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「高桑氏族」 覚書(148)

2013-11-17 17:26:11 | 歴史

一向一揆(9)

高桑の地に、2寺院がある。臨済宗妙心寺派の「慈恩寺」と浄土真宗大谷派の「善覚寺」である。

高桑城址からも、善覺寺の屋根が見えるが、慈恩寺の150m南、道を隔て位置する。

長島一向一揆・「願証寺」の戦い(覚書147)に、善覺寺の門徒も参加して、信長軍と激闘を交わした。

善覺寺を含めて、この合戦に戦功のあった真宗8ヶ寺を「長島忠勤の由緒寺」として、江戸初期、京都東本願寺から、名誉の特典が許された。

写真は、「善覺寺」

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「高桑氏族」 覚書(147)

2013-11-17 11:38:28 | 歴史

一向一揆(8)

昭和50年代の調査であるが、各都道府県別・浄土真宗寺院比率の統計がある。京都(14%)・長野(13)・群馬(3)に対して、石川(70%)・富山(71)・福井(39)新潟(39)である。北陸地方に於ける一向信徒の多さが窺い知れる。

他の地方でも、一般的に他宗よりも、信者数が多い。伊勢国・長島(覚書97、三重県桑名市長島)でも、殆どが門徒であり、「願証寺」を中心に固く結束していた。

当寺は、総本山・「石山本願寺」(現・大阪城)が、唯だの寺院ではなく、難攻不落の「本願寺城」であった様に、「小本願寺城」であった。此処に織田軍が攻撃して来た。これが一向一揆の戦いの中でも最も有名な、「長島一向一揆」であり、最も激しく、最も凄惨を極めた戦いであった。

元亀2年(1571年)5月、第1次戦。織田軍は5万の兵を動員して攻撃したが、多数の死傷者を出し、総指揮者・猛将・柴田勝家さえ、戦傷を負う始末で完敗した。

天正元年(1573年)9月、第2次戦。又も敗退。当時日本では、90%が農民であったから、一向軍と言っても、「農民軍」である。農民に再度、戦い敗けしていた。

天正2年7月、第3次戦。3度目の正直で、大攻撃の末、門徒軍を撃滅し、美濃・尾張・伊勢の3国に限っては、本願寺教団を屈服させた。その屈服のさせ方も、“撫で切り”・“根切り”と称する、老若男女を問わない皆殺しであった。

この戦いで信長は、多数の上級家臣ばかりではなく、織田一族からも多くの犠牲者を出し、怒り心頭に発していた。それで門徒に対する復讐も残酷を極めた。

信長には、京都・延暦寺が、浅井・朝倉連合軍へ肩入れ(覚書73)したのを怒り、比叡山全山を焼き討ちし、僧俗3、4千人の首を尽(ことごと)く刎(は)ねたという、悪逆無道の前歴がある。

長島ではこの何倍の2、3万もの門徒を虐殺した。中には、降伏を申し出、これを織田側が受諾して、門徒の陣地を出た数千人の男女を背後から鉄砲で惨殺するという武士かららしくない卑劣な行為もあった。又門徒が、織田軍門に降った後、門徒の逃亡を防ぐ為、柵で囲んで、全員を焼殺するという残虐さであった。

写真は、「長島一向一揆殉教之碑」
「願証寺」境内

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「高桑氏族」 覚書(146)

2013-11-16 10:08:58 | 歴史

一向一揆(7)

戦国時代、一向宗徒は、15世紀後半、本願寺8世・蓮如(覚書142)の代から、急激に国人・地侍・名主を中心とした結合の中で、教団の組織を強め、領国支配の守護大名と対立し、北陸ばかりではなく、近畿・東海の各所で、激しい一揆を頻発させた。

これが、長島一揆・加賀一揆・三河一揆・越前一揆・越中一揆・摂津(大坂)一揆等である。

永禄6年(1563年)に始まった世に有名な「三河一向一揆」も、徳川家康を大いに苦しめた。本願寺門徒であった多くの家臣や支城の城主にも叛(そむ)かれて、一揆側に寝返りされ、最大の危機に陥った。家康の命運を賭けた半年にも渡る苦戦の末、辛うじてこれを鎮圧した。

「越中一向一揆」も激しかった。越後守護代・長尾能景(よしかげ)を敗死させた。長尾能景は、上杉謙信の一族である。謙信の本姓は、衆知の通り、「長尾氏」であり、旧姓名は「長尾景虎」であった。

「摂津一向一揆」、天文(てんぶん)2年(1533年)、大武将・細川晴元を、堺の戦いで破った。晴元は、命辛々(からがら)海に脱出、淡路島に逃げ去った。細川氏は、足利氏の支族であり、室町幕府の重臣であった。

画像は、「三河一向一揆」
月岡芳年 画
月岡は、江戸末期~明治中期の浮世絵師

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「高桑氏族」 覚書(145)

2013-11-15 17:14:42 | 歴史

一向一揆(6)

中世記事
天正10年(1582年)9月の文書・「高桑孫左衛門、越後上杉景勝に与力せり。」
「天正9年景勝、加賀越中の一向一揆と共に小出城を攻める。」

上の2つの中世記事の重要さは、一つは天正8年、「加賀独立国」が崩壊(覚書144)した後も翌9年、高桑孫左衛門が、一揆の残党農民を率いて、上杉軍と共に、信長方の城に攻撃を仕掛けている事である。

もう一つの重要さは、此処でも上杉景勝が、一向一揆と協同戦線を張っている事である。本来は、上杉方と一揆方は、仇敵同志であった。

「小出城」城主は、「佐々成政」で、城は現・富山市水橋小出に所在した。

佐々成政(さっさ なりまさ)」は、近江源氏の名門で、信長の馬廻りから戦功を重ね、頭角を表わした武将であった。

画像は、「佐々成政」
富山市郷土博物館 所蔵

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「高桑氏族」 覚書(144)

2013-11-15 10:23:57 | 歴史

一向一揆(5)

中世記事
歴史的にも貴重な文書として、「加賀門徒王国」(覚書142)の領袖(首領)の一人であった「高桑源左衛門尉武数」を含む、首領7名連名宛ての「上杉景勝」の書状が残っている(天正7年9月4日付・1579年)。

衆知の通り、景勝は戦国時代から江戸初期迄も活躍した勇将であった。上杉謙信が天正6年3月急逝すると、早速家督争いが起きた(「御舘(おたて)の乱」)。謙信には、甥の景勝と北条氏出の景虎との2人の養子がいた。この乱は、2人の戦いであったが、景勝が勝利を収めた。

其の後、秀吉の時代になると、越後から会津120万石に加増移封された。関ヶ原戦で、西軍に加担した為、家康によって、米沢30万石に移封されたが、謙信以来の輝かしい伝統を誇る上杉家の存続を果たした景勝の生涯であった。

扨て上記の景勝書状の内容であるが、仇敵同志の「一向一揆」と「上杉氏」とが、敢えて手を結ぼうという作戦計画であった。これは、予(か)ねて恐れていた信長の触手が、愈々(いよいよ)加賀・越中に迫り、「加賀一向王国」も風前の灯となり、伝統ある上杉氏も痛手を蒙るからであった。つまり両者の利害一致をみたからであった。

処が、上記の上杉家跡目争いで、景勝の出馬が、約束より大幅に遅れ、この目論見は画餅に帰してしまった。

果たして、この書状日付の半年後、翌天正8年閏3月、加賀一向王国の本拠・「金沢坊」(後の100万石・金沢城)は、信長軍・柴田勝家勢によって陥落し、90余年間の「加賀王国」は崩壊・消滅した。

画像は、「上杉景勝」

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