平らな深み、緩やかな時間

77.未知の絵画を夢見ること、『オルセーのナビ派展』『北村周一展』『松浦延年展』

GWに入りましたが、今年も私は休みがありません。小中の教職員のブラックぶりが先日もニュースで話題になりましたが、高校教員の、特に高体連の仕事を請け負っている者にとって5月の連休は部活動のシーズンでもあり、あたり前のように休日に働いている方が多いのではないでしょうか。同業者の心身の健康を思うと、生徒のためだから仕方がない、という紋切り型では済まされない大きな問題だと思います。
さて、それはともかく、いくら忙しいとは言ってもこの気候のいい時期に展覧会に出かけたくなるのは当然のことです。最近は美術館も曜日によって夜まで開館しているので、こんなときには助かります。私が、時間をやりくりして訪れた展覧会が三つあります。

『オルセーのナビ派展』三菱一号館美術館
http://mimt.jp/nabis/
『北村周一展』武蔵野市立吉祥寺美術館
http://www.musashino-culture.or.jp/a_museum/exhibitioninfo/2017/02/post-149.html
『松浦延年展』ギャラリー現(Gallery GEN)
http://g-gen.main.jp/exhibition_top.html

内容的にあまり共通しない展覧会ですが、これらの美術館や画廊を訪れて感じたことを言葉で表すと次のようなものになります。
「未知の絵画を、夢見ること」
慌ただしい毎日の中でこれらの展覧会を見ると、未知の絵画をこの世にあらしめようとした、あるいはしている画家たちの夢を共有している気分になって、日常の喧騒を忘れます。そんな気分をできれば多くの方たちに味わっていただきたいと思います。今回は、個別の展覧会についてじっくり語るほどの余裕も準備もないのですが、『松浦延年展』以外はまだ開催しているので、ぜひ実際に見ていただきたいと思い筆を執りました。少しずつではありますが、それぞれの展覧会の印象を綴っておきますので、最後まで読んでいただいて、できればご自身で足を運んでいただければ幸いです。

『オルセーのナビ派展』三菱一号館美術館 2月4日から5月21日
この展覧会では、まさに未知の絵画に触れようとした一枚の絵画が展示されています。
ポール・セリュジェ《タリスマン(護符)、愛の森を流れるアヴェン川》
この作品は「ポン=タヴェンでセリュジエ(Paul Sérusier, 1864-1927)がゴーガンの教えに従って描いた」と言われていることで有名です。風景の中で感じた色を、ためらわずに画面に置いていくように指導されたそうです。その指導が素晴らしいものであったことは、絵を見ればわかるでしょう。私はセリュジェの作品をそれほど数多く見たわけではありませんが、この絵よりも良い作品を見たことがありません。この画家は色彩も形体も、どちらかと言えばソフトな感触に仕上げてしまう傾向がありますが、この《タリスマン(護符)、愛の森を流れるアヴェン川》ではそのいずれもがシャープで、画面全体から緊張感が伝わってきます。おそらく、画家自身が作品の完成形をイメージしないままに描き進めたのでしょう。目前の風景から感じたままの色彩を画面に定着したような、研ぎ澄まされた感覚を感じます。この時のセリュジェは、ゴーガンの作品を通して夢見ていた未知の絵画を、いま自分自身が描いているのだ、という喜びを感じていたことでしょう。こんな瞬間は誰にでも訪れるものではないし、今では世界的に有名になったナビ派の画家たちにおいてさえ、稀なことであったでしょう。
私のかなり生意気な印象から言うと、ナビ派の画家たちは知的な秀才の集まりであって、それが良くも悪くも彼らの絵画を方向付けていたし、表現の限界も規定していたと思います。そのなかでボナール(Pierre Bonnard, 1867 - 1947)だけはナビ派の枠組みに収まらない、特別な個性と才能を持っていましたが、他の多くの画家たちの作品は、やや理論や観念が先行していたように感じます。一般的な見方からすれば、それが作品をつまらなくしていたというふうに言えるのですが、逆にナビ派の場合には、だからこそ彼らの作品は面白い、ともいえるのです。もしも彼らと同時代に生きていたら、彼らの未知の絵画を夢見るひたむきさに共感できたことでしょうし、「ナビ(予言者)」として自分たちを位置づけていたことも興味深いと思います。既成の表現の完成者であるよりも、未知の表現の予言者でありたい、という信条が彼らをどこに導いたのか、それは現在、同様の気持ちで表現しているすべての人たちにとって興味の対象となることでしょう。
それから、今回の展覧会ではオルセー美術館の名品が来日していることも、言っておかなくてはなりません。ボナールの大作を含め、堂々と彼らの代表作を並べたような展覧会です。例えば、ボナールの《ベッドでまどろむ女(ものうげな女)》ですが、展覧会全体のカラーからはみ出してしまうような、何とも強烈な造形性と官能性をあわせもった作品です。それから同じくボナールの大作《ブルジョワ家庭の午後》ですが、実は学生の頃、私はこの作品の模写を試みたことがありました。画面を大胆に水平、垂直に構成した作品の骨格を知ろうと思い、この作品を、白を基調にしたシンプルな画面に置き換えてみようとしたのです。すばらしい作品を目にすると、思わず真似をしてみたくなるところは昔から変わりません。それはともかくとしても、画集でよく見かけるこれらの作品の本物を、日本で見ることができるのはやはり貴重な機会だと思います。

『北村周一展』武蔵野市立吉祥寺美術館 4月8日から5月28日
北村の展覧会について、2015年にこのblogで書いたことがあります。このときは沼津市庄司美術館での大規模な個展でした。そして2年後に、やはりこのような大きな展覧会を開き、その間にも画廊での展覧会を開くなど、北村は精力的に制作と発表を続けています。当然のことながら、過去の作品はいずれかで発表され、見たことがあるものですが、今回の見どころは、やはり奥の部屋に立てかけられた新作群だと思います。《一歩手前のためのトリプティク》にみられるように、ゆるく張ったキャンバスにハウスペイントを用いるという試みをこのところ続けている北村ですが、そのキャンバスのゆるみが画面上のペイントに影響し、作品全体が一体化して、その手法の必然性がさらに高まっているように感じます。彼の作品の外観から、ミニマル・アートやアンフォルメル、カラーフィールドペインティングなどを想起することもできるでしょうが、木枠づくりから制作をはじめて、キャンバスを独自の方法で張り上げる北村の眼差しは、現代絵画の最前線を追うというよりは、絵画の成り立ちそのものを見つめなおす試みだといった方が正確でしょう。このような北村の歩みは、「未知の絵画を、夢見ること」という私の言葉、イメージと合致するのです。例えば、白い画面にさまざまなニュアンスを感じさせる新作の画面は、サム・フランシス(Sam Francis, 1923 - 1994)の初期の絵画「ホワイト・ペインティング」と似ていると言えるかもしれません。しかしサム・フランシスの絵画の後、シュポール/シュルファスなどの絵画制度を根本から問い直す動きを経験した現在において制作する北村の立ち位置は、サム・フランシスと同じではありえません。キャンバスのゆるみ、つまり絵画が生成する場所から独自の方法を試みる北村の姿勢が、端的にそのことを表しているでしょう。
さらに今後の北村の絵画は、どこへ向かうのでしょうか。現在を生きる画家と時代を共有することは、その未来を共有することでもあります。私には、北村の絵画の画面のゆるみ、その結果生じたしわの形が画面の内容にも影響していることに興味があります。この手法がさらに進められるのか、それともまた、違った方法が試みられるのか…。考えてみると、北村の作品が、キャンバスのゆるみによってこのように発展していくことを、私は数年前までまったく予想していませんでした。そのような驚きを今後とも見せてくれるのかもしれません。

『松浦延年展』ギャラリー現(Gallery GEN)4月24日から29日
もうひとつ、すでに終わってしまった展覧会ですが、松浦延年の個展について書いておきます。松浦の作品も、一見ミニマル・アートの作品のように見えます。しかし松浦の絵画の丹念に重ねられた絵の具の層は、北村とは違った角度から絵画の成り立ち、絵画の原点を見つめなおす試みなのだろうと思います。松浦の表現は徹底していて、絵の具の層が定着するまで画面を水平に保ちながら、時間をかけて制作していくのだそうです。彼の作品の独特の透明感は、速乾性の手軽な化学樹脂では得られないもので、それは近代以前の画家たちが自ら顔料を砕き、絵の具を練り合わせて独自の色を表現した営為を想い起こさせます。彼のアトリエで、ひっそりと横たわりながら表現を熟成させていく絵画たちは、わかりやすく言えば、古い酒蔵で寝かされている古酒のようでもあります。悪乗りをしてさらに例えて言えば、日本酒の味わいを超える日本酒、ワインを超えるワインは、日本酒やワインのなかから生まれてきます。絵画を超える絵画、未知の絵画も、絵画という表現をつきつめて考えることによって生まれてくるのに違いありません。ビデオアートや新規の素材によるインスタレーションなどの新たな表現形式は、それはそれで表現メディアとして成熟していくのでしょうが、そのことが絵画表現の限界を示すものではありません。もちろん、絵画というものをつきつめた結果、それがそれまでの絵画の素材とは異なるもので構成されていたとしても驚くことではありません。絵画というのは、もの(物質)であると同時に、私たちの中に共有されている概念でもあるからです。松浦延年の作品は、絵画を構成する絵の具の層というミクロな部分に焦点をあてながら、思わず凝視せざるを得ない表現の高みに達するということを示していて興味深いものです。今日も松浦のアトリエではひっそりと、未知の絵画を夢見ながら、何枚ものタブローが横たわっている、ということを想像してみましょう。それはなかなか楽しいことではありませんか?

東京の街の中の美術館や画廊に、外部の喧騒とはまったく異なった時間が流れていて、それが一世紀ほど前の未知の絵画を夢見た画家たちの体験した時間であったり、一枚の絵画が木枠を組み立てるところからはじまって、最後の絵の具やペイントの層を塗布されるところまでの時間であったりするのですが、その時間を共有することの素晴らしさをぜひ思い起こしてみてください。
人にはそれぞれ共感できる時間があると思います。それが著名な音楽家のコンサートを聴く時間であったり、サッカー・スタジアムでひいきのチームのゲームを見る時間であったり、とさまざまであろうと思いますが、それらと比べても絵画を見る時間の贅沢さは負けてはいない、と私は思います。私自身がもっと成長すれば、その時間はさらに貴重な時間になるはずで、そんな喜びを一人でも多くの人と共有したいと願っています。日々の生活で疲れ果てることもしばしばですが、これからもblogを続けていきます。なかなかアップできない時期もありますが、ときどき覗いていただけると幸いです。

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