すそ洗い 

R60
2006年5月からの記録
ナニをしているのかよくワカラナイ

「創」と植松聖

2019年10月08日 | ヒトゴロシ


2016年(平成28年)7月26日未明、神奈川県相模原市緑区千木良476番地にある、神奈川県立の知的障害者福祉施設「津久井やまゆり園」に、元施設職員の植松聖 (犯行当時26歳)が侵入し、所持していた刃物で入所者19人を刺殺し、入所者・職員計26人に重軽傷を負わせた大量殺人事件である。 
殺害人数19人は、当事件が発生した時点で第二次世界大戦(太平洋戦争)後の日本で発生した殺人事件としてはもっとも多く、事件発生当時は戦後最悪の大量殺人事件として、日本社会に衝撃を与えた。 


 

篠田 この間、君はヒトラーの思想と同じだとよく言われているけれど、君自身は手紙で、それは違うと言っている。だからヒトラーと君の考えのどこがどう違うのか確かめたい。君は昨年2月に津久井やまゆり園で職員らと話をした時に、「それじゃヒトラーと同じじゃないのか」と言われ、それを覚えていたので、措置入院の時に「ヒトラーの思想が降りてきた」と語ったという。それで間違いない?
 植松 その通りです。もともとヒトラーがユダヤ人を殺害したのは知っていましたが、障害者をも殺害していたことは知らなかったんです。その時、職員から初めて聞きました。
 篠田 措置入院の時に「ヒトラーの思想が降りてきた」と言ったのはどういう意味だったの?
 植松 それほど深い意味を考えて言ったわけではありません。今ちょうど『アンネの日記』を読んでいるのですが、ヒトラーと自分の考えは違います。ユダヤ人虐殺は間違っていたと思っていますから。
 篠田 じゃあナチスが障害者を殺害したことについてはどう思うの?
 植松 それはよいと思います。ただ、よく自分のことを障害者差別と言われるのですが、差別とは違うと思うんですね。
 篠田 君は津久井やまゆり園で起こした事件については、今も間違っていたと思っていないわけね。
 植松 安楽死という形にならなかったことは反省しています。
 篠田 つまり死を強制してしまったことね。でも殺されるほうは同意するわけないじゃない。今『アンネの日記』を読んでいると言ったけど、君の優生思想と言われる考え方については、いろいろ調べたりしているの? 前の手紙でも難しい本を挙げていたよね(本誌前号参照)。ええと何という本だっけ。
 植松 『アサイラム』ですね。あれは記者の方に教えてもらったのです。
 篠田 君自身はどんな本を読んでいるの。
 植松 鑑定のために一時立川署にいたのですが、その時はいろいろな本を読みました。医療関係の本とかですね。
 篠田 精神医療ということ?
 植松 延命治療とか安楽死とかについてです。
 篠田 ああ、そういうことか。君は精神鑑定で「自己愛性パーソナリティ障害」と診断されたけど、それについてはどう感じているの?
 植松 指摘されたことについては、ああそういうこともあるのかと、自分の欠点を指摘されたと思いました。ただ、それを「障害」と言われると違うと思います。
 篠田 鑑定は君の責任能力を見るために行われたわけだけれど、君は昨年2月に衆議院議長に届けた手紙で、心神喪失という診断で無罪にという話を書いていた。今回の鑑定では責任能力ありと診断されたわけだけれど、そこのところはどう考えているの?
 植松 あの手紙のその部分については、そこまで深く考えて書いたわけではないのです。
篠田 君は自分のことがどう報道されているかある程度は知っているのだと思うけれど、テレビは見ているの
 植松 テレビは見ていません。
 篠田 じゃあ送検の時の「不敵な笑い」と言われた君の表情については動画では見てないの?
 植松 それは新聞で見ました。まずかったなあと反省しました。
 篠田 「不敵な笑い」と言われても自分ではそんなつもりはなかったと。
 植松  はい。
 篠田 取材陣が殺到する異常な光景を見て思わず笑ってしまい、「不敵な笑い」と言われるのは、こういうケースでよくあることだよね。テレビを見ている人には取材陣が大混乱している様子が映されないから、事情がわからない。君はマスコミとの接見は拒否しているけれど、友人や家族とのやり取りはできているわけでしょう。
 植松 はい。
 篠田 昨年、措置入院から退院した後、両親と一緒に暮らすと言っていながら、実際はまたそれまでと同じ家に戻って一人暮らしをはじめ、それが君へのフォローができていなかったひとつの理由と、厚労省の報告でも分析されていたけれど、あの時はどうしてそうしたの?
 植松 別に深い理由があってそうしたわけではありません。
 篠田 君は退院の後、友人などに、障害者を安楽死させるという話を語って驚かれていた。君のその考えが拒絶されたことについてはどう考えていたの? 同意する人はいなかったでしょう。
 植松 いや、そうでもありません。確かに拒絶する人もいましたが、理解はしたうえで、でもそれは法律上許されないからという人もいました。自分としてはそう指摘されて、それなら法律を変えなくてはいけないと思いました。
 篠田 でも君の考えに同意する人はいないと思うけどなあ。
 植松 自分の考えをきちんと説明すればわかってくれる人もいると思っています。
 篠田 いたとしてもごく少数だろう。
 植松 いやきちんと説明すれば半分くらいの人はわかってくれると思っています。
 篠田 半分はいないでしょ。
 植松 逮捕されてからもいろいろな人にこの話をしていますが、皆聞いてくれています。
 植松被告が、自分の主張をきちんと説明すればわかってくれるだろう人を「半分くらい」と言ったことに対しては私も驚き、「いやそんなにいないだろう」と少し応酬になった。半分はいくら何でも多いだろうが、それは私が「君の考えは周囲にはほとんど同意されなかったはずだ」と強調したので、もしかすると彼も反発して強気の発言をしたのかもしれない。
【8月2日付、植松被告の獄中からの手紙】
 同封してもらいました「ドキュメント死刑囚」を拝読させていただきました。宮﨑勤に関して執行までに12年かかっているわけですが、1食300円として食費だけで12年間で432万円の血税が奪われております。意思疎通がとれない者を認めることが、彼らのような胸クソの悪い化け者を世に生み出す原因の一つだと考えております。
 第二次大戦前のドイツはひどい貧困に苦しんでおり貧富の差がユダヤ人を抹消することにつながったと思いますが、心ある人間も殺す優生思想と私の主張はまるで違います。赤ん坊も老人も含め全ての日本人に一人800万円の借金があります。戦争で人間が殺し合う前に、まず第一に心失者を抹殺するべきです。とはいえ、1千兆円の借金も返済できる金額ではなく、戦争をすることでしか帳消しにできないのかもしれません。
 ゴミ屋敷に暮らす者は周囲の迷惑を考えずにゴミを宝と主張します。客観的思考を破棄することで自身を正当化させております。新聞のコピーも同封して貰いまして誠にありがとうございました。人生の多くを費やした者を無駄とされ憤るお気持ちはとてもよく分かります。ですが、遺族や障害者協議会など関係者に対して「現実逃避障害」と診断させていただきます。(以下略)
【8月9日付、植松被告からの手紙】
 先日は『創』9月号を差し入れていただきまして誠にありがとうございました。多くの利権を壊す私の考えは世間に出ることは無いと半ば諦めておりましたので『創』を読んだ時は手が震えてしまいました。死と向き合い、魂を燃やされている篠田先生、並びに創出版の皆様に心の底から脱帽致しました。
 この度は篠田先生に折り入って御願いを申し上げたいのですが『創』10月号をセブンイレブン様、及び各コンビニのレジ横に置いて頂くことはできませんでしょうか。
 大変恐縮ではございますが、読書ばなれが進む日本で本を販売されることはとても困難と思われます。加えましては中国やアメリカ合衆国、世界に向けて翻訳された7項目の提案に賛否を集計できましたら、形だけの選挙よりも実りある答えがだせるのではないかと考えております。
 例の無い提案に多大なお手数をおかけしているのですが、一度ご検討いただけますことを切に願っております。せん越ではありますが、改めまして龍のイラストを描かせていただいております。また篠田先生に鑑査して貰えましたらとても嬉しく想います。
 なにとぞ宜しく御願い申し上げます。
 【8月15日付、植松被告からの手紙】
 お手紙を書いていただきまして誠にありがとうございます。度重ねて手紙を出してしまい申し訳ございませんでした。
 鯉は自分のイメージで描かせていただきました。今描いている龍は「闇金ウシジマくん」の滑皮さんを参考にしています。
 差し入れて貰いました報告書を読みましたが、ここが違うという箇所はありませんでした。6、7、8月は新聞を読ませていただいております。
 それにしても送検時の表情はゾッとする思いです。走る車に人波が突撃しても、笑顔をみせるべきではなかったと反省しております。
 鯉と龍は、彼が描いているイラストだ。差し入れた報告書というのは、昨年秋に出された厚労省の検討チームの発表した「中間とりまとめ」のことだ。この報告書では、植松被告が昨年、措置入院後に退院して事件を起こすまでの経過が詳細に追跡されている。その過程で事件を未然に防ぐことはできなかったのかというのが検討課題だったわけだ。犯行を予告してから実行に至る何カ月かの彼の行動を検証し、未然に防ぐためには何が可能だったか考えることは重要なのだが、その前提として報告書の記載が正しいかどうか本人に確かめたのだ。
 植松被告は自分の考えていることを自分なりに整理した獄中ノートをその後送ってきた。彼は「7項目の主張」なるものを様々なマスコミに送っていたのだが、それをさらにまとめて「新日本秩序」なる冊子にし、世に問おうと考えたのだった。冊子の末尾には、それぞれの項目についての賛否を問うアンケートがつけられていた。
 植松被告はそれを冊子として出版し、書店やコンビニで販売することを考えたのだが、現時点で相模原殺傷事件の被告である彼の主張をまとめたものをそのまま出版流通に乗せるのは簡単なことではない。それよりも事件後の出頭した時点からでよいから、今日まで彼がどう行動し、何を体験したか手記を書いてほしいと頼んだ。接見でも改めてそう依頼すると、彼はいささか意外な言葉を口にした。
 「できれば時間を無駄にしたくないんです」
 「安楽死」を含む7項目の主張を世に問うことが急務で、それ以外のことは時間を無駄にすることになるというのだった。いったい彼は何を急いでいるのか。あるいは自分の裁判がいずれ始まり、このままだと死刑判決が出される可能性が高いことをどの程度認識し、それについてどう考えているのか
 植松被告の手紙を最初に見た時、まず驚いたのは、事件当時と変わらぬ主張を繰り返していたことだ。あれだけの事件を起こして報道され、世の中に自分に対する指弾の空気が横溢していることに全くひるむ様子が窺えなかった。例えば2001年、小学校に押し入って児童を次々と殺傷した付属池田小事件の宅間守死刑囚(既に執行)も、裁判中に被害者を冒涜するような言辞を吐いていたが、それは植松被告の場合と事情が違う。宅間死刑囚の場合は、最初から自分は死ぬつもりで、どうせなら世の中に一矢報いて死にたい。そのために「エリートの卵」が通う学校の子どもたちを標的にした。社会を憎悪し、それに復讐して死ぬことを決意して事件を起こした。それゆえ謝罪や反省は彼にとってありえないことだった。
植松被告の裁判では、今のところどうやら犠牲者の家族は法廷でも実名が出ることを拒否しているようだ。恐らく出廷もしない可能性がある。植松被告はその法廷で、いったい事件に対して、被害者やその家族に対してどういう姿勢を見せるのだろうか。
 彼が接見禁止解除後報道陣と接見した時に、障害者の家族などを辛い目にあわせ事件に巻き込んだことを謝罪したのは知られている。実は8月22日の接見の時、『創』9月号にインタビューを掲載した津久井やまゆり園の家族会前会長、尾野剛志さんの話も出た。彼は職員だった当時、尾野さんの息子とは担当していたホームが別だったため、あまり接点はないようだった。その話をしていた時、植松被告は突然、「尾野さんに手紙を書こうかと思っているのですが、篠田さんから渡してもらえませんか」と言い出した。
 尾野さんの息子も重傷を負った被害者だから、家族への謝罪をしたいという趣旨かと思い、「どういうことを書くの?」と尋ねたところ、彼は「尾野さんは障害者を持ち上げすぎていると思うんです」と言うのだった。え、ちょっと待って…と思い、「家族なんだから当然でしょ」と言った。植松被告とは少し応酬になったのだが、彼が被害者やその家族へどう向き合おうとしているのか真意を測りかねる面がある。実際に彼がその手紙を書いてくるかどうかわからないのだが、どういう表現で自分の気持ちを示そうとするのか、もし届いたら尾野さんには声をかけてみたいと思う。そんな手紙は読みたくもないと尾野さんが言えばその場で破棄することになるかもしれない
ちなみに『創』に掲載した尾野さんの言葉、「黙ってしまうと植松に負けたことになる」には、障害者を育てる親としての強い意志が感じられて胸を打たれた。19人の犠牲者の匿名問題については、いろいろな変化が出てきている。尾野さんの言葉は、その匿名のあり方を被害者家族の立場から語ったたものだ。当事者がこういう主張を行う意義は大きいと思う。
事件直後に、植松被告の犯行は精神的障害によるものか、そうでないのかは関心の的となった。もし彼の犯行が精神的疾病によるもので、責任能力も問えないとなった場合は全てがそこで終結してしまうのだが、この間の植松被告の発言を見てもわかるように、どうもそうではないことが明らかになりつつある。本誌前号にも精神科医の松本俊彦さんと香山リカさんの見解を紹介したが、今回、改めて斎藤環さんにも聞いてみた。
 篠田 植松被告の書いたものなどをご覧になって、まずどんな印象でしょうか。
 斎藤 彼の主張を見ると、それが精神医学的な妄想、心性妄想の類いでないことははっきりしたと思います。彼の主張は極端であり社会的にも容認され難い内容ですが、それでも彼の主張に同意する人は一定数いるでしょう。
 篠田 平たく言うと精神的な病気によるものではない、ということですか。
 斎藤 人格障害とか発達障害とかの概念を含めて考えた場合に、あれは妄想ではないとは言えるのですが、それが病気ではないと断定するのはいささか材料不足だと思います。
 篠田 彼の場合はただ思い込んだだけでなく、実際の犯行に踏み出してしまったわけですが、それについてはどう考えればよいのでしょうか。
 斎藤 『創』の以前のインタビューでも話しましたが(昨年10月号)、やはり私は、措置入院の問題が大きかったと思っています。彼が障害者を軽蔑していたとすると、それと同じ存在として自分が遇されたわけで、それは彼にとって屈辱だったと思われるのです。私はそれが事件の引き金になってしまったような気がしてならないのです。
 斎藤さんは、相模原事件に対する対処として出てきた精神保健福祉法改正などについても見解を語ってくれたのだが、そうした問題については改めて論じることにしよう。
 こうして植松被告の事件を追っていて気になるのは、彼の発想や考え方が、いま世界的に拡大している排外主義とどう関わっているのかということだ。アメリカでは誰もがまさかと思っていたトランプ大統領が誕生したし、欧州ではネオナチの流れを汲んだと言われる極右政党が勢力を広げている。社会が閉塞すると排外主義が拡大すると言われるが、日本におけるヘイトスピーチの台頭もそのひとつだろう。さらに言えば、安倍政権の根強い支持層のひとつがネトウヨと言われる勢力であることも挙げられる。
 そうした流れと植松被告の思想は通底しているのだろうか。彼の獄中ノートを見ると、いろいろな言葉を断片的に書き留めた中に、こういう一節があった。
 「やまゆり園で勤務している時に、テレビでISISの活動とトランプ大統領の演説が放送されていました。世界は戦争により悲サンな人達が山程いる、トランプ大統領は真実を話している、と感じました」




生い立ち
加害者・被告人植松聖は1990年(平成2年)1月20日に東京都日野市の多摩平団地(現・多摩平の森)で生まれた。植松は一人っ子(長男)で父親は東京都内の小学校に図工教師として勤務しつつ自治会活動に積極的に参加しており、母親は漫画家だった。
1991年(平成3年)1月、当時1歳だった植松は両親とともに、多摩平団地から現場となった「津久井やまゆり園」からわずか500メートルほどの距離の津久井郡相模湖町大字千木良(現・相模原市緑区千木良)にある自宅に移住した。中学時代は熱心なバスケットボール部員で勉強もできる方だった。
植松は相模湖町立千木良小学校(現・相模原市立千木良小学校)・相模湖町立北相中学校(現・相模原市立北相中学校)を卒業後、東京都八王子市内の私立高校に進学し、高校卒業後の2008年(平成20年)4月には帝京大学文学部教育学科初等教育学専攻(現・教育学部初等教育学科)へ入学した。
植松は子どものころ、いじめられている猫をかばうなど優しい少年だったものの、高校入学後には同級生を殴って転校したほか、帝京大学在籍時(3年生 - 4年生ごろ)には刺青を入れていた。このころ、植松は「強い人間」に憧れ、ナイトクラブに通い、2010年(平成22年)ごろからは大麻などを吸引し始めるなど薬物に手を出すようになり、卒業後は半グレ集団・右翼関係者とも交友を持つようになっていた。
植松は、2011年(平成23年)5月末から約1か月間、母校の相模原市立千木良小学校で、教員免許を取得するために教育実習を行った。2012年(平成24年)3月、Aは帝京大学を卒業した。
事件の4 - 5年ほど前には夜中に植松宅から母親とみられる女性の泣き叫ぶ声が聞こえ、その約半年後、植松との同居に耐えかねた両親は植松を1人残して東京都八王子市のマンションに引っ越した。植松は大学卒業後、自動販売機の設置業者、運送会社、デリヘルの運転手など職を転々とし、相模原市内のクラブにも頻繁に出入りしていた。転居の理由について近隣住民らは「植松の母親が野良猫に餌を与えて近隣とトラブルになったから」という説や、「植松が入れ墨を入れたことに両親が怒ったから」という話があったという。植松は大麻を吸っていても「効かない」と言いつつ、さらに危険ドラッグを吸うこともあったほか、後述の措置入院後も、大麻・危険ドラッグを使用していたという。
植松は帝京大学卒業後の2012年12月1日付で「津久井やまゆり園」に非常勤職員として採用され、翌2013年4月1日から常勤職員として採用されると後述のように退職した2016年2月まで勤務していた。
植松は2012年8月、施設を運営する社会福祉法人「かながわ共同会」の就職説明会に参加し、「明るく意欲があり、伸びしろがある」という判断で採用されたが、採用後の勤務態度には「施設入居者への暴行・暴言」などの問題があったため何度も指導・面接を受けていたほか、刺青を入れる・業務外の問題行動も散見された。植松は2015年6月ごろから尊敬していた彫り師に弟子入りして本格的に彫り師修業を始めていたが、同年末ごろに「障害者を皆殺しにすべきだ」と発言するなどの異常な言動が見られたことから、彫り師から「ドラッグを使用している可能性が濃厚だ」と判断され破門された。
植松は2016年2月中旬ごろに衆議院議長公邸を訪れて衆議院議長の大島理森に宛てた『犯行予告』とされる内容の手紙を職員に手渡した。
「津久井やまゆり園」と同県厚木市内の障害者施設の2施設を標的として名指しした[。実際に植松は「津久井やまゆり園を襲撃したあとで厚木市の障害者施設も襲撃するつもりだったが、やまゆり園で拘束しようとした職員に逃げられて失敗したため『警察に通報される』と思ったうえに『やまゆり園だけでも結構な人数の殺傷行為ができた』と考えたため断念した」と述べている。
具体的な手口として「職員の少ない夜勤に決行する。職員には致命傷を負わせず結束バンドで拘束して身動きや外部との連絡を取れなくする。2つの園260名を抹殺したあとは自首する」などの内容が記されていた。
そして「『逮捕後は心神喪失で無罪として2年以内に釈放して5億円の金銭を支援し自由な人生を送らせる。新しい名前として“伊黒崇”を与え整形手術をさせる』などの条件を国から確約してほしい。日本と世界平和のためにいつでも作戦を実行するつもりだ」という要求もあった。
また植松は、2016年2月に安倍晋三首相宛ての手紙を自由民主党本部にも持参していた。
事件を受けて7月26日、衆議院事務総長・向大野新治が記者会見し、手紙を受け取った経緯などを説明した。それによると、植松は2月14日午後3時25分ごろに議長公邸を訪れ、書簡を渡したいと申し出たが受け入れられず、土下座をするなどしたため、警備の警察官が職務質問したところそのまま立ち去った。その後、男性は翌日午前10時20分ごろに再訪し、正門前に座り込むなどしたため、衆議院側で対応を協議して午後0時半ごろに手紙を受け取ると、ようやくその場を立ち去った。手紙に犯罪を予告するような内容があったため、衆議院の事務局が警察に通報し手紙を提出。向大野は「すぐに大島議長の指示をあおいで警察に連絡しており、適切な対応だったと考えている」と述べた。この手紙について、警視庁は同15日中に津久井署に情報を提供した。
植松は2016年2月17日、LINEで同級生らに「重度の障害者たちを生かすために莫大な費用がかかっている」などと自説を展開するメッセージを一斉送信し、その後直接電話をかけた同級生には犯行への加担を要求し、反論した友人に「お前から殺してやる」と脅したばかりか激怒した友人から「ふざけるな」と殴られても考えを改めなかった。
さらに植松は、2016年2月18日の勤務中に同僚職員に「重度の障害者は安楽死させるべきだ」という趣旨の発言をして施設側から「ナチス・ドイツの考えと同じだ」と批判されたが、その主張を変えなかったことから、翌19日に同施設が警察に通報し、これに対応した津久井署は「植松が他人を傷つけるおそれがある」と判断して相模原市長精神保健福祉法23条に基づき通報を行った。同市は措置診察を行うことを決め、1人の精神保健指定医が「入院の必要がある」と診断したため、精神保健福祉法に基づいて北里大学東病院へ緊急措置入院を決定した。植松は同日、勤めていた同施設を「自己都合」により退職した。さらに、翌20日には尿から大麻の陽性反応が見られ、22日に別の2人の精神保健指定医の診察を受けたところ、指定医の1人は「大麻精神病」「非社会性パーソナリティー障害」、もう1人は「妄想性障害」「薬物性精神病性障害」と診断した。市は同日、植松を正式な措置入院とした。指定医は「症状の改善が優先」などとして警察には通報せず、市は3月2日、医師が「他人に危害を加えるおそれがなくなった」と診断したため、植松を退院させた[94]。
植松は2016年2月ごろに「ニュー・ジャパン・オーダー(新日本秩序)」と題して「障害者殺害」「医療大麻の解禁」「暴力団を日本の軍隊として採用」などの計画を記した文章を書き記していたほか、同級生に対して「革命」という言葉を繰り返し使っていた。
なお植松は「イルミナティ」と呼ばれるカードゲームの愛好者で、「『1001』は聖なる数字だ」という考えから本来は2016年10月1日に施設襲撃を計画していたが[106]、事件前日の2016年7月25日未明に相模原市内で知人男性2人と会った際に、うち1人から「自分が狙われている」と感じたため実行の前倒しを決断した。
『日本経済新聞』の報道によれば「事件前日に『暴力団関係者と親交があるとされる知人』から『お前は暴力団組員に追われている』と告げられたことが心理的な圧力になり、襲撃を翌日に前倒しするとともに襲撃できなくなることを危惧して(後述の件で)津久井署に出頭し自動車の鍵を受け取ったあと、周辺のホームセンターで結束バンドを購入したり自宅から包丁を持ち出したりして犯行を準備した」。
『朝日新聞』の報道によれば「自分は大麻の合法化を訴えているので大麻を資金源にしている暴力団から狙われている。殺される前になるべく早く事件を決行しなければ」という思い込みから実行の前倒しを決意した。
植松は知人2人と別れたあと、バスなどで京王線の駅に向かい、始発電車で新宿駅に向かった。同日午前、新宿の漫画喫茶で仮眠を取り、昼ごろに相模原市内のファストフード店に車を放置したとして母親を通じ津久井署から呼び出しを受け電車で相模原市に戻った。植松は車を引き取ったあと、自宅から包丁などを持ち出し、東京都内のホームセンターでハンマーや結束バンドなどを購入して犯行の準備をした。その後植松は車で再び都内へ向かい、新宿のホテルの一室を借りて室内で頭髪を金色に染めた。午後9時ごろに植松は好意を寄せていた知人女性と待ち合わせて高級焼肉店で食事し、その際に女性に障害者襲撃計画を話した。食事後、植松は都内のホテルに滞在してから相模原市に戻り、翌26日午前1時ごろにホテルを出て車で「津久井やまゆり園」に向かい、2時ごろに園内に侵入して凶行に及んだ。
植松は犯行後、津久井署へ出頭する直前の午前2時50分にTwitterに「世界が平和になりますように。beautiful Japan!!!!!!」という内容のツイートを、自撮り写真を添付してTwitterに投稿していた。Twitterは2014年11月に開始したが、投稿は意味不明なものや幼稚なものが多く、Twitterアカウントのプロフィールページのヘッダー画像には「マリファナは危険ではない」と書かれた画像が使用されていた。植松は車で出頭する途中、コンビニエンスストアに立ち寄ってトイレを利用し、そこで手や腕に付着した血を洗ったあと、千円札で菓子パンを購入していた。コンビニの防犯カメラの画像などから、犯行時と出頭時は同じズボンとシャツを着用しており、服には血もついていたという。
植松は逮捕後の26日夜、取り調べの中で「突然のお別れをさせるようになってしまって遺族の方には心から謝罪したい」と遺族への謝罪の言葉を口にしたが、一方で被害者への謝罪は行っておらず、障害者に対する強い偏見を表す形となった。植松は麻薬と覚醒剤の尿検査には応じたが、大麻使用の尿検査を拒否したため、強制採尿した結果、大麻の陽性反応が出た[102]。
神奈川県警が27日に植松宅を家宅捜索した結果、微量の植物片が見つかり、分析により大麻であることが確認された。
さらに植松は、障害者を「税金の無駄」と揶揄する一方で、自らは事件前、3月24日から31日の8日間にかけて生活保護を受給し、それを遊興費として浪費していた。数百万円の借金があったという報道もなされている。植松は3月24日に福祉事務所の窓口を訪れ「親族の援助もなく、1人で暮らしている」「預貯金が底をついてしまった。働いていないので生活できない」と訴え、これを受けて相模原市はこの時点で植松に収入がないことなどを確認し、生活保護費用を4月3日に給付した。給付分は3月24日から31日までの日割り分と4月分だったが、4月下旬に雇用保険が支払われたことを確認したため4月分は返還されたという。
逮捕後、取り調べで植松は「今の日本の法律では、人を殺したら刑罰を受けなければならないのは分かっている」と供述する一方で、「権力者に守られているので、自分は死刑にはならない」という趣旨の発言もしている。また、「事件を起こした自分に社会が賛同するはずだった」という趣旨の供述もしている。
捜査関係者によると、植松は「障害者の安楽死を国が認めてくれないので、自分がやるしかないと思った」と供述した。こうした偏見に至った背景について、中学時代に障害を持つ同級生と関わったことや、園で働いた経験などを挙げ、「障害があって家族や周囲も不幸だと思った。事件を起こしたのは不幸を減らすため。同じように考える人もいるはずだが、自分のようには実行できない」とした。そのうえで「殺害した自分は救世主だ」「(犯行は)日本のため」などと供述している。
植松は、その後も2019年4月現在に至るまで重複障害者に対する差別的な言動を一貫して繰り返している。





 
 
 

 
 
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