平らな深み、緩やかな時間

336.ガウディ展 /ホックニー展/21+∞展

暑さと台風に翻弄された夏休みも、もうすぐ終わります。

私はほぼ毎日、雑務と部活動で職場に出勤していますが、課業期間中と違って比較的、時間を自由に使えるところが、やはり夏休みの良いところです。今のうちに少しでも展覧会を見ておこう、と一昨日は午後から休みをとって、知り合いの作家が出品している展覧会と『ガウディとサグラダ・ファミリア展 』(以下『ガウディ展』)、『デイヴィッド・ホックニー展』(以下『ホックニー展』)を続けて見に行きました。平日とはいえ、展覧会場は混雑していましたので、これからご覧になる方は、なるべく空いているタイミングを見計らった方が良いでしょう。さすがにヘトヘトになりましたが、充実した一日でした。

今回は、その簡単な報告です。展覧会の内容については、各ホームページをご覧になればわかりますので、私的な感想を中心に書いておきます。

 

その前に、私の知り合いが出品していた展覧会について、少しだけ書いておきます。

目黒区美術館・区民ギャラリーで今日(8/20)まで開催されている『21+♾️(プラス無限大)』という展覧会です。

https://www.tokyoartbeat.com/events/-/31st-21-Mugendai-Exhibition/81DBF2E0/2023-08-15

実力のある作家ばかりが21人揃って、充実した展示をしています。これだけの人たちが揃っているのなら、もう少し広いスペースで展示できるとさらによかったのですが、いろいろな事情があるのでしょう。そのかわり、展示は整理されていて、見やすいように工夫されています。

いわゆる現代美術の分野の展示になりますが、具象的な絵もあって、そのどれもが力のこもった作品です。したがって誰もが楽しめる内容となっています。抽象的な絵画も現代美術をよく勉強されている作家ばかりですので、安易な批判を許さない、質の高い作品が揃っています。

その中で、私がこのblogでも取り上げたことのある川西紗実さんの作品が、やはり異色です。今回は、針金や紐、ゴムらしきものなどを繋ぎ合わせて、容易にジャンル分けのできない作品を制作しています。

彫刻的な立体感を感じさせるもの、レリーフのような平面性を感じさせるもの、まとまった形状をまったく感じさせないわけのわからないもの、たった3点の作品なのに、どれも印象が違っていて、それがまた面白いのです。

例えばレリーフ状の作品を見ると、網の目のように素材が結びつけられ、それらが引っ張り合っていて、どこまでが作者の意図通りに造形されているのか、それすらもわかりません。作品の展示されている背景の壁には、作品の影が投影されていて、それが作品と一体化しているのですが、その効果もどこまで計算されているのでしょうか?

いろいろと疑問が浮かんできますが、そもそも作者に「造形物」を作ろうという意思があったのかどうか・・・、線状の素材を、ただただ夢中でむすび合わせようとしているだけのようにも見えます。

また、先ほど紹介したわけのわからない作品は、後でお話しするガウディさんの逆さ吊りの建築物とも似ています。(川西さんは『ガウディ展』をご覧になったでしょうか?)

このように、実力のある作家たちの作品の中で展示していると、川西さんの作品の不安定さが際立ちます。普通の作家は、安定して良い作品を作ろうとしますが、川西さんは今回の作品を見てもわかる通り、そもそも一点一点が違っていて不安定なのです。しかし、その作品ごとに向き合う姿勢が、川西さんの魅力です。これからも、川西さんには、この自然体の表現を続けていただきたいです。何よりも、作品を作るのが楽しそうなところが、見ていてうれしいです。



さて、それでは『ガウディ展』です。

展覧会の概要はこちらをご覧ください。

https://gaudi2023-24.jp/

大建築物の展覧会ですので、日本の会場でどれほどの展示ができるのか、と疑問に思う気持ちとともにでかけました。その心配は一部的中しましたが、予想外の収穫もありました。

ただ、いずれにしても展示会場が狭かったことはたいへんに残念です。とくに部屋から部屋へと移動する通路にあたるスペースは、数人がすれ違えば肩が当たってしまうほどの幅しかありません。日本の国立美術館が、ガウディ(Antoni Gaudí i Cornet、1852 - 1926)さんの巨大プロジェクトである「サグラダ・ファミリア」の展示をするというのに、これはちょっといただけません。コロナ禍での人数制限をしていてもこの状態ですから、そうでなかったらどうなっていたのでしょうか?人の移動に関わることばかりでなく、展示作品の間も十分でないため、明らかに鑑賞に差し支えていたと思います。これはぜひとも反省していただきたいです。

そういう根本的な難点はあったものの、ガウディさんの芸術を理解する上では、とても有意義な展覧会でした。私が知りたかったのは、ガウディさんがどのようにして独創的な創造力を身につけたのか、ということでした。もちろん、建築物は芸術表現の中でも、もっとも人手のかかるものです。彼が建てたとされるすべての建築物が、ガウディさん一人で作ったものではありません。しかし巨大な「サグラダ・ファミリア」でさえ、設計段階での発想からすでにガウディさんの世界観が示されていました。彼が亡くなったいまでも、彼が創造したものを基本として仕事が続けられているのです。ですから、やはりガウディさんの魔物のような創造力について、それがどのように形成されていったのか、知りたくなります。

今回の展覧会でガウディさんの創造力の秘密の一部が、解き明かされていたと思います。私がそのように思ったいくつかのことを、具体的に挙げておきたいと思います。

 

ガウディさんは個性的な建築家ですが、当然のことながら学生時代には西欧の建築技術を学びました。そのスケッチや設計図が今回の展覧会でも展示されています。精緻なスケッチで、細部にまで神経の行き届いた真面目な作品だと思います。その一部の装飾には、後年の有機的な形を取り込む特徴がすでに表れていたようです。「サグラダ・ファミリア」のような大きな建築物を設計したのですから、基礎的な勉強がしっかりと出来ていて当たり前ですが、彼の個性にばかり目を向けてしまうと、そのことを忘れてしまいそうですので、念の為に確認しておきます。

そのガウディさんの表現に、エキゾチックな要素が入り込んできます。その有機的な形や鮮やかなタイルを使った装飾などは、明らかにイスラム文化が影響しています。スペインはヨーロッパの南部に位置していますから、イスラムの文化圏とも近いから・・、と漠然と私は思っていましたが、実はガウディさんの生まれたカタルーニャ地方は、8世紀頃にイスラムによる支配を受けていたのです。

http://www.ajac.ne.jp/history1.html

この支配がどのようにカタルーニャ地方の文化に影響したのかわかりませんが、例えばカタルーニャの料理には「アフリカ、フランス、アラブの影響が及んでいる」と言われているそうです。

https://sukoruni.wine/blogs/wine-column/art-world-heritage-and-unique-land-catalan-culture-and-food

このような土地柄が、ガウディさんにイスラム的な造形や素材をもたらす大きな要因になったことでしょう。ただし、ガウディさんは、イスラムのタイルをそのまま使ったわけではないようです。彼の複雑な曲面や、ねじれをともなった造形を装飾するには、四角いタイルをそのまま使うわけにはいきません。ガウディさんは、タイルを細かく砕いて壁に埋め込む方法を考えました。この技法によって、彼の建築の表面は鮮やかで丈夫なタイルを使うことが可能になり、「サグラダ・ファミリア」にもそれが応用されたのです。

そのガウディさんの造形を見ていて、いつも不思議に思っていたのは、これだけの曲面を自由に使っているのに、建築としては安定して見えて、なおかつ、それらの形がどこかしら普遍的な感じがするのです。曲がった形というのは、思いつきで使うと何となくだらしなく、とりとめのないものになりがちです。ところがガウディさんの造形の場合には、「けじめ」というか、「しまり」というか、そういう規律的なものを感じるのです。それはなぜでしょうか?

今回の展示で、ガウディさんが科学的で合理的な知見を重んじる人だったということがわかりました。彼は幾何学的な造形を重視し、また重力の法則をきわめてユニークな形で応用したのです。

その幾何学的な造形ですが、彼は意外なことに直線を基本として一つ一つの形を考えたのだそうです。ただし、例えば一本の柱を作るのに、ガウディさんは上と下とでわずかに形をねじったので、基本的には数本の直線の組み合わせなのに、線と線との間に複雑な曲面が表れたのです。一本の柱が最上部に届くまでに、その形のねじれを数回繰り返すので、柱全体を見ると上と下とがまったく違った形をしていて、柱そのものが曲線で出来上がっているように見えるのです。ガウディさんの複雑な曲面が普遍的な形に見えたのは、このような幾何学的な規則性を持っているからなのです。

そのガウディさんも、屋根の部分のイスラム的な丸みなどでは曲線を使っています。その曲線は、建物全体を逆さにしたときに、重力で緩やかにたわんでいる形と同じなのだそうです。実際にガウディさんは、建物全体の骨組みを紐状の素材で作り、それを逆さにして屋根の突起部分に重りを付けて、それらが重力によって引っ張られた状態を確認したのだそうです。その模型も今回、展示されています。現在の「サグラダ・ファミリア」の屋根の形も、ガウディさんが設計した形を元に、それを少し引き伸ばしたりして、ガウディさんの方法論を応用しながら具体的な設計をしているのだそうです。ガウディさんの造形が死後も引き継がれているのは、彼が科学的な思考を持った人だったからでしょう。

ここでちょっと空想してみるのですが、ガウディさんがもしも建築家ではなくて、彫刻家であったなら、このような科学的なアプローチを取ったでしょうか?彫刻作品であれば、それほど物理的な強度を心配する必要がないので、このような造形手法は選ばなかったでしょう。そう考えると、ガウディさんが建築家で良かったなあ、と思ってしまいます。ガウディさんのたどり着いた普遍的とも言える造形は、建築の分野であればこそ、ということだったのかもしれないからです。

ここでさらに考えてみたいことがあります。

人間は、得てして思い通りにならないものと出会うと、なんとか自分の意志のとおりに押し通そうとします。造形表現の素材との関係も、そのような人間の欲望の歴史であるとも言えます。太古の壁画からテンペラ画、フレスコ画、油絵の具、アクリル絵の具、コンピュータ・グラフィック、というふうに人間は素材を改良して、その時々の必要に応じて思い通りの表現ができるようにしてきました。しかし、それはすべて良いことなのでしょうか?

ガウディさんの場合は、巨大な建築物という実現が困難な目標があり、それに対してガウディさんは素材(重力も含めて)と対話しながら制作しました。その結果、彼の個性を超えた普遍的な造形表現と出会うことになります。

そう考えると、思い通りにならない素材と格闘することも、場合によっては良いことなのかもしれません。私は、最近のコンピュータ・グラフィックの表現と出会うと、どこかでそういう不満を感じてしまいます。その便利なツールは、逆に人間と素材との出会いを奪うものかもしれないのです。

 

不遜なことに、私はホックニーさんの展覧会で、そのようなことを感じました。そのことも含めて、次に『ホックニー展』について書いてみます。



それでは、『ホックニー展』です。

デイヴィッド・ホックニー(David Hockney、1937 - )さんは、イギリスの画家です。しかし、その活躍の場は世界中に広がっていて、一時期はアメリカで制作していましたし、いまはフランスのノルマンディーで絵を描いているようです。今回の展覧会では、そのノルマンディーの風景を描いた成果を見ることができます。

https://www.mot-art-museum.jp/exhibitions/hockney/index.html

https://bijutsutecho.com/magazine/news/report/27525

 

さて、このホックニーさんについては、私よりも上の世代の方になると、少しわだかまりがあるかもしれません。というのは、ホックニーさんといえば、はじめはお手軽なイラストレーターのような感じで見られていたからです。

1980年代では、彼の作品の見栄えの良さ、内容のわかりやすさから、広告系のイラストのように扱われていたと思います。いまでは、広告のイラストであっても素晴らしいものは素晴らしいし、ファインアートと呼ばれる美術作品であっても、くだらないものはくだらない、と皆さんはふつうに判断されると思います。しかし少し前までは、広告系のイラストとして消費されるものは、内容とは関わりなくそれだけのものなのだ、と思われていたのです。繰り返しになりますが、たまたま広告で使われたイラストであっても、素晴らしいものは後々まで顧みられるでしょうし、現代美術の真摯な作品の装いをしていても、つまらないものは一時的な話題の後で忘れ去られてしまいます。

ホックニーさんに関して言えば、私が学生の頃にその評価の分水嶺となるような展覧会がありました。それは『今日のイギリス美術』という1982年に開催された展覧会です。

https://www.nmao.go.jp/archive/exhibition/1982/post_26.html

現在のように、インターネットで世界中がつながるはるか以前のことですが、1980年頃というのは、現代美術と言えばアメリカ一辺倒だった日本の美術ジャーナリズムが、ようやくヨーロッパのさまざまな地方の美術を取り上げ始めた頃でした。しかし、その場合でも、いかにも「現代美術」という装いをしていないと、日本の美術界ではうけいれられなかった時代だと思うのですが、そんな中で『今日のイギリス美術』という展覧会は、それまであまり紹介されなかったイギリス美術を、多様な視点から紹介するものでした。

この展覧会については、私は次のblogでも少しだけ文章を書いているので、併せて読んでいただけると幸いです。

https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/be0fea49c3aeffe49dd54b3b225dcc40

この、イギリス美術を代表する美術家たちの展覧会で、堂々とホックニーさんの作品が展示されていました。それも具象的な絵画から抽象画やインスタレーションまで、幅広い作品がイギリス独特のウィットとユーモアを伴って展示されている中で、ホックニーさんの作品はお手軽なイラストどころか、どことなく古典的な味わいすら感じさせたのでした。

当時の日本では、現代美術に真摯に向き合うということはミニマル・アートのようなストイックな表現に傾倒するか、絵画を捨ててインスタレーションなどの立体作品に向かうしかないような雰囲気だったのです。それがイギリスではこんなに自由なんだ!現代美術だって自由でいいんだ!というあたり前のことが、目から鱗が落ちるように理解できたのが『今日のイギリス美術』展だったのです。私自身、この展覧会から学んだことは、今でも自分の狭い価値観を相対化するときに有効です。

 

ということで、今回の『ホックニー展』を見に行きましたが、特に初期の作品について実物を見る機会がそれほど多くなかったので、あらためて作品の質の高さを実感しました。

人物のデッサン(リトグラフ)の素晴らしさには、本当に息を飲みました。技術的にすごくうまい!というよりは、センスの良さが光ります。アカデミックな観点からすると、この形をもう少し描かないと・・・、という部分を放りっぱなしにしている一方で、ああ、ここを集中して描くんだね!という部分があるのです。ホックニーさんが興味を持っているのは、人物の造形性よりも、その顔の表情や髪の毛の繊細な流れや、指の形などです。

それにホックニーさんの素晴らしさは、何よりも彼が自分自身の絵を楽しんでいる、ということです。絵を描くこともそうですし、たぶん、彼は自分の絵をながめることも好きなのだと思います。自分で描いていて楽しくて、それをながめて楽しくて・・・、ということであれば、誰からどんな文句を言われてもびくともしないでしょう。やはり、自分がずーっとながめていたい、と思うような絵を描かないとだめですね。ホックニーさんの絵を見ていて、そう思いました。

ホックニーさんは、さまざまな素材を使って絵を描きます。私は初期の油絵の具の使い方が、予想以上に良いと思いました。版画を専門の仕事にしている私の友人は、ホックニーさんの版画が素晴らしい、と言っていました。エッチングの線に魅力があるのだそうです。私はただ単に良いなあ、と思うだけですが、その友人が褒めるからには版画としての良さがあるのでしょう。

今回の展覧会で残念だったのは、一部の部屋で見られた壁一面に作品を飾った展示方法です。展示としての見栄えは良いのですが、上の方にある作品がどうにも見づらいのです。写真でしか見たことのない、有名な作品もありました。せっかくの実物を見る機会ですから、身近なところで見たかったですね。

そして展覧会の最後のパートは、iPad で描いた大作群です。

さすがにホックニーさんが描いただけあって、風景の骨格がしっかりとしていて、色彩表現も美しいです。しかし、じーっと見ていると、何かが物足りません。これは一体どうしたことだろう、とずいぶん作品の前で逡巡しましたが、容易に答えが見出せません。

一つ気づいたのは、例えばブラシで絵の具の水滴を飛ばしたような表現がありましたが、それはおそらく、iPad のツールで瞬く間に描いたものだと思います。そこには表面的なパターンができていて、それ以上深い見方ができないのです。ホックニーさんは、初期の作品では、文様のような表現であっても、一つ一つを手描きで描いていました。そうするとホックニーさんの気持ちの赴くままに表現の粗密ができて、注意深く見ていくとホックニーさんの心の動きがわかるのです。絵の細部を決しておろそかにしないホックニーさんは、そういうちょっとした表現の積み上げで、他の画家にはないオーラを発していました。

iPad で描いた画面は、その明晰なホックニーさんの画面に靄のような障壁を作ってしまいました。それがいかにも残念です。もしかしたら、iPad による表現はまだ発展途上の状態で、これから先はもっと独自性のある表現が可能なのかもしれません。しかし、今のところは、絵の具で描く代わりの便利ツールである以上、簡易的な表現にしかならないのではないか、という気がします。

最新のテクノロジーを使った表現ということで言えば、ホックニーさんの多視点による写真の表現が、これからの可能性を感じさせて面白かったです。同様に、多視点の風景が少しずつ前進する画像(動画)表現も、これからもっと発展しそうな予感がして楽しみになりました。

展覧会全体の感想をまとめると、ホックニーさんは、視覚的な楽しみを本当によく知った人だなあ、と思います。いろいろと批判がましいことも書きましたが、私はホックニーさんが見る楽しみに対して、常にポジティブでいるところが素晴らしいなあ、と思いました。現代美術は、どうしても表現が難解であったり、自己に対して批判的であったりすることが多いのですが、何も好き好んで辛いことをやらなくても良いと思います。

絵を描く楽しみは、まだまだやり尽くされていないと感じさせる点で、『ホックニー展』は素敵な展覧会でした。



さて、ここまで読んでいただいたなら、よかったら前回のblogの「『芸術の終焉』の終焉」論について書いた文章も読んでみてください。モノを作ること、絵を描くことに「終焉」などあり得ないことが、今回の3人の作家を見れば、誰にでもよくわかるはずです。こういう単純な事実を忘れないためにも、本ばかり読んでいてはいけません。街に出て、素敵な作品と出会って、そして見て楽しむことが、何ものにも変え難い勉強であることを肝に銘じておきましょう。

それは、なんと素晴らしい勉強でしょうか!

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