平らな深み、緩やかな時間

179.小田原ビエンナーレ閉幕、ヘミングウェイとパリの街

小田原ビエンナーレの最後の期間が終わります。昨日、何とか飛び込みで全ての会場を回りました。以下、見てまわった順番に一言だけ記しておきます。
http://ishimura.html.xdomain.jp/text/%E5%B0%8F%E7%94%B0%E5%8E%9F%E3%83%93%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%AC2021%E6%A1%88%E5%86%853.pdf

◉ギャラリーNEW新九郎
伊藤純子さんの作品は、壁面に連作形式の作品が並べられていますが、よく見ると全ての作品に規則的な共通のドットが打ってあって、その目盛りを基準にした曲線によって花びらのような形が形成されています。彩色は味わいのある滲むような色彩で、それが規則的な形に有機的な息吹を与えていました。
古藤典子さんの作品も、連作形式の作品が壁に掲示されていますが、共通する構成が見られる一方で、個別の形象の変化もあり、それが微妙に交錯した作品群です。すべて鉛筆による単色の作品ですが、これもよく見ると鉛筆のタッチの方向性に変化があって、一見すると白か黒か、という単純な作品に見えますが、実は多様性を含んだ作品なのだということが分かります。
柳川貴司さんの作品は、大きな丸太を切り分けていって、それを並べた作品です。彫刻作品というと、素材の木を加工して別なものに仕立てていくもの、というイメージを持ちますが、柳川さんの作品は、加工されたことによって、かえってもとの丸太の形状や素材感が強調されるような構造になっています。
彼らの作品を見ていると、かつて現代美術の領域で大きな課題であったこと、それは個人の内面の創造性をいかに鑑賞者と共有できるものにするのか、ということですが、それを普遍的な課題として背負い、誠実に表現してきた人たちなのだ、ということがすぐに分かりました。いまどきの美術雑誌を見れば、個人的な趣味の表出合戦のような作品が並び、それに「いいね!」マークがたくさんつけばOKというような風潮を感じます。しかし芸術作品の良し悪しには、刹那的な個人の感覚の共鳴以上のものがあるはずだ、という理念があったのに、モダニズムの衰退とともにこうした真摯な理念も退潮してしまいました。この3人の作家たちを見ると、彼らが紙や木材という素材と向き合った時から、そこに制作すべき必然性を見出しているような気がします。そして彼らは作品の構造的なところから鑑賞者にアプローチしているので、感覚だけに頼った作品とはまったく別の次元の説得力を感じるのです。

◉巨欅の居(おおけやきのいえ)
堂免修さんの作品は明度の低い色を基調としながら、その中でマチエールの変化を活用して独特な絵画のイリュージョンを形成しています。
山口俊朗さんの作品も、明度の低い色を限定的に使いながら、テープを用いた独自のテクスチャーによってオールオーヴァーな絵画を表現しています。
二人の作品の色調が似ているだけに、その表面の手触りや絵画的な構造の違いが浮かび上がってきて、その両者の相違を興味深く感じました。
それにしても、ギャラリーNEW新九郎の3人といい、この2人の展示といい、企画した飯室さんの的確な手腕を感じます。

◉回廊「瞬(とき)」
清水洋子さんの充実した版画作品が並んでいましたが、昔風の家屋の中に展示されていたので、はじめは和紙に手書きで描かれた書道の作品のように見えました。しかしリトグラフでなければ出来ない表現がすぐに見えてきて、和紙とは異なる洋紙の質感も心地よかったです。このような作品はモダンな壁面のギャラリーで距離をおいて見るのも良いのですが、板の間の部屋で額の装いもなく、紙の手触りを感じながら見るのも良いですね。作家の力量を肌で感じることができました。

◉アオキ画廊
中島けいきょうさんの作品は、椅子に座った人を正面から写したたくさん写真と、人が不在の一脚の椅子とが並んだ作品です。椅子に座った人の姿を見ると、何となく「表現の不自由展」の少女像を思い浮かべてしまいますが、あのように特別な意味を付与されてしまった像に比べると、これらの写真の人たちは何と自由で健全なことでしょうか。これらの写真から、私たちは勝手なことを想像すればいいのです。
鵜澤明民さんの作品を、私は久しぶりに見ました。以前の絵画作品と比べると、今回の有刺鉄線やアクリル板を使った作品は随分と素材に変化がありますが、鵜澤さんの基本的な姿勢は変わっていないように感じました。どんな素材を使っても、これらの作品は絵画的に見えるのです。
飯室哲也さんの作品は、逆に平面でありながらインスタレーション的な作品です。以前の小田原ビエンナーレで飯室さんのインスタレーション作品を見ましたが、あのような伸び伸びとした作品を、また見てみたいと思いました。

これらの会場を巡るのに、私は土地勘がないので、結構苦労しました。「巨欅の居」と「回廊/瞬」は街の画廊とは違ったスペースで、たどり着くまでが大変でしたが、中に入ってからの驚きもあって、見てよかったです。こういう楽しみが、手作りのビエンナーレを見る醍醐味なのかもしれません。企画者の飯室さんのネットワークの広さに感服しました。
そして、少しだけ昔のことを思い出しました。若い頃はこんなふうに、手に地図を持って、知らない画廊に飛び込んでみたものでした。新橋から始めて銀座、京橋へと歩いて、そのあとは神田界隈の画廊を回って、最後は行きつけのギャラリーで作家と話し込んで、画廊が閉まってからも安い日本酒で酔っ払って・・・、ということがよくありました。今ではネットで調べれば大抵のことがわかってしまうから、誰もが興味のある展覧会だけを狙って行くのだろうと思います。しかし、本物の作品との意外な出会いというものも、やはり大事にしたいものです。
そうは言っても、なかなか忙しくてうまくいきませんよね。学生の方から私のような年寄りまで、とにかく昔に比べるとみんな時間に管理されてしまっているようで、エンデ(Michael Andreas Helmuth Ende, 1929 - 1995)の『モモ』ではないけれど、確実に「時間泥棒」の支配が進んでいる気がします。手遅れにならないうちに、何とか逆襲したいものです。


さて、今回はヘミングウェイ(Ernest Miller Hemingway、1899 - 1961)とパリの街について、少しだけ触れてみたいと思います。
小田原ビエンナーレの会場での雑談から、芸術家の集うパリの街へとイメージが膨らみ、サンジェルマン・デ・プレの記録映像やジャコメッティが徘徊したモンパルナスのカフェの話を以前に書きました。その時に、サンジェルマン・デ・プレとモンパルナスでは、どのように雰囲気が違うのかな、と思ってGoogleで検索してみたところ、次のような比較ができました。

<サンジェルマン デ プレ>
シックなサンジェルマン デ プレ地区には、洗練されたショップ、レストラン、そしてパリで最古の教会として知られる中世のサンジェルマン デ プレ教会があります。ギャラリーが並ぶ通りに、印象派の芸術で有名なオルセー美術館もあります。セーヌ川沿いの歩道の書店で古い本が売られています。サンジェルマン大通りには、ヘミングウェイをはじめとする作家が通った Flore など、文学ファンを魅了する有名なカフェがあります。

<モンパルナス>
にぎやかなモンパルナス地区は、チェーン店やクレープ専門店のほか、かつてヘミングウェイを始めとする作家が多く通った歴史のあるビストロで知られています。ジャン ポール サルトルが埋葬されているモンパルナス墓地や、旧採石場のトンネルに多数の遺骨を納めたパリのカタコンベもこのエリアにあります。多くの彫刻が展示されているブールデル美術館や、第二次世界大戦をテーマにしたルクレール将軍記念館など、美術館もいくつもあります。超高層ビルのトゥール モンパルナスからは、パリの景色を 360 度見渡せます。

サンジェルマン・デ・プレは洗練された文化的な街で、一方のモンパルナスは20世紀初頭から、貧乏な画家たちの集うところとして有名でした。セーヌ川沿いのサンジェルマン・デ・プレと、少し離れた庶民的なモンパルナスという棲み分けができていたのかもしれません。
ところで、その両方の街に顔を出していたお調子者がいますね、それがヘミングウェイなのです。私はヘミングウェイの熱心な読者ではありませんが、彼の長編では若い頃の『日はまた昇る』が最も面白いと思います。後年の代表作と言われる『老人と海』はノーベル文学賞受賞の際に高く評価された、という話を聞きますが、正直に言ってちょっと退屈ではありませんか?
ヘミングウェイはマッチョな行動派として尊敬されていたようですが、パリで徘徊していた頃(一応、記者として働いていたようです)が最も生き生きとしていたのではないか、と私は想像します。そして、ヘミングウェイのようにモンパルナスからサンジェルマン・デ・プレまで遊び歩いていた当時の文化人は、少なからずいたことでしょう。新潮文庫から出ている『日はまた昇る』を翻訳した高見浩(1941 - )が素晴らしい解説を付していますので、その中の当時のパリについて書かれた部分を引用してみます。

第一次大戦後、1920年代のパリには、世界中から多くのアーティストが集まっていた。ざっとあげただけでも、ジェイムズ・ジョイス、ピカソ、エズラ・パウンド、ガートルード・スタインら、そうそうたる名前がつづくし、それに加えて地元フランスのジッドやコクトー、ダダイストやシュールレアリストらも彼らと交流しながら活躍していたから、カルチェ・ラタンには自由な空気が横溢していた。まだまだ19世紀の旧弊な因習や道徳に縛られていた世界にあって、当時のパリは“精神の解放区”の様相を呈していたと言っていい。その雰囲気にあこがれて、アメリカから未来のアーティストを夢見る多くの若者たちがパリに渡った。禁酒法の成立した窮屈な祖国などには何の未練もなかったし、強いドルという力強い後ろ盾が彼らにはあった。ある程度まとまった金額のドルさえあれば、だれもが、本国よりずっと余裕のある暮らしをパリで楽しむことができたのである。なかには真剣に芸術家を志す者もいたが、彼らの大半は夜のモンパルナスの放恣な享楽に身を任せていた。
ガートルード・スタインが“自堕落な世代”と呼んだ彼ら20年代の祖国放棄者たちの存り様を『日はまた昇る』は実にヴィヴィッドにアメリカ文学史に刻みつけた、と言って、まずはかまうまい。
(『日はまた昇る』「解説」高見浩)

いろいろと興味深い固有名詞が出てくるので、ちょっと横道に逸れます。
文中に出てくるカルチェ・ラタンですが、サンジェルマンとモンパルナスに近い、セーヌ川沿いの地区のことで、ソルボンヌ大学などがある学生街として有名なところだそうです。ジブリの映画『コクリコ坂』で文化部の部室棟が「カルチェ・ラタン」という名前だったので、若い方はそちらの方で馴染みがあるのかもしれません。宮崎駿(1941 - )監督はフランスの作家、サン=テグジュペリ(Antoine Marie Jean-Baptiste Roger, comte de Saint-Exupéry、1900 - 1944)が大好きですし、フランスの自由な文化に憧れがあるのかもしれません。
ジェイムズ・ジョイス(James Augustine Aloysius Joyce、1882 – 1941)は、マルセル・プルースト( Valentin Louis Georges Eugène Marcel Proust, 1871 - 1922)と並んで20世紀の最も重要な作家の1人と評価されるアイルランド出身の小説家、詩人です。私の若い頃はプルーストの『失われた時を求めて』と、ジョイスの『ユリシーズ』が20世紀の最重要文学作品だと言われながら、全集版の高い本でしか入手できなくて、なかなか読むことができずに困りました。図書館で借りたところで、返却期限内で読めるような代物ではありません。それが今では文庫で入手できますし、翻訳の好みで選ぶことも可能です。若い方でジョイスの『ユリシーズ』がちょっと重たい方は、とりあえず短編集の『ダブリン市民』か『若き芸術家の肖像』を読んでみてはいかがでしょうか。
そしてガートルード・スタイン(Gertrude Stein、1874 - 1946)は、アメリカ合衆国の著作家、詩人、美術収集家ですが、ヘミングウェイを語る上では、最重要人物です。ピカソの描いた肖像画も有名です。いかにも、意志の強そうな女性ですね。
https://www.aflo.com/ja/contents/61615746
彼女は美術評論家の兄とともにパリで暮らし、彼女の開催するサロンには芸術家たちが集まっていたそうで、その影響力は絶大なものがありました。とりわけ彼女がヘミングウェイやスコット・フィッツジェラルド(Francis Scott Key Fitzgerald, 1896 - 1940)などの世代を「自堕落な世代(失われた世代/ロストジェネレーション/ Lost Generation)」と呼んだことは有名です。
彼女がこの言葉を使った経緯が興味深く、高見浩が『日はまた昇る』の「解説」の冒頭でその話を書いているので、少し端折りながら書き写しておきます。

まだパリのノートルダム・デ・シャン通りに住んでいて、カナダからもどってきた頃のことだった、とヘミングウェイ自身が書いているから、たぶん、1924年の出来事なのだろう。当時のヘミングウェイは文学上の師の一人、ガートルード・スタイン対する敬意をなお失っておらず、フルリュス通りにあった彼女の有名なサロンをたびたび訪れていた。
<中略>
彼はその日、スタインのお供をして、彼女の愛車T型フォードを預けてあるパリ郊外の自動車整備工場を訪れたらしい。そのフォードはイグニッションが故障していたのだが、修理にあたった若い整備工の技量が下手だったのか、それとも修理を後まわしにされていたのか、とにかくフォードの故障はまだ直っていなかった。スタインは整備工場の主に猛然と文句をつけた。すると整備工場の主は、若い整備工を厳しく叱責してから、こうー当然のことながらフランス語でー言ったというのだー“おまえたちはみんな、“une generation perdue(失われた世代)”だな”。
<中略>
ヘミングウェイの証言によれば、このおやじの言葉を聞いて、スタインが即座に反応したのだというー「そうだわ、あんたたちがそれよ。あんたたちがみんなそうだわ。あんたたち、こんどの戦争に参加した若い人たちはね」その整備工も、ヘミングウェイと同じく、6年ほど前に終結していた第一次大戦に参加した世代だったのである。スタインはそれから、工場主の言葉をそのまま英語に直訳して、こう言ったらしいー「あんたたちはみんな、“a lost generation”なのよ」
このときのスタインが、“a lost generation”という言葉に、なにがしかの文学的な意味合いをこめていたとは考えられない。彼女は工場主が言ったのとまったく同じ意味合いで、ヘミングウェイたちを“a lost generation”と呼んだのだ。
<中略>
その日、スタインと別れて妻と愛息の待つアパートに向かいながら、彼(ヘミングウェイ)の胸には、なにが“自堕落な世代”だ、というスタインに対する強い反発が渦巻いていたことだろう。そして彼はおそらく、こう自分に誓ったのではあるまいかーよし、じゃあいずれ、その“自堕落な世代”とやらの真面目を彼女に見せてやろうじゃないか。
事実、彼は同じ章(『移動祝祭日』の中の一節)の中で、はっきりと書いているのであるー“後日、最初の長編小説を書いたとき、ぼくはあの整備工場の主の言葉を援用したミス・スタインの発言を冒頭に掲げ、それと釣り合いをとるべく、伝道の書の一節を並べたのだった”と。
(『日はまた昇る』「解説」高見浩)

なるほど、それで『日はまた昇る』の冒頭に、「あなたたちはみんな、自堕落な世代なのよね」というスタインの言葉と、「世は去り世は来(きた)る 地は永久(とこしえ)に長存(たもつ)なり 日はまた昇り また入る・・・」という伝道の書の一節が並べてあるのですね。ぜひ一度、この本を手に取って確かめてみてください。
しかし、事実は物語よりも奇抜です。この整備工場のおやじの言葉が、ヘミングウェイばかりでなく、フィッツジェラルドまでを含めた世代を指し示す文学用語になってしまうのですから・・・。そして後世の人たちが“lost”の意味を「自堕落な」なのか、「失われてしまった」なのか、「喪失してしまった」なのか、などと考えることになるのです。
私は素人ながらに、“a lost generation”という言葉は、ヘミングウェイよりも、むしろ心の中に大きな空白を抱えていたフィッツジェラルドにこそ当てはまるのではないか、などと考えていました。フィッツジェラルドの傑作であり、アメリカ文学の宝でもある『グレート・ギャツビー』は、まさに空白を埋めようとした男の悲劇を描いた物語ではないか、と思います。しかしそんな妄想は、この事実の前にどこかへ蹴飛ばされてしまったわけです。

さて、それではヘミングウェイがどのようにパリを描いていたのか、その一場面を見てみましょう。画家で言えばデッサンのようなものですが、それは見事なものです。私たちはたちまちに、数ページをめくって小説の世界に入ってしまいます。

生暖かい春の宵だった。ロバートが先に帰ったあと、ぼくは“ナポリタン”のテラスのテーブルに残って、暮れなずむ街の景色を眺めていた。電光サインがともり、交差点の信号の赤と青がひときわ目だってくる。人々がそぞろ歩き、切れ目のないタクシーの流れのわきを、馬車がパカパカと通ってゆく。かと思うとプール(娼婦)が一人、ないし二人で組んで、夕食を奢ってくれるカモをつかまえようと、流している。可愛い女がテーブルの前を通りすぎた。見ていると、その女はしだいに遠ざかって姿を消してしまい、別の女に目を留めているところへ、またもどってくるのが見えた。もう一度テーブルの前を通りすぎるとき、目が合った。女は近寄ってきて、腰を降ろした。ウェイターがやってきた。
「で、何か飲む?」ぼくは訊いた。
「ペルノー」
「まだネンネの娘には毒だぜ、あれは」
「ネンネはそっちでしょ。ディビッド・ギャルソン、アン・ペルノー(ねぇ、ギャルソン、ペルノーを一つ)」
「ぼくもペルノーをもらおう」
「どういうこと?」女は訊いた。「パーティにでも繰り込もうってわけ?」
「そうとも。きみだってそうだろう?」
「わかんない。何が起こるかわかんないもの、この街じゃ」
「パリがいやなのかい?」
「そうね」
「だったら、どこか別のところに移りゃいいのに」
「別のところなんてないわよ」
「じゃあ、ここで満足してるんだ」
「ご冗談でしょう、だれがこんなところに!」
ペルノーとは薄い緑色の、アプサンまがいの酒だ。水を加えると乳白色に変わる。甘草のような味がして、いい気分になるのも早いが、あとで気分が落ち込むのも早い。腰を落ち着けて二人で飲んだのだが、女はムスッとした顔をしていた。
(『日はまた昇る』「第三章」ヘミングウェイ 高見浩訳)

これは春の夜に、主人公ジェイコブ(ジェイク)が娼婦のジョルジェットを拾う場面です。ジェイクはとびきり美しい女友達のブレットと愛し合っていますが、第一次大戦の負傷で不能になってしまったために、その関係を満たすことができません。ですから、娼婦を拾って自分の欲望を満たす必要などないのですが、寄ってきたジョルジェットを拒みもせずに、一緒に食事に連れ出します。その後、仲間と合流したジェイクは、ブレットとともにパーティーを抜け出し、結局のところジョルジェットを置き去りにしてしまうのですが・・・・。
そんな大して意味のない一幕なのですが、ジェイクを愛していながら満たされないブレットの心情や、彼女の魅力が周囲の男たちを惹きつけてしまう様子、ブレットとの関係をどうすることもできなジェイクの虚無感などが、短い会話の中で浮き彫りになっていくのです。
それにしても、こんなふうにゆきずりの娼婦と洒落た会話のできる街があるのでしょうか。それに、ほとんど説明的な描写がないのに、いつの間にか私たちはパリのカフェのテラスのテーブルで、タクシーやら馬車やらが行き交うのをながめ、そこをお客を探す女性たちが近づいては遠ざかっていくのを感じ取ってしまうのです。
この小説は金と時間に余裕のある「自堕落な世代」の物語なのかもしれませんが、そこに何か濃密な空間を感じます。それが第一次大戦後のパリという街の魅力なのか、それとも何かを表現したかった若きヘミングウェイの力だったのか・・・。
私はそのあたりのことを読み込むところまで至っていませんが、もう少し何かわかったら、また同じテーマで書いてみたいと思います。

とりあえず、今回は小田原ビエンナーレの最後の報告をしました。それと、ヘミングウェイ、ロスト・ジェネレーション、パリの街について簡単に触れてみました。それらの関係は、偶然のこととはいえ、何かとても魅力的ですね。

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