平らな深み、緩やかな時間

172.『小田原ビエンナーレ』開催しました!

実はこのblogを毎週更新するようになって、ほぼ1年が経ちました。その前は、blogの冒頭に書いてあるように、月に1回か2回の更新がせいぜいでした。
その1年前に何があったのかというと、新型コロナウイルスが猛威を振るい、ちょうど3月に私が個展を開いていたときに、東京都で初の緊急事態宣言が発令されました。その際には、なぜか文化施設や教育機関がまっさきに閉鎖され、神奈川県の高校も生徒の登校が禁止されました。1年前の今頃は、登校が許される生徒数と制限時間とを複雑なパズルのように組み合わせて、何とか授業を回していました。それがやっと夏休みが明けるころになって、時短ではあるけれども日常の授業に近づいていったのです。ところがいつになっても大学は再開せず、図書館や美術館の利用も厳しい制限がされていました。その一方でGO TOキャンペーンが話題になるというアンバランスの中で、自分なりに何かできないかと考えたのです。
それで、それまでは不定期だったblogを定期的に、できれば大学の授業のように毎週更新するようにしてみよう、と考えました。当時は図書館も思うように利用できませんでしたから、私の所有しているわずかな文献でもないよりはマシ、と考えて、なるべく原資料をふんだんに引用することにしました。勤務している高校では、オンラインの授業と登校の授業との両立を求められた時期でもあり、昼間は職場で扱いなれないオンライン用のソフトclass roomと格闘しながら、夜は睡眠時間を削ってこのblogを書いていました。
しかし、このblogを読んでくださっている方はほんの数人で、その方たちも長いblogを毎回終わりまで読んでくださっているとはとても思えません。それなのに、馬鹿みたいなことにこだわって本当に愚か者だと自分でも思っています。そもそも売れもしない現代絵画をこの歳まで描いていること自体が愚か者の証拠ですから、これはどうしようもありません。
しかしここにきて、ウイルスの感染者数は再び増加しているものの、私たちもそれなりに慣れてきて、そこそこ忙しく動き回っているのではないでしょうか。相変わらず展覧会に気安く行ける状況ではありませんが、それでもどうしても見たいものがあれば私も出かけるようにしていますし、何よりも本を借りて読めるようになったのは喜ばしいことです。そこで、このblogも短時間で目を通していただけるように、もう少しコンパクトにまとめるように努力しようと思っています。引用部分をなるべく減らして、私の言葉でできるだけ簡略に、分かりやすく伝えるように努力します。
うまくいくかどうか分かりませんが、とにかく現代美術を敬遠しないで、一人でも多くの方に親しんでいただきたいのです。これからも、よろしくお願いします。

そう言っておきながら、私の仕事に関連したちょっとした朗報について確認させてください。教員免許更新制の廃止が決まりました。新聞によっては「与党内に存続を望む声もあるので、この先も紆余曲折が予想される」という書き方をしているので油断はできませんが、愚かな私よりも数倍愚かな為政者が始めた暴挙が終わるのは良いことです。その事実を確認するために、読売新聞の記事のリンクを貼っておきます。
https://www.yomiuri.co.jp/politics/20210710-OYT1T50274/
この通りにうまくいけば、私も65歳以降、免許更新なしで教員として働けることになりますが、私の場合は生徒や同僚に迷惑をかけてばかり、という別な問題があります。今でも周囲にの人たちから鬱陶しく思われ、疎まれていますから、すぐにでもやめた方が良いのでしょうが、私の方にも事情があります。本当に申し訳ないです。

さて、本題に入りましょう。
「小田原ビエンナーレ2021」がいよいよ始まりました。私も木曜日に搬入して初日を迎えましたが、そのことについて書く前に、前回の八田さんのパンフレットのページについて、書ききれなかったことを書いておきたいと思います。
まずは前回の話の要旨です。八田淳という作家のスケッチ作品について、藤村克裕という美術家が今回のパンフレットに紹介文を寄せている、というところから話が始まりました。そのスケッチは見えるものを見えるがままに描く、という破天荒なもので、例えば建物の描写では遠近法(透視図法)が無視されて画面がどんどんパノラマのように繋がって広がっていきましたし、さらにここにいた猫が移動してあちらでも現れる、というふうに画中の時間軸も八田の制作時間によって自在に解釈される、というものでした。遠近法を無視した絵、もしくは技術的に遠近法が破綻している絵はそこら中にありますが、八田淳のスケッチはそんな凡庸な作品とは違っています。それは八田のスケッチが「見えるものをそのまま描く」という根本的な、そして人間としてとても自然な姿勢に貫かれているところです。さらに言えば、八田のその姿勢は、透視図法の基礎となる近代科学的な考え方を明確に踏み越えるものなのです。それがどれほど意義深いことなのか、ということを書きたかったのですが、うまく伝わったでしょうか?あまり自信がないので、もう少しだけ違う観点から、補足のようなものを書いておきます。
この透視図法的な考え方を突き詰めていくと、どんな絵を描くことになるのか、あなたは考えたことがありますか?それは固定した一つの視点から、一瞬のうちに捉えることのできる風景しか描くことができない、ということになるのです。そのために昔の画家は覗き窓のような道具を作ってそれを覗き込んでみたり、現代の画家ならば写真で撮影した画像をわざわざ絵に置き換えてみたり、あるいは現場で描く画家であっても風景の中で動くものを意図的に無視して固定して描いたり、という工夫をやっているわけです。
でも、そんなふうにして辻褄を合わせずに、毎日決まった場所で、一日のうちのほんの短時間だけ同じ視点から実際の風景を描いてみたらどうなるのでしょうか。もちろん、季節も大体同じ頃でなければなりません。そんなことをしたら、季節が変われば制作が進まなくなり、次の季節を待ってまた描くというふうに、一枚の絵を描くのに何年もかかってしまいますから、普通の画家はそんな非効率的なことはしません。ところが、そんなふうに近代思想とともに発達した遠近法の考え方を徹底してみせた画家がいます。アントニオ・ロペス・ガルシア (Antonio López García、1936 - )というスペインを代表する画家です。この画家は彫刻家でもあり、ときにはシュールな感じの作品も制作する現代的な作家でもあるのですが、その本質は徹底したリアリストです。彼が国王夫妻の彫像を制作する際に、夫妻の実際の寸法を可能な限り測った、という有名な逸話があります。アメリカのスーパー・リアリズムが視覚的なリアリズムを徹底したのだとしたら、ロペスのリアリズムはもっと精神的な、そして根本的なリアリズムを大切にしているのです。そこが凡庸な写実画家とロペスの違うところです。彼のことを描いたドキュメンタリー映画『マルメロの陽光』(ビクトル・エリセ監督/1992)では、庭に生えたマルメロの木を描いているうちに、実が腐ってしまって制作をあきらめる、というエピソードが記録されていたと思いますが、ご覧になっていない方はぜひチェックしてみてください。日本の都会暮らしをしている方なら、そこに流れている時間があまりにゆったりとしていて、見ているうちに眠たくなってしまうかもしれませんね。
そのロペスの代表作に、『グラン・ピア』という風景画があります。2013年にBunkamuraザ・ミュージアムでロペスの展覧会があったときには、この作品がポスターになっていました。ホームページで見ると、ロペスがこの作品を制作しているところを写した有名な写真も見ることができます。「アントニオ・ロペスとは」という左の文字をクリックしてください。
https://www.bunkamura.co.jp/museum/exhibition/13_lopez/topics/
この展覧会のカタログには、この作品を解説した次のような文章があります。

ロペスの回想によれば、友人の画家エンリケ・グランといっしょに夜明けのグラン・ピアに出かけ、「超自然的な、魅惑的な情景」に出会い、描くことを決心したという。それからロペスは夏の夜明けのグレーがかった冷たい光を描くため、毎日早朝に地下鉄に乗って現場に通う。ロペスはわずか20分から30分だけの制作のために、7年間この場所にイーゼルを立てたのである。最終的には、物理的な制約の多い戸外での油彩制作にもかかわらず、視覚に対しあくまで自然な、精密度の高い描写を実現することができたのである。
『グラン・ピア』では、遠近法の消失点が画面の中央やや左に設定され、その構図からは画面奥へと引き込まれるような力が感じられる。右手前のビルは画面に収まらずに上部が切れているが、もしも構図を自由に決めることができるのなら、建物全体をバランスよく納めることも考えられたであろう。しかしロペスはイーゼルを横断歩道の真ん中に置き、そこからとらえたヴィジョンを忠実に描こうとする。道路に引かれた白線が足元で大きく広がっており、ゆっくりとした上がり坂の大通りを移しながらなぞるように働きかけられているようである。
(『アントニオ・ロペス展カタログ』より)

マドリードの目抜き通りであるグラン・ピアの路上で、夏の早朝の20分から30分だけ同じ風景があらわれる、という発想でロペスはこの絵を制作しているのですが、この発想は近代絵画の方法論を徹底したものだと言えます。それをロペスは理屈ではなく、感覚的に「そのように制作しなければならない」と思ったのでしょう。「見えるがままに描きたい」という自然な欲求と現在の私たちが手にしている絵画の方法論とを、彼は独特のやり方で統合したのだと思います。絵画の方法論を大きく踏み外した八田淳の発想とは逆のやり方になりますが、ロペスは透視図法的な考え方を徹底するために、一般的に見れば「奇行」にしか見えないような制作方法をあえて取ったのです。

さて、こんなふうに八田淳にしても、ロペスにしても、やり方は違っても近代科学的な思考(近代絵画ではそれを象徴する透視図法が該当します)と向き合い、葛藤しているように見えます。これは、少し前のblogで学習したフランスの哲学者ベルクソン(Henri-Louis Bergson、1859 - 1941)の「二元論」の乗り越えや、あるいはドイツの若き哲学者マルクス・ガブリエル(Markus Gabriel, 1980 - )の「新実存主義」が示しているものと同じ方向を指しているように思えます。真摯な表現者は、自分でも気付かないうちに先鋭的な思想家が課題としている問題に自然と向き合い、逆に思想家は表現者の行為に対して言葉で応答することになるのです。
そして僭越ながら、私も私なりに近代から現代絵画の流れと向き合っているつもりです。私の考えていることを大雑把に言えば、近代から現代絵画への流れというのは、一見すると透視図法による絵画空間に異議を唱えた画家たちの格闘の歴史のように見えますが、実は彼らも時間や空間を均質なものとして見なす近代科学史観の延長線上にあったのです。ですから私は、彼らが見落としてしまったものに注目しながら、もう一度絵画の可能性を探っていこうとしているのです。
この辺りのことをもう少し詳しくお知りになりたい方は、blogの冒頭でも示している「小田原ビエンナーレ2021」パンフレットの私のページをご覧ください。今回の小田原ビエンナーレの展示は、ツノダ画廊の一室をお借りして、私のその試行の過程を見る人と共有しようという目論見です。実際に展示してみて、私のやろうとしていることの半分くらいは理解していただけそうな気がしますが、その一方で私が絵画空間のどこに触れようとしているのか、もう少し明確にしないことには、完全には私の意図が伝わりません。これは次回の課題になりますが、実は居ても立っても居られずに、新たな制作に向けて動き始めています。

それから、今回ここに書いておきたいことは、同じギャラリーに展示されている加藤さんの写真作品についてです。展覧会の初日に、加藤さんと短い時間ですがとても有意義な話をすることができました。そこから私が学んだことについて書き留めておきます。
加藤さんの今回の作品は、すべて水面を写真で写した作品です。同じ水面を同じアングルで100枚の連続したシリーズとして写したものと、違った場所の違った時間の水面の写真が、数点出品されています。
例えば100枚のシリーズについて取り上げてみましょう。これは同じアングルから撮影した水面の連続写真ではありますが、いわゆる映画のスティール写真のように水面の動きがわかるような連続写真ではありません。意図的に数秒の間隔をおいて撮影しているのです。それはなぜでしょうか。
もしも自動的にシャッターを切るような連続写真であったなら、私たちはその並べられた写真を見て、波や光の動きを見ることができたでしょう。そして、その動きの様子を読み取っただけで何かしらわかったつもりになってしまうに違いありません。しかし、今回のシリーズでは連続している写真なのに、時間の流れがぶつぶつと途切れていて、その一枚一枚の違いはなんなのか、と私たちは考えながら見ることになります。それこそが加藤さんの表現したいことなのです。加藤さんの話では、実際に波を見ていると、この写真のようには見えないそうです。動いている波を、私たちはある程度の時間の幅を持って認識するので、このようにぶつぶつと一瞬ごとに静止した波として見ることは不可能なのです。それが写真の画像となったときに、初めて私たちはその一瞬の水の姿を知ることになります。その視覚的な認識との違和感こそが大切なことで、それをスティール写真のように波の動きを目で追っただけで簡単に納得してしまってはいけないのです。私たちは実際に見ていながら、その姿に気づいていないという視覚の限界に気づくべきでしょう。それを身をもって体験できるのが、この100枚の写真のシリーズなのです。理屈の上では、3、4枚の写真を並べただけでも同じことがわかるのかもしれませんが、表現は理屈ではありません。100枚という圧倒的な量を見ることによって、強く実感できるものがあるのです。
せっかくここまで読んでいただいた方には、少しだけ種明かしをします。(加藤さん、余計なことだったらごめんなさい。)この100枚の写真に写っている赤い色の波は、その上にかかっている橋の色が反射したものだそうです。さらに驚くべきことは、金色の光だと思っていたものは、有名な浅草のアサヒビール本社屋上の金色のオブジェが水面に写ったものだそうです。これは加藤さんと直接、話さないとわからないことですね。ちなみにみなさんは、あの金色のオブジェのことを知っていますよね?念のため、次のページをご覧ください。これはアサヒビールの「燃える心」の象徴だそうですが、どう見ても他のものに見えてしまって、これにはちょっとびっくりです。
https://www.asahibeer.co.jp/customer/post-5.html
話がそれました。
加藤さんの写真には、私たちの視覚が日常的には気付かないものを見ているという、言わば「隠れた真実」があるということ、それをなんとか形にしたい、という確かな動機があります。この加藤さんの表現にも、八田さんやロペスの絵画と同様に、私たちの常識的なものの見方を突き崩し、もっと広い世界に到達したい、という欲求があるのだと思います。
そして私たちの常識的な思い込みの根本にあるのが、近代科学の知見であることは言うまでもありません。いろいろな意味で行き詰まっているこの世界を、何とかして生き生きとした豊かな世界にしたいと願うなら、標的にすべきものは同じです。そして表現手段は違っても、この制作動機の核心となるものは共有できるのだ、ということを改めて実感しました。私にとっては、とても貴重な機会となりました。

ということで、このコロナ禍の中ですが、もしも無理のない範囲で小田原までいらっしゃることのできる方は、どうかこの二人の共有する空間も覗いてみてください。

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