平らな深み、緩やかな時間

400.『世界哲学のすすめ』③と哲学者、大森荘蔵について

今回も納富信留さんの『世界哲学のすすめ』から学びます。

この本の「分析哲学」の章を読んでいたら、日本の哲学者、大森 荘蔵(おおもり しょうぞう、1921 - 1997)さんの名前が出てきました。大森さんについて、このblogでも書いたような気がするのですが、思い出せません。最近は、書いたことをすぐに忘れてしまって、困っています。
大森荘蔵さんは、独自の哲学を打ち立てた人です。と言っても、私は大森さんの主著を読んだことがなく、その哲学を理解しているわけでもないのですが、学生時代に彼の「立ち現れ」という概念が面白くて、少しだけ読みかじった覚えがあるのです。
その後、さまざまな美術批評や哲学を私なりに勉強してきましたが、大森さんの哲学に触れる機会はありませんでした。大森さんの哲学が、いったいそれらのどこに繋がっているのかがわからず、次第に彼のことを忘れてしまったのです。
それが思いがけず、この『世界哲学のすすめ』の中で、大森さんの名前を見つけたのです。先ほども書いたように、「分析哲学」に関する章を読んでいたときのことでした。それで、この歳になってやっと私は、大森さんの哲学を世界的な哲学や思想の文脈の中で位置づけることができたのです。
ここから先は、私が分かったことや思ったことを勝手に綴ってみますが、それが正しいのかどうか、よくわかりません。大森さんの哲学や「分析哲学」にくわしい方から見れば、初歩的な過ちが含まれているかもしれません。その際には、ご指摘いただけると幸いです。
そんな理解の程度なのに、これも勝手ながら、大森さんが「哲学」において試みたことが、私たちがいま「絵画」を考える上で重要なことを含んでいるのではないか、とそんなことも考えています。そのことも、最後に書いてみましょう。

さて、それではまず、「分析哲学」とはどのようなものなのか、見ていきましょう。
納富さんは「第6章 世界哲学としての現代分析哲学」という章を、次のような文章で始めています。

20世紀後半は、19世紀から隆盛が続いたドイツ哲学、つまりドイツ観念論、マルクス主義、新カント派、現象学などに代わって、英語圏を中心とする分析哲学(Analytic Philosophy)が世界をリードしました。
分析哲学については、その起源をめぐって議論があります。19世紀後半のフレーゲ(1848 - 1925)とするか、20世紀前半ケンブリッジのG.E.ムーア(1873 - 1958)やバートランド・ラッセル(1872 - 1970)とするか、20世紀半ばオクスフォードの日常言語学派を重視するかといった問いに加えて、科学哲学や論理実証主義との関係、ウィトゲンシュタイン(1889 - 1951)の位置づけ、アメリカではプラグマティズムとの重なりが問題となり、論者によって理解に幅があります。またW.H.クワイン(1908 - 2000)が1951年に発表した論文「経験主義の二つのドグマ」で、真理をめぐる分析と総合の区別を「経験主義の第一のドグマ」として退けてから、厳密な意味での分析哲学は成立しなくなったとも言われますが、分析哲学と呼ばれる流れはその閾(しきい)を越えて現代まで続いています。あるいは、リチャード・ローティ(1931 - 2007)が1979年に出版した『哲学と自然の鏡』が分析哲学を否定してそこから抜け出す記念碑に見えるかもしれませんが、分析哲学はその後の変遷をへて、現在でも世界の広い地域で中心的な哲学であり続けているのです。
(『世界哲学のすすめ』「第6章 世界哲学としての現代分析哲学」納富信留)

このように書かれても、私には知っている哲学者の名前がいくつかあるだけで、これを大きな流れとしてイメージすることができません。それは私の不勉強がたたっているのですが、事情はそれだけでもないようです。この「分析哲学」の流れを『世界哲学のすすめ』を読み解きながら、私なりに辿ってみましょう。皆さんは、ぜひ『世界哲学のすすめ』の原著をお読みになるか、あるいは「分析哲学」について書かれた入門書や専門書をお読みになってください。

まず、「分析哲学」という哲学は、明確な流派があるわけではなく、「分析哲学」的な手法で書かれたものを「分析哲学」として呼んでいるそうです。また、「分析哲学」は体系化された著書として世に問われることがなく、ある話題について論文で問いかけるということが多く、そのことが私のような素人には認識しづらいという事情になっているようです。
それでは、「分析哲学」的な手法とはどのようなものなのでしょうか?
これも私のような素人にはわかりにくいのですが、例えば伝統的な哲学が「永遠の真理」や人やものの「存在」について、抽象的な議論を重ねていくのに対し、「分析哲学」は普遍的な問題を取り扱うものの、具体的な論理としてそれを解き明かしていく、という方法を取るのだそうです。
従って、哲学に特徴的な「形而上学的な思考」は斥けられます。それに代わって、そもそも議論の土台となる「言語」とはいかなるものか、とか、あるいは科学の発達とともに明らかになっていく世界観に対して哲学はどのように向き合うのか、ということが「分析哲学」の主な話題になるようです。
その結果、「言語哲学」的な方法と、「科学的経験主義」的な方法とが「分析哲学」の主な方法論とされ、それらの思考を具体的な言葉で語るところが特徴となります。それまでの哲学的な伝統に捉われず、普遍的な問題を語るという姿勢は「現象学」と似ていますが、「現象学」が新たな哲学用語や深淵な概念を創作して、世界を体系的に語ろうとしたのに対し、「分析哲学」は日常的な言葉で議論するという方法をとったということが、大きな違いとしてあるようです。
これらのことを、納富さんは「分析哲学」の哲学的傾向として5点にまとめていますので、抜粋します。

①論理・言語との親和性が分析哲学に強い理論性をもたらす。
②理論体系の構築を目指さず、問題の解明に徹する。
③論理実証主義からの影響で、形而上学的な議論を回避する傾向がある。
④哲学史や特定の哲学者に依拠しない普遍的な考察であり、現代の哲学として非歴史性を特徴とする。
⑤概して政治や社会の実際の問題には関心を寄せず、普遍的で抽象的な理論関心が中心となる。

以上ですが、その後の「分析哲学」は、例えば哲学史的な知見等も取り入れて、変わっていく様子も見られるそうです。納富さんの見方では「近年の分析哲学の業績を傍から眺めていると、仲間内での閉鎖的な知的ゲームの様相が濃く感じられ」るのだそうです。また「学界においてノーマル科学として安定化した分析哲学は、もはや問題提起という役割を果たしていないかのよう」だとも書いています。「分析哲学」も他の哲学と同様に、「新たな挑戦で視野を広げる時」だと結論づけています。
その中で、日本の哲学者、飯田隆(いいだたかし、1948 - )さんの著作などが注目されているのですが、その飯田さんの師匠が大森荘蔵さんなのです。やっと大森さんに辿り着きました。
それでは、この「分析哲学」の流れの中で、大森さんの足取りを簡単に見てみましょう。

大森さんは、東京大学で最初に物理学を専攻しました。しかし大学時代に第二次世界大戦を経験した大森さんは、戦後になって文学部哲学科に進み、さらに1950年にアメリカ、オハイオ州オベリン大学(クワインの出身校)に留学し、「アメリカの分析哲学を本格的に学んだ最初の哲学者」となったのです。帰国して「東大駒場で科学哲学の職を得て」からも、スタンフォード大学やハーバード大学、ブリンストン大学で在外研究を重ねたそうです。すごい経歴だと思いますが、正直、私のような庶民にはその凄さが実感できません!
その一方で、数人の仲間とともに「日本で当時支配的だった大陸系の形而上学的哲学に批判的な新たな哲学動向を推進」したそうです。
なるほど、私のような素人は、大学生になって、やっと「大陸系の形而上学的哲学」に触れ、そこでいきなりポスト・モダニズムと呼ばれた現代フランスの哲学が視野に入ってきたのです。大森さんの哲学を含む大きな学問の流れは目に入らず、大森哲学の独自性だけをかろうじて知ることができたのです。
納富さんによれば、「大森は英語が堪能であったにもかかわらず自身の哲学の発信はほとんど行っておらず、分析哲学をめぐる米英と日本の関係は、教授と受容という一方的なものだった」そうです。しかしその一方で、「大森荘蔵の分析哲学はけっして英米議論の後追いや紹介ではなく、『大森哲学』と呼ばれる独自の考察に満ちた魅力的なものであり、後の世代に与えた影響はきわめて大きい」とのことです。

それではいよいよ、大森さんの哲学の内容に立ち入ってみましょう。
私は難しい本が苦手なので、ここでは大森さんの書いたエッセイ風の著作『流れとよどみ』という本を読んでみます。この本は平易な文章で書かれていますが、「20 心身の問題、その一答案」という章を読むと、大森さんの考えていたことがおおよそわかります。
大森さんは、伝統的な哲学が前提としている「主体」と「客体」、あるいは「心」と「身体」を二つに分けて解釈する「二元論」に疑問を抱きました。そして、それに対して「主客」、あるいは「心身」を一つのものとして解釈する「一元論」を唱えたのです。大森さんは、そのことによって、「二元論」が孕むさまざまな矛盾を克服して、新しい哲学を立ち上げようとしたのです。その時のキーワードが「立ち現れ」と「重ね描き」という概念なのです。

まず、大森さんの「二元論」と「一元論」に関する解釈を、私なりに噛み砕いて書いてみましょう。

一つの客観的世界と各人各様の主観的意識という「二元論的構図」は、哲学的見解である以前に、日常の常識であり、また科学者の大部分の通念です。この二元論の構図を示唆して、それに誘う経験の主なものを、ここで三つ取り上げます。
第一に、十人十色の異なる経験があります。同じ一つの風景が人によって様々に見えるという現象です。このことから同一対象(風景)と、各人各様の印象(見え方)という対比が生じます。その「同一対象」が客観的世界に、各人のその時々の「印象」が主観的意識に配され、「二元論的構図」に導かれることになります。
第二に、われわれのいわゆる心的現象といわれるものがあります。感情、意志、思考といった経験は、誰にとっても物的現象とは思われません。また、過去の事物や未来の事態が想起され、予想されるという現象もあります。こうした心的現象は、物的世界とは別な意識の世界の現象だと考えられるのです。このように、ここでも物的世界と意識の世界という「二元論的構図」が不可避と考えられます。
第三に、これらの心的現象と物的世界の中間にある「幻覚」と呼ばれる世界があります。幻覚による「まぼろし」は物的世界に所属しません。それは想像の産物と同じように、意識の世界に所属すると考えられます。これも「二元論的構図」として解釈されるのです。
以上で二元論の構図に誘う三種類の経験をあげましたが、これらの経験は全く普通の日常経験であり、それらから導かれる二元論の構図も全く自然なものに見えます。しかし、少し考えてみると、それがそうでもないのです。
例えば、私たちが現実の風景を見ていたときに、突然、何かの幻を見たとします。あるいは街の喧騒の中で、何かの幻聴を聞いたとします。この時に私たちが見ていたもの、あるいは聞いていた音は、主観的な世界でしょうか、客観的な世界でしょうか?細かいことを言えば、客観的な風景の上に主観的な幻が重なって見えた、ということになるのでしょうが、ふだん私たちはそこまで考えません。そこで大森さんは「現在の風景やその中での行動にまでは二元論は及ばないのである」と書いています。
さて、ここで最新の科学的な知見が、我々の常識を揺るがすことになります。
例えば、物理学者は光や音の伝播機構を確定し、生理学者は目や耳の感覚器官の働き、神経興奮伝導と大脳生理の知見をもたらしました。さらに新しい科学的な知見では、机も石も、雷鳴も人声も、すべてが事物から発した物理作用が我々の脳に作用して初めて見え聞こえるものであって、事物そのものは素粒子の集団であり電磁波であり空気振動であることがわかりました。我々に見え、聞こえているのは、素粒子や電磁波の「見え姿」であり、「聞こえ姿」にしか過ぎないということになります。
そこで「本来の物理的事物とその『姿』という二元論的剥離が教示される」と大森さんは書いています。つまり、科学的知見に基づく新たな「二元論」が現れた、ということになるのでしょう。客観的な世界というのは素粒子の世界であり、主観的な世界は私たちが見ているそれらの「見え姿」ということになるのです。
しかし、これほどまでに私たちの日常から離れてしまうと、もう考えても仕方のないことになってしまう、と私は思います。「毎日の暮らしの中ではどうでもよいこと」と大森さんも書いています。

この「二元論」の混乱を克服すべく、大森さんは独自の「一元論」を提唱します。
その「一元論」というのは、私たちの見ている世界をすべて受け入れて、そこに「主客」や「心身」という二重構造を設定しない、ということです。
それでは、大森さんの説明を読んでみましょう。大森さんは、「一元論」にとって最もハードルが高いと思われる幻の問題を取り上げています。そこで導入されたのが「立ち現れ」という概念なのです。

幻覚を幻覚とするものは何かといえば、それはもちろんそれが物理的実在でないからである。しかしそれと同時に、それが物理的実在とそっくりであるからである。視覚的幻覚ならば、それがまがうかたなき幻覚であるためには、それが物理的実在とまがうばかりに見えなければならない。言葉を換えていうならば、それは視覚的に実在するのである。こう言うとき、私は明らかに「実在」という言葉の弾力性あるいは可塑性を利用している。それと似たような意図から、幻であれ現実であれ、はたまた想像や空想であれ、とにかく事実私に見え聞こえ、あるいは想像され、思われ考えられたすべてのものを一視同仁(いっしどうじん)に「立ち現れ」と呼ぶことにする。つまり、知覚的にであれ、想起的にであれ、空想的にであれ、思考的にであれ、とにかく事実私に立ち現れるものの一切である。
(『流れとよどみ』「20 心身問題、その一答案」大森荘蔵)

この大森さんの「一元論」には、いろいろと反論があると思います。
大森さんは、その反論を想定して、丁寧に説明を重ねていきます。とにかく、私たちはいつの間にか「二元論」的な世界観を刷り込まれていますから、幻も幽霊も風景も「視覚的に実在する」と言われるのには抵抗があります。興味がある方は、大森さんの本を読みましょう。
私はとくに大森さんの「一元論」を信奉するものではないので、とりあえず「立ち現れ」の説明はこの程度にしておきます。
大森さんはさらに、「二元論」において指摘した、科学的な知見によって混乱した状況について「重ね描き」という概念を導入して、「一元論」的な整理を試みています。次の説明を読んでみてください。

もちろん日常的描写が全く及ばない微細な領域、遠く離れた星雲、遥かな昔、地球や天体の内部はただ科学的描写のみが可能である。一方、私の様々な妄想や希望を科学者はその言葉で描くことはできない。また私の様々な感情的相貌を持った立ち現れを識別的に描くことはできない。しかし科学的描写は単に歴史的にのみならず認識的にも日常描写を基にして描かれているのである。日常描写に「重ねて」描かれるのである。この「重ねて」はもちろん時空的に重ねての意味である。様々な実験装置や観測器具の科学的描写は日常的描写に「重ねて」(描写)されないでは不可能であるし、更にすべての科学的観測の測定はまさに日常描写に「重ねる」作業である(メーターの針、ガイガーカウンター、スペクトロスコープ、ペーパークロマトグラフ等々)。
こうして二元論的構図での客観的世界とその主観的世界像は、一元論的構図の中では日常的描写と科学的描写の「重ね描き」として表現される。それに伴って、二元論的構図の中での、「原物(客観的世界)ーその像(主観的世界像)」、あるいは「原因ー結果」という「物心関係」は棄てられねばならない。それに代わって「重ね描き」による「即ち」の関係が登場する。
(『流れとよどみ』「20 心身問題、その一答案」大森荘蔵)

こちらの「重ね描き」の概念の方が、「立ち現れ」よりも、むしろ受け入れやすいかもしれません。
私たちが見ている世界を素粒子の世界に置き換えてみた時に、素粒子の微視的な世界が「客観的な世界」であり、私たちの見ている世界が「見え姿」でしかない、という科学的な知見による二元論よりも、それらは重なり合った関係であり、どちらも本当の姿なのだ、と言われた方がしっくりくると思います。というか、大森さんに言われるまでもなく、常識的に私たちはそれらを「重ね描き」して考え、「即ち」の関係を感じ取っているのではないでしょうか。

大森さんの「一元論」について、この説明だけでは全く不十分ですが、とりあえず今回はこの辺りにしておきましょう。
頭の中がひっくり返るような話なので、詳しく知りたい方は大森さんの本を読んでみてください。又聞き(又読み)でわかるような内容ではないので、ぜひご自分の目で(頭で)確かめてください。


さて、今回はかなり難しい話になりましたが、私は大森さんが欧米の「分析哲学」に影響を受けつつも、独自の一元論を立ち上げたことに、少なからず感動を覚えます。どうしたらこの世界を自分が納得できるように説明できるのか、そこにこだわって、大きな成果をあげたことが、本当に素晴らしいと思います。
そして、この大森さんの「哲学」との対峙の仕方に、私は同じように西欧において伝統的である「絵画」という分野に対峙する者として、学ぶべき点が多いと思っています。大森さんは伝統的な「哲学」の流れを熟知しつつ、それを丸ごと否定せずに、その枠組みをツールとして生かしつつ、全く新たなことを試みたのです。
このことについて、少し考えてみましょう。
私は「絵画」という古いツールを表現形式として、いまだにとても魅力的なものだと考えていますし、そう感じてもいます。
例えば先日鑑賞した内藤礼さんの博物館での展示『生まれておいで 生きておいで』ですが、そこに内藤さんの描いた水彩画も飾られていました。
内藤さんの設定したオブジェやインスタレーションは、当然のことながらその場所の雰囲気によって左右されます。おそらく、内藤さんが設置した時には、私が行ったときのような混雑や雑踏はなかったでしょう。物としてのオブジェやインスタレーションは、良くも悪くもその場の雰囲気、周囲の状況によって変わってしまうのです。
しかし一方の水彩画は、画面上で内藤さんが表現したこと、その息遣いや心の動きまでが、ほとんど周囲に影響されることなく読み取ることができたのです。かなり色彩のはっきりしたものから、ほとんどかすかな痕跡として筆致が読み取れる程度のものまで、その時に内藤さんの考えや気分がストレートに表現されていて、さすがに表現力のある作家だなあ、と感心したものでした。そして、絵画という古いツール、表現形式には、内藤さんが選んだ博物館の収蔵品であるオブジェにも負けない力があるのだ、と改めて思ったのです。
そして大森さんの一元論を読みながら思ったことは、哲学ばかりでなく、絵画も西欧の二元論の影響下で発展していったのですから、その歴史や現在のあり方を哲学同様に見直す必要があるなあ、ということです。このblogでは、すでにアジアの哲学、アフリカの哲学がその手がかりを提供してくれています。もう後戻りはできませんね。
幸いなことに、私は絵画をその理論と制作と、両輪で探究する道を選びました。ですから、あとは進むだけです。
大森さんの哲学も、今回その輪郭が、これまでよりもはっきりと見えたので、折を見てその成果や影響、そしてその限界についても勉強してみたいと思います。
また何か分かったらこのblogに書いてみます。

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サムライ鉄の道リスペクト
最近はChatGPTや生成AI等で人工知能の普及がアルゴリズム革命の衝撃といってブームとなっていますよね。ニュートンやアインシュタイン物理学のような理論駆動型を打ち壊して、データ駆動型の世界を切り開いているという。当然ながらこのアルゴリズム人間の思考を模擬するのだがら、当然哲学にも影響を与えるし、中国の文化大革命のようなイデオロギーにも影響を及ぼす。さらにはこの人工知能にはブラックボックス問題という数学的に分解してもなぜそうなったのか分からないという問題が存在している。そんな中、単純な問題であれば分解できるとした「材料物理数学再武装」というものが以前より脚光を浴びてきた。これは非線形関数の造形方法とはどういうことかという問題を大局的にとらえ、たとえば経済学で主張されている国富論の神の見えざる手というものが2つの関数の結合を行う行為で、関数接合論と呼ばれ、それの高次的状態がニューラルネットワークをはじめとするAI研究の最前線につながっているとするものだ。この関数接合論は経営学ではKPI競合モデルとも呼ばれ、トレードオフ関係の全体最適化に関わる様々な分野へその思想が波及してきている。この新たな科学哲学の胎動は「哲学」だけあってあらゆるものの根本を揺さぶり始めている。こういうのは従来の科学技術の一神教的観点でなく日本らしさとも呼べるような多神教的発想と考えられる。
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