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平らな深み、緩やかな時間

406.「宮下圭介展」「数見利夫展」、「ノーベル平和賞」について

このblogを書いているさなかに、「日本被団協に平和賞」というニュースが入ってきました。「日本原水爆被害者団体協議会」(日本被団協)に、ノーベル平和賞が贈られることが決まった、というニュースです。

うれしいニュースですが、私が真っ先に思ったことは、これは戦争を続けている為政者はもちろんのこと、被爆国でありながら、核抑止に消極的な日本政府に対する強いメッセージではないのか、ということです。

例えば、新聞の「社説」として、そのことを控えめに報じた記事があります。

 

日本は、核廃絶への努力をこれまで以上に積極的に進める責任を負ったといえる。

特に日本は、核兵器の使用がどれほど残虐な被害を人類に及ぼすかを体験した立場にある。核使用を容認するかのような風潮を食い止めるための国際世論形成に向けて、先頭に立つべきだ。

https://www.yomiuri.co.jp/editorial/20241012-OYT1T50030/

 

確かにそのとおりですが、私はこれでは少し物足りない気がします。日本政府の核廃絶への対応について、もう少し踏み込んだ記事もありました。

 

唯一の戦争被爆国として、日本が国際社会で果たす役割は大きいはずだ。にもかかわらず、政府の動きは鈍い。核兵器禁止条約に加盟しないだけでなく、締約国会議へのオブザーバー参加にも後ろ向きだ。

「保有国と非保有国の懸け橋になる」ことを掲げながら、行動は伴っていない。東アジアの安全保障環境の悪化を理由に、米国の「核の傘」を含む抑止力の強化を推し進めている。

広島市で昨年開かれた主要7カ国首脳会議(G7サミット)は、「核兵器のない世界」を目標に掲げたが、「防衛目的の役割」を肯定し、被爆者を失望させた。

https://mainichi.jp/articles/20241012/ddm/005/070/110000c

 

こういう日本政府の動きの鈍さに対して、ノーベル平和賞は警告を発しているのではないか、と私は感じています。前の首相は、核廃絶に前向きではないか、と期待されましたが何も変わりませんでした。「核抑止」が期待できない為政者が世界中に存在する中で、ノーベル平和賞は危機感を露わにしたのだと思います。

これを機会に、「日本被団協」の信念を共有する人が一人でも増えれば、と願うばかりです。

 

 

さて、本題に入ります。

東京都三鷹市にある「ぎゃらりー由芽のつづき」で10月13日まで「宮下圭介展」が開催されています。

https://galleryyume.web.fc2.com/

 

宮下さんについて、私はたびたび文章を書いているのですが、例えば次の文章を参照してみてください。

https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/23721b5a76a42dc92a7b43fecca40d8b

 

今回も、宮下さんは「面位」という言葉をキーワードとして創作活動を展開しています。その説明を読んでみましょう。

 

2021年ぎゃらりー由芽での個展の際、タイトルを「面位」とした。 
そして、その意味を次のように書いた。

面に対して垂直に位置を図ろうとする知覚、視野の中で視野を切り替えつつ統合を図ろうとする見る者の指向性、そのような場で揺らぐ透層の不安定な位相。

 これは相変わらず方法であることに変わりない。 
厳格に自己規制をかけ、質料の変容を目で追い、逐一変化する我が身を体感する。

<宮下圭介>

 

私は、宮下さんが書いている「面に対して垂直に位置を測ろうとする」ことについて、絵画の時間性と関連させてこれまで考えてきました。ですが、今回は思うところがあって、別の観点から考察してみます。

 

この宮下さんの「面位」に近い概念として、「色価(ヴァルール)」という美術用語があります。この言葉をインターネットで調べてみましょう。

 

色価(ヴァルール/Valoir)

絵画における【色彩】の相互関係や対比による空間構成を指す美術用語。色価(ヴァルール)という。この語の意味は絵画史とともに多少変化している。近代以前の絵画では、色彩の明度対比による空間表現のことをもっぱら指す。ある対象を描く際、遠景となる部分には暗い色を、近景となる部分には明るい色を用いることによって、対象の距離や奥行き、立体感を描き出したが、それは色彩の明度を対比させることによって、キャンヴァスという一定の2次元平面のなかに3次元的な空間表現を創出するものであった。一方、印象派以降の絵画では、明度のみならず色彩の基本的属性である色相や彩度なども含み、より広義の意味において使用されるようになる。色彩相互の配置、調和関係などによる画面構成一般をも意味する。

[執筆者:平芳裕子]

https://artscape.jp/dictionary/modern/1198642_1637.html

 

この「色価」という言葉は、古典的な絵画においては遠近法や明暗表現によって正しい位置に色を置くことを言い表す用語として使われてきました。遠くにあるはずのものがこちら側に飛び出して見えたり、あるいは手前にあるはずなのに奥に引っ込んで見えたりするときに、「色価が適切に表現されていない」というわけです。

しかし、この解説にあるように、印象派以降は画面空間の中での整合性ばかりでなく、色彩表現として画面上の色が適切であるのかどうか、という判断を「色価」という言葉に込めるようになりました。

例えば後期印象派の画家ゴッホ(Vincent Willem van Gogh、1853 - 1890)さんは、意図的に彩度の高い色を画面に置くことによって、自らの色彩表現を確立しました。ゴッホさんにとっては、実物のモチーフに近い色よりも、自分の感情を表す鮮やかな色の方がしっくりときたのでしょう。

おそらく同時代の多くの人たちには、ゴッホさんの絵が異常な作品に見えたはずです。しかし、ゴッホさんの絵が異常な絵ではなかったことを私たちは知っています。ゴッホさんの絵は、ただの色の派手な絵ではなかったのです。

試しに、ゴッホさんの絵をモノクロ写真で見てみてください。そうすると、意外なほどに明度表現が的確で、デフォルメされた形象であるにもかかわらず、作品によってはすごく写実的な表現のように見えるのです。これはゴッホさんが、具象的な絵画の「色価」をしっかりと把握したうえで、そこに独自の色彩表現を盛り込んだ結果なのだと思います。

このことによって、ゴッホさんは単に色彩表現を解放した画家だったというだけでなく、「色価」の意味を大きく広げた画家だったともいえるのです。

 

ゴッホさんと同時代に活躍した画家で、ゴッホさんよりもさらに大胆だったのがセザンヌ(Paul Cézanne, 1839 - 1906)さんです。セザンヌさんは、遠くに見える空や山を、あえて目前に迫ってくるように描いたのです。それまでの遠近法による絵画空間を見慣れた人から見れば、セザンヌさんはただの下手くそな画家に見えたことでしょう。セザンヌさんは「色価」の意味を解さない人、音楽に例えるなら、正確な音階の音取りのできない人、つまり音痴な人に見えたことでしょう。

しかし、そのような誤解は、次のセザンヌさんの言葉を読めばすぐに晴れると思います。セザンヌさんが、後輩の画家エミール・ベルナール(Émile Bernard、1868 - 1941)さんに宛てた次の手紙を読んでみてください。

 

シャルダンの美しいパステルを覚えておいでですか、眼鏡をかけ、帽子の庇が光をさえぎっている絵を?実に賢い男です、この画家は。鼻と交叉させて軽く斜めのプランを走らせることによって、色価の関係がより確立されているではありませんか。このことを確かめて、私の誤りかどうか言ってください。

(『セザンヌの手紙』「201 エミール・ベルナールへ/エクス 1904年6月27日」ジョン・リウォルド編 池上忠治訳)

 

ちなみに、文中のシャルダン(Jean-Baptiste Siméon Chardin, 1699 - 1779)さんのパステル画(自画像)はこれでしょう。

https://www.artic.edu/artworks/102131/self-portrait-with-a-visor

 

このようにセザンヌさんは、古典的な絵画における「色価」という言葉の意味を理解していました。しかし彼はそのうえで、自分の作品の画面上では、まるで手で触れるようにして色の位置関係を推し量って筆を置いていたのです。

私はセザンヌさんの晩年の絵画以上に、緊密で濃厚な「色価」によって彩られた作品を知りません。「色価」という言葉は、セザンヌさんの絵画以降、絵画にとって最も重要な概念となったのです。ちょっと大げさに聞こえるかもしれませんが、少なくとも私はそう考えています。

さらに付け加えるなら、セザンヌさんがここでシャルダンさんについて語っているのは、単なる気まぐれではありません。シャルダンさんの絵画は、古典的な絵画の中でもとりわけ「色価」が緊密な作品なのです。その意味では、シャルダンさんはその後のロマン派や写実派の絵画よりも、ずっと現代的な画家なのだと私は思います。

これらの知識を身につけたうえで、あの有名な一節を含むセザンヌさんの言葉を読んでみましょう。

 

自然を円筒形と球形と円錐形によって扱い、すべてを遠近法のなかに入れなさい。つまり、物やプランの各面がひとつの中心点に向かって集中するようにしなさい。水平線に平行する線はひろがり、すなわち自然の一断面を与えます。お望みならば、全知全能にして永遠の父なる神がわれわれの眼前にくりひろげる光景の一断面といってもかまいません。この水平線に対して垂直の線は深さを与えます。ところでわれわれ人間にとって、自然は平面においてよりも深さにおいて存在します。そのため、赤と黄で示される光の震動のなかに、空気を感じさせるために必要なだけの青系統の色を導入する必要が生じます。

(『セザンヌの手紙』「198 エミール・ベルナールへ/エクス 1904年4月15日」ジョン・リウォルド編 池上忠治訳)

 

この有名な一節は、冒頭の「自然を円筒形と球形と円錐形によって扱い」という言葉によって、のちのキュビスム誕生の根拠とみなされています。しかしセザンヌさん自身は自然の形を幾何学的な図形に還元した絵を描いたことはありませんでした。

それよりもここでは、「自然は平面においてよりも深さにおいて存在します」という言葉に注目しましょう。セザンヌさんが言っていることは、絵画は平面上に描かれたものでありながら、その平面性よりも垂直方向の「深さ」の方が重要なのだと言っているのです。

 

ここで宮下さんの「面位」を説明した言葉、すなわち「面に対して垂直に位置を測ろうとする」という言葉を思い出してみましょう。

宮下さんはその制作の過程において、画面に最初に塗布された白っぽい絵の具の層、その上に描かれたグレー調の刷毛の層、さらにその上に重ねられた色の層、そして盛り上げるように描かれた表面の描線の層、それらの層を横断的に結びつける最後の絵の具の層などが、それぞれの時間軸の深さにおいて、平面としての位置を持つことに注目しました。それらの時間軸上の層を「位相」と呼び、それらを透視するように感受できる平面性を「面位」と呼んだのです。

そう考えると、宮下さんの「面位」という概念は、セザンヌさんが「深さにおいて」感受したという「色価」を、「時間軸」において、より明確に知覚しようという試みなのではないか、と私はそんなことを感じました。宮下さんの制作上の方法論は、絵画の歴史に深く根ざしていながら、さらにそこに新しい視点を見出す、というものなのです。

このように理解してみると、私には宮下さんの個展会場が「色価」を垂直な「時間軸」において把握しようという、壮大な実験会場のように見えたのです。

思い返してみると、20世紀後半からの現代絵画は、ミニマル・アートに代表されるような還元主義的な表現が広がってしまいました。そのような状況の中で、一人の作家の個展は模範的な解答を繰り返し発言するような、優等生の発表会のようになっていったのです。そしてさらに悪いことには、そのような作品展は、一律の仕上がりが保証された商品のようにも見え、展覧会場はその商品の展示会場のようにも見えてしまうのです。

しかし、そんな作品ならば、2、3点も見ればそれで十分なのではないでしょうか?

宮下さんの個展は、その作品の一点一点が基層に近いところから表層の仕上げのところまでさまざまに異なっていて、その表現の振れ幅がとても興味深いのです。人によって好みがあると思いますが、私もお気に入りの作品を何点か見つけました。またそういうふうに一点一点を鑑賞する見方以外に、壮大な実験場において一人の画家がどのように思考し、どのように感じながら制作したのか、というその創造の軌跡を浴びるように見る、という楽しみ方もあります。

このblogを読んでいただいている方には、その感触をぜひ現場で確認していただきたいと思います。可能ならば、残りの展示期間に会場を訪ねてみてください。

 

 

さて、終わってしまった展覧会ですが、もう一つご紹介します。

10月5日まで、東京・京橋のギャラリー檜で開催されていた「数見利夫展」です。数見さんの作品は、次のリンクからご確認ください。

https://hinoki.main.jp/img2024-9/e-5.jpg

 

数見さんは、実は大学時代の私の同級生です。そして数見さんとは入学試験の時に席を並べて受験したという縁になります。つまり入学前から、お互いに隣で絵を描いていたのです。そして数見さんには、入学後にいろいろなことを教えてもらいました。歳をとった今ならいざ知らず、若い頃は数年年長だった友人が、とても大きく見えたものです。私は10代でしたから、20代なかばだった数見さんから、ほんとうにさまざまなことを吸収させてもらいました。へそ曲がりだった私は、大学の先生たちよりも一目置いていた友人たちから教えてもらったことのほうが、遥かに大きかったのです。今でも感謝しています。

 

そんな個人的なことは置いておくとして、数見さんの今回の作品ですが、宮下さんからの繋がりで「色価」を考える上で、格好の学習材料でした。例えば、先のリンクの作品を見てください。

「景色」というタイトルが付されていますが、私が見るところでは、窓から見た風景のように見えます。数見さんの作品は、実在の風景がモチーフとしてあるようですが、それをそのまま描くのではなく、若干の単純化を加えながらパズルのような部品にしていきます。実際に数見さんは、厚い木の板を支持体として、それを電動工具で切り離していくのです。切り離したパーツに布を巻いて、一つ一つに色を塗って、それを再び一つの絵として合わせるのです。

数見さんは、私の記憶では大学院の頃にこの方法で制作を始めて、現在でも続けているのです。普通に描く絵画も制作しているようですが、今回はすべてパズルのような手法で制作した作品ばかりでした。穏やかな色彩と、練られたパーツの形状から、数見さんが時間をかけてじっくりと制作してきたことが読み取れます。

そして、先のリンクの作品を見ていただきたいのですが、私が言ったように窓から見た風景であることが、おそらく誰が見てもわかると思います。それは数見さんが、ある程度「色価」を正確に表現しているからなのです。

ここで「ある程度」とあえて私が書いたのは、数見さんに話を聞くと、色彩は実物の色を再現したものではない、ということからです。実物の色ではないけれども、それぞれの絵は不思議と風景としての自然な広がりを感じさせるものでした。

それは数見さんが、実在の風景の「色価」を感受して、その色味を変えたのにもかかわらず、その色が画面上に占める位置、すなわち「色価」についてはある程度正確に表現しているからだと思います。私のように、絵の下手な人間ならいざ知らず、数見さんのように絵を熟知し、しっかりとその基礎が染み込んだ表現者からすると、そのような正確な「色価」の表現は、意識しなくても自然と出てくるものなのでしょう。

 

さて、そんな数見さんですから、例えば風景を前にして作品を制作しようと思えば、瞬時にいろいろな方法論が見えてくるはずです。とくに近代絵画以降は、そのような方法論のオンパレードですから、印象派風の点描から始まって、フォーヴィスム風の色彩表現や、キュビスム風の形体の単純化、一連の抽象絵画の方法論などがあって、それらのすべてが手垢にまみれている、と言ってもよいような状況で、そのことを数見さんもよくわかっているのです。

そのうえで数見さんの取った方法は、あえてそのいずれも参照しない、という方法です。

つまり方法論を確立するために制作するのではなく、あくまでその時々の印象や判断で制作を進める、という方法を取ったのです。強いて言えば、パズルのように木を切り離すという手法だけは、方法論として確立していました。その方法では、形態の単純化にもいろいろな制約が出てきます。細い形状や細かな凹凸は表現しづらいのですが、数見さんは、それもそのまま受け入れて制作していたのだと思います。

その結果、数見さんの作品は単純化が進み、主に水平方向に切り離されたパーツの組み合わせへと、ゆるやかに収斂していったように見えます。それがとても心地よく、数見さんの個性である、物事を大きく、そしてゆったりと見る感じに近づきつつあるように思いました。

 

一点、気になったことは、先程も書いたように、数見さんの中には絵画の基礎がしっかりと息づいていて、そのことが絵画空間にも表れていたことです。具体的に言うと、風景画の空にあたるパーツの「色価」が、それにふさわしく奥へと抜けているように見えて、それが私には少し物足りなく感じたのです。

これは好みの問題でもありますが、私はセザンヌさんのように、遠くの空や山であっても、手に触れられるように表現する手法に惹かれています。私自身、風景をモチーフにして作品を抽象化するときには、そのように遠くに抜けてしまう「色価」を、どうにかして触覚性の高い「色価」に置き換えたい、といつも悩んでいるのです。

数見さんの作品を見ると、同じような「水色」であっても、空に当たる部分に置かれたパーツは少し抜けて見えるのですが、そうでないところに置かれたパーツは平面的な強い位置を持って見えるのです。これは作り手の意識によるものなのか、それとも私が気にし過ぎることによるものなのか、よくわかりません。しかし、おそらく数見さんの作品は、色彩の抽象度が上がるにつれて、その色彩の「色価」が互いに強く前に出てくるように見えた方が面白くなる、と私は思います。

 

いろいろと書きましたが、既視感のある方法論を取らずに、自分自身のその時々の反応に作品を委ねる、という数見さんの姿勢には、とても共感できます。私自身もそのようなことを心がけていますし、それこそが今、生きて制作している、ということなのではないかと考えているのです。

 

展示作品の搬出を終えたあとで、小1時間ほどコーヒーを飲みながら数見さんと話をしました。数見さんは故郷の新潟で孤独に制作している人ですが、現代社会に向ける眼差しや美術に対する揺るぎない考え方など、学生の頃からあまり変わらない、芯の通ったものを感じて懐かしく思いました。それに比べると、私はチョロチョロと落ち着きのない時間を過ごしてしまったなあ、という感慨も持ちました。それも昔から変わらないよ、と言われてしまえばそれまでですが・・・。

 

 

さて、今回は、二人の尊敬する作家の作品から、「色価」という概念について考察してみました。

これは一つの切り口に過ぎませんし、優れた作品はいろいろな見方ができるものです。数見さんの展覧会は終わってしまいましたが、宮下さんの作品は明日まで見ることができます。

ぜひ、お時間のある方は、実際の作品を見てください。展示されているギャラリーは、窓が大きくて、とても気持ちのよい会場です。外からギャラリーを見たときのワクワク感も楽しみながら、入ってみてください。

 

それでは、今回は、いま、生きて制作していることを実感させる、2つの展覧会をご紹介しました。

そんな展覧会を、これからもご紹介します。

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