平らな深み、緩やかな時間

266.『ドライブ・マイ・カー』『エクソフォニー』『木田元の最終講義』

このblogで2回にわたって、映画『ドライブ・マイ・カー』について書いてみました。今回はその延長ということになりますが、この映画の中で劇中劇として演じられていた演劇が、多言語で行われていたことについて考えてみたいと思います。

このblogをはじめて読む方、映画『ドライブ・マイ・カー』をご覧になっていない方のために少しだけ説明すると、この映画は演劇の演出家、舞台俳優でもある男性が主人公になっていて、彼が演出したり、出演したりする演劇が多言語で上演されている、という設定なのです。彼が演出することになった『ワーニャ伯父』(チェーホフ)のオーディションには、いろいろな言語の人が応募し、中には手話を使う人もいました。脚本の本読みでは、セリフが終わるとテーブルを叩いて合図を送ることになっていて、セリフが変わるごとにドン、ドン、と音がします。出演者への指示も、英語、日本語、韓国語が飛び交います。その上演の場面では、舞台の上に大きな字幕(多言語)の電光板が設置されていて、それが観客にセリフの内容を教えています。

こういう演劇は、いまでは珍しくないのかな、と演劇をさっぱり見ない私は思ってしまったのですが、そうでもないみたいですね。インターネットで調べてみても、それほどヒットしません。この多言語で演じられた点について、『神奈川芸術プレス』のなかで、この映画の監督で脚本も担当された濱口竜介さんが、インタヴューで次のようにこたえています。

 

―『ドライブ・マイ・カー』では、手話も含めた異なる言語でセリフを言い合う多言語演劇が取り入れられていたことが印象的でした。

多言語演劇では、役者が相手の言葉を十分に理解できないため、高い集中力で接していないと演技ができない状況が生まれます。俳優には、対話における“身体の反応”を大切にした演技をしてもらいたかったので、この方法を取り入れました。手話は「嘘をついたらバレてしまう」と感じるほど、相手をよく見る必要があるコミュニケーションです。より率直な表現が含まれていると思い、言語の一つとして扱いました。

—一方で、多言語の人と共に制作する過程には、多くの困難が伴ったのではないかと想像するのですが。

異なる言語のコミュニケーションを成立させるのは、やはり大変なことです。本作でも、一つひとつの言語を通訳する膨大なプロセスがありました。「多様な人が共生する社会」を実現するためには困難や痛みも伴うし、実現しようとする側の覚悟も必要です。その共通認識をもつために議論を重ねていくことが、今求められているのではないでしょうか。

(『神奈川芸術プレスvol.159』より)

https://www.artspress.jp/featured/feature-vol159/368/

 

この映画では「多様な人が共生する社会」の実現が、ひとつのテーマだったようです。それに伴う「困難や痛み」を象徴しているのが、映画で取り上げられたチェーホフの『ワーニャ伯父』という劇なのでしょうか。『ワーニャ伯父』はスカッとした解決の見出せない結末ですが、映画の中での手話によるヒロインの決意表明は、戯曲を本で読むよりも力強く、希望を感じさせるものになっています。「多様な人が共生する社会」では、まず一人一人の人が生き抜いていくことが重要で、私たちはその中で地道に答えを見出していくしかない、というメッセージが読み取れるような気がします。もちろん、村上春樹さんの原作の段階で既に『ワーニャ伯父』が出てくるのですから、映画監督の濱口さんがこの題目を選んだわけではありませんが、映画の中で劇中劇を演じる設定など、村上さんの小説の骨格をうまく生かした脚色だと言えると思います。

その一方で前回までの考察で、この映画は単純なひとつのテーマのためにできているのではない、ということはわかっています。私には、監督が語っている以上に多言語の人たちが集まってひとつの演劇を作り上げること、とくに手話で会話する韓国人の夫妻と主人公との交流が、もしかしたら監督が意図した以上の効果を発揮していたように思います。彼らは母語を離れて会話することで、何か大切なものを自分の中から引き出しているように、私には思えたのです。

それは、映画の結末でも同様のことが言えます。タクシー・ドライバーだった若い女性が韓国のスーパーで買い物をして、主人公の男性の自動車で帰宅するシーンで終わるのですが、彼らの再生であるはずの人生がなぜ異国で始められたのでしょうか?彼らが韓国語を選び取ったというのは解釈のし過ぎのように思いますが、今までの生活をリセットするにあたって、異国を選んだというのは当てはまりそうです。

 

さて、そのような映画の内容を受けて、今回はあえて映画を少し離れて、文学者の多和田葉子さんの『エクソフォニー』という本を取り上げてみます。この本は、日本語とドイツ語の双方で目覚ましい成果を上げている多和田葉子さんが、母語を離れて表現することについて考えた本です。その「エクソフォニー」という聞き慣れない単語ですが、そもそもどのような意味なのでしょうか?

 

「エクソフォニー」=「Exophony」

英語やドイツ語の辞典に掲載されているわけではありませんが、母語の外に出た状態一般を指す言葉であると言えます。このエクソフォニーという言葉は、ドイツ語と日本語の双方で旺盛な創作活動を続けてきた著者にとって、極めて重要な意味を持っています。なぜなら言語の越境とは著者の文学の本質的主題であるからです。

(岩波書店編集部からのメッセージより)

 

字面だけ追うと、なんとなくわかったような気になりますが、外国語はおろか日本語の表現力でさえ怪しい私からすると、「言語の越境」という言葉がなんの実感もなく頭に響きます。ああ、言葉が越境するのか・・、という馬鹿みたいな文字通りの感想しか湧いてきません。ここは当の多和田葉子さんから、もう少し具体的な解釈を聞いてみましょう。

 

それにしても、エクソフォニーという言葉は新鮮で、シンフォニーの一種のようにも思えるので気に入った。この世界にはいろいろな音楽が鳴っているが、自分を包んでいる母語の響きから、ちょっと外に出てみると、どんな音楽が聞こえはじめるのか。それは冒険でもある。これは「外国人文学」とか「移民文学」などという発想と似ているようで、実は正反対かもしれない。「外から人が入って来て自分たちの言葉を使って書いている」という受けとめ方が「外国人文学」や「移民文学」という言い方に現れているとしたら、「自分を包んでいる(縛っている)母語の外にどうやって出るか? 出たらどうなるか?」という創作の場からの好奇心に溢れた冒険的な発想が「エクソフォン文学」だとわたしは解釈した。

(『エクソフォニー 母語の外へ出る旅』「第一部 1 ダカール」多和田葉子)

 

なんだかワクワクするような文章です。

しかし、この「好奇心に溢れた冒険」を実現するとなると、その苦労は並大抵のことではありません。これが「外国人文学」や「移民文学」について知ろうと思うだけならば、そうでもありません。私たちは翻訳された外国の本を読めば良いだけですから・・・。しかしそれだって私から見ると十分に好奇心や冒険心を充足させてくれる探求だと思うのですが・・・。一方の「エクソフォン文学」の冒険というのは、自分が母語の外で創作するということを意味しているのですから、これは大変です。私には一生かけても不可能な冒険だと思いますが、この文章のあとで、多和田さんはこのようにも書いています。

 

旧植民地についても似たようなことが言えるのかもしれないとわたしは思った。植民地支配は微塵も正当化できないが、「ころんでもただでは起きない」したたかさで、ころんだ時に掴んだフランス語という泥で作品を作り上げてもいいのではないか。しかもシュトックハンマー氏に言わせれば、すべて創作言語は「選び取られたものだ」ということになる。運命のいたずらで他所の言葉を使わなければならなくなった作家だけが例外的に言語を選択しなければならなくなるのではない。一つの言語しかできない作家であっても、創作言語を何らかの形で「選び取って」いるのでなければ文学とは言えない。エクソフォン現象は、母語の外に出ない「普通」の文学に対しても、どうしてその言語を選び取ったのか、というこれまでは問われることのなかった問いを突き付けることになる。

(『エクソフォニー 母語の外へ出る旅』「第一部 1 ダカール」多和田葉子)

 

ちなみに「旧植民地についても似たようなことが言えるかもしれない」という部分の「似たようなこと」とはなんでしょうか?それは「亡命」などで仕方なく母語でない言語で書かなくてはならなくなった人たちのことを指しています。「亡命」によって、あるいは植民地支配によって、たまたま異国の言葉で表現しなければならなくなった場合であっても、それが面白い文学であれば、自発的に外に出ていった「エクソフォン文学」と区別する必要はない、ということを多和田さんは言いたいのだと思います。

また、文中の(ロベルト・)シュトックハンマーという人は、多和田葉子さんが出席した(言語に関する?)シンポジウムを企画した研究者です。その研究者によれば「一つの言語しかできない作家であっても、創作言語を何らかの形で『選び取って』いるのでなければ文学とは言えない」ということなのです。ですから、たとえ母語で書いている作家であっても、意識の上では「自分はその言語を選び取った」という気持ちを持たなくてはなりません。その結果、「一つの言語しかできない作家であっても」「エクソフォン文学」を認識していなくてはならない、ということになるのです。

私には外国語が堪能な友人が何人かいて、私は彼らをとてもうらやましいと思っているのですが、こう言われてしまうと彼らをうらやましがってばかりもいられません。私は「作家」ではありませんが、それでも何がしかの文章を書く以上は母語を選び取ったという意識、つまり日本語で書いていることを意識する必要があるのです。

そのためには、「エクソフォン文学」が何であるのか、もう少し詳しく知りたいものです。

 

それでは「エクソフォン文学」を知るために、私たちは何を学べば良いのでしょうか?もちろん、そのための教科書や参考書があるわけではなく、私たちは言葉に関する知見を積み重ねていって、「言葉を選び取る」ことを感覚的に学んでいくしかないのでしょう。

例えばあえて「母語を選び取る」ことの例として、多和田さんはドイツの作家について興味深いことを書いています。

 

第二次世界大戦中にドイツからアメリカに亡命するのと、戦後、東ヨーロッパの独裁政権や中近東のイスラム原理主義を逃れてドイツに亡命するのと、境遇は似ていないこともない。違っているのは、現代の亡命者のほとんどが当たり前のようにドイツ語で創作を始めることだろう。逆に当時のドイツからの亡命者のほとんどは、アメリカでもドイツ語で創作し続け、戦後はドイツに戻った。

たとえばトーマス・マンがアメリカに亡命していたことは情報として頭のどこかにあったが、彼の作品の中にカリフォルニアを感じたことはなかったし、彼が英語で書いた文章を読んだこともなかった。リューベックやハンブルクなど北ドイツの光線、スイスのエンガディンの光線、ヴェネチアの光線など、思えばいろいろな光線がマンの作品の中にあったが、マンが英語で書いた短いエッセイなどを後で全集で見つけて読まなかったわけではないが、それは文学作品ではなく、アメリカに対する公のメッセージというような性格を持った文章だった。なぜ英語に浸透されることなくアメリカに留まっていることができたのか。

<中略>

ドイツ語作家がエクソフォニーを嫌うのは、いわゆる語学の才能の不足が原因ではない。現代のドイツ人の作家で英語が大変よくできて英語圏で長年暮らしている作家たちも、英語で詩や小説を書かない。たとえばもう二十年以上もロンドンで暮らすアンネ・ドゥーデンや、2001年に事故死したW.G.ゼーバルトや、イギリスに留学していたウルリケ・ドレスナーを見ても、みごとな英語を話すが、英語では決して創作活動はしない。イギリス在住二十五年を越すゼーバルトがある朗読会の後で「なぜ英語で書かないんですか?」という聴衆からの質問に対して、「学術論文などはたくさん英語で書いたが、文学と論文とは全然違う」と答えたのを覚えている。質問した人はあまり納得できないでいたようだった。わたしはゼーバルト氏の言っている意味が気持ちのうえでは分かったが、その「分かる」気持ちを少しずつ崩してきたこの十何年かの作業があるので、賛成はできなかった。

アンネ・ドゥーデンは、ある朗読会の後で、同じ質問に対して、もう少し具体的な答えを出した。ドイツ語という言語そのものの中に自分たちの背負っているドイツの歴史が刻み込まれている、ドイツ語を離れてしまったら、ドイツの歴史の中に切り込んでいくことができない、だからドイツ語を捨てることができないのだ、という答えだった。それはドイツの歴史を誇りに思っているという意味ではなく、ドイツの歴史に責任を持たなければならないということだろう。

(『エクソフォニー 母語の外へ出る旅』「第一部 3ロサンジェルス」多和田葉子)

 

トーマス・マン(Paul Thomas Mann、1875 - 1955)といえば、ドイツ文学の象徴のような人ですから、彼が戦争中にアメリカに一時期、住んでいたことは知っていましたが、カリフォルニアという具体的な地名と結びつけて考えたことはありませんでした。私は英語で書くこととドイツ語で書くことの差を想像することができませんが、マンがカリフォルニアを舞台にした小説を書いていたとしたら、それはちょっと妙だな、ということなら分かります。儀礼的な文書なら英語でも書けるけれども、文学表現となるとそうはいかない、という文学者の気持ちは想像するしかないのですが、分かるような気がするのです。

そして現代のドイツ語作家のことは、私にはまったくわかりませんが、英語で書くことを選ぶのか、ドイツ語で書くことを選ぶのかということが、朗読会でも話題になるような難しい問題であることは興味深いと思います。

多和田さんは私のような読者のために、さらに具体的な解釈を紹介してくれました。それは「ドイツ語を離れてしまったら、ドイツの歴史の中に切り込んでいくことができない」というドイツ作家の発言です。その言葉の重みが、私のような者でも理解できるような気がします。一方で多和田さんはあえてそれを乗り越えて、日本語とドイツ語で表現しているということですから、その凄さもわかってきました。「私はドイツ語でだって小説が書けるのよ」というお気楽な教養のひけらかしでは文学表現など到底できるものではありません。母語から出て表現活動を行うことの重要性をひしひしと感じていなければ、日本人がドイツ語で創作活動を行うことなど不可能でしょう。

こんなふうに世界的な視野で考えていくと、日本語でしか書けないから日本語で書く、というのは、いかにも怠惰なことのように思います。その一方で、どこかで村上春樹さんが自作の英訳を翻訳者に委ねていることについて尋ねられたときに、「英語でなんか書けない」というようなことを言っていたように記憶しています。これは村上さんのように、日本語と英語を行き来しているからこそ出てきた発言だと思うのですが、そこには言葉の表現力の質的な違いが考慮されているのだと思います。エッセイや学術論文ならともかく、小説のような文学表現の言葉の場合、英語で書くとなったらはじめから英語で思考し、英語で書いた方が良いのかもしれません。表現として使える語彙や慣用句は、硬い文章とは違った自由さと不自由さがあると思うからです。素人ながら、そんな気がします。

 

さて、こんなふうに外国語について考察していくと、外国語を学ぶということはその国の文化の中に入ることなのだなあ、とつくづく感じます。今では自動翻訳機も発達してきて、そのうちに外国語を学ぶことも必要がなくなるのかなあ、と楽天的に考えてしまいますが、きっとそうなったらそうなったで、さまざまなコミュニケーションの齟齬が発生するのでしょう。

例えば難しい思想書や哲学書を読むと、翻訳者のあとがきとして、外国語の語彙ではそれほど難解な言葉ではないのに、日本語に翻訳するとそれに当てはまる日常的な言葉がないので、それを難しい翻訳語に置き換えなくてはならない、というような嘆きを読むことがあります。

これはこの場合に適切な例になるのかどうかわかりませんが、たとえばこのblogでもよく出てくる「実存主義」(英: existentialism)ですが、これを「主義」の部分を除いた「exstential」という言葉で辞書をひいてみると、「1;存在の、存在に関する、存在を表す 2;経験に基づいた、経験的な 3;《哲学》実存主義の、実存の、実存的な」という訳語が出てきます。さらに「existence」という言葉をひくと、「存在、実在、現存、生存、生活、生活ぶり、暮らし」という訳語が出てきます。「実存」、あるいは「実在」という日本語から、「生活ぶり」という日常的な言葉の意味を読み取ることはまずありませんが、英語の「existence」は思想や哲学を語る場面でなくても使われている単語なのでしょう。もしも日本と外国の哲学者同士が語り合うとしたら、それぞれの国の言葉の事情を考慮しつつ話すのでしょう。そんなことを考えると頭がクラクラします。

そのような高度なやり取りができるのは、子供の頃から外国語の経験が豊富な人なのではないか、と思ってしまいますが、最後に哲学者でフランスやドイツの哲学書を次々と翻訳して日本に紹介した木田 元(きだ げん、1928 - 2014)さんの面白い話を書き写しておきます。木田元さんは難しい哲学書からわかりやすい一般書まで、さまざまな著作を残していますし、翻訳書としては、メルロ=ポンティ、ハイデガー、フッサールなどの現象学周辺の重要な著作などがあります。

木田さんは中央大学を退官される時に最終講義を行ったのですが、その記録が文庫本として出版されて(『木田元の最終講義 反哲学としての哲学』)います。その講義の中で自分の勉強の軌跡をおもしろおかしく語っているので、ご紹介します。ただし、内容はすさまじいです。

木田さんは満州育ちで、終戦の時には海軍兵学校にいたのだそうです。その後、山形県に住み着いて、市役所の臨時雇や小学校の代用教員をなさっていたそうです。しかし、それだけでは生活が成り立たないので、闇屋を兼業し、それで一儲けして県立の農林専門学校に入り直したのだと語っています。本が好きだった木田さんは、その頃の読書経験の中で、ドフトエフスキーなどの外国文学に魅せられ、キルケゴールなどの哲学に関心を持ち、ハイデガーの『存在と時間』を原書でちゃんと読んでみたいと思ったのだそうです。既に、後の日本を代表する哲学者としての片鱗が感じられますが、木田さんは一念発起して東北大学に入学しました。

ここからは入学後に、ドイツ語を学んだときの話です。

 

ただ、入ってからも大変でした。なにしろたいていの連中は、旧制の高等学校で三年間ドイツ語やフランス語をやってきています。演習もはじめからカントの『純粋理性批判』だのヘーゲルの『法哲学』だのがテキストですし、講義でもジュステーム・デア・ベドユルフニセ(欲求の体系)だのというドイツ語が頻出する。こっちにはさっぱり聴きとれず、ノートの採りようもないのです。

入ってすぐにドイツ語の勉強をはじめました。「ドイツ語初級」なんて授業に出て、一年がかりで文法をやってなどという悠長なことはやっておれませんから、薄っぺらな文法の教科書を買ってきて一週間ぐらいで文法の規則を覚え、あとは演習のテキストの『純粋理性批判』を翻訳と首っぴきで一行一行読んでいき、出てくる単語を片っぱしから覚えるという無茶なやり方をしました。一、二ヶ月してから少し厚手の『新独逸(ドイツ)語文法教程』という文法書で文法の知識を整理しなおし、『ドイツ語単語六千語』とかいう単語帳で系統的に単語を覚え、ムリヤリ仕込んだ感じです。

でも、夏休みが終わるころには、高等学校からきた連中よりも読めるくらいになっていたので、秋から数人でハイデガーを読みはじめました。はじめ『形而上学とは何か』という薄いパンフレットを読み、その後『存在と時間』を読みはじめました。その頃は、人数ももう二人に減っていました。週に三回くらい二人で読み合わせをし、自分ではどんどん先を読んでいく。寺島実仁氏のひどい翻訳だって無いよりはましなので、それを頼りに読んでたのですが、そのうち寺島氏の誤訳も分かるようになってきました。

10月頃から3月頃まで半年ほどかけて読みあげましたが、期待にたがわず実に面白く、しまいには、だんだんページ数の少なくなっていくのが惜しいくらい面白かったです。こういうテキストは毎日続けて読まなければならないもので一日五、六時間、毎日読みつづけていると、だんだん身体がハイデガーの文体に馴染んでくるような感じで、そうなると言っていることもわりによく分かってくるものなのです。

(『木田元の最終講義』「ハイデガーを読む」木田元)

 

これは何年間かけた語学学習の話だろう、と思ってしまいますが、実際には1年間の話です。それを時系列で整理して確認してみます。

1,2ヶ月 ドイツ語文法の薄いテキストを学習

5ヶ月後ぐらい 本格的な文法書の学習と6,000語の暗記

1年後 『形而上学とは何か』『存在と時間』の原書の読破

こうしてみると、木田さんは1年も経たないうちに翻訳書の誤訳に気づくレベルにまでドイツ語が堪能になり、ハイデガーの思想が身体に入ってくるぐらい馴染んできたのだということになります。その翻訳書すらなかなか読みきれない者からすると、木田さんは同じ人類ではなくて宇宙人ではないか、と思ってしまいます。

この中で少しだけ理解できるように思うところは、思想書を読むときに字面で読むのではなく、身体に馴染むように読むというところです。私の場合は自力ではなかなかそうもいかないのですが、たまたま私が理解できるぐらいに噛み砕いて解説してある本に出会って、予習をしてから原書(といっても翻訳書ですが・・・)を読むと、わからなかったところが何となく分かるようになります。一度そうなってしまえば、ゆっくり読まなくても文章の表面を追いかけるだけで意味がわかるような気になるので、スピードを上げて読みます。このスピード感が大切で、わからなかった道筋が上空から俯瞰して見るような感じになればしめたものです。ゆっくり読むとかえって道に迷うところが、ある程度の速さで読むことで自分の位置が確認できて、理解が進むということが、私のような者でもときにはあるものです。

 

こんなふうに多和田さんや木田さんの本を読むと、語学ができないから母語から出られない、というのが怠惰な言い訳のように感じられます。多和田さんの本を読むと、なぜ母語以外の言葉で書くのか、ということよりも、なぜ数多くの言語の中から母語を選んで書くのか、ということを問わなくてはならないような気になります。そしていろいろな人が関わる演劇などの芸術の場合、多言語で表現することが当たり前の時代が来るのかもしれません。そこで起こるであろうさまざまな出来事や発見が、私たちの視野を広げてくれるのかもしれない、とそんなことを考えると楽しみです。

さて、私には何ができるのでしょうか?

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