平らな深み、緩やかな時間

390.絵画と眼差とのあいだに

東京・京橋の「ギャラリー檜」で7月22日(月)から7月27日(土)まで『Gallery HINOKI Art Fair ⅩⅩⅥ 』という展覧会が開催されます。
https://hinoki.main.jp/img2024-7/b-4.jpg

私は「e・F」のスペースに3点の小品を展示させていただく予定です。せっかくの機会なので、自分なりのテーマを持って制作した作品を見ていただこうと思い、準備を進めているところです。
そのテーマとして「絵画と眼差とのあいだに」という言葉を設定しました。
これは言うまでもなく、美術評論家の宮川淳(みやかわ あつし、1933 - 1977)さんの『紙片と眼差とのあいだに』(1974)という著作のタイトルをもじったものです。
「紙片」という言葉をもじるのなら、「絵画」ではなく「画面」とすべきところですが、いまどきの若い方だと「画面」と言えば絵画の画面ではなく、携帯電話やパソコンの画面を想起されることでしょう。そこであえて「絵画と眼差とのあいだに」とさせていただきました。

さて、『紙片と眼差とのあいだに』の初版が発行されたのは、今から50年前です。
いかにこの本が日本の美術評論上の名著とはいっても、私が中学生の時に出版された本ですから、若い方々には少し説明が必要でしょう。
まずは書店の紹介文を読んでみましょう。

《引用とは読むことなのだろうか、書くことなのだろうか》。引用について考えながら、近代的な意味における《芸術》と《主体》の概念を、そしてついには《われわれがそのなかで語りつづけてきた文脈そのもの》を問い直そうとする、著者の思考の極点。
https://museumshopkyoto.shop-pro.jp/?pid=155135496

この紹介から「引用」がテーマになっていると目星がつきますが、この本は芸術家や学者、評論家の言葉や文章を引用して抜書きし、その合間に宮川さんが短文をはさむ、という体裁になっています。どんな芸術家や学者が題材になっているのかといえば、目次を開くと次のような名前が並んでいます。

ルネ・マグリットの余白に
レヴィ=ストロースの余白に
スーザン・ソンダクの余白に
マルセル・デュシャンの余白に
《想像の美術館》の余白に
記号学の余白に
ジル・ドゥルーズの余白に

私がこの本をはじめて手に取ったのは大学生のときでした。
その当時は、ポストモダンの喧騒のなかで、どうやら「記号学」が美術批評の最新のスキルだということはわかっていました。それなのに「記号学」に関する本は、やっと翻訳され始めたところで、この本はそれだけでも貴重なものでした。そして最後の章で取り上げられていた哲学者ドゥルーズ(Gilles Deleuze, 1925 - 1995)さんの著作は当時、ほとんど翻訳されていなかったと思います。その後、フェリックス・ガタリ(Pierre-Félix Guattari、1930 - 1992)さんとの共著が次々と翻訳されたのは、1980年代後半から1900年代になってからでした。
そして今でも、美術との関わりでこれらの思想家や記号学についてスリリングな論理を展開した本は稀だと思います。宮川淳さんは、亡くなって数十年経っても、唯一無二の思想家、批評家なのです。
さて、私はそんな状況でこの本と出会ったので、そもそも掲載されている文章が「引用」であるのかどうか、など当時はまったく気になりませんでした。引用元の文章も、あるいは引用されている思想家のこともよくわからないので、私にとってはどれも初めての出会い、もしくはそれに近いものでした。私にとって宮川さんの「引用」は、宮川さんによって書かれたもの、つまり「書くこと」と、ほぼ同一のものだったのです。

ところで、もしもあなたが、宮川さんの本をお読みになったことがなければ、なぜ彼が《引用とは読むことなのだろうか、書くことなのだろうか》ということにこだわったのか、何が問題なのかわからないかもしれませんね。
例えば、あなたが一枚の絵を描いたとします。その作品のどこまでが、あなたの創造したもの、つまりオリジナルなものだと言えるでしょうか?その絵の中の技法、例えば陰影による立体表現や遠近法による奥行きの表現などはあなたが考えたものではありません。先人たちの作品から学んだものですよね?その作品が具体的な先人の作品を真似たものでなくても、厳密にはすべてがオリジナルなものだとは、なかなか言えないものです。
ところが、19世紀の終わりから20世紀にかけて、モダニズムの発展とともに新たな改革、革新に価値観を置く思想が広がりました。芸術においても、新しい「〜主義」、「〜イズム」と呼ばれる作品が、これまでにないスピードで広がるようになりました。「印象主義」、「キュビスム」、「シュルレアリスム」、「ミニマリズム」など数え上げればキリが無いほどです。モダニズムにおいては、先人たちの伝統を断ち切ることが重要だったのです。新たな「創造性」こそが重要であり、極端なことを言えば、作品の良し悪しは二の次でした。
しかし、例えば構造主義と呼ばれた思想などが現れて、単に古いもの、新しいもの、という価値観ではなくて、それらがどのような構造によって成り立っているのか、ということに注目し始めたのです。これを芸術において考えると、そもそも古いとか、新しいとか、簡単に線が引けるものなのか、という疑問が湧いてきます。どんなに革新的だとか、創造的だとか言っても、そこには先人たちから引き継いだものが残っているのではないか、ということなのです。
そして、そういうしがらみが一切ないように見える「ミニマリズム」の作品でさえ、それを「芸術作品」だと見なす「芸術」という制度にとらわれているのではないか、と宮川さんは言っているのです。

その程度のことを予備知識として持った上で、《引用とは読むことなのだろうか、書くことなのだろうか》という問いを考えてみましょう。
私たちは、誰かの書いた文章を引用して書き写した時、その行為を「創造的」だとは思いません。それは誰かの文章であって、私たちが書いたものではないからです。
しかし、私たちはなぜその文章を「引用」したくなったのでしょうか?おそらく、私たちはその文章を読んで、自分なりに読解し、その解釈を他の人に知らせたくなったのです。私たちの読みは、もしかしたら他の人とは少し違っているのかもしれない、という思いがそこにあるのです。
もしも私たちが、独自の読解でその文章の可能性を押し広げたのだとしたら、そしてその私たちの「読解」を「引用」という行為によって他の人に知らしめたとしたら、それは「創造」的な行為だと言ってよいのではないでしょうか?
宮川さんのこの本は、まさにそのことを問題としているのです。
《引用とは読むことなのだろうか、書くことなのだろうか》という問いの中には、一般的に「読む」は受動的な行為で、「書く」は能動的な行為で、何かを創造するのは能動的な「書く」行為に他ならない、と解釈されていることが含まれています。
しかしこの本は、先ほども書いたように、それぞれの章の作家や哲学者の言葉や著作の文章を細切れに引用し、宮川さんがそのあいだに読者の思考を促すような短文を挟み込む、という体裁で書かれた本です。その結果、引用文の連続が、書き下ろしのオリジナルの文章を読むことよりも創造的な思考を促すことに成功しているのです。これはもはや、「引用」は他者の文章を書き写すという受動的な行為ではなくて、もっと能動的な「創造」行為ではないか、というふうに考えられるのです。
この「引用」に関する考え方、つまり他者の文章を新たな解釈で読み込むことがいかに創造的で喜ばしいことか、それを示唆する文章を、宮川さんはこの本のはじめに引用して書き写しています。フランスの詩人ステファヌ・マラルメ(Stéphane Mallarmé, 1842 - 1898)さんの興味深い言葉を引用しているのです。
それを読んでみましょう。

沈黙、それは韻のあとに残された唯一の贅沢、オーケストラといえども、その黄金、その想いと夕べとの衣ずれによって、さながら黙したオードのような、この沈黙の意味を細描するにすぎないからだし、詩人こそは、このひとつの挑戦にうながされて、それを翻訳すべきなのだ!
<中略>
驚異なのは、まったく口に出されない文による感情の記述というつくりごとに伴ってーこの場合に限っては、おそらく、真正なやり方で、紙片と眼差とのあいだにひとつの沈黙が領しているということだ。読書の条件かつ愉悦たる沈黙が。
(『紙片と眼差とのあいだに』宮川淳/マラルメ)

難しい語句をおさえておきましょう。「黙したオード」の「オード」とは何でしょうか?辞書で調べてみましょう。

オード(ode)
1 崇高な主題を、多く人や事物などに呼びかける形式で歌う、自由形式の叙情詩。頌歌(しょうか)。頌賦(しょうふ)。
2 古代ギリシャ劇で、合唱するために作られた詩歌
https://kotobank.jp/word/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%89-40697

マラルメさんの言葉では、歌うことを前提とした詩歌(オード)があえて「黙し」ている、と書かれていますし、また音楽を演奏するはずのオーケストラが「沈黙」を「細描するに過ぎない」と書かれていますので、すべてが逆説的です。マラルメさんは、例えば音楽においては音の鳴っていない時間、音と音の間の時間が重要な意味を担い、その「沈黙」の時間こそが贅沢なのだ、と言っているのです。
難しい言葉ですが、わかるような気がします。
そして書物(本)においても、書かれた文字の意味よりも、書かれなかった文章こそが大切なものなのかもしれません。詩人は、その「沈黙」の言葉こそ「翻訳すべきなのだ!」とマラルメさんは言っているのです。「行間を読む」という言い方がありますが、本当に大切なものは書かれた文字の意味の中にあるのではなくて、ページの余白に書かれているのかもしれません。
「読書の条件かつ愉悦たる沈黙」は、文字が書かれた書物の「紙片」とそれを読む「眼差」との「あいだ」に存在する、ということが最後に書かれていますが、このマラルメさんの言葉が、宮川さんの本のタイトル『紙片と眼差とのあいだに』となっているのです。

その宮川さんは、このマラルメさんの言葉から示唆されたことを記号学として応用し、現代美術の文脈に当てはめて次のような認識に至ります。

作品から一切の超越的な意味が除き去られ、作品は単なる物体に近づく。そのとき、では芸術は《それ自体以外のなにものも意味しない物体》にまで還元されたのだろうか。しかし、ミニマル・アートの逆説はつぎの事実にあるように思われるーそのとき、《それ自体以外のなにものも意味しない》この物体それ自体が、というよりはむしろ、それ自体以外のなにものも意味しないという事実そのものがひとつの意味を示すこと、まさしく《芸術》という意味を。
(『紙片と眼差とのあいだに』「記号学の余白に」宮川淳)

これは、先ほど私が要約した通りのことです。
そして、このような認識を徹底すると、「芸術」はしょせん、「物体(作品)」と「眼差」とのあいだに生じる概念(制度)にすぎない、ということになってしまいます。私は学生時代に、この宮川さんの認識にずいぶん悩みました。なぜなら、どんなに苦心して作品を制作したとしても、それは「芸術」という「制度」の中の戯れにすぎない、ということになってしまうからです。
しかし、今では違う考え方を持っています。
このように「制度」ということを言い立てれば、人間の営為のどこをとっても、しょせん「制度」の中のことにすぎない、ということになってしまいます。それは一面的には「真実」ですが、それがすべてではありません。それに「芸術」の主な役割は、私たちの内面を豊かにすることです。貧しい現実を暴き出すことは、芸術の役割の一つに過ぎませんし、貧しい現実を突き詰めることによって、私たちが豊かな人間性取り戻すことをしなければ、芸術の価値は半減してしまいます。
考えてみると、宮川さんはあえてこの本のはじめに、マラルメさんの言葉を引用していました。その中で、マラルメさんが「愉悦たる沈黙」と書いていたことを思い出しましょう。「紙片」と「眼差」とのあいだにあるものは、豊かな「愉悦」でなければならないのです。
そして宮川さんは、次のようにも書いています。

作家もまた無から、あるいはただ自然に汲むことによって制作するのではないだろう。彼もまた、すでにこのシステムないしディスクールの中にいることによって作家になるのであり、彼の作品とはそれ自体、すでにひとつのテクストである。このテクスチュエルな関係もまたー創造/享受との対比においてーまさしく引用として捉えることができるだろう。テクストがテクストであるのはつねに他のテクストに送り届けるかぎりにおいてである。
《作品》を成立させる構造がつねに背後あるいは深さであり、シニフィエの超越的な先在性であったとすれば、テクストのそれはシニフィエの無限の送りとどけが織りなすテクスチャー、あるいは表面である。
(『紙片と眼差とのあいだに』「記号学の余白に」宮川淳)

この「記号学」が暴き出す「芸術」の真実は、芸術家が「無」から「有」を生み出す、という単純な創造理論では、もはや立ち行かなくなっていることを示唆しています。新たな改革、新しい「〜イズム」を創出することは、実はだいぶ前から商業主義による作品のレッテル貼りに堕してしまっていたのです。そうではなくて、芸術家はすでに「芸術」と呼ばれる豊かな世界の中にいて、彼の作り出すものは連綿と続く織物のようなものなのだ、ということなのです。
宮川さんは、偉大な先人たちのテクストの余白に自分の文章を織り込んでいますが、そのことが「シニフィエの無限の送りとどけが織りなすテクスチャー」となることを、私たちに示しているのです。
そこで私も、絵画において同様のことができないか、と考えました。
私の尊敬する作家たちの余白に何かを書き込むようにして、私なりのテクスチャーを芸術の世界に織り込むのです。


さて、ここまでの解説が長くなりました。
今回、私が試みた「絵画と眼差とのあいだに」について書いておきましょう。
まずは作品を見てください。
http://ishimura.html.xdomain.jp/work/202407Art%20Fair.html

ここから、3点の作品について、一つ一つに込めた思い、考え方を書いておきます。


「ド・スタールの余白に」
ド・スタール( Nicolas de Staël、1914 - 1955)さんは、私の大好きな画家です。国立近代美術館にも、小品ながら素晴らしい作品があります。
https://www.momat.go.jp/collection/o01220

ド・スタールさんは、若くして亡くなった画家ですが、その作風は短い活動期間の中でずいぶんと変わりました。どの時期の作品もそれぞれ面白いのですが、私はやはり初期の厚塗りの抽象絵画と、そこから具象絵画へと移っていく頃の作品が好きです。そこにはド・スタールさん独特の筆致、絵画の「触覚性」があるのです。
しかし、ド・スタールさんは、その触覚性よりも、「絵画」という表現形式を極めることに興味が移っていきました。もともと絵心のある人でしたから、厚塗りの表現を捨てて、晩年には、見たものすべてを絵画にするような、そんな即興的な薄塗りの作品を描き続けていきました。
私は、もしもド・スタールさんが筆致の「触覚性」を捨てなかったら、その絵画はどのような芸術に達したのだろうか、と想像しています。彼に長生きして欲しかったのはもちろんのことですが、彼が継続しなかった表現を探究してみたい、という思いがあるのです。そこで、次のような命題を考え、自分自身に課してみることにしました。
「天才画家であったド・スタールさんの絵画の触覚性を、凡庸な私が継続し、それを中期から後期のド・スタールさんのように具体的なモチーフにおいて表現したらどうなるのか」
私はド・スタールさんのような絵心がないので、作品の良し悪しは別にして、とにかく画面全部を触覚的なタッチで埋め尽くすことにしました。模様のあるプリント生地の上に描くので、筆致の隙間から見える空白の部分でさえ、プリント生地の色や形が何かを主張するはずです。
そして、いつもの私の作品のように、「触覚性」を強調するためにさまざまな素材をコラージュすることにしました。少々、息苦しい構成になりましたが、もともと心地よい作品を目指していないので、ぎっちり詰まった緊張感を感じていただければ幸いです。


「マティスの余白に」
巨匠のマティス( Henri Matisse, 1869 - 1954)さんについては、説明不要でしょう。先日も、彼のデッサンについて書いたばかりです。
https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/c4266684a288df1e0d8f6f04fbad8215

私は、マティスさんのデッサンについて、その線描ばかりでなく、線を取り巻く空間についても、そのぼかし方に感心しました。しかし凡庸な私には、マティスさんのように少しばかりのぼかしを入れるだけで空間を把握することなどできません。そこで私は、マティスさんの線の合間の空間にあたる部分に、色や形を施してみました。
その命題は次のようなものです。
「巨匠であったマティスさんが、線一本で表現した空白の空間を、凡庸な私が色や形をぎっちり詰め込んだらどのような表現になるのか」
具体的には、次のように描きました。
はじめに、かなり写実的に木の枝のある風景をデッサンしました。その枝と枝との隙間を意識するために、さまざまな色紙をコラージュし、また色鉛筆で塗りつぶしてみました。しかし、それでは当然のことながら、隙間が隙間でなくなってしまいます。できればそれは隙間の空間でありつつ、触覚的な表現であって欲しいのです。
そこで、コラージュしたり、色で塗りつぶした空間の上から白い絵の具を塗って、それを空白の空間に戻してみました。しかし、それでは物足りなくて、その上から再び色紙を貼りました。そして、これはまずいと思って再び白く塗り・・、ということを繰り返しているうちに、マティスのデッサンからはかけ離れた作品になってしまいました。
それでも白い絵の具に複雑な響きが加わり、それなりに面白い作品になったと思います。
これはもう少し、探究してみたい方法論になりました。

「ジャコメッティの余白に」
アルベルト・ジャコメッティ(Alberto Giacometti、1901 - 1966)さんは彫刻家ですが、デッサンや絵画にも優れた作品が多い人です。
https://hillslife.jp/art/2017/07/04/alberto-giacometti/

彼のデッサンの特徴の一つとして、周囲に枠が描き込まれているということがあります。ジャコメッティさんは、絵画の表現形式そのものを改革しようとした人ではありません。彼は形態表現そのものに興味があったので、絵画のあり方を革新しようとしたのではないのです。ですから、彼のデッサンには、絵画空間を周囲から区切るような枠が必要だったのです。絵画という枠があって、初めて彼は、描いたものの位置関係を把握することができたのです。
そしてジャコメッティさんも、ド・スタールさんと同様に、表現の中の触覚性を大切にした人です。しかし、ジャコメッティさんの場合は、先ほども書いたように絵画空間の奥行きの中で触覚的な位置を確定するように表現しました。そこが絵画を専門としたド・スタールさんとは違うところだと思います。ジャコメッティさんは、例えば人物を描くのであれば、その画像の中で一番、画家に近いところ、つまりモデルの鼻の突起をどのように表現したら良いのか、深く悩んだ人です。
しかし、画家である私は、絵画の平面性を意識しつつ、画面全体を触覚的な表現で満たそうと考えました。
そこで次のような命題を考えました。
「偉大な彫刻家であったジャコメッティさんが、奥行きのある絵画空間の中で描いた触覚的な表現を、凡庸な私が絵画空間の平面性を意識しつつ、画面全体にわたって触覚的に描いてみたらどのような表現になるのか」
それで私は、とにかく一旦、写実的に風景を描いてみました。そして中心となる樹はもちろんのこと、枝の一つ一つ、その合間の空間の一つ一つを指で撫ぜるように描いてみました。そうすると、画面全体が黒ずんできましたが、マティスさんの時と同様に、隙間の空間は隙間の空間として、触覚的に表現したかったのです。それで消しゴムで空白の空間に戻すのですが、それでは触覚性が失われてしまいます。慌てて描き足し、それで黒くなっては消し、ということの繰り返しになってしまいました。
それはそれで楽しかったのですが、キリの良さそうなところで鉛筆を置きました。
しかし、もっと徹底して描き続けてみても良かったかな、とも思っています。
次回は、もっと、形がわからなくなるくらいまで描き続けてみましょう。


今回の試みは以上です。
しかし、もう少し、同様のことをいろいろとやってみたくなりました。
マティスさんの余白に、おまえごときが何を描き加えるのか、と叱られそうですが、どんなに偉大な先人であっても、その芸術は後の世の人から見れば乗り越えられるためにあるのです。そんなことを考えながら、引き続き取り組んでみます。
機会があれば、またご覧ください。
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最近の「日記」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事