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2007年08月06日(月曜日)付 東京新聞社説と【コラム】筆洗
原爆忌に考える 希望の種子を風に乗せ
六十二回目の八月六日。ヒロシマはまた、深い祈りに包まれます。でも、夕凪(ゆうなぎ)のあとの風に乗り、広島で生まれた希望の種子が、ほら、あなたの手元にも。
落日の気配がほのかに周囲を染めて、夕凪が始まりました。
昼間が夜に交代の準備を促すその間、太田川の川面を滑る風がやみ、せみ時雨もどこか遠くに聞こえます。
「午後の三時をかなりすぎていた。この時刻にやってくる、この街特有の夕凪がはやくもはじまっている。風はぴたりととまっていた。一滴の風もなかった。蒸れるような暑さのために、手の甲にまで、汗の玉がふき出た」
アカシアの木の下で
東京から疎開中に被爆した作家大田洋子が、「夕凪の街と人と」で描いた通りの暑さです。
広島は快晴でした。城南通りの空鞘橋から川上へ、葉桜の並木が縁取る堤防の緑地を歩いていくと、日傘のように形良く枝を広げたアカシアの木が立っています。
公開中の映画「夕凪の街 桜の国」(佐々部清監督)の重要な舞台になった場所でした。
文化庁メディア芸術祭で大賞を受賞した、こうの史代さんの同名漫画を原作に、被爆者三代の日常や生と死を映画も淡々と描きます。
物語前半のヒロイン皆実は、父親と幼い妹を原爆に奪われました。
それから十三年、皆実自身も原爆症で若い命を失います。
同じ職場の恋人と、疎開して被爆を免れた弟に見守られ、「原爆スラム」と呼ばれたバラック集落の前に立つ、そのアカシアの木の下で-。
緑陰に腰を下ろして、ヒロインの最後のセリフをかみしめました。
「なあ、二人とも、長生きしいね。ほうして忘れんといてえなあ…、うちらのこと…」
街角で偶然耳にした、観光ボランティアの女性の言葉がそこに重なりました。
「父と兄が原爆の犠牲になりました。母は当時二歳の私を防火水槽に突っ込んで助けてくれました。母は七十歳を過ぎるまで、その時の模様をいっさい語りませんでした。私にも直接の記憶はほとんどありません。でも永らえた命に感謝を込めて、母の言葉を語り伝えねばなりません-」
すべてはこの街で現実に起きたことだと、念押しをするように。
気が付くと、幹の途中から萌(も)え出たばかりの若い枝葉が小さく風に揺れています。
映画の中のアカシアは、繰り返す死と再生の象徴なのかもしれません。
夕凪が終わり、たそがれに街が沈んでいきました。
被爆の木が伝えるもの
広島は「被爆樹木」を大切にしています。
旧中国郵政局から平和記念公園に移植された被爆アオギリは、爆風に深く幹をえぐられながら、手のひらのような青葉を毎年元気に翻し、童話や歌にもなっています。
爆心地の近くで生きながらえた広島城二の丸跡のユーカリは、被爆後二十六年目に襲来した台風に倒されました。それでも根元から新たな若芽を吹いて、今ではすっかり元通りの姿になりました。
原爆ドームに代表される「原爆を見た建物」が核兵器の悲惨を歴史に刻み、浄国寺の被爆地蔵や元安川の灯籠(とうろう)流しが鎮魂の思いを世界に示す一方で、被爆樹木は限りない命の強さ、希望の深さを象徴します。
昨年の平和記念式典で、日米の小学六年生が「平和への誓い」を読み上げました。
「一つの命について考えることは、多くの命について考えることにつながります。命は自分のものだけでなく、家族のものでもあり、その人を必要としている人のものでもあるのです」
夕凪のように風のない、停滞した時間に紛れ、私たちは、今生きて、暮らしていることの尊さを、つい忘れがちになるようです。
いたずらに日々を憂い、刺激を求め、美しい姿形や勇ましい言動に、魅せられてしまいます。
「平和への誓い」は続きます。
「『平和』とは一体何でしょうか。争いや戦争がないこと。いじめや暴力、犯罪、貧困、飢餓がないこと。安心して学校へ行くこと、勉強すること、遊ぶこと、食べること。今、私たちが当たり前のように過ごしているこうした日常も『平和』なのです」
ヒロシマが、ナガサキが、本当に語り伝えたいものは、「日常」の中にたたずむ「希望」なのかもしれません。
生きていてありがとう
映画の前半で、ヒロイン皆実の恋人が愛する人を抱きしめながら、しみじみとつぶやきます。
「生きとってくれて、ありがとうな」
ヒロシマが日本や世界に届けたい、「心」のようにも聞こえます。
八月六日。それぞれの場所からヒロシマへ、鎮魂の思いに乗せて答えを返してみませんか。
【コラム】筆洗 2007年8月6日
撮影場所は東京都内の雑踏。一九四五年の八月六日と九日に日本で何が起きたのか、若者にマイクが向けられる。「地震とか?」。誰も答えられない。もちろん原爆投下が答えになる▼日系三世のスティーヴン・オカザキ監督のドキュメンタリー映画『ヒロシマナガサキ』の冒頭の場面だ。都内や愛知県、石川県など全国で順次公開中。米国では今日、三千八百万人以上の加入者がいるケーブルテレビ網で放映される▼映画は十四人の被爆者の証言を軸にしながら、当時の記録映像を交えていく。『はだしのゲン』で知られる漫画家の中沢啓治さんは、六十二年前の今日の記憶は今も鮮明で、「あのセットをつくれと言われたら、そのままつくっちゃいますよ」と話している。父と姉弟を失った日であり、記憶とはときに酷(むご)いものである▼それでも証言者は淡々と記憶をたどる。居森清子さんは当時十一歳。爆心地から四百十メートルしか離れておらず、猛火から逃れるため川に飛び込んだ。在校生六百二十人の学校で、生き残ったのは居森さん一人だった。原爆体験を伝えるために生かされたのだと、自分に言い聞かせている▼映画では、原爆を投下した爆撃機の元航空士が「何人か集まると、必ずバカな奴(やつ)が『イラクに原爆を落とせばいい』と言う」と、いら立つように話す場面がある。広島と長崎を知らないから言えるのだろう。無知を批判したくなるが、日本での風化を思うと言葉が詰まる▼鎮魂の夏。過酷な記憶だとしても、受け継ぐ努力を重ねたい。過ちを繰り返さぬために。