平らな深み、緩やかな時間

83.『dialogue』展、『藤枝晃雄批評選集』よりゴッホについて

はじめに展覧会のお知らせです。
『dialogue ―絵画について―』展が、京橋のギャラリー檜で開催します。2月11日(月)から17日(土)までです。この展覧会は美術家の稲憲一郎さんが、2013年から毎年、もう一人の美術家と対話形式で開催してきた展覧会の、まとめとなる展覧会です。稲さんのほか、高橋圀夫さん、北村周一さん、さとう陽子さん、橘田尚之さん、そして石村実によるグループ展になります。檜のB室、C室を使って、一人壁一面をつかっています。この展覧会では、展覧会の開催ごとに出品する二人の美術家(一人は稲さんです)の対話をまとめたパンフレットを作成してきましたが、今回はそれをまとめた冊子を作成し、会場で配布しています。作品の方も大作を一点以上含めて展示する企画になっていますので、見ごたえ十分です。稲さんとギャラリー檜の高木久仁子さんの苦労がしのばれますが、何よりも見ていただく価値のある展覧会だと思いますので、お知らせする次第です。お時間がありましたら、ぜひお立ち寄りください。
http://hinoki.main.jp/img2018-2/b-3.jpg

それでは、本題です。
少し前に『藤枝晃雄批評選集 モダニズム以降の芸術』という厚い本を購入しました。
藤枝 晃雄(ふじえだ てるお、1936 - )は言うまでもなく日本を代表する美術評論家で、私も学生時代に『現代美術の展開』や『ジャクソン・ポロック』などの著書を読み、感銘を受けました。ただ、どれを読んでも難しいので、美術史や思想、哲学、美学などの広範な知識がないと、この人の本は十分に理解できないのだろう、というふうにも思いました。実際に彼の本を読み返すと、その都度新たな発見があって、以前に自分の受けた感銘がどれほど正確なものだったのか、と疑わしい気持ちになるのです。
その後も『現代芸術の不満』、『現代芸術の彼岸』などの批評集が出版され、それぞれ興味深く読みましたが、私がもっとも好きな彼の著作は『絵画論の現在 マネからモンドリアンまで』という評論集です。現存の美術家や評論家に関してはとかく不満が多くて否定的な物言いになる著者ですが、この本は彼の評価にかなう作品についてみごとな文章を綴っています。
この『絵画論の現在』は『藤枝晃雄批評選集』のなかにも含まれていて、今回、あらためて読み直すことになりましたが、とくにゴッホに関する文章でひっかかるところがありました。そのことについて書いてみようと思います。
それは、フィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent van Gogh、1853 - 1890)の『葡萄園とオーヴェールの眺め』という作品に関する文章です。そのなかで、まさに作品の画面について書かれた部分を引用してみます。

ファン=ゴッホは死の一箇月半ほど前、同時期に三点の風景画を制作した。「オーヴェールの家」、「罌粟(ケシ)のある畑」、そして「葡萄園とオーヴェールの眺め」である。「葡萄園とオーヴェールの眺め」が前二者と異なっているのは、斜方向による構成法である。その「ぎこちなく傾斜する視点」によって葡萄園とオーヴェールの眺めを共存させる構図には困難が伴うだろう。もとより、左から右に傾く三角状の対象を有する描き方ならば、印象主義とその周辺の絵画に認められるが、「葡萄園とオーヴェールの眺め」においては横に長くないカンヴァスのなかで上部へと追い上げられている(「オーヴェールの家」では、地平線がやはり印象主義風に上部にあるが、斜めの方向性が少なくしかも横長のカンヴァスのために安定している)。空を含めたオーヴェールの眺めは、画面を約三等分した最上部に描かれている。これに対して葡萄園はおおむね画面の上左端から右下端に向けて引かれた対角線の下方に描かれ、この対角線の上方に塀、柵、草地などが加えられている。一見したところ、葡萄園はほとんど同じ調子の緑から成っているが、そこには幾種もの緑が加わって微妙に作用し合っている。作者はいかに多くの緑を用いることができるか、ということを誇示しているかのようでさえある。しかし、多くの緑を画面に埋め込むと窒息状態が生じ、空間が弱体化する。とすれば、これを緩和しているのは葡萄園の白である。緑はこの白のために個別的な表われではなく、逆に統合されたものとなり光輝を発するのである。
ファン=ゴッホは、色彩を主情的、恣意的に施しているのではない。ここには表現上の関係への配慮がある。白は屋根にも使われているが、とくに左端と右端のそれは明度が高く、画面に解放と完結を与える。そしてこれと対応しているのは、右の棚の黒である。山には明るい緑のタッチがつけられている。それは近景の緑のこだまとして平衡を保つ役目を果たしているが、このオーヴェールの眺めなかで多用されているのは、樹木、屋根などに見られるように暗い緑である。それは葡萄園の中央に施され斜めに走っているものであり、園の中で緑内部の対比をなす一方、塀、棚、そしてオーヴェールの眺めへと繋がってゆく。葡萄園には青の棒が描かれ、緑から推移をなし、かつ濃淡を変えたり、隣接する色相とともに塀、山に用いられる。画面左には罌粟が見える。平塗りの緑の上に黄緑の葉と赤の花が塗られ対立をなす。この赤は、他の緑の領域とも当然、対立していると同時に、ポール・セザンヌが「オーヴェール、その全景」に描いたこの村の家の屋根に反復されている。画面右の草地には、横向きのタッチがつけられている。その手法はクロード・モネが「サンダドレス・海辺のテラス」(1867年)などの水面描写で活用したものであるが、ここではその方向性は葡萄園の縦方向のタッチに対峙し、画面を鎮める。「葡萄園とオーヴェールの眺め」は、このような関係において全体として近景に明るく、空にいたる遠景に向かって暗くなってゆき緩慢な遠近を表している。
(『藤枝晃雄批評選集 モダニズム以降の芸術』p291-292)

ゴッホは色彩を「主情的、恣意的に施している」と考えられがちですが実際にはそうではない、と私も感じます。ゴッホの作品を見ると、色の使い方が知的であると同時に、感覚的にも実感のこもったものになっています。それに日本の浮世絵や印象派に影響された、華やかな色使いの画家だという印象もありますが、丹念にその作品を見ていくと、地味で渋い色を多用していることに気が付きます。また、ここでは緑の色調について書かれていますが、この作品以外にも、例えば黄色や青などの同系色の微妙な変化に工夫を凝らしていることが多く、ゴッホの作品は色数という点から言っても抑制的な作品が多いのです。有名な『ひまわり』の絵を思い出してください。それは、多様な黄色と、地味な緑とグレーでほぼ完結しています。黄色の使い方が豊かなので、色数そのものが多彩な作品に見えますが、そうではないのです。
それからゴッホの絵は色彩表現ばかりでなく、形体の力強さも特徴的だと思います。歪んだフォルムや渦巻き状の筆致などが、彼の精神状態の不安定さを象徴するように論じられることが多いのですが、精神が不安定な時にあのような力強い表現ができるものでしょうか。藤枝晃雄が分析しているように、彼の絵の構図は意図的なねらいをもったものが多く、その構成要素として連動する形体も衝動的に描かれたものではないと思います。さらにその細部を見ていくと、色彩表現と形体感が一体化していて、いわゆる表現主義的な絵画にありがちな殴り描きの表現とは、まるで異なるのです。
ゴッホはその後の表現主義の絵画などに影響を与えた、と言われますが、それではその表現主義の絵画がゴッホの仕事を十分に継承してきたのか、というとそうではない、と最近、思うようになりました。セザンヌ( Paul Cézanne, 1839 – 1906)の仕事がキュビズムの絵画にすべて継承されてきたわけではないのと同様に、ゴッホの仕事にもいまだに継承されていない、未消化な何かがあると感じます。
例えば藤枝晃雄は、この文章を次のように結んでいます。

ファン=ゴッホの風景画にはオランダ絵画の追憶が残存しているものもあるが、抽象の局面という点では、具象的なイメージの有無を問わず1910年代、20年代の抽象の過程をおのずから、一挙に超越している。この意味でファン=ゴッホの芸術が、デ・クーニングよりもはるかに重要なのは、「場の絵画」と連関を有しているということである。
(『藤枝晃雄批評選集 モダニズム以降の芸術』p293)

ここに書かれている「抽象の局面という点では、具象的なイメージの有無を問わず1910年代、20年代の抽象の過程をおのずから、一挙に超越している」というのは、どういう意味でしょうか。そもそも抽象絵画というのは、具象的なモチーフにとらわれずに自由に絵画を表現できるところに魅力があったのだと思います。しかし、実際には抽象絵画であっても、旧套的な絵画空間に陥っている作品がいくらでもあります。具象的なモチーフ、例えば人物とか林檎とか花などが、幾何学的な形体や不定形の絵の具の塊に置き換わっただけで、因習的な画面構成はそのまま…という作品も多く、それでは何の新鮮味もありません。藤枝晃雄がゴッホの画面について詳述するのは、それだけゴッホの絵が複雑な成り立ちをしていて、単調で因習的な画面構成から遠いものであることを、具体的に指し示すためでしょう。「具象的なイメージの有無を問わず」、目前の絵画が「抽象の過程をおのずから、一挙に超越している」ということを認識するには、一枚一枚の絵を注意深く見るしかありませんし、それを藤枝は実践しているのだと思います。
そして藤枝晃雄は、ゴッホと同郷のデ・クーニング(Willem de Kooning, 1904 - 1997)を引き合いに出して、ゴッホの方が「はるかに重要」だと書いています。学生時代にこんな文章を読んでいたら、「え、ほんと?」と思ったかもしれません。美大受験のための絵画制作からようやく解放された身からすると、ゴッホの絵よりも抽象表現主義の絵画の方が、自由で輝いて見えたものです。しかし、デ・クーニングの絵画にもさまざまな紆余曲折があり、自由に絵を描くということが本当に大変なことなんだと感じ始めたころから、セザンヌやモネ(Claude Monet  1840-1926)、そしてゴッホの推進力のすごさに感嘆するようになりました。今ならゴッホの方が重要だ、という言葉の意味が分かるような気がします。
このことについては、さらに具体的な考察を、おいおい進めていきたいと思います。

さて、このように画面を丹念に読み取る藤枝晃雄のような評論のスタイルことを「フォーマリズム(Formalism)」と言うらしいのです。フォーマリズムとは、翻訳すれば「形式主義」になりますから、文字通りに読めば絵画の表面を、その形式を中心に読み取る方法だろうということになります。しかし、実際にはもっと複雑です。
この『藤枝晃雄批評選集 モダニズム以降の芸術』の中で、何人かの藤枝晃雄以外の評論家の文章が載っています。その一人、川田都樹子は次の文章で、フォーマリズムについて、そして藤枝晃雄という評論家について明快に解説しています。

通俗的な概説として、フォーマリズムとは作品の内容よりも形式を重視する立場であり、専ら視覚的要素だけに特化して語る姿勢であるとされてきた。ようは、内容を見ない形式主義だという言い方である。そして、この通俗的定義の横行は、モダニズムの終焉とポスト・モダンの台頭という、いまとなっては懐かしくさえある無意味な空騒ぎによって助長された。思えば、芸術の世界に「ポスト・モダン」の語をはじめて導入したのは、1972年のレオ・スタインバーグの「他の批評基準」であったが、そこでは、ドラクロワを評したシャルル・ボードレールの批評が絵の主題を無視せよという禁制を敷いたものとして嘲笑され、クレメント・グリーンバーグがそのフォーマリズムの頂点として攻撃目標にされたのだった。そしてそれ以来、モダニズムの終焉を語るための方便としての「フォーマリズム・バッシング」がはびこった。1993年といえば、まだまだその余燼がくすぶっていた時期であったから、モダニズムの絵画を徹底したフォーマリズムで分析する藤枝の『絵画の現在』が、当時は時流に逆らうように見えたのも、ある意味当然のことだったのかもしれない。
だが、本来フォーマリズムとは、ある一つの時代やある一つの時流にしか適応できないものではない。ましてや、「内容の軽視」とは根本的に無関係なものだと考えるべきである。スタインバーグらの批判に応じたグリーンバーグの次の言葉は、先の藤枝の記事と響き合って、このことを明確に伝えている。「私は、芸術が美的価値や質に関わる言葉以外の言葉で論じられるべきではないなどと言いたいのではない。[中略]私の主張は、<芸術としての芸術>と一切無縁の主題内容のために、美的価値を空虚にしてしまう物たちに囲まれていようとも、芸術の本質を美的価値としていっそう認めようとする意識を保つことなのだ。[中略]美的価値判断、趣味の判定が存在しないなら、そのとき芸術もまた存在しないのである。」すなわち、芸術の存するところには本質的普遍的に存在してしかるべきものとして、フォーマリズムは在る、ということだ。
しかしながら、フォーマリズム批評は、当然ながら誰にでも可能なわけではない。鍛え抜かれた「眼」と、それを語るテクニカルな言葉がどうしても必要になる。これがまた、「エリート主義」として敬遠されてきた理由である。たしかに藤枝の、またグリーンバーグの、個々の精緻な画面分析の語りを読めば、普通にはとうてい模倣できない域のものであることがすぐにわかる。一枚の画面の上を、論者の眼がどの順番で、どのように動き、どの部分を注視し、どの箇所で折り返したか、それらの一連の流れがまず見事に分節化され言語化される。その緻密な記述があって、さらに言語による画面の再構築がダイナミックに展開されていく。読者がその言葉に導かれながら、論者とともに画面をたどりなおし、その構成を把握していくとき、作品の有する美的「質」の正体を認識することができるのである。
(『藤枝晃雄批評選集 モダニズム以降の芸術』p264-265/「芸術の守護者たち」へ―藤枝晃雄とフォーマリズム批評/川田都樹子)

また、長い引用になりましたが、藤枝の『絵画の現在』の記述がどのようなカテゴリーに分類されるとしても、私はその作品そのものに向き合おうとする姿勢に魅力を感じます。例えばゴッホという人物の特異な人生や、精神を病むほどの純粋な内面に立ち入ること、なども興味深いことではありますが、画家はやはり描かれた絵から評価されるべきだと思います。それに付随する事実は、絵の理解を深めるために役立つのなら言及すればよいし、もしも絵と切り離されたところで興味がわくのであれば、それは文学や精神分析学などの他の領域で語られるべきことでしょう。
そして、絵画を批評するのであれば、批評家は画家と同じように、真摯に絵と向き合ってほしいと思います。画家は制作によって、批評家は文章によって評価されるわけですから、批評家にとって鍛え抜かれた「眼」とテクニカルな「言葉」は必須のものだと思います。そんな当たり前のことが、「フォーマリズム」という限定された立場を意味する言葉でくくられ、特殊なものだと見なされているのだとしたら、そのことに私は違和感を覚えます。

最後に一つ、いま気が付いたことを書いておきます。
今回、藤枝晃雄のゴッホに関する文章に感銘を受けたのはなぜなのか、もちろん以前に『絵画の現在』を読んだ時にも興味深かったことは確かですが、あらためて読んだ今回の方がより印象深く感じたのです。それはいったい、なぜなのでしょうか。
たぶん、『絵画の現在』の単行本には『葡萄園とオーヴェールの眺め』などの作品のカラー写真が口絵として掲載されていたのですが、今回の『藤枝晃雄批評選集 モダニズム以降の芸術』には、一切の画像や写真がないからではないか、と思います。ゴッホの絵はどんな絵だっけ、などと考えながら、以前より集中して藤枝の文章を読んだのでしょう。もちろん、写真を見た方が正確で手っ取り早く理解できるのですが、文章だけを集中して読むと、ゴッホの絵の細部がどのようにつながりあい、どのように作用しているのか、などがまるで手触りで絵の上をなぜるように、感じられるのです。それはもしかすると、制作中のゴッホの手触りと似ているのかも知れません。画家が画面の完成した全体像を見るのは、完成した後のことです。制作中の画家は全体像をイメージはしているのでしょうが、それはまだ朧気であり、画家自身がその中をさまよいながら筆をおいていくしかないのです。その手つきは、習熟した批評家の眼と、どこかでつながっているのでしょう。そこに絵と文章との、スリリングなやり取りが生じます。私たちはそれを読むことで、自らの言葉にならない感動がわずかに解明されたと思うこともありますが、それよりも私にとって重要なのは、さらに新たな局面に導かれて、未知の領域が広がっていくように感じることです。今回のゴッホの文章はそのケースにあたり、私はしばらくゴッホの文献や絵を追いかけることになるでしょう。

このところ、読むべき本がたまってしまって困っています。こんなにも知らないことが多いのか、と愕然とする一方で、これから知ることがたくさんあるというは、楽しみなことです。そこにさらに、今さら見るべきこともないだろう、と思っていたゴッホのような画家が新たに気がかりになるのでは、時間がいくらあっても足りません。また、少しずつ報告します。

 



名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最近の「ART」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事