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2007-01-21 日 教育再生会議の第1次報告案 「社説--比べて読めば面白い」 京都新聞

2007-01-21 13:31:47 | 「保存している記事」から

「社説--比べて読めば面白い」 朝日 毎日 読売 日経 産経 東京 京都 西日本 琉球新報 沖縄タイムス

2007年01月21日(日曜日)付 京都新聞社説

教育再生報告  現場無視では混乱招く

 政府の教育再生会議が第一次報告案をまとめた。近く安倍晋三首相に提出する。

 短期間にあれもこれも盛り込んだ、言いっぱなしの提言が並ぶ。議論をもっと詰め、制度や対策の整合性を高めないと、現場が困るだけだ。

 野依良治・理化学研究所理事長を座長とする同会議では文部科学省出身者中心の事務局が先月、今回報告の骨子案を示した。だが会議の議論が反映されていないとの反発が強く了承されなかった。

 今回は満足感を示す委員が多い。言いたいことが盛り込まれたようだ。だが逆に言えば、多岐にわたる議論が生煮えのまま提示された印象が強い。

 報告案は四つの緊急対応と七つの提言からなる。緊急対応は▽体罰の範囲見直し▽教員免許更新制導入▽地方教育委員会制度の抜本改革▽学習指導要領改定-で速やかな法改正などを訴える。

 緊急対応の基となる七つの提言は、最初の「『ゆとり教育』を見直し、学力を向上する」提言だけでも、授業時間の10%増や学校選択性の導入など、六項目を含む…といった具合だ。「体罰」見直しや授業時間増でも明らかなように、慎重な検討が欠かせないことばかりだ。

 今回報告の背景には、教育法案を通常国会の目玉にし、参院選対策にも使いたい安倍政権の意向が透ける。実際、年明け以来、官邸が積極的に会議に加わり、議論をリードしたという。

 一方で教育改革の実務は、文科省が中教審などの諮問を受けながら推進している。今回の緊急提言なども実際の法案化作業は文科省担当となる。だが中教審の議論と再生会議の議論は、重ならない点も多そうだ。

 自らも再生会議に加わる伊吹文明文科相の歯切れが悪いのも当然だろう。小規模市町村教委の統廃合を求める再生会議報告案に「中教審にもう一度お尋ねするのが筋」と慎重なのもうなずける。

 日本の教育や学校が、さまざまな問題を抱えていることは確かだ。いじめ問題などは、早急に取り組まねばならない。一方、ゆとり教育の見直しや授業時間の10%増などは、学校の役割や、家庭や社会の現状に対するしっかりした調査と分析の上でなされるべき問題だ。

 授業時間を一割増やせ、と言うのは簡単かもしれないが、学力向上と単純に結びつけるのは乱暴だし、週五日制や総合的学習の時間の問題も関連する。

 ゆとり教育の採用は、生きる力をはぐくむ狙いがあった。見直すのなら、その点の対応策も当然必要だ。土曜休みがもたらした効果と欠点の分析も要る。公教育の公平さが教育バウチャー制度などで守られるかも大いに疑問だ。

 こうした点が、再生会議できちんと論議され意見集約されたとは思えない。それなのに安倍政権は、通常国会に関連法案の提出を急いでいる。

 拙速な改変は揺れ動く教育行政に振り回されている現場の混乱を増すだけだ。

[京都新聞 2007年01月21日掲載]

 


2007-01-21 日 教育再生会議の第1次報告案 「社説--比べて読めば面白い」 沖縄タイムス

2007-01-21 10:53:07 | 「保存している記事」から

「社説--比べて読めば面白い」 朝日 毎日 読売 日経 産経 東京 京都 西日本 琉球新報 沖縄タイムス

2007年01月20日(土曜日)付 沖縄タイムス社説

教育再生報告案 なぜいま復古的装いか

 「新しい時代にふさわしい」(安倍晋三首相)内容かどうか国民の目でしっかり検証しなければならない。

 政府の教育再生会議(座長・野依良治理化学研究所理事長)が月内にとりまとめ、二十四日の総会で首相に提出する第一次報告最終案のことである。

 「四つの緊急対応」として実施を求めたのは(1)「ゆとり教育」見直しなどのため学習指導要領改定と学校教育法改正(2)いじめ問題対応のため「体罰の範囲」に関する政府通知を三月末までに見直し(3)不適格教員排除につながる教員免許更新制導入(4)教育委員会制度の抜本改革―だ。

 が、気になるのは高校での奉仕活動を必修とし、道徳の時間を盛り込むなど復古調の色合いを濃くしたことだ。

 体罰の基準も見直す構えだが、なぜ見直すのか、その理由について十分な説明はない。問題ある生徒の出席停止も同様で、議論を深める必要がある。

 もちろん、教育の在り方が今のままでいいとは思っていない。

 基礎学力の向上にせよ、子どもたちの成長をはぐくむ教育システムにせよ、もう一度きちんと検討し直す時期にきているのは確かだろう。

 しかし、だからといって一定の成果を挙げている「ゆとり教育」を見直し、公立学校の授業時間を10%増やせば問題は解決するのだろうか。

 教師は、それこそ相次いで打ち出される改革を実行できないままでいる。そこに競争原理を導入すれば、ただでさえ学務などに追われる教師を戸惑わせ、プレッシャーを与えるだけだ。

 新制度導入のたびに現場は翻弄され、教師は相次ぐ改革に疲れ果てているのが実情である。言うまでもないが、ゆとりを持って生徒に向き合えなければ教育の再生はおぼつかない。

 そう考えれば、現場の意向が反映されたとは言い難い再生案をなぜ導入するのか。その意図を邪推したくなる。

 武道などを通して「徳目や礼儀作法、形式美・様式美を身に付ける」のも分からぬではないが、心の問題に国が介入する切っ掛けになりはしないか。

 教育委員会制度もいま改革する必要があるのかどうか。第三者機関による外部評価しかり。現場や教育関係者の了解はなく、場当たり的にも見える。

 五万人以下の市町村教委を統廃合し、公立学校教員人事権の都道府県教委から市町村教委への移譲は混乱を招くだけではないか。それに教育が政治に結び付くという懸念も出てくる。

 個人の心をはぐくむ教育の根本原理をなおざりにしてはならず、改正教基法を軸に「個より国」に力点を移す手法には監視の目を光らせたい。

 


2007-01-20 土 横浜事件控訴棄却 「社説--比べて読めば面白い」 西日本新聞

2007-01-20 10:52:23 | 「保存している記事」から

「社説--比べて読めば面白い」 毎日 読売 東京 中国 西日本
2007年01月20日(土曜日)付 西日本新聞社説

開けた「扉」をなぜ閉じる 横浜事件

 治安維持法は、国体の変革や私有財産制度の否定を目的とする結社や運動を取り締まるために1925年4月に制定された。この法律が効力を持った約20年間に、「蟹工船」で知られるプロレタリア作家小林多喜二が拷問で虐殺されるなど、多数の人が犠牲になった。

 親しい者同士の小さな集まりでも、ふすまの外で誰か聞き耳を立てていないか気になり、自分の考えを話すときは小声になるような、息苦しい世相だった。

 真珠湾攻撃で太平洋戦争に突入した翌年、戦況が日増しに険しくなっていく42年から終戦直前にかけて、当時の神奈川県特高課は雑誌編集者や新聞記者ら約60人を治安維持法違反容疑で次々に逮捕した。

 この横浜事件は戦時中に起きた言論弾圧事件の中で最大のものとされる。横浜地裁は終戦から治安維持法が廃止された45年10月までの短期間に約30人に有罪判決を言い渡している。取り調べで拷問も行われ、4人が獄死した。

 戦後40年を過ぎた86年から横浜事件の元被告とその家族らは、無実を訴えて再審請求を繰り返してきた。

 もちろん、元被告の名誉を回復したいという願いからだが、20年を超す長い活動の根底には、個人の思想や信条を法律で抑えつける社会に2度としてはならないという誓いがある。

 事件の発生から60年以上たち、存命の元被告がすでに1人もいない2003年、第3次再審請求について横浜地裁が再審開始を決定、05年に東京高裁がこの決定を支持し、検察側が特別抗告を断念したことで、ようやく再審開始が確定したのだった。

 再審開始の重い扉が開いたことで、実質審理が行われ、元被告の無罪が証明されるものと思われた。治安維持法のために当時の人々が被った悲劇と苦痛を現代に刻み直し、将来への教訓と誓いにできるはずだった。

 ところが、昨年2月の横浜地裁の再審判決は元被告5人の「免訴」を言い渡すものだった。治安維持法が戦後、廃止されたことなどを理由に検察官には公訴権がないと判断し、元被告が無罪かどうかの事実認定には踏み込まずに裁判の手続きを打ち切る内容である。

 東京高裁はきのうの再審控訴審判決で横浜地裁の免訴判断を支持し、元被告側の控訴を棄却した。

 再審制度には、冤罪(えんざい)による人権侵害を司法が自ら防ぐ堤防としての役割があるはずだ。しかし横浜地裁と東京高裁は、市民感覚では形式的とも感じられる法解釈を示しただけで、いったん開けた再審の扉を自ら再び閉じた。

 裁判員制度の実施が近づくなど司法制度改革の大切な時期にあって、横浜事件の再審をめぐる司法の「180度のぶれ」は、市民と司法の距離を引き離す結果にしかなるまい。

=2007/01/20付 西日本新聞朝刊=

2007年01月20日00時00分

 


2007-01-20 土 横浜事件控訴棄却 「社説--比べて読めば面白い」 中国新聞

2007-01-20 10:46:37 | 「保存している記事」から

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2007年01月20日(土曜日)付 中国新聞社説

横浜事件控訴棄却 司法の過去を忘れるな

 事件の証拠調べをしない公判の進め方から予想できる判決だったが、あらためて失望を感じた。

 戦時下最大の言論弾圧とされる横浜事件の再審控訴審で、東京高裁は十九日、有罪、無罪の判断をせず裁判を打ち切る「免訴」の判決をした横浜地裁の一審を支持、元被告五人(いずれも故人)の控訴を「免訴判決に対し控訴はできない」として棄却した。過去の司法の汚点に正面から向き合おうとしない判決といえよう。

 横浜事件は、一九四二年から四五年にかけて「共産主義を宣伝した」として治安維持法違反容疑で出版社員らが次々逮捕された。神奈川県警特高課によるすさまじい拷問で、四人が獄死している。土下座させられ、竹刀やこん棒で激しく打ちのめされ、失神すると水を掛けられて、また拷問される。

 特高警察によるでっち上げという見方が研究者では定説という。問題は、終戦直後、これら被告の形だけの公判を裁判所が開き、次々有罪判決を下していたことだ。「執行猶予」を示唆して司法が元被告と取引した可能性が高い。さらに、元被告らの証言などから、進駐軍が来る前に、裁判資料を故意に焼却していた可能性もある。

 有罪が確定し、後に大赦となった元被告が、無罪を訴えて再審の門をたたいたが、裁判資料がないことなどで、二〇〇五年の東京高裁での再審の決定まで待たねばならなかった。それは司法自体の責任だろう。ポツダム宣言受諾後なのに、でっち上げに加担、いろんな工作をしたと思われるからだ。

 〇六年二月の横浜地裁の再審判決は形式的な法律論による「免訴」だった。元被告側が控訴、今回の「門前払い」判決になった。

 現在の日本には、言論規制を強めようとの動きが、陰に陽にうかがえる。〇四年には、元都立高校教諭が卒業式に招かれ、君が代斉唱の時に、保護者に席から立たないよう訴え、退場を求められて怒鳴ったとして威力業務妨害罪で起訴された。イラク派遣への反対ビラを自衛隊官舎に配った市民団体員が住居侵入罪に問われた。思想的な面への警察力行使が目につく。犯罪を実行しなくても相談しただけで罪に問われる「共謀罪」も国会成立へ動いている。

 「今も日本は古い時代のしっぽを引きずっている。いつまでも真相をはっきりさせないのは許せない」と横浜事件の元被告の妻が語っている。この言葉の重みをじっくりかみしめたい。

 


2007-01-20 土 横浜事件控訴棄却 「社説--比べて読めば面白い」 東京新聞

2007-01-20 10:44:47 | 「保存している記事」から

「社説--比べて読めば面白い」 毎日 読売 東京 中国 西日本
2007年01月20日(土曜日)付 東京新聞社説

横浜事件 元被告の無念胸に刻み

 被害を受けた人たちと心の通い合う司法でないと、法の威信は失墜し「法の支配」の基盤が揺らぐ。“人権の最後の砦(とりで)”としての使命を果たすためには、過去と率直に向き合う姿勢が必要だ。

 戦時下最大の言論弾圧事件とされる横浜事件の再審は、東京高裁でも「無罪」ではなく、「既に治安維持法は廃止されている」との形式論で裁判を打ち切る「免訴」だった。

 多くの研究などで拷問による冤罪(えんざい)だったのは明らかなだけに、この結論は残念だ。

 雑誌編集者ら数十人が「共産主義を宣伝した」などと治安維持法違反で逮捕され、有罪判決を受けた。四人は特高警察の激しい拷問で獄死した。敗戦後になっても裁判所は有罪の判決を出し続け、被告とされた人たちは長い間、解放されなかった。

 事件をでっち上げた警察、容認した検察官だけでなく、司法も加担したとの批判を免れない。

 釈放後、元被告たちは無罪判決による名誉回復を求めて何度も再審請求したが請求棄却が繰り返され、やっと再審判決が出たときには全員死亡していた。

 昨年二月の横浜地裁判決には事実経過などに対する弁解めいた言及こそあったものの、司法としての真摯(しんし)な反省は感じ取れなかった。その言及さえ高裁判決は批判しているように読める。

 一九六三年、いわゆる巌窟(がんくつ)王事件の再審無罪判決の際、名古屋高裁の裁判長は強盗の濡(ぬ)れ衣(ぎぬ)を五十年間着せられてきた被告に「先輩が犯した過ちをひたすら陳謝する」と頭を下げた。こうした謙虚さこそが信頼を深めるのである。

 治安維持法は戦争遂行のための旧憲法下の思想統制法だ。人権を尊重する現憲法下では横浜事件のような弾圧は起こりえないと考えたい。

 だが、法体系が変わっても、法の執行者が過去の過ちを見つめていないと人権は大きな影響を受ける。

 司法は国家統治機構の一翼とし治安に関する責任の一端を担う一方、「人権の砦」として大きな役割を負うが、現実には捜査当局や行政を十分チェックできないなど厳しい指摘がある。

 教育現場で日の丸・君が代に対する敬意を強制され、教育基本法改正で愛国心養成が導入されようとしている。国民の内心に対する公権力の介入が強まりそうなだけに、人権を守る最後の砦としての役割はますます重要だ。

 法の運用、執行を担う人たち、とりわけ最終関門である司法の関係者は、冤罪の被害者の無念を胸に刻み込んでほしい。

 


2007-01-20 土 横浜事件控訴棄却 「社説--比べて読めば面白い」 読売新聞

2007-01-20 10:34:08 | 「保存している記事」から

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2007年01月20日(土曜日)付 読売新聞社説

横浜事件再審 法律や判例を重視した判決だ

 厳格な法手続きに沿った判決と言えるが、元被告側からは「あまりに形式主義的な判断だ」という反発の声が上がった。

 戦時下の大規模な言論弾圧事件である横浜事件の再審控訴審で、東京高裁は「無罪」を求める元被告側の主張を退ける判決を言い渡した。

 「無罪でなく免訴だ」という結論は、横浜地裁の1審判決と変わらない。

 控訴棄却は「免訴の判決に対しては、上訴できない」とした最高裁の判例に沿ったものだ。「この判例は通常裁判で示された判断で、無罪が確実視される再審裁判に適用すべきでない」とした元被告側の主張は受け入れられなかった。

 東京高裁は、1審の横浜地裁が「免訴にする理由さえなければ」として元被告らの「無罪」を示唆したことについて、「そのような説示をすること自体が問題」だとする考えも示した。

 裁判を打ち切る「免訴」では、実体審理はできないのだから、有罪か無罪かについては、いささかなりとも述べるべきではないということなのだろう。

 だが、横浜地裁があえてそう説示したのは、判決は法に従って出さざるを得ないものの、その一方で、元被告らの思いを少しでもくみ取ろうとした結果だったかも知れない。

 あくまで法律的な考え方に沿った今回の判決に対して、元被告らの弁護団は、「再審開始決定などとの間に大きな落差がある」などと批判している。

 横浜事件で最初に再審開始を決めた横浜地裁の決定は異例の内容だった。判例によれば、再審請求は事実関係に重大な修正を迫る証拠が見つかった場合に初めて認められる。だが、地裁は「治安維持法はポツダム宣言受諾の時点で事実上失効した」という法律解釈をすることで、再審開始を決定した。

 東京高裁の裁判長は、それに対して疑義を唱えつつも、過去に最高裁が退けた元被告側の主張を受け入れる形で、やはり再審開始を決めている。

 この事件では、終戦前後の混乱の中で判決などの訴訟記録が紛失していることなどについて、司法の責任を追及する議論がある。再審請求審の各裁判官は、そうした批判を重く受け止めて、法律や判例にとらわれない思い切った判断を示した、という見方もある。

 ただ、治安維持法は戦後廃止され、元被告らには大赦があった。法律ではそうした場合、免訴を言い渡さなければならない。1審の横浜地裁も、その決まりを曲げる訳にはいかなかった。

 元被告側の上告に対し、最高裁は何を言うのか、注目したい。

(2007年1月20日1時51分  読売新聞)

 


2007-01-20 土 教育再生会議の第1次報告案 「社説--比べて読めば面白い」 西日本新聞

2007-01-20 09:46:43 | 「保存している記事」から

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2007年01月20日(土曜日)付 西日本新聞社説

問題の解決に有効なのか 教育再生会議

 安倍晋三首相の肝いりで発足した政府の教育再生会議が、第1次報告案を大筋で了承した。24日の総会で正式決定し、首相に提出するという。

 報告案は、「ゆとり教育」の見直しなどを求める「4つの緊急対応」と「7つの提言」が柱となっている。

 教育問題に対する国民の関心は極めて高い。多くの国民が教育の現状を憂い、改革の必要性を痛感している。

 教育改革を内閣の重要課題に掲げ、有識者の英知を結集して問題に立ち向かおうとする政権の意欲と姿勢はまず、率直に評価したい。

 だが、報告案に盛り込まれた数々の提言が、教育現場の抱える深刻な問題の解決にどこまで有効かどうかは十分な吟味が必要だろう。教育の最前線で格闘している現場の声を聞くとともに、国民的な合意形成の努力を怠ってはならない。

 報告案は昨年末に示された骨子案に比べると、具体的な提言が確かに増えた。素案の段階で盛り込まれながら骨子案で削られた「ゆとり教育の見直し」が復活したのは、その象徴だ。

 学力低下の一因とされる「ゆとり教育」に対する風当たりは強い。詰め込み教育への批判を受け、小中学校の授業時間は1970年代から減り続けてきた。「学校週5日制の完全実施」「総合的な学習の時間の創設」「学習内容の3割削減」に踏み切った現行の学習指導要領は「ゆとり教育」の総仕上げともいわれる。

 その「ゆとり教育」を見直すため、公立学校の授業時間を10%増やすという。これでどんな教育効果が期待できるのか。「ゆとり教育」の検証とともに、かつて批判された詰め込み教育に回帰しない歯止めも真剣に考えねばなるまい。

 「教育委員会の抜本改革」も大きなテーマだ。教員の人事権を都道府県教委から市町村教委へ移譲するとともに小規模市町村教委は統廃合するという。第三者機関「教育水準保障機関」(仮称)による学校や教育委員会の外部評価も盛り込まれた。

 ところが、伊吹文明文部科学相は教育委員会制度の見直しに関して「中央教育審議会(中教審)にもう1度尋ねるのが筋だ」としている。

 この発言が象徴するように、首相直属の諮問会議である教育再生会議と、実際の教育行政を担う文科省や中教審との関係や役割分担は必ずしも明確ではない。

 教育再生会議が迷走してきた要因の1つも、ここにあるのではないか。

 報告案の中に「道徳の時間」の確保と充実や、高校での奉仕活動の必修化などが盛り込まれているのも気掛かりだ。「規範意識」をすべての子どもたちに教えるためだというが、首相が唱える「美しい国づくり」の教育論に迎合したような印象も否めない。教育現場が戸惑ったり、混乱したりする恐れはないのか。そうした慎重な配慮も求めておきたい。

=2007/01/20付 西日本新聞朝刊= 2007年01月20日00時00分


 


2007-01-20 土 教育再生会議の第1次報告案 「社説--比べて読めば面白い」 産経新聞

2007-01-20 09:40:10 | 「保存している記事」から

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2007年01月20日(土曜日)付 産経新聞主張

教育再生 ゆとり教育見直しを評価

 政府の教育再生会議(野依良治座長)の第1次報告内容がまとまった。その中で、昨年12月に発表された骨子案では見送られた「ゆとり教育の見直し」が明記された。授業時間を現行の10%増とし、教科書の改善や学習指導要領の早期改定も行うとしている。

 ゆとり教育を主導してきた文部科学省や自民党文教関係議員の抵抗を退けた結果であり、安倍晋三首相のリーダーシップが発揮されたといえる。

 いじめを繰り返すなど、極端に問題がある児童への出席停止措置を認めることも明記された。いじめ対策に、より多くの選択肢を残すものだろう。指導力に欠ける不適格教員を排除するための教員免許更新制度導入と、今後5年間で2割以上を目標に教員への民間人登用を目指すことも、硬直化が指摘される教育現場に新風を送り込み、生徒・児童の学習意欲を喚起する有効な手段の一つであろう。

 また骨子案で「情報公開を進める」という表現にとどまった教育委員会制度改革では、第三者機関による外部評価制度の新設が盛り込まれた。「さらに掘り下げた議論を」と注文をつけた首相の意向に沿ったものだ。

 もちろん、授業時間を10%増やしただけでゆとり教育で生じた学力の低下が回復できるのかという疑問は残る。とくに、小中学生の学習量は昭和50年代に比べて半減しており、夏休みの短縮や土曜日、平日放課後の補習などで授業時間を増やしても急速な学力向上は難しいとの指摘もある。

 とはいえ、大幅な授業時間増は、いたずらに教育現場の混乱をもたらす危険性がある。生徒・児童、学校の適応具合を見極めながら段階的に引き上げていくことが必要ではないか。

 ゆとり教育により、学習塾などで金をかけ学力を補っている「できる子」と、その余裕がなくて「できない子」との二極分化が進んでいるとされる。経済格差が教育格差につながっているとの見方で、首相も、「公教育を再生していかなければ、格差は拡大していく」と述べている。

 見直しが一日遅れれば、その分だけこうした格差が拡大する可能性は高い。政府には報告に基づいて早急に教育再生関連法案をとりまとめ、一日も早い成立をはかるよう求めたい。

(2007/01/20 05:03)

 


2007-01-20 土 教育再生会議の第1次報告案 「社説--比べて読めば面白い」 毎日新聞

2007-01-20 09:33:59 | 「保存している記事」から

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2007年01月20日(土曜日)付 毎日新聞社説  25
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教育再生会議 目指す「学力」とは何かを示せ

 「今日の学校は、確実に学力を身につける安心な場であってほしいという保護者の願いに応えておらず、『公教育の機能不全』ともいうべき由々しき状態です」。政府の教育再生会議がまとめた第1次報告案はこうした現状認識から始まっている。

 機能不全とはまた思い切った指摘である。「不適格教員は教壇に立たせない」「教員免許状を取り上げる」という表現もいかめしい。再生会議の意気込みの「力み」が表れ出たような格好だ。

 報告案は「ゆとり」教育の否定的見直し、学力と規範性の向上、教員・学校の評価と地域連携、いじめ解消策など、いわばひん死同然と診断した公教育への再生処方が列記された。だが基本的な何かが足りないと感じる。なぜか。

 「学力」とは何か、あるいは改革によってどのような「学力」を子供たちにつけさせたいと考えているのか、十分に示しえていないのだ。確かに報告案は授業を1割増やし「読み書き計算」の力をきちんとつけさせることなどをうたっている。その力は大事だ。しかし、その能力の先にどういう力や資質を養いたいのだろうか。

 今回やり玉に挙げられた「ゆとり」化は、1970年代以降、受験過熱、知識詰め込み教育の反省や国際競争時代に必要な個性的で柔軟な思考、対応力の養成などを念頭に進められてきた。その学力理念は96年の中央教育審議会答申が端的に示す。「どう社会が変化しても、自分で課題を見つけ、自ら学び、考え、判断、行動し、よりよく解決する力」である。これは「生きる力」と要約された。

 そして「学校のスリム化」をうたい、すべてを学校で担うことはせず、家庭や地域で分担することを提起。基礎を重視した学習内容の絞り込みと、教科を超えた総合学習の導入などへつながる。

 その現状については批判は多く、対策に今回の報告案にある授業増加も考え方の一つだろう。だが、現状否定の上に立つのならば、再生会議は新しい学力についての考え方をとことん論じ合い、かつて「ゆとり」論議で提起された「生きる力」に代わるような理念を示すべきではないか。

 そして今後は論議をオープンにしてほしい。報告案はこういっている。「今日学校教育が批判されている『悪平等』『形式主義』『閉鎖性、隠ぺい主義』『説明責任のなさ』等を排し、真に国民の期待に応える教育を」。その姿勢であれば、私たちがこれまで求めてきたように再生会議はその多様な論議の過程を公開し、国民に考える材料を十分提供すべきだ。

 また論議が永田町の外へ、とりわけ子供たちに向いて行われているのか。外の目には、再生会議の周りで国会、官邸、文部科学省、与党、文教族、利害関係省庁などの考え方や意見、思惑が交錯、乱反射しているように映る。いったい今回の報告案はどう具体化・実現化されていくのか。

 それもきちんと整理して道筋を示しえなければ、責任ある改革提言とはいえない。

毎日新聞 2007年1月20日 0時13分
       
25日(曜日)付はこちら

 


2007-01-20 土 教育再生会議の第1次報告案 「社説--比べて読めば面白い」 朝日新聞

2007-01-20 09:09:48 | 「保存している記事」から

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2007年01月20日(土曜日)付
朝日新聞社説  26日(金曜日)付はこちら

教育再生 報告案は期待はずれだ

 安倍首相の肝いりでつくられた教育再生会議の第1次報告案がまとまった。

 昨年10月に初会合を開いたこの会議には、経済界や文化人、大学など各界から17人の委員が起用された。清新な顔ぶれに大胆な議論を期待した人は多いだろう。

 報告案は、小中学校での教え方、大学入学、教育制度の見直しまで、多岐にわたる提言をしている。しかし、その内容は清新さとはほど遠い。

 教育の中身では、「ゆとり教育」の見直しや、全国学力調査の実施などが提言された。教員免許を更新制にして不適格教員を排除することも求めている。

 しかし、全国学力調査は今春に実施される。「ゆとり教育」のもとで薄すぎると批判された教科書も、すでに発展的な内容が盛り込まれるようになってきた。教員免許の更新制も、中央教育審議会が答申ずみだ。

 問題を起こした子どもの出席停止、高校での奉仕活動の必修化、大学の9月入学などは、小渕内閣がつくった教育改革国民会議の提案とほぼ重なる。

 これでは、すでに動き出している改革や、過去の提言の焼き直しと受けとめられても仕方があるまい。

 過去の提言より踏み込んだのは、教育委員会の見直しである。教職員の人事権をできるだけ都道府県から市町村に移す。小規模市町村の教育委員会は統廃合を進める。教育委員会の活動を第三者機関に外部評価させる。そうした内容だ。

 教育委員会は戦後教育の根幹となってきた制度である。その変革は、教育全体に大きな影響を及ぼす。

 見直しの具体策は、昨年暮れにまとめられた第1次報告の原案にはなかった。原案に新味が乏しいことに危機感を募らせた首相官邸が働きかけ、急に盛り込まれたものである。

 きちんと議論されたのは1月の分科会で1度だけだ。それなのに、報告案はまもなく始まる通常国会で関連の法律案を出すよう求めている。

 論議より政治日程を優先させるようでは「教育再生」の名が泣く。

 実際の論議では、大胆な提言や斬新な意見があったことが報じられている。例えば野依良治座長は、公教育を再生するために普通以上の成績の子どもの塾通いを禁止すべきだと再三、語ったという。だが、そうした意見があったことすら報告案には盛り込まれなかった。

 報告をまとめるのは、文部科学省などの出向者が多い事務局である。過去の教育政策とのすりあわせや実現可能性を重視する事務局主導の運営では、斬新な意見は黙殺されてしまいがちだ。

 そうさせないためにも、非公開としている審議を公開すべきではないか。ほとんどの審議会は公開されている。とりわけ教育問題は、教師や保護者らの声を聞きながら論議を深める必要がある。

 密室の論議で結論だけを示すやり方では、国民にそっぽを向かれるだろう。

 朝日新聞 26日(金曜日)付はこちら


2007-01-14 日 今日の東京新聞社説

2007-01-14 07:55:04 | 「保存している記事」から

東京新聞 社説 2007年01月14日(日曜日)付

週のはじめに考える 『公共』は国境を超える

 改定教育基本法に「公共の精神」の言葉が盛り込まれました。国家の枠にとらわれず、身の回りから、地球規模まで視野に入れた「公共」を考えたいものです。

 「コモンズの悲劇」というエピソードがあります。

 コモンズというのは、英国の農民らが慣習的に共同利用してきた共有地とその仕組みのことです。

 たとえば、ヒツジを飼う放牧地があります。農民たちが共同利用しています。そこで、ある農民が自分のヒツジを一頭増やしたとします。当然、資産が増えて、得をします。

■「コモンズ」の悲劇とは

 では、農民みんなが得をしようと、次々とヒツジを一頭、また一頭と増やしたらどうなるでしょうか。

 えさとなる牧草はどんどん減って、ついには、その牧草地は滅んでしまいます。米国の生物学者ハーディンが一九六八年に問題提起した「悲劇」のかたちです。

 日本にも古くから「コモンズ」はありました。山や川などの資源を村の人々で共有する、いわゆる入会(いりあい)権の形で、今でも残っています。

 地方地方でさまざまな形態の違いはありますが、山の所有者は主に、そこに生える樹木を所有します。でも、山に入れば、枯れ木が落ちていたり、キノコが生えていたり、動物たちが生息しています。それらは村人が、それぞれ自分のモノにできるという慣例が入会権です。

 「総有」という言葉もあります。村人たちが共同で山を持ち、森がもたらすさまざまな恵みを村人がそれぞれ享受するわけです。山は「みんなのモノ」でもあるし、「自分のモノ」でもあるわけです。

 でも、ハーディンが心配したような「悲劇」は起こりませんでした。それは村の人々が、山や川の資源維持を何より大切な倫理規範としたからです。

 それこそが「公共」の世界でした。村人は山の恵みをむやみに乱獲したりはしませんでした。お互い守り合った暗黙のルールこそが、「公共の精神」でした。

 かつては「結(ゆい)」と呼ばれる共同作業の制度もありました。上から押しつけられた「公共の精神」ではなく、「みんなのための公」でした。

■教育勅語が強いた「公」

 しかし、「公」の文字は、「みんなのため」ではなく、「お上」や「国家」の意味でも用いられます。

 古くは律令(りつりょう)制時代に「公田(くでん)」と「私田」がありました。「公田」とは国家に直属する田んぼでした。今でも「公用車」といえば、「みんなの車」の意味ではなく、「役所の車」のことです。

 明治から終戦までの近代日本は、そうした国家主義的な「公」を強化する歴史を積み重ねました。天皇を中心とした国家体制に国民を組み込む理念として、子どもたちに「公」の文字が教え込まれました。

 その典型的な役割を果たしたのが、「教育勅語」です。その中にこんな一節があります。

 《一旦緩急(いったんかんきゅう)アレハ義勇公ニ奉シ》

 要するに非常事態が起これば、義勇心を発揮し、「公」である国の安全に奉仕しなければならない。命を投げ出してでも、「お国のために尽くせ」という意味でしょう。「滅私奉公」が唱えられた時代です。

 安倍晋三首相が考える「公」も、国家そのものでしょう。なぜなら、著書の中で太平洋戦争末期に死んでいった特攻隊の若者を例に引き、こう書いているからです。

 《彼らは『公』の場で発する言葉と、『私』の感情の発露を区別することを知っていた。(中略)愛(いと)しい人のことを想(おも)いつつも、日本という国の悠久の歴史が続くことを願ったのである》

 ここで語られる「公」とは、「公=国家」です。しかし、この国家たる「公」と改定教育基本法に盛り込まれた「国を愛する態度を養う」という徳目とが結びついて、“連鎖反応”を始めると、戦前の愛国教育と似た構造になりはしないか。そんな危うさが漂っています。

 むしろ、今の時代に必要な「公」とは、「みんなのための公」です。

 市場主義や競争主義という価値観がなだれ込んで、日本は弱肉強食型の社会へと変わってきています。

 格差というより、貧困が社会問題化しています。他者を踏みつけてでも「勝ち組」になろうという精神がはびこると、人と人との信頼や連帯は駆逐され、社会はぎすぎすします。私利私欲が幅をきかせます。

 そんな時代こそ、お互い助け合う「公共」をつむぎ直さねばなりません。個人と社会をつなぐ役割は、NPO法人(特定非営利活動法人)などが果たすでしょう。福祉やまちづくりなどの身近な「公共」や、環境、人権、平和など、地球規模の「公共」の場面で活動しています。

■奪い合えば滅亡の恐れ

 地球温暖化や食料危機が心配される今世紀です。資源は限りあるものです。奪い合えば、争い、そして滅びます。国家の枠を超えた「公共」の理念を構築しておかないと、ハーディンが問題提起した「コモンズの悲劇」を迎えかねません。

 


2007-01-10 水 今日の沖縄タイムス社説

2007-01-10 20:36:09 | 「保存している記事」から

沖縄タイムス社説(2007年1月10日朝刊)

「防衛省」発足 憲法こそブレーキ役だ

首相「新たな国づくりの一歩」

 防衛省が発足した。昨年十二月に防衛省昇格関連法が最大野党の民主党を含めた圧倒的多数で成立、自衛隊にとっては一九五四年の防衛庁設置から半世紀余の悲願が達成された。

 省昇格で権限は大幅に増すことになる。形式上、主務大臣の首相を経ていた予算要求や法案提出が可能となり、防衛出動の承認を得る閣議開催も独自に要求できる。「自衛隊管理庁」と揶揄されていた時代と比べ、政治力は格段に強まる。

 記念式典で、安倍晋三首相は「戦後レジーム(体制)から脱却し、新たな国づくりを行うための基礎、大きな第一歩となる」と指摘。さらに、集団的自衛権行使について個別の事例研究を進めるとの考えをあらためて表明した。

 北朝鮮の核実験強行により、日本を取り巻く安全保障環境はかつてなく厳しい状況に陥っている。政策官庁としての防衛省が果たすべき役割はこれまでにも増して大きく、責任は重い。

 省昇格でなお懸念が払拭されないのは、日本の防衛政策の基本原則である専守防衛や文民統制(シビリアンコントロール)、非核三原則など平和国家としての機能が今後変更されはしないかという点だ。

 野党共闘を重視してきた民主党も、文民統制の徹底などを盛り込んだ付帯決議が採択されたからこそ賛成に回った。

 しかし、問題は今後、海外派遣がさらに増える自衛隊の活動がどこまで憲法の枠内にとどまることができるのか、ということだ。

 海外派遣を重ねその存在感を増していくのに伴い、シビリアンコントロールの確保も重要な課題となる。

 自衛隊は、カンボジアやゴラン高原などでの国連平和維持活動(PKO)に加え、現在も航空自衛隊がイラク復興支援特別措置法に基づき同国で空輸活動に当たっている。

 インド洋では海自がテロ特措法により米国などの艦船に補給活動を続けている。インドネシア・スマトラ沖地震をはじめ、自衛隊による国際緊急援助活動も年々増えている。

中国「軍事大国化への一歩」

 これらの海外活動は、これまで自衛隊の「付随的任務」とされてきたが、省昇格に伴い、PKOや周辺事態法に基づく米軍の後方地域支援などを含め国土防衛と並ぶ「本来任務」に格上げされた。

 安倍首相は今後、集団的自衛権に関する研究に加えて自衛隊の海外派遣を随時可能にする「恒久法」制定にも弾みをつけたい考えだ。

 これに対し、初の防衛相に就任した久間章生氏は「恒久法としてまとめ切れるかどうか難しい」と否定的で、足並みは必ずしもそろっていない。

 だが、安倍首相が目指すように自衛隊の海外派遣が本格化し、米軍など他国軍とともに活動するケースが多くなれば、集団的自衛権行使や武器使用基準の緩和などにもつながりかねない。

 中国の国営通信社・新華社は、防衛省昇格について「日本の軍事大国化に向けた重要な一歩。日本の軍事発展に深遠な影響を及ぼすのは必至だ」と論評し、警戒感をあらわにした。

 安倍首相の「新たな国づくりのための一歩」とは、中国の指摘する「日本の軍事大国化に向けた一歩」なのか。私たちは、日本の安保政策の転換点に立たされていることを認識しなくてはなるまい。

求められる慎重な改正論議

 安倍首相はまた、集団的自衛権行使の可能性を研究する具体例として、ミサイル防衛(MD)システムで米国に向けて発射された弾道ミサイルの迎撃を挙げている。海外派遣を随時可能にする「恒久法」とともに、憲法に抵触しかねない危険性をはらんでいる。

 政府の解釈によって集団的自衛権の行使や恒久法制定に安易に踏み込むことは、軍事大国化につながる懸念が大きく許されるものではない。

 解釈改憲をさらに進め、既成事実を積み重ねていけば「なし崩しの改憲」にもつながりかねない。

 逆にいえば、現憲法は軍事大国化への「ブレーキ」の役目を戦後六十余年間も果たしてきたといえよう。

 安倍政権は、そのブレーキを解釈改憲でなし崩しにし、集団的自衛権の行使など新たな安保政策の「アクセル」をふかし始めているように映る。

 憲法がブレーキなら、その改正論議は性急にならず、より冷静で慎重でなければならない。

 


2007-01-10 水 今日の東京新聞社説

2007-01-10 20:34:07 | 「保存している記事」から

東京新聞社説 2007年1月10日付

防衛省発足 前のめりが気になる

 防衛省が誕生した。安倍晋三首相は、政府の憲法解釈で禁じられた集団的自衛権行使の研究を進める考えを示した。戦後日本の防衛政策の根幹である専守防衛が変わる転機にしてはならない。

 首相は記念式典で「『美しい国、日本』をつくっていくためには、『戦後体制は普遍不易』とのドグマ(固定観念)から決別し、二十一世紀にふさわしい日本の姿、新たな理想を追求し、形にしていくことこそが求められている」と訓示した。

 初代防衛相となった久間章生氏の「防衛政策の基本などは省移行後も変えてはならない」という訓示とは対照的だ。首相の前のめりの姿勢が気になる。

 首相は「いかなる場合が憲法で禁止されている集団的自衛権の行使に該当するのか、個別具体的な事例に即して、研究を進めていく」とも述べた。具体的には、米国に向け発射されたミサイルの迎撃を可能にするとともに、海外で自衛隊と一緒に作業している外国部隊が攻撃された場合、救出できるような解釈の見直しを想定しているようだ。

 省昇格に伴い、自衛隊のイラク派遣などの海外活動も付随的任務から本来任務に格上げされた。今後、自衛隊の海外活動が増え、米軍など他国の軍隊と活動をともにするケースが多くなると考えられる。それに備えた解釈の見直しであり、併せて自衛隊の海外派遣を随時可能にする「恒久法」の制定と自衛隊員の武器使用基準の緩和も目指している。

 実現すれば「自国の防衛」に役割を限定していた自衛隊の性質が大きく変わる。米国など他国の兵士や軍隊を救うために自衛隊の武器の使用まで認めれば、武力行為を禁じた憲法九条を逸脱する恐れがある。慎重な議論が必要だ。

 確かに集団的自衛権の問題は憲法解釈上、グレーゾーンがある。「非戦闘地域」という際どい概念をつくって、自衛隊を“戦地”のイラクに派遣したのも、そのすき間をついたともいえる。研究するなら、憲法を拡大解釈するのでなく、自衛隊の海外活動が際限なく広がらぬよう歯止めを考えるべきではないか。

 戦後日本は集団的自衛権の行使を禁じてきただけでなく、専守防衛や軍事大国にならない、非核三原則、海外派兵の禁止、武器輸出三原則など、平和憲法に基づいた防衛政策の基本を堅持してきた。

 首相は訓示の中でこうした基本政策について触れなかった。二十五日召集予定の通常国会ではしっかりと説明してもらいたい。

 


2007-01-09 火 毎日新聞社説 世界情勢 共通の土俵で協調を広げよ

2007-01-09 01:04:41 | 「保存している記事」から

シリーズ【毎日新聞社説】 07年、もっと前へ   <<前へ  目次  次へ>>

2007年01月09日(火曜日)付

07年、もっと前へ 世界情勢 共通の土俵で協調を広げよ

 今年の米国がどう動くかを決めるのはホワイトハウスだけではない。昨年の中間選挙で選ばれた第110連邦議会は4日、開会した。上下院を支配する権力が共和党から民主党に移り、ブッシュ共和党政権では初めて、立法府と行政府を異なる政党が握る。

 法案や予算の審議と政府高官を証人喚問する公聴会を通して、民主党主導の議会は政策決定にこれまでよりはるかに大きくかかわるだろう。ブッシュ大統領は選挙後「コモン・グラウンドを探そう」と訴えた。共通の土俵作りが政治運営に必要という呼びかけだ。

 政治を前に進める力は何か。米国の中間選挙が示したように、国の方向は有権者の投票によって動く。今年、世界では少なくとも58の国政レベルの選挙が行われる。

 隣の韓国では12月に大統領選挙が予定されている。選挙のたびに社会が激しく動くこの国は、今年一年中、候補者選びと選挙運動を通じて揺れ続ける。

 ◇選挙が動かす国の針路

 シラク保守政権が12年続いたフランスは4月の大統領選挙で保守サルコジ氏と左派ロワイヤル氏が争うだろう。同国史上初の女性大統領が誕生するかどうか、男性優位が指摘される政治文化の変化も関心を呼ぶ。選挙ではないが、英国ではブレア首相が今年、退陣する。10年間の長期政権のひずみが不正融資事件などに表れ、後継首相は解散総選挙の時機を探ることになる。

 ロシアは12月に下院選挙を行う。大統領選挙は08年3月だが、憲法で3選を禁止されているプーチン大統領が出馬する観測が消えない。今年のロシア政治はプーチン3選の是非をめぐる議論が活発になりそうだ。

 米国は08年大統領選挙の予備選立候補者が今年出そろい、実質的な選挙戦が始まる。共和党はブッシュ氏が2期満了でチェイニー副大統領も出馬しない。現職の正副大統領が予備選に立候補しないのは実に80年ぶりで、新人同士が対決する構図だ。米兵の死者数が3000人を超えたイラクの泥沼からいかに脱出するかが、最大の争点となるだろう。イラクだけではない。単独行動で武力を使ってでも、外国の政権を倒し民主化を世界に広めるというブッシュ第1期政権で顕著だった思想を次の大統領が引き継ぐのか、変更するのか。米国民の投票行動が米国だけでなく世界に大きく影響する。候補者の主張を私たちも注視したい。

 今年も地球は戦禍に苦しんでいる。イラクとアフガニスタンの流血は収拾の見通しがつかないままだ。内戦のソマリアからイスラム原理主義勢力を駆逐したエチオピアは「対テロ戦争」を軍事介入の理由にあげ正当化を図った。対テロ戦争は米国だけの専売特許ではなくなった。だが、対テロ戦争と名づけさえすれば、常に正しい戦争と認定される免罪符ではないことにも気をつけたい。

 9・11同時多発テロにより米国民が抱いたテロへの恐怖感は計り知れない。最近のアメリカ社会を読み解くキーワードとして渡辺靖慶応大教授は「恐怖の文化」をあげる。安全や安心への際限ない欲求。怪しげな他者を排除しようとする意思。そうした人々の意識が、フェンスで囲まれた高級住宅地、ゲーテッド・コミュニティーや全米で200万人以上という刑務所服役者の増加につながった、という。

 フランスの国際政治学者ドミニク・モイジ氏も最近の議論で同じ「恐怖の文化」を使っている。欧州はイスラム移民の増加により、ヨーロッパ大陸が「ユーラビア」と化す恐れを持つ。欧米はともに恐怖の文化であり、世界は「文明の衝突」というより「感情の衝突」の状況にあるという説明だ。

 時代を作るのが人々の深層にひそむ心理だとすれば、不安感や恐れこそ日本や先進国に共通する感覚かもしれない。テロリストの攻撃。豊かな生活からの衰退。グローバル化する世界で自分の位置が見つからない焦り。明日が昨日の続きではなく、安心の保証がない。そんな漠然とした恐れが国際社会全体に漂っていないか。

 「ただ一つ恐れなければならないのは、恐怖それ自体だ」

 第二次大戦を指導した米国のフランクリン・ルーズベルト大統領は1933年、就任演説でそう述べた。当時は大恐慌による経済苦が将来への恐れを招いた。

 ◇恐怖の文化から脱却を

 9・11後の世界でテロリストの国際ネットワークや大量破壊兵器の拡散に直面する私たちも恐怖を脱却し冷静に対応する道を探りたい。異質な他者を警戒するのではなく、協調して地球の未来を切り開く。そのためには願望と事実を区別し、他者の理解が重要だ。

 米国の辞書出版社メリアム・ウェブスターは昨年末、「2006年の英語」に「トゥルーシネス」を選んだ。トゥルース(真実)からの造語で、真実と信じたり希望にすぎない事実を述べることを指す。幻の大量破壊兵器がイラク開戦の理由となったり、権力のイメージ操作で実像を見誤ったり、世界は「トゥルーシネス」に振り回されているようだ。「そうに違いない」ではなく「これが現実だ」から出発する必要がある。

 10年間にわたり約1万3000人の死者が出た内戦が収拾に向かう国がある。ネパール政府と武装勢力「ネパール共産党毛沢東主義派」は昨年11月、包括和平合意に調印した。毛派は武器を置き、6月に予定される制憲議会選挙に参加する。他者との違いよりも同じ点に着目し、共通の土俵を広げる。ネパールがその成功例になってほしい。そうした作業の積み重ねを世界に広げ、和解と国際協調につなげる年にしたい。

毎日新聞 2007年1月9日 0時10分

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2007-01-08 月 毎日新聞社説 社会保障 安心できる全体構想を描け

2007-01-08 17:01:55 | 「保存している記事」から

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2007年01月08日(月曜日)付

07年もっと前へ 社会保障 安心できる全体構想を描け

 ◇人口減少でも未来に希望を

 厚生労働省が昨年末発表した将来推計人口は、50年後のわが国の人口が9000万人を割り込むとはじき出した。2035年からは年に100万人ずつ減少する。これが現実だとすると、日本は毎年香川県並みの人口が消滅していくことになる。

 人口規模でみるなら、わが国は明治時代から「坂の上の雲」を目指してどんどん増えてきたが、04年12月の1億2700万人強を頂点に、坂を下っていく人口減少社会に突入した。この先どんな社会が待っているのだろう。

 将来を含めた人口の推移を折れ線グラフに示すと、人口増加の上り坂は比較的ゆるやかなカーブだったが、下り坂に入ると一気に谷底に下りる急斜面となる。しかも、50年後の出生率が1・26へ下方修正され、その一方で平均寿命は男83歳、女90歳まで長寿化が進む。その結果出現するのは、全人口の5人に2人は65歳以上のお年寄りが占める世界でダントツの超少子高齢社会である。

 ◇歴史的転換期にいる

 言うまでもなく、人口の変動は国のありよう、経済社会の姿を変えてしまう。とりわけ急激な人口減少は、働き手が減り、消費は縮小して経済の活力まで奪う。そのあおりで社会保障にもいろいろなひずみが生じる。手をこまねいていたら、暗い社会が待っているかもしれない。

 社会保障の立場から考えても、いま私たちが直面している日本は、歴史的にも文明史的にも転換期の渦中にある。国の指導者のみならず私たちはまずそういう認識を持つことが大事だ。その上で、政治のリーダーたちは、人口減少社会でも国民が安心し、生き生きと暮らせるような国のデッサンを描き、私たちに提示しなければならない。みんなで議論し、国民的合意を得るためだ。

 チマチマしたその場しのぎの糊塗(こと)策や選挙向けの口当たりのいい政策でなく、将来の国の羅針盤を示すこと、それが今の政治に求められている。

 安倍晋三首相が掲げるイノベーション(技術革新)もオープンな経済社会も否定するものでないが、それは取るべき政策の一つに過ぎない。私たちが聞きたいのは、将来の国の姿である。

 日本はこれからどんな国を目指していくのか。少子高齢化は避けられないとしても、どのくらいの人口規模で、どのくらいの働き手がいれば、国全体として活力を維持できるのか。どんな社会保障制度や税体系を作れば、人口減少社会にも耐えうるのか。そういうデザインと国の目標を転換期に描けない政治家は、歴史感覚に欠けると言わざるを得ない。

 来年度予算案で、社会保障費は一般歳出の45%を占める。数年後には5割を超えると予測されている。次世代になるべくツケを残さないようにするため財政再建は避けて通れない宿題だ。歳出の中でも一番出費の多い社会保障分野は、給付と負担のあり方を常に点検するよう課せられてきた。

 ひと昔前の社会保障は、人口増加と経済成長でそれほど困ることはなかった。経済が成長すると、所得税や法人税の税収入が伸び、それが保険料とともに社会保障の財源となってきたからだ。

 ここ数年相次いだ年金、介護、医療制度改革は、財政再建の強い要請から行われた。その目的は、負担増給付減による社会保障費の圧縮だが、役所言葉で言うなら、財政との調和を図りながら、世代間の公平性を確保し、将来にわたって持続可能な制度を構築する、ということになる。

 「百年安心」の年金改革では、現役世代の手取り収入の50%を確保する給付水準システムを作ったと宣伝した。しかし、これは出生率1・39で制度設計したもので、今度の推計出生率の1・26ならどういうことになるのか。政府は国民を惑わす手品を使わずにわかりやすく説明しなければならない。

 社会保険庁の解体的出直しもさることながら、保険料未納を減らすにはもっと前向きな発想が必要だ。経済成長路線や若者の就労促進、高齢者や女性の就労環境を整備し働き手を増やす対策と連動させるならば、年金制度の安定さも一層増すはずだ。医療についても、質の確保を前提に、引き続き医療費の高コスト構造にメスを入れていかねばなるまい。

 ◇避けられぬ財源議論

 社会保障財源の確保も国民にきちんと合理的な説明をしなければならないテーマだ。選挙対策で消費税増税についての議論まで封印するご都合主義は、やがては国の姿をいびつにしてしまうだろう。

 今後、法人税や所得税の課税強化や社会保険料の引き上げに限界があるとすれば、いずれ消費税増税による財源確保も選択肢として議論するのは避けられまい。風まかせの「上げ潮」路線もいいが、風がやんだ時どうするのか。社会保障や税体系のあり方は、結局、私たちがどんな国を目指すかに深くかかわっている。

 米国の社会保障システムは民間活力重視の自立自助型だ。一方、欧州諸国は、国民や企業がかなりの負担に応じることで社会保障の水準を維持し、それなりに国際競争力や社会の活力を保っている。長い歴史を経て、文化や環境を守りながら穏やかに発展していく国のかたちを目指しているようにも見える。日本は米国のような自助型社会保障を目指すのか。それとも欧州型なのか。

 政治のリーダーが国の目標を掲げ、それへ向け政策を集中していくことが何よりも大切な時代なのだ。それがきっちりできるならば、人口減少社会もなんら悲観的になることはない。

毎日新聞 2007年1月8日 東京朝刊

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