら、問題に向き合う一年にしてみたい。

 


2007-01-01 月 元日の京都新聞社説

2007-01-01 06:13:42 | 「保存している記事」から

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2007年01月01日(月曜日)付 京都新聞社説

新しい年を迎えて  思いやりある社会に戻そう

 暖冬異変といわれる中で、新しい年を迎えた。猛威をふるったノロウイルスもようやく下火になったが、注意を怠らず元気にこの年をスタートしたい。

 ことしは、いよいよ団塊世代のトップバッターである一九四七(昭和二十二)年生まれが六十歳の還暦を迎える。

 善くもあしくも変化が好きで、”猪突(ちょとつ)猛進“、戦後の日本社会を動かしてきた団塊世代だ。厚生労働省の世論調査では五十代の七割が「六十歳以降も働く」と意欲的だが、新たな状況にどんな生き方を見せるか、楽しみである。

 世代交代の進展にあわせ、仕事の継承だけでなく、社会のさまざまな分野で支え手側に回るのも、元気な六十代に期待されている役割ではなかろうか。

 社会全体では明るい材料が見え隠れしている。国内経済が全体的には堅調となり、景気拡大は五十九カ月を超えて戦後最長を更新中だ。大学生や高校生の新卒採用率が高まったのは喜ばしい。

 一方、景気低迷期に正規採用から締め出され、パートや派遣で暮らす人たちは割を食ったままだ。いったんレールからはずれた人の再挑戦や再復帰が極端に難しいわが国の状況は変わっていない。都市と地方の格差も大きい。格差の固定化を狙う動きすら目に付く。

 経済や財政回復のしわ寄せで生じた社会のゆがみを正し、公正な社会を取り戻すことに、今年はまず専念したい。

「国家の品格」売れて

 数学者の藤原正彦さんが書いた「国家の品格」が、売れ続けている。発行部数は二百二十万部を超え、昨年の国内第一位(新書部門)となった。

 論理を徹底すれば問題が解決するという考え方は誤りだ、論理の出発点こそが問われる-などの真理を、現実世界にあてはめて”論理的“に説明してくれた点が人気を呼んだのかもしれない。

 それだけでなく、金銭至上主義を退け武士道精神からくる慈愛や誠実、名誉、卑怯(ひきょう)を憎む心を尊ぶこの本が受けたのは「今の日本はどこか変だ」と感じる人が増えた結果ではあるまいか。

 戦後日本の経済成長は、年功序列や終身雇用と不可分だった。成長の分配は総中流意識をもたらし、雇用の安定は生活の安心をもたらした。貧富の差の小ささは犯罪の少なさとも無縁でない。

 その長所がこの三十年ほど、経済や雇用環境の変化とともに徐々に失われ、格差が広がる。生きづらさを覚える人が増えてきた。バブル崩壊後の金融政策や労働規制緩和がそれに拍車をかけた。

 「乏しきを憂えず、等しからざるを憂う」「働くことは、はたを楽にさせることだ」などの言葉は、死語になったのだろうか。いや、いま一度考えようとの機運が見えるのではなかろうか。

 グローバル経済が世界を乱暴に変えつつある現実も見据えながら、働く意味や共生社会の可能性を問い直したい。

トインビーの願いは

 二十世紀を代表する歴史家の一人、トインビーは一九六五年、国家主権や民族主義、イデオロギーと宗教の対立などに警告しつつ、それらを包みこむ世界政府への期待を込めた著書「現代が受けている挑戦」を世に出している。

 「政治目標は社会生活を無政府状態の結果生まれる暴力から…法と秩序の支配する平和と安全に置き換えることによって解放することである」とも述べ、技術の進歩により「世界中の誰もが金と余裕をもつようになることを期待できる」との楽観的観測も述べた。

 四十余年後の今日、国際社会の混乱や極端な格差を見たらどう言うだろう。戦略論の権威、ハンチントン氏の言う「一極・多極世界」の中で緊張や対立が増した現実は、知性を信頼したトインビーの願いとかけ離れるばかりだ。

 環境破壊や食料危機など、近未来の危機に目をつぶり、近視眼的な対応に終始する国ばかり目立つ。米国もロシアも、国の指導者たちが公益と私益の区別をあいまいにし、平和構築への世界観を欠いているように見える。「テロとの戦い」でさえ我田引水が感じられる。

 「法と秩序」が「平和と安全」に役立つ国づくり、世界づくりを目指したい。日本にとってその指針となるのは憲法であり、国連憲章ではなかろうか。

戦後の歩みに自信を

 団塊世代よりはるかに若い五十二歳の安倍晋三首相は、政権の目標に憲法改正を掲げる。改憲の主目的が九条改正にあるのは自民党の草案でも明白だ。

 だが九条改正には不安を禁じえない。9・11後の世界で、日米軍事同盟は緊密化している。在日米軍再編の最終報告書(昨年五月)では「日米同盟は、新たな段階に入る」とまで明記された。国民への詳しい説明もないままで。

 自衛隊の存在を憲法に位置づけようという考えは理解できるし、九条を取り巻く状況に矛盾があることは確かだが、いま九条を変えれば日米軍事融合に歯止めがかからなくなる。それが怖い。

 諸外国の国民が日本を見つめる目は温かい。米国のメリーランド大などが二〇〇五年に世界三十三カ国で行った四万人調査でも、「世界に良い影響を与えている国は」との問いに最も多くの回答(三十一カ国)が集まったのは日本だ。

 なぜだろう。日本製品の優秀さや日本文化、料理などへの評価もあろうが、憲法の理念に基づいた非軍事的な手段による海外貢献の成果ではなかろうか。

 私たちは、戦後の歩みに自信を持つべきだ。平和主義にしっかり立って、拝金主義を覆す思いやりある社会を取り戻していくことこそが大切だと考える。

[京都新聞 2007年01月01日掲載]

 


2007-01-01 月 元日の北海道新聞社説

2007-01-01 05:59:26 | 「保存している記事」から

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2007年01月01日(月曜日)付 北海道新聞社説 シリーズ 何を変え何を守るか 
 
何を変え 何を守るか *1* 「国とは」を問い直すとき

 世の中が急速に右に傾いている。

 かつて保守的だと批判された評論家が、今は「左寄りだ」と糾弾される。書店には中国や韓国を敵視して排外的な機運をあおったり、国家を礼賛したりする書物が並ぶ。

 しばらく前には常識と思われた自由、平和、人権という価値は疑わしいもののように扱われている。若い世代にもこの傾向は広がる。

 そんな時代に「美しい国」「戦後体制からの脱却」を唱える安倍晋三首相が登場し、保守派の念願だった教育基本法改正、防衛庁の省昇格を実現した。政界には次は憲法改正という空気がみなぎる。

 冷戦が終結し世界は激変した。経済のグローバル化は国境をあいまいにした。テロへの恐怖も広がる。人びとは経験したことがない競争にさらされ、不安を募らせている。

 誰もが安心して暮らしたいと願う。しかし、それは首相の唱えるように国家意識を築き直せばもたらされるのだろうか。

 社会が右に傾く今、「国とは何か」を冷静に考える必要がある。

*若者はなぜ右に傾くのか

 昨年八月十五日、小泉純一郎前首相が靖国神社を参拝した。その直後にNHKが番組で実施したアンケートが、若者の意識を映し出した。

 五十歳代と六十歳以上では賛否が拮抗(きっこう)し、二十-三十歳代では賛成が72%に上った。事前の各種調査では反対が賛成よりやや多かったが、首相の参拝映像が流れて支持が逆転し、中でも若い層が突出した。

 格差を生んだ小泉改革の被害者の若者が前首相を熱狂的に支持した。

 保守思想に詳しい北大公共政策大学院の中島岳志助教授は、黒人の抵抗から生まれ、いま若者たちに人気の音楽ヒップホップを例に、右に傾く若者の精神構造を説明する。

 日本のヒップホップの特徴は一部でナショナリズム肯定がうたわれていることだ。ここにはかつてのヒッピーに通じる意識があるという。

 ヒッピーは近代文明を拒み精神的価値を求めた。今も若者は体制に反発し、精神的なものを求めている。

 が、それを受け止める文化がヒッピーを生んだ左の側になく、民族や伝統など精神の尊重を唱えるナショナリズムに接近しているという。

 「右」の考えに違和感がない若者に、前首相の靖国参拝は常識に挑んだ象徴と映ったのではないか。

*それぞれで異なる郷土愛

 政権運営がまずいために安倍内閣の支持率は低下している。しかし、首相の保守的な国家観は、不安を強める社会に受け入れられやすい。

 首相は、著書「美しい国へ」で、生まれ育った国を自然に愛する気持ちをもつべきだと説き、国に対する帰属意識は郷土愛の延長線上に育つと強調している。伝統、文化、歴史の尊重が重要だとも言う。

 郷土を愛する気持ちは多くの人が自然にもっている。しかし、その感情は「国を愛すること」に一足飛びに結びつくものなのだろうか。

 「国」という言葉は幅広い。「お国なまり」は郷土を指す。近代的な国家という考え方なら明治以降に形作られた。国についてはさまざまなとらえ方があり、考え方がある。

 言えるのは、歴史と文化を同じくすることが国の条件だとは決め付けられないということだ。

 日本には沖縄の人びとやアイヌ民族、在日韓国、朝鮮人がそれぞれの歴史や文化をもって住んでいる。一つ一つの地域ですらそれは違う。郷土愛もそれぞれであり、多様な存在を含めて国があると言える。

 改正教育基本法は「伝統と文化の尊重」と、それをはぐくんだ「我が国と郷土を愛する」ことを教育目標に掲げる。伝統・文化を国が認定し国を愛せと教えることは、異なる考え方の排除につながりかねない。

 これは杞憂(きゆう)だとは言えない。靖国参拝に反対した自民党の加藤紘一氏の実家が放火され、昭和天皇発言を伝えた新聞社に火炎瓶が投げつけられた。が、当時の小泉首相、安倍官房長官には言論を脅かすテロを積極的に非難する姿勢はなかった。

*憲法をめぐる重要な岐路

 国とは何かを考えることは憲法を考えることだ。安倍首相は在任中の憲法改正を明言している。次の国会で改正のための国民投票法成立をめざす。改憲の動きは加速する。

 自民党が一昨年まとめた憲法草案は、戦争放棄を定めた九条改正と並んで国をめぐる記述が焦点だ。

 草案前文は「帰属する国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支え守る」ことが国民の責務と記す。

 権利と義務の項では「自由と権利には責任及び義務が伴う」とし、「公益及び公の秩序に反しないよう自由を享受し、権利を行使する」ことも国民の責務だとしている。

 近代立憲主義で憲法は、歴史的にみて独断専行に陥りやすい国家に、守らなければならない人権の尊重や、してはならないことを規定し命じるものだと理解されている。

 自民党草案は現行憲法が基づくこの理念を退け、国が国民に責務を課して秩序を回復しようとしている。

 これでは、国の方針以外は認めない窮屈な日本にならないか。めざすべきは多様な考えの人びとが共に生きる国だろう。今が重要な岐路である。世代を超えて「国とは何か」を考えたい。(5回掲載します)

 


2007-01-01 月 元日の東京新聞社説

2007-01-01 05:48:43 | 「保存している記事」から

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2007年01月01日(月曜日)付 東京新聞社説

年のはじめに考える 新しい人間中心主義

 「戦後最長の景気拡大」と「企業空前の高収益」がよそごとのような年明けです。この国は未来を取り戻さなければなりません。新しい人間中心主義によってです。

 ことし満六十歳。順次、定年を迎える団塊世代六百八十万人の第一陣に属する身として、昨年暮れに発表された「東大生の学生生活実態調査」の囲み記事を興味深く、また、多少の同情をこめて読みました。

 東大生といえば同世代の中の「勝ち組」で、社会に出るにも最も恵まれた立場にある若者たちでしょう。

 その東大生でさえ七割が就職に不安を感じ、三割近くが「自分がニートやフリーターになるかもしれない」と回答していたからです。

■若者には未来がある

 人はだれも未来に一抹の不安を抱くものでしょうが、東大生たちの回答には怯(ひる)みが感じられます。徹底した市場原理主義と競争社会が緊張を強いるのでしょう。

 それに比べ、団塊の世代が社会に出るころは幸せな時代でした。高度経済成長のただなかで、明日は今日より豊かだという確かな未来がありました。

 企業組織にあって、「努力」や「勤勉」「律義」や「誠実」は、なお大切な徳目で、何より労働は喜びであったり、自己表現であったり、生を充実させるものでもありました。

 若者をめぐる境遇は、いま、一変しています。

 バブル崩壊後の長く絶望的な不況からの脱出のためにはそれしか方法がなかったのかどうか。

 企業の大幅な人件費の削減と組織の中核を形成する社員以外は非正社員化することを打ち出した「新時代の日本的経営」(一九九五年・旧日経連報告書)。それに直撃されたのが、団塊ジュニアともいえるべき世代でした。

 企業にとって、パートやアルバイト、派遣労働などの非正規雇用は、安価で、必要な時に必要な量だけ調達できるこのうえなく効率的なものでした。打ち切りも容易で、非正規雇用は一気に広がっていきますが、ことに不遇だったのは、永く厚い就職氷河期下にあった若者でした。

 二〇〇五年現在で、十五-三十四歳の男女でパート、アルバイト労働に従事すると定義されるフリーターは二百一万人を数えます。平均年収は百四十万円です。

■国の基盤が壊れてしまう

 七割が正社員を希望しながら脱出できず年長フリーターとなっていきます。結婚し、子供をもち、家庭を築きたい、というごく当たり前の願いが叶(かな)いません。そんな国に未来はあるのでしょうか。

 小泉前政権で加速された市場原理主義と新自由主義による構造改革で貧富と格差はさらに拡大しました。

 働く者の三人に一人、千六百万人までになった非正規雇用。生活保護受給はかつての六十万世帯から百五万世帯に、その生活保護世帯よりさらに所得の低いワーキングプア層まで生まれてきました。

 景気は「いざなぎ」を超えて五十九カ月連続の拡大、東証一部上場企業はこの三月期には四年連続で過去最高益を達成する見込みですが、企業に、収益を雇用や賃金に振り向けようとする動きはみられません。

 企業間競争のグローバル化、高コスト体質に逆戻りすることを恐れるからなのだそうですが、すでに出生率は一・二六まで低下しています。産みたくても産めない社会では、一企業の消長どころではなく、国の基盤そのものが壊れてしまいます。早急に立て直しが必要です。

 国の財政配分は再建のカギのひとつですが、「雇用政策費」も「教育費」も医療・年金などの「社会保障給付費」のいずれも対GDP(国内総生産)比支出は先進国中の最下位グループです。いかに道路、河川、ダムなどの公共事業中心だったか。

 財政事情は厳しく有限です。公正な配分や負担がどうあるべきか、徹底した議論が必要でしょう。

 が、若い世代が希望をもてない国に未来があるとは思えません。

 行き過ぎの市場原理主義に否定されてしまった人間性が復活し、資本やカネでなく新しいヒューマニズムが息づく社会-そんな選択であるべきです。

■受け継がれる格差

 格差はいまや世代を超えて引き継がれ、固定化しつつある、というのが社会学者たちの報告です。

 確かに政界では、安倍晋三首相も小泉純一郎前首相も、自民党の有力議員の多くが二世、三世議員です。生まれながらにして統治権力の側に就くことが約束されているかのような新階級の出現にさえみえます。

 勝ち組世襲議員に敗者の現実がみえ、心情が理解できるかどうか。

 悲願の改定教育基本法を成立させた安倍政権の次なる目標が改憲ですが、そこに盛り込まれている権力拘束規範から国民の行動拘束規範への転換こそ、勝ち組世襲集団の発想に思えるのです。

 国民の内にある庶民感覚と感情のずれ。改憲に簡単にうなずけない理由のひとつです。

 


2007-01-01 月 元日の産経新聞新聞主張

2007-01-01 05:39:30 | 「保存している記事」から

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2007年01月01日(月曜日)付 産経新聞新聞主張

【年頭の主張】凜とした日本人忘れまい 家族の絆の大切さ再認識を

 平成19年の元旦、津々浦々で家族団欒(だんらん)や一族再会の幸せを久しぶりにかみしめた家庭も少なくないことだろう。

 伝統や風習、歳事や儀式が年ごとにうすれ行く今日、正月は日本人にとってお盆と並び家族団欒の光景が辛うじて似合わしい機会なのかもしれない。なぜなら家庭こそ社会の基礎単位であり、国づくりの基盤であろうから。

 だが、いまその根元は空洞化し、揺らぎ始めている。思えばいじめによる子供たちの自殺が相次ぎ、後を絶たない飲酒運転のために幼児は犠牲となり、親による児童虐待も頻発し、さらには親子間殺人さえ一度ならず起きた。

 日本人と日本の社会を支えてきた倫理や道徳、伝統、克己心といったものは、どうなってしまったのだろう。

 新年にあらためて思うのは、日本の家族や家庭は大丈夫なのか、こうした負の連鎖を断ち切るために明るい家族や家庭を復権させ、その価値をいまこそ見直すべきではないかということである。

 ≪日本は「子供の楽園」≫

 かつて日本は「子供の楽園」と表現された。最初にそう表現したのは江戸末期に来日した英国の外交官オルコックだった。以来、訪日欧米人たちはこの表現を愛用してきたと『逝(ゆ)きし世の面影』(渡辺京二氏著)が紹介している。

 《世界中で日本ほど、子供が親切に取り扱われ、そして子供のために深い注意が払われる国はない》(大森貝塚の発見者モース)

 《日本の子供はけっしておびえから嘘(うそ)を言ったり、誤ちを隠したりしません。青天白日のごとく、嬉(うれ)しいことも悲しいことも隠さず父や母に話し、一緒に喜んだり癒やしてもらったりするのです》(英国公使夫人のフレイザー)

 決して大昔のことではないこれら目撃談に、まさに「逝きし世」と現代人の多くは隔世の感を覚えるほかないだろう。愛らしく、その上礼節も備えた子供たちは一体どこへ消えたのだろうと問う渡辺氏は、続けてこう書いている。

 《しかしそれはこの子たちを心から可愛(かわい)がり、この子たちをそのように育てた親たちがどこへ消えたのかと問うことと同じだ。…この国の家庭生活が、どこへ消えたのかと問うこととひとしい》

 子供ではない。問題は親、大人たちなのである。子は親の鏡である。

 8日、ニューヨークの国連本部で映画「めぐみ-引き裂かれた家族の30年」が特別上映される。小品ながら心に残る家族愛のドキュメンタリーである。

 ブッシュ米大統領が横田早紀江さんとの面会を「もっとも感動的な出来事の一つ」と語り、日本人を感激させたことはまだ記憶に新しい。横田夫妻、そして家族会の足跡は、厚い壁に風穴を少しずつ開けていく道程そのものである。

 おだやかだが、非道を絶対に許さぬ凛とした美しい日本人がそこにあった。

 国家犯罪の拉致とは違うが、いじめや虐待、引きこもりも、迂遠(うえん)ではあっても家族という絆(きずな)の再生抜きには始まらないのではないかと映画は感じさせる。

 一つ印象的なシーンがあった。横田早紀江さんらの街頭での呼びかけに当初、人々が冷淡なことだ。ビラを無視するどころか手で払いのける通行人さえいる。その場面に、拉致被害者5人が帰国した平成14年10月、皇后陛下がお誕生日に文書で回答されたお言葉が重なる。

 《何故(なぜ)私たち皆が、自分たち共同社会の出来事として、この人々の不在をもっと強く意識し続けることが出来なかったかとの思いを消すことができません》

 ≪「共同体意識」再生を≫

 隣人を思いやり、苦悩を分かち合う共同体意識の再生も、いまほど求められている時代はない。家族は社会や国づくりの一番の基礎にある。家庭と共同体の再生こそ日本再生へのカギではないか。

 その意味で改正教育基本法の成立は価値ある重要な一歩といえる。前文には新たに「公共の精神の尊重」や「伝統の継承・新しい文化の創造」が加筆され、新条項「学校、家庭及び地域住民等の相互の連携協力」が追加された。また第10条「家庭教育」には冒頭、現行法にはない父母らの第一義的責任が明記された。

 復古主義とか反動との批判は的外れである。当然のことばかりで、なぜ半世紀以上も改められなかったのかむしろ不思議なくらいだ。教育基本法も憲法同様、人類の普遍的価値や個の尊重を強調するあまり、結果として無国籍化と個の肥大や暴走を招いたと言わざるをえない。

 平成19年、日本を取り巻く内外の環境は一段と厳しさを増すだろう。

 北朝鮮のミサイル・核の脅威はますます深刻化し、中国はいよいよ強大化するだろう。内にあっても少子高齢化は予想を超えて進行しているし、財政事情の早急な好転も望めない。

 だが近現代史を振り返れば、日本は存亡の危機を一度ならず乗り越えてきたことが分かる。そしてその底流には、いつも家族の固い絆があった。

 欧米列強による植民地化の魔手を回避し、近代化のモデルを提供した。日露戦争での勝利は、アジアはじめ非欧米諸国をどれほど勇気づけたことか。さらには壊滅的な被害を受けた先の大戦からの短時日での復活は、世界における戦後復興のモデルであり続けている。

 史上前例のない少子高齢化も日本はモデルたることを目指すべきだ。なぜなら東アジアには韓国、香港など日本以上の少子高齢化の国や地域があるからだ。

 その上で、この1年をもう一度《世界で一等可愛い子供》(『逝きし世の面影』から引用)たちの笑い声がはじけるような日本にしたい。

(2007/01/01 05:00)


2007-01-01 月 元日の日本経済新聞社説

2007-01-01 05:26:35 | 「保存している記事」から

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2007年01月01日(月曜日)付 日本経済新聞社説

開放なくして成長なし(1) 懐深く志高いグローバル国家に

 冷戦後の世界はグローバル経済の歴史的な興隆期にある。復活はしたものの日本経済に力強さが欠けるのは、このグローバル経済の息吹を十分に取り込んでいないからだろう。企業のグローバル展開がめざましい半面で「内なるグローバル化」は進んでいない。日本人の心を開き、懐深い開放経済をめざさないかぎり、日本経済に次の時代は築けない。「開放なくして成長なし」である。

「国際心」こそ安全保障

 国際連盟の事務次長をつとめた新渡戸稲造は昭和初期の段階でグローバル時代の進展を予測していた。「各国の距離が縮小すれば、何事も、否応なしに共通にならざるを得ない」「世界的標準によりて価値を定めねば、国民も国家も世界に遅れて得るところ少なく失うところが多い」と述べている。大事なのは多少の異説を受け入れる広い襟度、「国際心」だとも強調している。

 80年後の日本人はこの「国際心」を培ったのだろうか。新渡戸がみたら嘆くような調査がある。国連貿易開発会議の世界投資報告によると、対内直接投資や外資系企業の雇用、生産への寄与度などを平均した国際化指数では日本は先進国中、大きく引き離されての最下位だ。日本の投資開放度は極めて低く国際心は培われてこなかったことになる。

 政府は小泉純一郎政権以来、対内直接投資の倍増計画を打ち出し投資誘致に旗を振っているが、2005年の日本の対内直接投資残高は国内総生産比でやっと2.2%。欧州連合(EU)の33.5%、米国の13.0%、そして中国の14.3%などに比べて、けた違いに低い。

 冷戦後のグローバル経済は直接投資の誘致競争の時代といっていい。各国首脳や自治体の長は自ら誘致外交を展開する。グローバルな大再編の潮流が国境を越えたM&A(企業の合併・買収)に拍車をかける。

 15年近く成長し続ける英国ではシティーだけでなく、空港、港湾、電気事業など公共セクターまで外資が主役だ。中国を大国に押し上げた高成長は外資抜きには考えられない。外資依存の行き過ぎに是正機運まで出てきたほどである。

 直接投資は成長の切り札である。資本だけでなく新しい製品、サービスや技術、経営ノウハウをもたらし、雇用機会を創出する。競争を通じて経営効率を高め、産業を高度化する。それは消費者の利益にも合致する。直接投資を受け入れる「国際心」が成長持続を確かにし、ひいては安全保障の礎になる。

 日本経済が失われた時代から抜け出す際にも、外資は役割を果たした。日本経済復活の決め手になった金融再生は公的資金注入とともに、外資ファンドの役割が見逃せない。日産自動車が再建できたのも仏ルノーの資本とカルロス・ゴーン氏の経営手腕によるところが大きい。

 これだけ直接投資の効用がはっきりしているのに、なぜ直接投資で「日本だけが例外」(グリアOECD=経済協力開発機構=事務総長)なのか。大田弘子経済財政担当相は「対内直接投資がなぜ伸びないか検証が必要な段階だ」と指摘する。

 原因はいくつかある。日本の高コスト体質や様々な規制、高い法人実効税率などがあげられる。国境を越えたM&A制度の不備も直接投資の壁を高くしている面がある。

「鎖国」から覚めるとき

 背景にあるのは日本人の心の壁ではないか。和辻哲郎は戦後まもなくの著書「鎖国」のなかでこう書く。「悪い面は開国後の80年を以てしては容易に超克することは出来なかったし、よい面といえども長期の孤立に基く著しい特殊性の故に、新しい時代における創造的な活力を失い去ったかのように見える」

 日本人がなお「鎖国」を引きずるなら、日本の将来は暗い。逆に、「鎖国」から目覚め、「国際心」を発揮するなら日本の可能性は開ける。

 日本と日本人にその潜在力は十分にある。潜在力を生かすためには、第1に日本のソフトパワーに磨きをかける。技術力と文化力、そして外交力をかみ合わせたソフトパワーは大きい。日本は磁力を生む技術、文化センターになりうる。

 第2に、成長戦略を立て直す。IT(情報技術)革命による生産性向上と合わせて、グローバル戦略を柱にすえる。東アジアでの経済連携を開放経済へのてこにする。

 第3に、指導者が開放に政治責任を果たす。安倍晋三首相自ら対内投資誘致の先頭に立つ。自治体の長は公共事業ではなく投資誘致こそ競うべきだろう。

 このグローバル時代に日本は「国を開いて心を鎖す」(新渡戸稲造)では済まない。懐深く志高いグローバル国家に変身するときである。


2007-01-01 月 元日の読売新聞社説

2007-01-01 05:22:37 | 「保存している記事」から

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2007年01月01日(月曜日)付 読売新聞社説

 「タブーなき安全保障論議を 集団的自衛権『行使』を決断せよ」(前半)

 ◆「北」の核は容認できぬ

 日本は、ならずもの国家の核と共存することになるのか。この安全保障環境の激変にどう対応すべきか。厳しい状況が続く中で新年を迎えた。

 国際社会は長い間、北朝鮮に欺かれてきた。1994年のカーター訪朝による核放棄合意の後も、北朝鮮は、国際社会のエネルギー支援を受けながら、密(ひそ)かに核開発を続けていた。

 この3年半の6か国協議も、結果的には、核実験への時間稼ぎをさせることにしかならなかった。昨年暮れの協議でも実質的な進展はまったくなかった。先行き、ほんとうに北朝鮮に核を廃棄させることが出来るのか――。依然、なんの見通しも立っていない。

 6か国協議が空転を続けるのは、北朝鮮の核に対する日本と他の4か国との脅威感に違いがあるせいではないか。日本からは、そのようにも見える。

 米国、中国、ロシアの3国は、北の核に対する圧倒的な核報復能力、つまり核抑止力を保持している。軍事的には、日本が置かれている状況ほどの深刻な脅威ではない。

 韓国の盧武鉉政権は、「同じ民族の核」に対して、融和路線を優先しているかのような姿勢が目立つ。

 このまま、ずるずると、北朝鮮の核保有が既成事実化する恐れもある。日本はどうすべきなのか。

 日本が、国を挙げて核武装しようとすれば、さほど難しいことではない。

 日本は世界第一級水準の科学技術力を有している。3~5年で可能ともいわれる。数トンの人工衛星を打ち上げられるだけの宇宙ロケット技術の蓄積もある。

 しかし、現在の国際環境の下で、日本が核保有するという選択肢は、現実的ではない。

 日本の核開発宣言は、すでにインド、パキスタンの核保有などにより綻(ほころ)びているNPT(核拡散防止条約)体制の崩壊を決定的にする。

 イランはじめ中東、さらには世界中に核保有国が出現するきわめて不安定な国際社会になりかねない。安定的な国際通商に依存する日本の経済基盤も脆弱(ぜいじゃく)化することになる。

 核保有が選択肢にならないとすれば、現実的には、米国の核の傘に依存するしかない。

 ◆核の傘は機能するか

 問題は、核の傘が確かに機能するかどうかである。機能させるには、絶えず、日米同盟関係の信頼性を揺るぎないものに維持する努力が要る。

 同盟の実効性、危機対応能力を強化するため、日本も十分な責任を果たせるよう、集団的自衛権を「行使」できるようにすることが肝要だ。

 政府がこれまでの憲法解釈を変更すればいいだけのことだ。安倍首相は、決断すべきである。

 ◆鍵を握る中国の影響力

 それ以前に、当面の最優先事は、北朝鮮に核を廃棄させることだ。北朝鮮への決定的な影響力を有するのは、中国である。中国が北朝鮮への石油、食料供給を停止すれば、北朝鮮の現体制は、たちまち崩壊の危機に瀕(ひん)するだろう。

 その中国にどう動いてもらうか。中国との綿密な対話が必要となる。安倍首相のいう「戦略的互恵関係」をさまざまな次元で推進しなくてはなるまい。

 他方で、日本自身が、通常兵器の範囲にしろ、総合的な抑止力の強化に努めることが重要だ。

 ミサイル防衛(MD)システムの導入前倒し・拡充は当然だろう。たとえ撃墜率100%ではなくとも、システムの保有自体が一定の抑止力となる。敵基地攻撃能力の保有問題も、一定の抑止力という観点から、本格的に議論すべきだ。

 また、非核3原則のうち「持ち込ませず」については議論し直してもいいだろう。東西冷戦時代、寄港する米艦艇の核搭載は、いわば“暗黙の常識”で、非核2~2・5原則と議論を呼んだ。

 核保有が現実的でないとしても、核論議そのものまで封印してはならない。議論もするなというのは、思考停止せよと言うに等しい。

2007年1月1日1時39分  読売新聞)
 

 「タブーなき安全保障論議を 集団的自衛権『行使』を決断せよ」(後半)

 ◆前提となる財政基盤

 安全保障態勢の整備は、国家としての最も基本的な存立要件の一つだが、それを支えるには、経済・財政基盤もしっかりしていなくてはならない。

 だが、それについては、なんの不安もないと言うわけにはいかない。

 かねて指摘されているように、国、地方を合わせて770兆円以上の長期債務を抱えている。国内総生産(GDP)の1・5倍に相当する。このうち国の債務は600兆円近い。先進諸国でこれほど財政状況の悪い国はない。

 安倍首相は「経済成長なくして財政再建なし」という。一面ではその通りである。しかし、いわゆる「上げ潮」戦略が、年4%の名目成長を18年間続ければGDPが1000兆円になる、といった想定をしているのは、非現実的である。

 まず、景気循環的な山や谷の存在という当た闡Oの経験則を無視している。世界経済の動向、とりわけ米国の景気や、中国の投資過剰の行方などにも、大きく影響される。

 名目成長が伸びれば長期金利も上昇するだろう。

 仮に長期金利が1%上がれば、国債費は1・6兆円の利払い増、次年度には2・8兆円、3年度目には4兆円の利払い増になるとの試算がある。3%上昇だと4・7兆円、8・6兆円、12・5兆円と雪だるま式に膨らむことになる。

 実際、80年代後半には、長期金利が4~6%台で推移する中で、国債費のうち利払い費が95%以上を占めた時期があった。長期金利は、バブル末期の90年代初めには8%を超えていた。

 高齢化社会の進行に伴い毎年1兆円にのぼる社会保障費自然増という財政上の重圧もある。

 ◆消費税増は不可避だ

 「07年問題」と言われ続けて、とうとうその年になった。1947~49年生まれ、いわゆる団塊の世代の大量退職が始まる。これが日本経済にどのような影響をもたらすかについては、悲観論、楽観論、いろいろあるが、ともあれ、社会の高齢化が一段と加速する。

 反面で、50年後の合計特殊出生率推計値は1・26と、5年前の推計値1・39よりさらに低下した。このままでは、いずれ、年金をはじめとする現行の社会保障制度は持続困難となる。

 財政全体として、高齢者を含め全世代が広く薄く負担を分かち合う消費税の税率引き上げは避けられない。欧州連合(EU)諸国の消費税(付加価値税)率は、15~25%である。

 与党は、消費税論議は秋から開始というが、事実上、参院選を意識しての先送りだ。EU諸国並みに、生鮮食品はじめ、教育・文化用品を含む生活必需品など軽減税率の適用対象を仕分けしたり、周知期間を置く必要があることを考慮すれば、それではとても09年度の導入には間に合わない。

 より早い議論開始・導入の決断を急ぐべきである。

 ただ、平均寿命が今後も延びるとしても、少子化傾向に歯止めをかけ、反転させることは、国家的な取り組み次第で可能である。

 フランスの例がある。日本の4倍も手厚い児童手当・家族給付を支給し続けたのを始め、税制上の優遇措置、育児支援の拡充等々で、人口増減の分岐点である合計特殊出生率2・1を展望できるところまでこぎつけている。

 日本も、児童手当を5000円から1万円にするといった程度のバラマキ感覚を超えて、スケールの大きい少子化対策体系の構築を決断すべき時である。

 そのためには財政負担が増す。だが、それは、「国家百年の計」のための必要経費だ。

2007年1月1日1時39分  読売新聞)

 


2007-01-01 月 元日の毎日新聞社説

2007-01-01 05:14:55 | 「保存している記事」から

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2007年01月01日(月曜日)付 毎日新聞社説    シリーズ 「07年もっと前へ」   目次  次へ>>

07年もっと前へ 「世界一」を増やそう 挑戦に必要な暮らしの安全

 日本に「世界一」はいったいいくつあるだろう。

 鹿児島県の桜島大根は世界一大きいダイコンだ。法隆寺は世界一古い木造建築である。野球の王ジャパンは米大リーグを抑え世界一になった。「男はつらいよ」は世界一長い映画シリーズである。

 いくらでもある。東京競馬場の大型映像スクリーン(ターフビジョン)は三菱電機製で世界最大である。トヨタの「カローラ」は車名別生産台数世界一の自動車だ。そして、わが日本は世界一の長寿国である。

 2007年の年頭に当たって私たちは、この世界一のリストをどんどん増やしていこう、と提案する。厳密に「世界一」である必要はない。世界的基準に照らして傑出したモノやサービス、世界に胸をはって誇れるような「日本発の価値」を増やそうという呼びかけだ。

 日本人がいまの豊かな暮らしを維持するには、世界一を増やすほかないからである。

 ◇急速に進む少子高齢化

 日本は少子高齢化とグローバリゼーションの荒波にもまれている。今年は07年問題の年。団塊の世代が定年で一線から退き始める。ベテランの技術が継承されず消えかねない。年末に発表された将来推計人口によれば、少子高齢化は想像以上のスピードだ。50年後、日本の人口は9000万人を割ってしまう。

 人口減少のインパクトは大きい。自動車やカラーテレビは国内販売台数が縮小傾向にある。企業が国内市場で売り上げを伸ばすのは難しくなった。

 今年、世界一をめざすトヨタの海外シフトは急だ。国内と海外の販売比率は90年の1対1から今年1対5になるという。日本は世界市場に目を向けるほかない。中国などが追い上げてくる。世界一の数が日本の未来を決める。

 人口が減って日本経済が縮小しても、1人当たりで分配が大きくなればよい。そういう考え方がある。その通りだが、現実は厳しい。日本の1人当たり可処分国民所得は、長らく世界一だったが、近年、米国や北欧諸国に次々と抜かれつつある。  エレクトロニクスや金融にかつての勢いはない。デジタル革命、情報技術(IT)革命という大変化に、十分に対応できなかった。金融は破滅寸前に国民負担で救済された。

 「失われた15年」である。遅れを取り戻すためには、目標と志を高く掲げる必要がある。

 私たちは、たくさんの世界一を生み出してきた。実績が日本人の能力を証明している。浮足立つ必要はない。

 日本の製造業の中には、ハイテク製品の製造になくてはならない部品や素材で、世界一のシェアを占める企業が何百とある。米アップル・コンピュータの大ヒット商品「iPod」も日本製の部品や素材がなければ製造できないのだ。

 こうした日本製の「世界一」が、私たちの豊かな暮らしのモトだ。これを増やす戦略をたて果断に実行する必要がある。

 「世界一」を生むのは技術革新(イノベーション)だ。安倍政権は「新成長戦略」で規制緩和や科学技術予算の「選択と集中」を行い、技術革新を促進しようとしている。強力に推進してもらいたいが、重要な視点が欠けているのではないか。

 脳科学者の茂木健一郎氏が興味深い指摘をしている。子どもは母親が見守ってくれているという安心感があってはじめて、探究心を十分に発揮できる。新しいものに挑戦するには、母親のひざのような「安全基地」を確保する必要がある、と。

 さらに、北欧諸国の高福祉高負担路線。なまけ者を作るシステムといわれたが、実際はめざましい技術革新で日本や米国より成長率が高い。

 その秘密は丈夫な社会的「安全ネット」の存在だ。失敗しても落ちこぼれないから、冒険ができる。それが技術革新をうむ。日本とは国の形が異なるからモデルにしにくいが、深く考えさせるものがある。

 安全基地と安全ネット。「安全」がキーワードである。

 ◇市場主義のひずみ噴出

 いま、私たちの周囲では、格差問題や働いても生活保護以下の収入しか得られないワーキングプアの問題など、市場主義のひずみが噴出している。

 安倍政権は「成長」が一番の処方せんだ、と主張する。パイを大きくし分配を増やすのが問題解決の早道だ、と。一面の真理だが、時代はもっと先に進んでいる。

 安全ネットは弱者対策として必要なだけではない。冒険に踏み出す「安全基地」として不可欠なのだ。その観点から、現状は寒心に堪えない。年金制度の長期的安定性に疑問符がついているようでは話にならない。政府の成長戦略は暮らしの安全保障を先送りする口実になっていないか。

 日本はさまざまな世界一を必要としている。なかでも必要なのは、世界一国民を大事にする政府である。そして、世界一の政府を求めるならば、私たち自身が世界一啓発された有権者でなくてはならない。

 今年は春に統一地方選、夏に参院選が待っている。投票所に足を運ぶ。国民のための政治を実現するには、まず私たちが腰をあげる必要がある。それを世界一づくりの第一歩としよう。

毎日新聞 2007年1月1日 0時15分

シリーズ 「07年もっと前へ」 次へ>>

 


2007-01-01 月 元日の朝日新聞社説

2007-01-01 00:00:00 | 「保存している記事」から

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2007年01月01日(月曜日)付 朝日新聞社説

戦後ニッポンを侮るな 憲法60年の年明けに

 キリマンジャロのような高山から、しだいに雪が消えつつある。

 氷河はあちこちで「元氷河」になり、北極や南極の氷も崩れている。このまま進むと世界の陸地がどんどん海になり、陸上の水は減っていく。

 ニューオーリンズを襲った恐怖のハリケーンなど、最近の異常気象も、海水の温度上昇と無縁ではない。大気中に増える二酸化炭素(CO2)を何とか抑えなければ、地球の温暖化はやまず、やがて取り返しのつかないことになる。

 米国の元副大統領アル・ゴア氏が伝道師のように世界を歩き、地球の危機に警鐘を鳴らしている。1月に日本公開される記録映画「不都合な真実」は、それを伝えて衝撃的だ。

●地球と人間の危機

 人間の暮らしを豊かにする技術の進歩が地球を壊していく皮肉。だが、深刻なのはそれだけではない。人が人を憎み、殺し合い、社会を壊す。進歩のない人間の浅ましさが、いまも世界を脅かす。

 今年の正月はイスラム教の「犠牲祭」に重なった。神に感謝してヒツジを犠牲にし、みなで食べる大祭だが、イラクの人々はお祭り気分にほど遠くないか。戦争開始から4年近くたったのに、自由で民主的な国の訪れは遠く、まるで自爆テロの国となってしまった。

 市民の死者はすでに5万数千人。停電や断水は絶えず、石油は高騰。避難民は50万人に達し、崩壊国家に近づいている。米英兵の死者も3千人を超えたが、兵を引けないジレンマが続く。ブッシュ政権は中東の混乱に拍車をかけ、世界をより不安にさせてしまった。

 ゴア氏とブッシュ氏――。6年前、大統領選の行方を決めたフロリダ州での開票は、世界の行方も左右した。

 CO2削減のために決められた京都議定書にブッシュ政権は背を向けた。米国は圧倒的なCO2排出国なのに、何と鈍感なことか。一方で、国際世論の反対を押し切ってイラク攻撃へと突き進んだ。軍事力への過信である。

●「新戦略」のヒント

 この5月、日本国憲法は施行60周年を迎える。人間ならば今年は還暦。朝日新聞はそれを機にシリーズ「新戦略を求めて」を締めくくり、日本のとるべき針路を提言する。ゴア氏が訴える危機と、ブッシュ氏が招いた危機。そこにも大きなヒントがある。

 悲願だった教育基本法の改正を終え、次は憲法だ。そう意気込む自民党の改憲案で最も目立つのは、9条を変えて「自衛軍」をもつことだ。安倍首相は任期中の実現を目指すといい、米国との集団的自衛権を認めようと意欲を見せる。

 だが、よく考えてみよう。

 自衛隊のイラク撤退にあたり、当時の小泉首相は「一発の弾も撃たず、一人の死傷者も出さなかった」と胸を張った。幸運があったにせよ、交戦状態に陥ることをひたすら避け、人道支援に徹したからだった。それは、憲法9条があったからにほかならない。

 もし名実ともに軍隊をもち、その役割を拡大させていたら、イラクでも英国軍のように初めから戦争参加を迫られていただろう。そうなれば、一発の弾も撃たないではすまない。間違った戦争となれば、なお悔いを残したに違いない。

 もちろん、国際社会が一致してあたる場合は知らん顔はできまい。テロ組織の基地を標的としたアフガニスタン攻撃はその例だった。

 自衛隊はどこまで協力し、どこで踏みとどまるか。「憲法の制約」というより「日本の哲学」として道を描きたい。

●得意技を生かそう

 昨年はじめ、うれしいニュースがあった。英国BBCなどによる世界33カ国調査で、日本が「世界によい影響を与えている国・地域」で2位になったのだ。

 1位は欧州だが、国家としてはフランスや英国を抑えて堂々のトップ。小泉前首相は「日本の戦後60年の歩みを国際社会が正しく評価している」と喜んだ。その通りである。

 「GNP」(国民総生産)ならぬ「GNC」とは、米国ジャーナリストのダグラス・マッグレイ氏がつくった言葉だ。Cはクールで「カッコいい」の意味だから、GNCは「国民総カッコよさ」か。日本は世界で群を抜くという。

 アニメ、漫画、ゲーム、ポップス、ファッション、食文化……。どの分野でも日本が世界やアジアをリードしている、というのだ。そういえば、最近はパズルの「数独」が世界のSudokuだ。そうしたことがBBC調査の結果にもつながったのだろう。

 映画「不都合な真実」では、排ガスのCO2削減が企業の評価を高めている例としてトヨタとホンダを挙げている。米国車とは対照的だ。省エネや環境対策といった日本の得意技は、これからも世界に最も役立てる分野である。

 軍事に極めて抑制的なことを「普通でない」と嘆いたり、恥ずかしいと思ったりする必要はない。安倍首相は「戦後レジームからの脱却」を掲げるが、それは一周遅れの発想ではないか。

 むしろ戦後日本の得意技を生かして、「地球貢献国家」とでも宣言してはどうか。エネルギーや食料、資源の効率化にもっと知恵や努力を傾ける。途上国への援助は増やす。国際機関に日本人をどんどん送り込み、海外で活動するNGOも応援する。そうしたことは、日本人が元気を取り戻すことにも通じよう。

 「軍事より経済」で成功した戦後日本である。いま「やっぱり日本も軍事だ」となれば、世界にその風潮を助長してしまうだけだ。北朝鮮のような国に対して「日本を見ろ」と言えることこそ、いま一番大事なことである。