平らな深み、緩やかな時間

78.『ルシアン・フロイドとの朝食――描かれた人生』

『ルシアン・フロイドとの朝食――描かれた人生』
ジョーディ・グレッグ (著), 小山 太一 (翻訳), 宮本 朋子 (翻訳)/みすず書房
上記の本を読みました。かなり厚手の本で、まとまった読書の時間がとれず、ちびちびと読んだのですが、フロイドという奇妙な画家との時間をゆっくり共有できた感じで、それはそれで楽しい時間を過ごすことができました。

さて、ところで皆さんはルシアン・フロイド(Lucian Freud、1922 - 2011)という画家をご存知でしょうか。名前から予想がつくように、あの精神分析学者のジークムント・フロイト(Sigmund Freud、1856 – 1939)の孫にあたる人です。いまでは日本でも知られた画家となっていますが、私がはじめて彼の作品を見た頃、それは1982年に開催された『今日のイギリス美術』という展覧会のことでしたが、その当時はそれほど一般的に知られた画家ではなかったと思います。少なくとも私は、まったく彼のことを知りませんでした。

話が少し横道にそれますが、この『今日のイギリス美術』という展覧会は、すばらしい企画展でした。以前にも書いたような気がしますが、その頃の海外の美術の動向といえば、雑誌で紹介されるアメリカの現代美術のことばかりで、ヨーロッパのことといえば、ようやくイタリアやドイツの新表現主義的な傾向の作品が話題になっていた、というような状況でした。特別なアンテナを張っていた人は別にして、だいたい皆さん、私と似たような状況だったのではないでしょうか。そんな中でイギリスの現代美術といえば、ブリジット・ライリー(Bridget Riley 1931-)のオプ・アート、ギルバート&ジョージ(Gilbert and George;Gilbert Prousch 1943- 、George Passmore 1942- )のパフォーマンス・アート、リチャード・ハミルトン(Richard Hamilton 1922 - 2011)、新しいところではデイヴィッド・ホックニー(David Hockney 1937 - )のポップ・アート、フランシス・ベーコン(Francis Bacon 1909 - 1992)の特異な具象絵画、などがそれぞれ知られていましたが、それがイギリスの美術としてまとまったイメージを結ぶことはなかったように思います。それでも、しいてイギリス美術の全体的な印象を言うとすれば、アメリカの抽象表現主義以降の巨大な絵画群や、ミニマル・アート、コンセプチュアル・アートなどのストイックな物質的作品に比べて、ちょっとアートを斜に見たような、ウィットでくるまれたような作品が目立つ印象でした。気にはなるけれど、現代美術の主要な部分ではないような、イギリスの美術は世界の中心から少し外れているのかな、と、そんな気がしていたのです。例外的には彫刻家のアンソニー・カロ(Anthony Caro, 1924 - 2013)が、アメリカのデイヴィッド・スミス(David Smith 1906 - 1965)らの物質的な彫刻の流れを汲む現代彫刻のメイン・ストリームにポツリといる、という感じでしょうか。
いまから思えば、私は偏った情報に流された平凡な美大生に過ぎませんでしたが、当時はそんな視点もありません。ところが、この『今日のイギリス美術』展を見ると、展示された作家たちの作品がそれぞれに面白くて、自分がふだん現代美術の作品を既成のカテゴリーの中でしか理解していないことを思い知らされました。たぶん私だけではなくて、この展覧会で自分なりの新たな発見を感じた人は多かったのではないでしょうか。具体的な作家で言えば、トニー・クラッグ(Tony Cragg, 1949 - )やバリー・フラナガン(Barry Flanagan 1941 – 2009)、デヴィッド・ナッシュ(David Nash 1945- )などは、その後、作家として著名になったこともありますが、日本でも作品が紹介されるようになったことを記憶しています。彼らの作品は個性的でありながら、外の世界に開かれている感じもあって、どうしたらあのような際だった作品群がひとつの国の展覧会の中で存在したのか、いまでも思い出して考えてみることがあります。

前置きが長くなってしまいました。その『今日のイギリス美術』の中で、フロイドは次のように紹介されていました。

1922年ベルリンに生まれる。精神分析学者ジークムント・フロイトの孫。1931年ロンドンに渡り、1939年帰化。1942年セントラル美術学校で学び、1942-43年ロンドンのゴールドスミス・カレッジで聴講する。スレード美術学校で教職を始め、1946-47年パリとギリシャを訪れ制作する。その後ロンドンに在住。
(『今日のイギリス美術』カタログ、p42)

この簡単な解説から、かの精神分析学者ジークムント・フロイトの孫だということがわかります。そしてジークムント・フロイトがナチスのユダヤ人迫害の中でロンドンへの亡命を余儀なくされたことを思うと、10歳前後でロンドンに渡り、帰化したルシアンの人生も、はじめから波乱含みだったことが予想されます。彼の作品の、どこか見る者を不安にさせる人物描写は、もしかすると精神分析的な知見から来ているのかな、などと当時の私は勝手に想像をふくらませていました。
しかし、この『ルシアン・フロイドとの朝食――描かれた人生』という本を読むと、本人は祖父のフロイトへの愛情を深く感じていたものの、とくに精神分析に興味があったわけではなく、むしろ「自分の画業を安易に祖父と関係づける心理学的な解釈を馬鹿にしていた」(p20)ということです。波乱含みの人生も、ドイツからイギリスに帰化したことが彼のアイデンティティーや性格に大きな影響を与えただろうことは考えられますが、結局のところ、気難しく短気で、女好きでハンサムで、そして作品に関しては妥協しない、そんな彼の強烈な個性が波乱の人生を呼び寄せた、という方が妥当でしょう。
実際のところ、この本のほとんどがルシアンの女性関係を語ることに費やされています。はじめの方に登場するローナ・ウィッシャート、キティ・ガーマン、キャロライン・ブラックウッドなどという人たちについては、それぞれどの絵に描かれた人なのか、と図版と照合しながら丹念に読み進めていったのですが、途中で横文字の女性の名前が次々と出てくるので、それが何人目の女性でどの絵のモデルであったのか、などという細かいことはどうでもいい、というような気分になってしまいました。巻末にルシアンの家系図が載っているのですが、それによるとルシアンが子供をもうけた女性だけでも6人もいて、その子供たちは認知されただけでも14人にのぼります。絵のモデルとなった若い女性はルシアンと男女関係にあった人物が多く、この本の中にも「絵を描くこととセックスには、ある種のつながりがあった。」(p190)という記述があります。

さて、この本のタイトル、『ルシアン・フロイドとの朝食』について、すこし説明しておきましょう。ディヴィッド・ドーソンという、20年間ルシアンの助手をつとめた男性がいるのですが、彼は毎朝、ルシアンの家まで車で通っていました。そしてルシアンの外出の準備ができると、ほぼ毎日、一緒に「クラークス」という高級レストランまで歩いて行ったのです。ルシアンの身なりは、よれよれだけれど高級なワイシャツとスカーフ、それにイッセイ・ミヤケのコートというふうな感じで、だいたい決まっていたようです。レストラン「クラークス」はミュージシャンや作家、女優などの有名人が通う店でしたが、ルシアンはその開店前に入ることを許されていたのです。さしずめ、この朝食の時間帯はルシアンのプライベート・サロンのようになっていたとのこと。この本の著者は、ルシアンのキャリアを35年間追い続けた結果、その晩年の十年間、時々この朝食に招かれる客となることに成功しました。そして、その会話を出版する許可を得たのです。ルシアンは1990年代に公認の伝記の出版を差し止めていたので、この本の記録は貴重なものとなりました。このレストランで食事をするルシアンの写真が何枚か本に掲載されていますが、貸し切り状態のレストランでの朝食といい、助手をやとっていることといい、幼い子どもたちと親しく話している様子といい、恵まれた晩年を過ごしていたことがわかります。

ところでこの本には、フロイドの絵が何枚も取り上げられていますが、作品に関する批評的なことはあまり掘り下げられていません。それぞれの作品が、フロイドのどの時期に描かれ、それがどのように位置づけられているのか、というようなことは書かれていますが、それは画家の伝記的な記述に必要だったからでしょう。そんな中でも、著者の私見が読み取れるところを引用してみましょう。

 全キャリアを通じて、フロイドはドラマの感覚を持ち込むことのできる瞬間を捉えつづけてきた。子猫を絞め殺そうとしているように見えたり、薔薇の花を強く握りしめたりしているキティ。《ガイとスペック》における、ギャングスター的なマスキュリニティ。この絵では、賭け屋のガイの巨大な右手だけが、テリア犬のスペックが膝から床に落ちるのをかろうじて食い止めているように見える。しばしば、フロイドの絵は見る者を落ち着かなくさせる。多く場合、それはルシアンの生活のシュールレアルな面を反映するものであり、かつまた、世間がルシアンの生活について抱いているイメージの反映でもあった。(p199)

このように、作品の描かれた背景やその当時の評価について、フロイドの伝記を語るうえで必要なことは書かれていますが、作品そのものについて深く入っていくことはしていません。たとえば、私にはフロイドが頭部の大きい、イラスト的な表現から触覚的と言っていい、独特な写実表現に至った過程などについて、もっと作品本位で語ってほしいところですが、それはないものねだりというものでしょう。作品そのものを見る手がかりとしては、むしろ巻末のフロイド自身の言葉を読んだ方が得るところが大きいと思います。この巻末のフロイドの言葉というのは、1954年に文芸雑誌「エンカウンター」に掲載された『描くことについてのいくつかの考え』というフロイド自身が書いたエッセイのことです。フロイドが唯一の公にした文章だそうですが、それがこの本の巻末に転載されているのです。
この本の著者ジョーディ・グレッグは、「タトラー」という雑誌にこのエッセイの続編を50年ぶりに書いてもらえないか、という依頼をフロイドに持ちかけます。そこでフロイドは久しぶりに自分のエッセイを読み、自分の見解はほとんど変わっていない、と言いました。そして、「タトラー」には、『描くことについてのいくつかの考え』の原文と、それを補足する言葉が掲載されたということです。
それでは『描くことについてのいくつかの考え』から、いくつかの部分を引用してみましょう。

絵を描くにあたって私が目標とするのは、リアリティをより濃密なものにして人の五感を動かすことである。この目標が達成されるか否かは描き手が自分の選んだモデルないし物体をどれだけ濃密に理解し、それらに対してどれだけ濃密な思いを抱いているかによる。それゆえにこそ、あらゆるアートのなかで絵画においてのみ、実際的な知識や情報よりもアーティストの直感的資質がアーティスト本人にとって重要となるのである。
(資料)

私はこの「五感を動かす」という部分について、なるほど、と納得してしまいました。フロイドの描写は写実的ではあるけれども、視覚的な写実表現とは異なる感触があります。彼のデッサンやエッチングでは人物の皮膚の表面をなぞるような描線が、しばしば見られます。陰影や明暗を緻密にしていったのでは出てくるはずのない描線がモデルの肌を這うように引かれているとき、それは触覚性を確認するための描線ではないか、と私は思うのです。そのことにより、フロイドはモデルとの距離感を一気につめてしまいます。モデルを客観的に、いわゆる退(ひ)いてみることを許さない、独特の写実表現が生まれるのです。しかし、絵の対象に対していちいちこのような態度をとることは、そうとうな精神力が必要なのではないでしょうか。上の文章に続けて、フロイドは次のように書いています。

絵の描き手は、自分が大事に思うすべての事柄に関して心の最奥部に秘めている感情を、他人にとってリアルなものにする。絵を眺める人間すべてに対してひとつの秘密が開示されるのは、描き手がその秘密を関知する際の密度の高さを通じてのことである。描き手は自分が抱くいかなる感情や感覚にまったき自由を与えねばならず、みずからが自然と惹きつけられるいかなるものをも拒否してはならない。そのような我儘さだけが、描き手が自分にとって本質的でないものを捨て去り、みずからの嗜好を結晶化させるための規律として機能するのである。
(資料)

この文章は、読みようによっては芸術家が自分自身の我が儘を正当化している、というふうにも読めます。フロイドの場合、モデルに対して長時間の裸のポーズをとらせるなど過酷な条件を課す一方で、自分は気が向けば女性モデルと性行為に及んでしまいます。この本から知り得たフロイドの行状を考えれば、芸術家が自分の身勝手さを正当化している、というふうに読めてしまうのですが、一方で虚心に彼の絵を見れば、極度の集中力を要する彼の描写は、このような独特の覚悟のなかでなされてきたのだ、というふうにも解釈できます。「描き手がその秘密を関知する際の密度の高さ」という一節など、ふぬけた作品しか描いていない画家であれば、「密度の高さ」とはいったい何のことですか?と問われてしまいます。しかし、フロイドは自分の作品が「絵を眺める人間すべてに対してひとつの秘密」を開示している、という自信があったのでしょう。この文章を書いて50年の後にも、まったくこの通りだというのですから、その間彼はその覚悟を守って絵を描き続けてきたのでしょう。
それから興味深い言葉として、次の一節があります。

生命を表象することを拒否してみずからの言語を純粋に抽象的なフォルムに限定する描き手は、単なる美学的な感情より大きなものを揺り動かす可能性を捨ててしまっている。
(資料)

これは具象画家としてのフロイドの、当たり前の言葉なのかもしれません。彼がこの文章でしきりに語るのは、描き手と対象との緊張関係であり、それをどう感受し、どう表現するのか、という問題なのです。絵画を対象から切り離し、純粋に美学的な追究を試みることは、彼にとってもっとも重要な問題を置き去りにしてしまうことを意味したのでしょう。視野が狭い、と言ってしまえばそれまでですが、そんな批判など気にせずに、きわめて正直に書かれた文章なのだと思います。そもそも私は、フロイドに絵画全般に関する指針を求めるつもりはありませんし、彼の個性的な表現がどのようにして生まれてきたのか、その手がかりを率直な言葉で示してくれればそれでよいので、その意味でこのエッセイはよくできた文章だと思います。
この文章の後半は、ほとんど描き手と対象とのやりとりに関して書かれています。「対象は常に、この上なく精密な観察のもとに置かれなければならない」と書く一方で、「絵は独立の存在としてそこにあるのだから、その絵がモデルを忠実に模写したものであるかどうかは全く重要でないのである」とも書いていて、禅問答のような面白さがあります。そうして到達した地点は、何やら神秘的な気配すら漂う場所のようです。

人やモノが放つオーラは、それらの肉体と同じくらいそれらの一部である。人やモノが空間内に及ぼす効果は、そららが持っている色や匂いと同じくらいそれらと一体である。ふたりの異なった人物が空間内で発揮する効果は、蝋燭と電球の効果と同じくらい、対象を取り囲む空気にも関心を払わねばならない。自分の絵に発散してほしいと願う感情を描き手がキャンバスに記録することができるのは、観察を通じて、空気を知覚することに通じてなのである。
(資料)

ここまで書かれると、もしもあなたが抽象画家であったとしても、あるいは絵画から離れて何か表現している方であったとしても、簡単には捨て置けない意見として耳を傾けてしまうのではないでしょうか。美術表現に関わる者であるならば、「人やモノが空間内に及ぼす効果」について鈍感ではいられないし、その表現手段が絵画でなかったとしても、フロイドの言葉を自分の表現手段に置き換えて読むことが可能です。そしてフロイドが強調するのは、その表現のプロセスの重要さです。この文章は、次のように結ばれています。

そのため、描き手にとっては、創造のプロセスがおそらく絵そのものより必要になる。実のところ、絵を描くことを習慣にさせるのはこのプロセスなのだ。
(資料)

現代美術において、結果よりもプロセスを重んじる表現が多々あることは、ご存知の通りです。それらがときとして薄っぺらなパフォーマンスやコンセプトの提示で終わってしまう危険性があることも、私たちは経験済みです。しかしフロイドの場合、「描き手がその秘密を関知する際の密度の高さ」が重要であったわけですから、そのプロセスが浅はかなものであることが、許されるはずがありません。そして、このようなプロセスに関する認識が、フロイドを単なる具象画家とは一線を画する画家にしている理由なのではないか、と私は考えます。視覚的に精緻に描いたり、あるいはモチーフに現代的な味付けをしたり、一風変わったシュールな雰囲気を醸し出したり、という具象画家はいくらでもいます。しかしフロイドの場合、対象の認識の仕方、その表現のプロセスについて、現代美術の知見をいかにも自然に吸収し、咀嚼しているように思います。彼がどのようにしてそれを学んだのか、この本を読む限りでは、彼がそういうことを真面目に学んだようには感じられませんが、思い起こせば『今日のイギリス美術』で見た作家たちは、似たような雰囲気を持っていました。伝統的な絵画や彫刻の方法をまとっているようでいて、どこかでそれを突き抜けた個性や現代性を持っている・・・、逆に言うと現代美術でありながら、どこかで伝統に根ざした個性を感じさせる・・・、もしかしたら、イギリスの美術教育が自然とそういう作家を育てているのかもしれません。そうだとすると、うらやましい限りです。

さて、そのフロイドも、画家としての評価は友人のフランシス・ベーコンに先を越され、そうこうしているうちに80年代のポスト・モダニズム、現代風の表現主義に呑み込まれ、というふうに、なかなか正当に評価されないディレンマがあったようです。いまの私から見ると、それらの絵画と比較するとフロイドの作品の方が数倍、興味がわきます。ベーコンの作品はかなりの数を見てきた一方で、フロイドの作品はまだまだ見ている数が少ない、ということもありますが、もしも手元に作品を置いて長期間眺めることができたなら、フロイドの作品の方が新たな発見をもたらしてくれそうな気がします。
フロイドの作品をまとまって見る機会があると、うれしいですね。やはりこういう画家は、本物の作品が何よりも雄弁にその価値を語ってくれるのではないか、と思います。

最後に、この『ルシアン・フロイドとの朝食――描かれた人生』という本ですが、女性関係の事細かな記述にうんざりしたら、巻末の『描くことについてのいくつかの考え』を途中で読んでみるとよいですよ。丁寧な本の作り方をしているし、図版がもう少し多いとうれしいけれど、よくできた本だと思います。

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