平らな深み、緩やかな時間

334.『街とその不確かな壁』村上春樹と物語の復権について

久しぶりに、村上春樹さんの新作を読みました。

最近はゆっくりと小説を読む機会がなくて、『騎士団長殺し』も読んでいません。いつか老後の楽しみに、と思っているのだけれど、もう老後ですね、そろそろ読んでおきたいところです。

この『街とその不確かな壁』も興味がありつつも読む暇がないかな、と思っていたら、学校の図書館の新しい司書の先生が、職員室に教員が手に取りそうな本を見繕っておいてくださって、その中にこの本があったのです。どうせ、すぐに誰かが持っていくだろう、と思っていたのですが、誰も手に取る気配がないので借りることにしました。司書の先生からは、私のねらい通りに借りてくださってありがとうございます、と感謝されました。若い女性から感謝されてうれしいような・・、でもちょっと複雑な気分でした。

図書館で本を借りると「早く返さなくちゃ」と重圧を感じるのが嫌なのですが、結局、この連休中にあっという間に読んでしまいました。文章が美しいのでゆっくり読みたかったのですが、後半になるとストーリーの展開がどうなるのか知りたくて、ついページをめくる手が早くなってしまったのです。

はじめに単純な感想を書いておくと、かなり良い本だと思いました。あとで少しだけ比較してみることになりますが、この『街とその不確かな壁』は、村上さんが若い頃に書いた『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(1985)と似た構造をしています。しかし、おそらく文学作品としては『街とその不確かな壁』の方が良いのではないか、と思います。

 

今回は、この小説をモチーフとして考察を進めたいのですが、文学作品について論じるとなると、私はまったくの門外漢です。ですから、これは『街とその不確かな壁』のあちらこちらをいじり回す文芸批評ではありません。文学作品について書く時には、常に私の美術や芸術に関する興味に引き寄せて論じることになります。それでは、ここで私は何を書きたいのでしょうか?

村上春樹さんという小説家は私よりも少し(11歳)上の世代です。そのため私の若い頃には、つねに先の世界を見せてくれる作家として、勝手に親しみを感じたものでした。例えば先ほどの『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』が出版された1980年代においては、その当時の世界の文学の趨勢、あるいは大袈裟に言えば世界の芸術の状況を感じさせる作家として、私は村上さんの本を読んでいました。こんなことを感じさせる小説を日本で書いていたのは、村上春樹さんと高橋源一郎さんぐらいだったのではないでしょうか?もちろん、勉強熱心で先鋭的な作家はたくさんいらっしゃったのでしょうが、素人目にはそんなふうに見えたのです。

そんなわけで、文学の専門家から見れば与太話(?)に近いような内容になりますが、とにかくそういう作家が、現在どういう小説(『街とその不確かな壁』)を書いたのか、という感想を最後に書いておきたいと思います。そして私のこの考察は、「物語」の「終焉」と「復権」という、1980年代のジャーナリズムが囃し立てたいささか大仰な話題を交えながら進んでいくことになります。

 

それでは、かんじんの『街とその不確かな壁』はどんな小説なのでしょうか?出版されてまだ数ヶ月の小説ですから、筋書きをあまり細かく書くわけにはいきません。まずは出版社の紹介文を引用しておきましょう。

 

十七歳と十六歳の夏の夕暮れ……川面を風が静かに吹き抜けていく。彼女の細い指は、私の指に何かをこっそり語りかける。何か大事な、言葉にはできないことを――高い壁と望楼、図書館の暗闇、きみの面影。自分の居場所はいったいどこにあるのだろう。<古い夢>が奥まった書庫でひもとかれ、呼び覚まされるように、封印された「物語」が静かに動き出す。

(『街とその不確かな壁』書店紹介文より)

 

さすがに、これだけでは何のことやらわからないですね。ちょっとだけ説明を加えます。

この小説は現実の世界と、壁に囲まれたイメージの中の世界が並行して進んでいく物語です。その現実の世界に生きる主人公は、若い日の恋人との不思議な別れにとらわれています。その思いのまま、独り身で中年になった主人公が、偶然、若い日に恋人と形づくったイメージの世界に入り込むのです。その世界では影を持たない人たちが壁に囲まれて暮らしていて、主人公は若い日のままの、そして記憶を持たない彼女と図書館で働くことになります。主人公の仕事は封印された他人の夢を読むことで、彼女は毎日、静かに主人公のためにお茶を入れ、仕事の手助けをしてくれます。ここまでが第一部です。

そのあとで、主人公はこの世界を脱出して現実に戻るのですが、現実に戻ったのが主人公そのものなのか、主人公の影なのか、判然としません。現実世界に戻った主人公は、書籍取次の仕事を辞めて、田舎の謎めいた図書館の館長になります。そこで主人公は小さなカフェを営む女性と知り合うことになるのですが、この女性との出会いが、この小説の救いになっていると私は思います。二人がこのあとどうなるのか、気になるところですが、それは示されないまま小説は終わってしまいます。主人公は、特異な能力をもった少年とともに、壁の世界に帰ってしまうからです。

小説の筋を追うのはこのあたりまでにしておきましょう。ちょっと内容を書きすぎたかもしれません。でも、村上さんが若い頃に書いた『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』との差異を感じ取っていただくには、この程度の予備知識が必要かな、と思ったのです。これを読んで興味を感じた方は、あるいはそうでない方も、私の下手な紹介文を読むぐらいなら、本物の小説を手に取って読んでみてください。

 

この小説の最後に、著者が自ら「あとがき」を書いています。村上さんにしては珍しいことですが、その中で村上さんはこの小説の成立の事情について書いています。これも詳しく書くのはまずいと思いますので、大雑把に二つのことを取り上げておきます。

一つめは、この小説は『街と、その不確かな壁』という1980年に書いた短編小説が原型となっているということです。この短編小説は、(村上さんがいうには)「生煮え」のまま世に出してしまったという後悔があり、雑誌で発表して以降、どこからも出版していないそうです。ですから、その雑誌を手に入れない限り、その短編小説を読むことはできません。

そして二つめですが、その小説のことが気になっていた村上さんは、どこかで大幅に書き直そうと思いつつ、うまくいかなかったところで、このモチーフを「二本立て」の物語にしようと思いついたのだそうです。その設定のままに書き進めたのが『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』という長編小説でした。この時、村上さんは36歳だったのですが、この小説はとても評価の高い作品となりました。私はこのあたりになると、ほぼリアルタイムで村上さんの小説を追いかけていましたが、大きな文学賞を受賞するなど、大変な話題になったことを憶えています。

それでも村上さんにとって、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』は『街と、その不確かな壁』の「書き直し」というのとは、何か違った感触があったようです。それでさらに、改めて「書き直し」の機会を待っていたのですが、2020年になってやっと書き直せるかもしれない、と感じたのだそうです。

 

これが「あとがき」から読み取った、大雑把な事情です。

短編小説を書いた時にはまだ31歳で、ジャズの店のマスターと小説家の兼業をしていた村上さんでしたが、書き直しを始めた時には71歳になっていました。『街とその不確かな壁』という小説を仕上げるには、それだけの年月が必要だったということでしょう。

先ほども書いたように、その短編小説と今回の長編小説を直接比較することはできませんが、『羊をめぐる冒険』(1982)を書き終え、『ノルウェーの森』(1987)で異様なブレークを果たす間に書かれた『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』と、今回の『街とその不確かな壁』を比較してみるのは、なかなか興味深いことだと思います。

それでは『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』は、どんな小説なのでしょうか?こちらも小説ですから、細かく筋書きを書くわけにはいかないので、書店による本の紹介を書き写しておきましょう。

 

高い壁に囲まれ、外界との接触がまるでない街で、そこに住む一角獣たちの頭骨から夢を読んで暮らす〈僕〉の物語、〔世界の終り〕。老科学者により意識の核に或る思考回路を組み込まれた〈私〉が、その回路に隠された秘密を巡って活躍する〔ハードボイルド・ワンダーランド〕。静寂な幻想世界と波瀾万丈の冒険活劇の二つの物語が同時進行して織りなす、村上春樹の不思議の国。

(『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』書店紹介文より)

 

こちらの紹介は、だいぶわかりやすいですね。現実の世界の主人公は、「ハードボイルド・ワンダーランド」と称するのにふさわしいミステリアスな事件に巻き込まれ、賑やかな冒険活劇を繰り広げます。その一方で、主人公の心の中の幻想的な世界である「世界の終わり」の中では、静寂ではあるけれど身近にひっそりと死が潜んでいて、心を失った人たちが穏やかに暮らしているのです。

先ほども書いたように、この小説を書いた頃の村上さんは、『羊をめぐる冒険』を発表して、本格的な長編小説の作家として活躍し始めた頃でした。いま読み直すと、「ハードボイルド・ワンダーランド」の描写が若々しく、さまざまなイメージや情報がにぎやかに盛り込まれています。主人公の日常的なエピソードが細々と描写されていますが、どこか日本離れした感じなのです。物語の筋書きとはあまり関係のないところで、次のような描写を引用してみます。

 

 注文した食べ物がやってくるまで、我々のあとからやってくる車に注意していたが、車は一台も入ってこなかった。もっとも誰かが真剣に尾行していたとしたら、彼らはおそらく同じ駐車場に入ってきたりはしないだろう。どこか目につかないところで、我々の車が出てくるのをじっと待ち受けているはずだ。私は見張るのをやめて運ばれてきたハンバーガーとポテトチップと高速道路のチケットくらいの大きさのレタスの葉をコーラと一緒に機械的に胃の奥に送りこんだ。太った娘は丁寧に時間をかけて、いとおしそうにチーズバーガーをかじり、フライド・ポテトをつまみ、ホット・チョコレートをすすった。

「フライド・ポテト少し食べる?」と娘が私に訊いた。 

「いらない」と私は言った。  

娘は皿にのったものをきれいにたいらげてしまうと、ホット・チョコレートの最後のひとくちを飲み、それから手の指についたケチャップとマスタードを舐め、紙ナプキンで指と口を拭った。はたで見ていてもとてもおいしそうだった。

(『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』村上春樹)

 

今から考えると、世間的にはバブルの時代を迎える頃だったので、村上さんのアメリカ的な冒険の世界は、その空気と同調しているように感じられたのかもしれません。しかしそんな世評よりも、この村上さんの変化は世界文学の趨勢、あるいは世界の芸術の変化に対して、敏感に反応したものだとも言えるのです。少なくとも、私にはそう感じました。

 

ここでこの時代が芸術表現にとってどういう時代であったのか、簡単に触れておきましょう。

村上さんが『羊をめぐる冒険』と『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を発表した1980年代は、ミニマリズムという芸術の分野における傾向が隆盛を極めていましたが、それが変わろうとしていた時期でした。この「ミニマリズム」について、このblogでは何回も話題にしてきましたが、あらためて基本的な説明を書き写しておきましょう。

 

ミニマリズム【minimalism】 の解説

1 「ミニマルアート」に同じ。

2 1980年代米国の文学の一傾向。日常生活を抑えた筆致で淡々と描いた短編が多い。

3 余分な飾りを完全に取ったシンプルな機能に徹したシルエットを特徴とするファッション。また、そういう考え方。

 

ミニマル・アート【minimal art】 の解説

1960年代に盛んになった造形芸術。芸術家の自己批判や芸術作品の非人称的外観、単純性を追究し、あらゆる装飾を取り払った「最小限の芸術」により自己表出を試みた。

(出典:デジタル大辞泉/小学館)

 

この説明でお分かりになりますか?

ミニマリズムは、モダニズムの「自己批判」の考え方を推し進めた結果、あらゆる装飾を取り払ったのちに、そこにあらゆる批判に耐えうるような芸術の核心が現れる、と考えた芸術的な傾向でした。その傾向は美術の分野が先行したらしく、完全に平坦な色面の絵画や工業製品の箱のような立体作品、いわゆるミニマル・アートの作品が1960年代から盛んに作られたのです。

https://media.thisisgallery.com/art_term/minimal-art

 

そして同じ旋律を繰り返すミニマル・ミュージックも、ミニマル・アートと同調するように現代音楽の分野に現れたのです。

https://youtu.be/gK46EKVYfNU

 

この時期は、何もかも「自己批判」しなければいけない、と考えられた時期でした。それまでの「芸術」は「終焉」し、それまでの「物語」も「終焉」しました。そして批評家やマスコミはこぞって「終焉」論を書き立てたのです。このことについては、このblogで何回も論じてきましたし、その正体も徹底的に暴いてきました。https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/c8bace79581bcc80f5f2c0100cd2c540

「芸術は終わった」と言いながら、それはまったくの他人事で、自分自身は少しも傷つかない批評家やマスコミの人たちを、私は心から軽蔑します。芸術に興味がないのなら、はじめから何も言わなければ良いのです。お金のために、話題を先取りしたいために、偉くなりたいために「終焉」を言い立てた人たちが、結局、芸術大学で職を得たり、マスコミで高い地位についたりしているのです。自己矛盾もいいところです。

文句を言うとキリがないので、話を進めます。

この「物語」の終焉は、他の芸術の分野においては比喩的な表現で済みましたが、文学となるとそうはいきません。文学の分野においては文字通り、大きな「物語の終焉」は小説としての物語性の終焉を意味しました。そこで生まれたのが、ミニマル文学です。

ミニマル文学については、上の「ミニマリズム」の説明にもある通り、「1980年代米国の文学の一傾向。日常生活を抑えた筆致で淡々と描いた短編が多い。」と書かれていますが、おおむねその通りです。しかし、「1980年代米国の文学の一傾向」とは言うものの、もちろん1980年代になって突然、そのような傾向の文学が書かれたわけではありません。他の芸術の分野と同様に、1960年代あたりからその傾向は始まっていたのです。すでにロマンチックな大きな物語は書かれなくなり、どこか諧謔的で自己批判的な物語が書かれるようになっていたと思います。カート・ヴォネガット・ジュニア(Kurt Vonnegut Jr.、1922 - 2007)さんの『スローターハウス5』(1969)は、一部の読書家や芸術家から高い評価を得た傑作小説です。まさにシニカルかつユーモラスで、さまざまな要素を盛り込んだ、分野不詳の不思議な物語です。

そして「日常生活を抑えた筆致で淡々と描いた」ミニマルな小説が書かれるようになり、その代表的な作家であるレイモンド・カーヴァー(Raymond Clevie Carver Jr.、1938 - 1988)さんが作品を発表し始めたのが、1976年の短編小説集『頼むから静かにしてくれ』からです。

もちろん、英米の文学に深く通じていた村上春樹さんが、ミニマリズムについて知らなかったはずがありません。彼の初期の作品は、物語とは言えないようなエピソードの積み重ねでしたし、彼の軽めの文章は、実は繰り返し読み返すのに耐えうるような、詩的なリズムを意識したものでしたが、それもミニマリズムの文章表現に影響を受けたものでしょう。『1973年のピンボール』(1980)という小説は、物語らしきもののない小説なのに、私は飽きずに繰り返し読んだものです。日本の小説で、ミニマリズムの良い影響を読むことができるのは、初期の村上さんと、先ほども書いたように高橋源一郎さんの小説ぐらいではなかったでしょうか?

しかし、私もそのような文学的な事情を把握していたわけではありません。私が、美術と同様に文学にもミニマリズムの流れがあったこと、その代表的な作家がカーヴァーさんであったこと、そしてカーヴァーさんの小説を翻訳していたのが村上さんであったこと、などを、その後でなんとなく知ったのでした。今のように、インターネットで便利にいろんなことを検索できる時代ではなかったので、そんなことを知らずに彼らの本を読んでいて、後からそういう影響関係がわかって腑に落ちた、という感じです。

こういうふうに芸術の最新の流れを把握するのは、意外と骨の折れることで、それは村上さん的に言えば、マラソン・ランナーが走りながら給水を受けるような感じではないかと思います。(私はマラソンを走ったことがありませんので、実感は湧きませんが・・。)

そのカーヴァーさんの小説はどんな感じなのか、と言えば、例えば『雉子』という小説を例にとってみたいと思います。売れない役者の男と、その男の面倒を見ていた年上の女が、長いドライブの途中で別れることになるのですが、その不穏な空気を象徴するように、車のヘッドランプに雉子が衝突してライトが壊れてしまいます。その劇的な場面をカーヴァーさんは淡々と描いています。

 

視野のすみに雉子の姿がうつったとき、彼はすぐにヘッドライトを消して車のスピードを落とした。雉子は低空を早いスピードで飛んでいて、その飛ぶ角度からするとちょうど車と衝突するのではないかと思われた。彼はブレーキに手をやり、それからスピードをあげ、ハンドルをぎゅっと強く握った。どすんという大きな音を立てて、鳥は左側のヘッドランプにぶつかった。そしてフロント・グラスに羽毛と一筋の糞のあとをつけてうしろにはねとばされていった。

(『雉子』レイモンド・カーヴァー著 村上春樹訳)

 

この描写では、ドライバーである男が、雉子を避けたかったのか、それとも意図的にぶつかったのか、判然としません。男の気分からすると、そのどっちでもあり得たのですが、カーヴァーさんはその曖昧な感じを淡々と、そして正確に描写したのです。

その当時、画廊に行くたびに目にしたミニマリズムの作品ですが、そうか、文学だとこういう表現になるのか、とこの時に私はミニマリズムという芸術の潮流の全体像が、はじめて分かったような気がしました。

こんなことを、誰に教えられるでもなく勉強していると、それまでは難解で意味不明だと思っていた高橋源一郎さんの小説が、少しずつ理解できるようになりました。高橋さんは、こういう現代文学の潮流の中にあって、日本で独自にミニマリズムを発展させたのではないか、と思い至ったのです。

高橋さんのデビュー作、『さよなら、ギャングたち』の一節を読んでみてください。

 

キャラウェイはわたしたちの宝物だった。  

わたしはキャラウェイについての詩を書いた。 

「3時間おきの授乳」や「ミルクをのんだあとのげっぷ」や「バーガーのレバーペースト」や「穴の大きさのちがう哺乳瓶」や「だんだん大人のようにくさくなってゆくうんこ」や「三種混合ワクチン」や「みにくくなったりかわいくなったりを周期的にくりかえしながらかわってゆく表情」や「40℃を厳密に守る風呂の温度」や「シッカロール・パウダー」や「桃の葉のクリーム」や「最初に生えてくる下側の2本の歯」や「両手を櫂のようにつかっていざってゆく早さ」について、わたしは書いた。うんこたれの天使が、早くおむつかえてようと、ぴーぴーのたまうまで、いつまでもわたしは詩を書いていた。

(『さよなら、ギャングたち』高橋源一郎)

 

一応、解説しておくと、「キャラウェイ」は「わたし」の子ども(赤ん坊)です。しかし、この子を産んだ女は、赤ん坊を「『緑の小指』ちゃん」だと言い張っています。だから、そもそもそんな筋書きはどうでもいいのです。私たちは、この小説のストーリーを追いかけることなどせずに、過激な現代詩の積み重ねのような小説をひたすら読めば良いのです。そんなわけのわからない小説のどこに価値があるのか?といえば、意味のない言葉の羅列にどこまで感覚的な強度を持たせることができるのか、ということにかかってくるのです。

これはミニマル文学の遥か以前、アイルランドの作家、ジェイムズ・ジョイス(James Augustine Aloysius Joyce、1882 – 1941)の『ユリシーズ』(1922)や『フィネガンズ・ウェイク』(1939)という小説で、すでに始まっていた傾向でした。ちなみに私の文学的な理解度では『ユリシーズ』はOKですが、『フィネガンズ・ウェイク』はだめです。そもそも原文で読めない語学力の低さで、すでにOUTだと思いますが・・・。

 

さて、こういうふうに大きな物語が喪失し、小説が難解になっていく中でしたが、やがて長編小説が復権します。

その時に登場したのが、ジョン・アーヴィング(John Winslow Irving、1942 - )さんでした。アーヴィングさんは大きな物語の復権を目指しましたが、それでもストーリーそのものはどことなく不思議なもので、現代における物語はこのように成立するものなのか、とその当時の私は感心したものでした。アーヴィングさんは『ガープの世界』(The World According to Garp、1978)、『ホテル・ニューハンプシャー』(The Hotel New Hampshire、1981)と1970年代の終わりから80年代にかけて、矢継ぎ早に話題作を発表し、どちらも映画化されて、ベスト・セラーにもなりました。

そのアーヴィングさんのデビュー作『熊を放つ』をいち早く翻訳したのが、村上春樹さんでした。村上さんは、『熊を放つ』の「訳者あとがき」で、次のようなことを書いています。

 

僕が最初に読んだジョン・アーヴィングの小説がこの『熊を放つ』である。正確な日付は忘れたけれど、たしか『風の歌を聴け』という小説を書いた(つまりデビューした)直後のことだったと思う。僕は友だちの結婚式に出席するため品川パシフィック・ホテルに行って、時間つぶしに売店でこの本を買い求め、ロビーの椅子に坐ってぼつぼつと読んでいるうちにすっかりひきずりこまれて、なんだか結婚式どころではなくなってしまったのである。

僕が『熊を放つ』を手にとったのは、ペーパーバックの裏表紙にカート・ヴォネガット・ジュニアの推薦文(「滅法面白い!」)が印刷されていたせいもあるのだが、結局この小説を読み終えたあとでは、アーヴィングの小説世界の存在感はヴォネガットのそれをいくぶん圧倒するようにさえなっていた。そういう意味ではーつまり存在感への指向という意味ではーアーヴィングは僕の小説の構築法にかなり影響を与えたということになるのかもしれない。要するに僕がアーヴィング氏の作品群から学んだのは(あるいは学ぼうとしたのは)文体の細部や状況設定やテーマやセミコロンの使い方ではなくて、その小説が総体として持つべき力(パワー)のようなものであった。読者を把握(グリップ)する能力と言っていいかもしれない。

(『熊を放つ』「訳者あとがき」村上春樹)

 

村上さんが『熊を放つ』を読んだのは、『風の歌を聴け』の発表直後ということですから、1979年ごろということでしょうか。ちなみに、アーヴィングさんが『熊を放つ』を書いたのは1968年のことのようです。ですから前回も書いたように、芸術運動の流れというのは、時系列につながっているのではなく、一部では物語の喪失が喧伝され、一部ではその復権が叫ばれていた、ということでしょう。

村上さんは、そういう世界文学の流れを原文で読みながら自分の中で吸収し、そして然るべき時期に吐き出していたのでしょう。『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』は、現代文学における「物語の復権」を目の当たりにしながら、書かれたものだと思います。いささか賑やかな「ハードボイルド」の世界の描写は、その影響があったからだろうと思います。

 

さて、そしてこの『街とその不確かな壁』ですが、村上さんがそのような若々しい喧騒や影響関係から離れ、老境に至って、自分の文学として書きたいように書いたものだと思います。もう今では、大きな物語を描くのに、それまでの旧套的な物語とは違いますよ!と大声で叫ぶ必要はありません。そして、そんな評価を気にする年齢でもないでしょう。(と言っても、そもそも村上さんは、若い頃から自分の文章の批評は読まない、と言っていましたが・・・。)

それに、ネット上の批評を読むと、この物語の不思議な部分、あるいは伏線かと思われた話が、最後まで解消しないことへの不満も散見されますが、それもどうでも良いことでしょう。安物のミステリー小説ではないのですから、謎解きは必要ないのです。物語の余韻をどのように引き受けるのか、それは読者が決めることです。

こういう読者の傾向には、過程をないがしろにして結果だけを求める現代社会の傾向が表れているようで、それが少し気になります。文章を楽しまずに、ダイジェストの物語だけを知りたいというような傾向もそれと重なります。あるいは、ネット上で早送りで映画を鑑賞して済ませてしまうようなことも、それと似ているのかもしれません。

作品の楽しみ方は人それぞれですし、ダイジェストや早送りだって、芸術作品をまったく鑑賞しないよりはマシだと思いますが、しかしそれでは芸術作品を本当の意味では楽しんだことにはならない、と私は思います。頑固な年寄りの愚痴みたいですが、現在のそういう傾向を、私はとても残念なことだと思っています。

 

そんなことが気になりますので、最後にこの『街とその不確かな壁』の、ラストの美しい文章だけでも書き写しておきたいと思います。これだけでは筋がわかりませんし、ネタバレにはならないでしょう。でも、この数行を読めば、この小説が若い頃の村上春樹さんの小説とどれほど違っているのか、ということがわかるはずです。

 

私は胸に大きく息を吸い込み、ひとつ間を置いた。その数秒の間に様々な情景が私の脳裏に次々に浮かんだ。あらゆる情景だ。私が大切にまもっていたすべての情景だ。その中には広大な海に降りしきる雨の光景も含まれていた。でも私はもう迷わなかった。迷いはない。おそらく。

私は目を閉じて体中の力をひとつに集め、一息でロウソクの炎を消した。

 

暗闇が降りた。それはなにより深く、どこまでも柔らかな暗闇だった。

(『街とその不確かな壁』村上春樹)

 

さまざまな時代の喧騒が、一人の作家を翻弄した時期もあったと思います。しかし現在において、村上春樹さんがこのような小説を書かれたことを、私は素直に喜びたいと思います。それに個人的なことですが、歳をとることも悪いことではないな、と力づけられたような気がしました。

そしてもちろん、若い方がお読みになっても面白いはずです。ぜひ原文に当たってみてください。

それから、この文章で引用した作家、作品もこの小説と同様に、もしもお読みでなかったら、ぜひ読んでみてください。今では、どれもスタンダードと言っても良い作品ばかりです。暑い夏ですが、こういう時は家で本を読みながら、心の冒険に出られたらいかがでしょうか。

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