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2006年5月~2025年4月
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山崎浩子のレオタード

2022年10月20日 | 異性

山崎浩子(1960年1月3日 - )

 
全日本選手権では、1980年から1984年まで“個人総合5連覇”を達成し、“新体操人気の火付け役”となった。
1979年、世界選手権大会(ロンドン)個人総合で20位。
1981年、世界選手権大会(ミュンヘン)個人総合で12位。
1983年、世界選手権大会(ストラスブール)個人総合で34位。
1983年7月、実父が死去。
1984年8月、ロサンゼルスオリンピック個人総合で8位入賞し、
この出場を最後に引退した。







1988年夏、友人T子の自宅に女性2人が訪問。その後、T子は手相や字画を見るという男性から印鑑を買った。山崎はT子の話を聞いて興味を持ち、この男性と会う。
1989年1月、再度会った席で言われた「今が転換期」との言葉に共感し3本120万円の印鑑を買った。その頃は成長願望が強かったこともあり男性に紹介された自己啓発センターのビデオ学習を受け始め、ある日見たビデオの「人類はサタン(悪魔)の子」との言葉にショックを受けたが、今はメシア(再臨主)が来る時代とのメッセージを聞いて救われた気持ちになった。講義では、メシアとは統一教会(現・世界平和統一家庭連合)の創始者の文鮮明であると告げられる。山崎が大学4年生だった頃に教会の勧誘が盛んになり始め、高価な壺を買った新体操部員がいて問題になっていた。また教会の合同結婚式の写真を見て立腹していたこともあり、その教会の講義を受けていることに怒りを覚えたが、友人Tに諭されて受講を続けるうちに教会の教義である統一原理にのめり込む。付き合っている相手がいたが、人類の罪を清算するためには神が選ぶ相手と結婚する必要があるという統一原理を学ぶうちに罪の意識に苛まれるようになり、交際を解消した。山崎は文鮮明について何も知らず見た目も気に入らなかったが、迫害を甘んじて受け入れたという文と高校で新体操部のために尽くした監督を重ね合わせるうちに文を信じる気持ちになった。真冬の水行をこなし、多くの先祖たちが救われるならと考え多額の献金を行った

1991年夏、この年に合同結婚式(祝福)が行われることを知る。祝福は神の審判とも呼ばれ、かつては仕事を辞め自己を投げうつ献身者と呼ばれる信者しか受けることができなかったという。そのような苦しい経験がないまま祝福を受けることに恐怖を感じ、1週間の断食に挑戦し成功。その後知り合った男性から好意を伝えられたが、祝福を受ける以外に救われる道はないとの思いから関係を絶つ。合同結婚式は延期になった。

1992年3月14日、屋久島に一人で住む母親が死去。享年59。母の死をきっかけにためらっていた祝福を受ける決心をする。夏に行われる合同結婚式に参加することが6月25日発売の週刊文春で報じられる。同日夜、記者会見を開き、入信の動機などについて答えるとともに、文鮮明が選ぶ相手ならどんな人物でもいいと述べた。この会見は全国の教会員から絶賛されたが、親戚からは結婚を猛反対された。

1992年6月30日教団から連絡があり、指定されたホテルオークラの一室に行くと、日本統一教会の神山威会長と原理研究会の大塚克己会長のほか一人の男性がいた。「浩子さん、この人があなたの相対者」と神山が言った。それが大和証券に務める、当時28歳の勅使河原秀行であった。山崎はその場で結婚を了承。断ることは当初から考えていなかった。

1993年3月6日、N子の家で勅使河原の両親とN子夫婦が初めて顔を合わせる。教会への批判や指摘に終始したまま勅使河原の家族が帰る。その後、墓のことで話があるとやって来た叔父夫婦が結婚について別の場所で話し合いたいと持ちかけた時には、これが教会で聞かされてきた拉致・監禁だと気付き涙が止まらなかったが、逃げてはいけないと考え従う。連れて来られたのはマンションの一室だった。宮崎県に住んでいた叔父夫婦は仕事を辞めて名古屋まで赴いた。
同年3月14日、山崎とN子は母親の命日を迎える。夜、N子が「私が牧師さんとつながっているのは知っているよね」と言うと、山崎は布団にもぐりこんだまま、黙ってうなずいた。3月15日朝、山崎はN子に「牧師を呼んでほしい」と言った。同日夕方、杉本と清水はマンションを訪れ、山崎と初めて面会した。16日と17日は清水が話し合いの場に赴いた。18日から5日間、山﨑と杉本は話し合いを続けた。教祖と信者が性交渉する「血分け教」の詳細を聞かされると、山崎は激しく泣いた。教会の統一原理がキリスト教とは相容れないことや文鮮明の経歴や教会のルーツの嘘、自身がマインドコントロールされていたことに気付き脱会を決意。

1993年4月21日午前7時過ぎ、港区赤坂のTBSホールで記者会見を開催。46日ぶりに報道陣に姿を見せ、入信している統一教会を脱会する意向を表明した。
その後、友人T子も牧師に会って話を聞き脱会を決意。山崎は新体操スクールのスタッフや生徒の親からコーチ復帰を歓迎されたが職を辞した。勅使河原には牧師に会ってほしいと手紙を出していたが願いは伝わらず、8月に別れを告げた


統一教会「勅使河原秀行さん」が30年ぶりに登場

旧統一教会(現・世界平和統一家庭連合)は9月22日、“教会改革”についての記者会見を開いた。そこに「教会改革推進本部本部長」という勅使河原秀行氏が登場し、ネット上は騒然とした。担当記者が言う。 

「勅使河原さんは1992年7月、かつて新体操の選手として活躍し、タレントとしても人気を誇っていた女性の婚約者として、記者会見に登場したのです。後に女性は洗脳が解けて脱会しますが、当時は統一教会の信者でした」  勅使河原氏と女性は翌8月、ソウルで開かれた合同結婚式に参加した。この時、歌手の桜田淳子氏も参加しており、2組の夫婦は記者会見を開いた。 「勅使河原さんは京都大学を卒業し、当時は大和証券に勤務するエリートサラリーマンでした。人気タレントだった女性に相応しい夫として、統一教会が宣伝に使ったのです。しかし彼女は、93年に統一教会からの脱会と結婚の“破談”を記者会見で表明しました」(同・記者)  一方の勅使河原氏だが、婚約発表や合同結婚式だけでも、マスコミの注目を集めるには充分だった。それどころか、女性に“家出”されても、カメラの前で「彼女は改宗しない。必ず僕と結婚します」と大見得を切った。  これが話題にならないわけはなく、当時、勅使河原氏の姿はテレビのワイドショーを中心に連日のように報道されていた。  さすがに女性との結婚が破局してからは、テレビで近況が伝えられることはなかった。とはいえ、当時の視聴者に鮮烈な印象を残したことは間違いない。
昔も今も“客寄せパンダ”
 そんな勅使河原氏が突然、「教会改革推進本部本部長」として記者会見に臨んだのだから、多くの人が驚きの声を上げたのは当然だと言える。ツイートを引用しよう。 《まさかこの人物が30年ぶりに登場するとは驚きだ》 《統一教会は離婚したら地獄に落ちると言われてたけど、勅使河原さん大出世したのね》 《テッシー、懐かしい(笑) 嫁さんになるハズの体操選手に逃げられた悲劇の人と思ってたら、本部長にのし上がってた》  民放キー局の関係者は「統一教会は会見に注目を集めようと、勅使河原さんを起用したのだと思います」と言う。 「40代以上なら誰でも、勅使河原さんのことが記憶に残っています。“改革”をアピールしたい統一教会にとっては、とにかく世間の耳目を集める必要があった。会見で彼を抜擢するとは、知恵者がいるなと思いました。しかし、それにしても勅使河原さんは、昔も今も“客寄せパンダ”の役割が期待されているんですね」  確かに世間の関心を集めることには成功したようだ。だが、それで騙されるほど視聴者は甘くない。勅使河原氏には批判が集中した。会見の内容については、統一教会の問題に詳しい有田芳生氏や弁護士の紀藤正樹氏も問題点を指摘した。

 写真週刊誌「FOCUS」(新潮社・休刊)は93年5月、「『破断された』統一教会『勅使河原秀行』男の研究」の記事を掲載した。  勅使河原氏がどのような人物なのか、幼少期から遡って徹底的に取材したものだ。当時の記事を要約して紹介する。  勅使河原氏は愛知県一宮市の生まれ。3人きょうだいの長男で、弟と妹がいる。父親は大阪に本社のある繊維問屋の取締役で一宮支店長。ごく普通の中流家庭に育ったと言っていい。 「小学校の頃は、腕白でケンカもよくした。やんちゃで、学校でも指折りのイタズラっ子でした」(幼なじみ)  中学から剣道を始め、高校では副将として地区大会で団体準優勝もしている。 「スポーツマンだし、ユーミンやオフコースが好きでコンサートにもよく行っていた。統一教会なんて、当時の姿からはピンと来ませんね」(高校の同級生)  成績は常にトップクラス。 「ただ、女の子に対しては無頓着なタイプだった。身だしなみに気を使わないし、女の子に敬遠されるタイプでした。それに理屈っぽくて、どこまでも自分の考えを主張する奴だった」(他の同級生)
「24時間教会に身を捧げたい」
 一浪後、京大の農学部農林経済学科に入学した。 「医学部を勧めたんですが、息子の希望で農学部にしたんです。本人は“何年か先、世界は食糧危機の時代が来る。人口も増加する一方だから、コントロールしないといけない。そのために勉強したいんだ”と言う。将来は国連で働きたいと言っていました」(父親)  その「理想主義」的なところが、統一教会に入信する素地になったのかもしれない。勅使河原氏は大学3年生の時から授業に出なくなる。統一教会の学生組織、原理研究会に入会したのである。  原理運動に熱中したせいか、勅使河原氏は4年生になっても卒業できず留年。「筋金入り」の原理研メンバーになっていた彼は、大学卒業後の進路について、「教会の職員になって24時間教会に身を捧げたい、と思っていた」(関係者)  が、両親が反対。 「“なんとか普通の会社に就職してくれ。3年経ってまだその時、原理をやりたいというのなら認めよう”と言いました。世間の波に揉まれたら考えも変わると思ったんです」(父親)  勅使河原氏は、この条件をのむ。

「原理研の責任者に相談すると、“これからの時代は、信者はどんどん社会に出て行かないといけない”と言う。統一教会はグループとしてあらゆる企業を持っているが、金融関係はまだそれほど強くない。で、大和証券を選んだんです」(父親)  最初の勤務先は岐阜支店。 「仕事は一生懸命やった。全国の新人の中で売上はトップ・クラスだった。本社の営業本部長表彰も何度も受けたし、褒美でオーストラリア旅行にも行かせてもらいました。数年で証券アナリストの試験に受かり、東京本社に栄転になった。もっとも、岐阜支店時代は、給料のうち小遣い以外はほとんど献金していた。ボーナスなどそっくり全部献金していた。おかげで貯金なんて全然できなかったようだ。3年経ったところで、息子に統一教会のことを聞いたんです。すると“気持ちは変わらない”と言う。それで、もう仕方ないと諦めました」(父親)  その彼が、どうして(中略)相手に選ばれたのか。 「表向きは文鮮明教主の“マッチング”によるものと言われますが、実際に選んだのは神山威名誉会長です。勅使河原さんは一流会社勤務のエリートサラリーマンだし、京大出で学歴も高い。統一教会が社会的認知を得るためにはいい。つまり、彼も“広告塔”としては適当だろう、ということで選ばれただけなんですよ」(関係者)  FOCUSの記事は最後、《統一教会に忠誠を誓うあまり、男として最低の屈辱を味わった勅使河原さん。婚約者に「破談」を言い渡され、その上会社の信頼まで失って、それでも教会に「殉ずる」のだろうか》と結んでいる。
(デイリー新潮編集部 2022.9)




 

 


 

 

 

 

 


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