すそ洗い 

R60
2006年5月からの記録
ナニをしているのかよくワカラナイ

ONE LOVE ボブ・マーレイ

2024年05月19日 | 映画・テレビ・動画

この45年、レゲーは聴いたり聴かなかったり

ボブマーレーも聴いたり聴かなかったり

この1-2年は全く聴いてなかった

この映画はよく聴いてた曲は8割あったので疎外感は無し

でもボブマーレーの人生の出来事は何ひとつ知らなかった

サッカー好きやねんね、

みんなでよくジョギングしてんねんね

ジャマイカってそんな紛争多かったんやねー

って何も知らんかった

映画のボブマーレー役の人は本物よりオトコマエ

最後に実物のボブマーレーがたくさん映ってたけどブサイクやでー

でも本物の方が泥臭くてエネルギーがハンパなくエグイ

映画の出来は可もなく不可もなく

平和ボケしてる日本人やから 

多国の紛争がイマイチよーわからんのと興味が湧かんねんわー

ゴメン

ちなみにエンドロールのラストの曲は

ボブマーレーのいっちゃん好きなラスタマンチャットやったんで嬉しかった

映画『ボブ・マーリー:ONE LOVE』公式サイト

 

ボブ・マーリー

 

ロバート・ネスタ・マーリー英語Robert Nesta Marley OM1945年2月6日 - 1981年5月11日

 

1957年、マーリーはセデラと共にキングストン郊外のスラム、トレンチタウンの官営地に引っ越す。マーリーたちが住む借地には、同じく引っ越してきていたバニー一家も住んでいた。二人はアメリカのラジオ局から放送される最新のR&Bや新しいスカ音楽などを聴き、音楽への探求を深めていった。新しい学校にも通うようになり、マーリーはこの頃から読書、特に聖書に親しんでいた。そして休み時間には友達とサッカーをしていたという。

1959年、マーリーはクイーンズ・シアターのタレント・ショーで初めて正式に大衆の前に立ち、歌を一曲披露、賞金1ポンドを獲得する。歌では食べていけないと心配したセデラの勧めで溶接工の仕事に就く。しかし仕事中に金属片が目に入り込むケガを負ったことをきっかけに、夢であったミュージシャンを目指す決意を固める。マーリーとバニーは、サード・ストリートに住んでいたシンガーのジョー・ヒッグスが開く無料の音楽教室に参加し、音楽的指導とラスタファリ運動の教えを受けた(マーリーたちはセカンド・ストリートに住んでいた。)。その際にウィンストン・マッキントッシュ(ピーター・トッシュ)と出会う。1961年、マーリーは既に作曲を始めており、レスリー・コングのビヴァリーズ・レコードの店へ売り込みに行くも門前払いを食らう。

 

マーリーは1962年のはじめから再び店を訪ねてオーディションを受け、自身の作曲した「Judge Not」を披露。その後ビヴァリーズ・レコードから「Judge Not」「Do You Still Love Me?」「Terror」の3曲を発表、ボビー・マーテル(Bobby Martell)名義では「One Cup Of Coffee」の1曲を発表した。

1963年、セデラがセカンド・ストリートの家を離れアメリカへ行くと、マーリーはトレンチタウンで路上生活をするようになった。この時の体験が1974年発表のアルバム『Natty Dread』収録の名曲「No Woman No Cry』を生んだ。同年、マーリーはバニー・ウェイラーピーター・トッシュ[注 1]、ジュニア・ブレイスウェイト、ビバリー・ケルソ、チェリー・スミスらと共にザ・ティーンエイジャーズを結成。後に彼らは名前をザ・ウェイリング・ルードボーイズ、ザ・ウェイリング・ウェイラーズと変更していくが、スタジオ・ワンのレコードプロデューサーであるコクソン・ドッドと契約する頃、最終的にザ・ウェイラーズになった。

 

1963年の暮れにスタジオ・ワンから発表したシングル「Simmer Down」が、1964年2月にはJBC(ジャマイカ放送)などで1位を獲得、約80,000部を売り上げる大ヒットとなった。のちにレゲエの象徴ともなる名曲「One Love」も、この時期にボブによってスカ・バージョンで作られている。1966年までにブレイスウェイト、ケルソ、スミスがザ・ウェイラーズを去り、マーリー、バニー・ウェイラーピーター・トッシュの3人が残された。ちなみに「タフ・ゴング」というニックネームがついたのはこの頃である。

1964年、祖父オメリア・マルコムが他界し農地の一部を相続する。1965年、同じくスタジオ・ワンで活動していたグループ、ザ・ソウルレッツ(リタ・アンダーソンが在籍。)の指導を任された。

1966年2月10日、リタ・アンダーソン(19)と結婚。そして翌朝には職を求め(スタジオ・ワンでは曲がヒットしてもメンバーに金が入ってくることは殆どなかった。)、デラウェア州ウィルミントンに住む母セデラの下へ飛び発つ。ドナルド・マーリーという名前でクライスラー社の自動車工場のライン工員、デュポン社の実験研究室の助手として働いた。なお、駐車場の係員やレストランの皿洗いなどのパートも経験したといわれている。カトリック教徒として育ったマーリーだったが、セデラの影響から離れている間に「ラスタファリ運動への関心をさらに高め」ており、マーリーもこの頃からドレッドヘアにするため髪を伸ばし始めた。マーリーのいない約8ヶ月間、ザ・ウェイラーズはマーリー抜きで活動を続けた。同年10月にキングストンへ戻った後、正式にラスタファリに改宗。

1966年、デラウェア州での仕事で得た資金をもとにバニー、ピーターと共に自らのレーベル「ウェイリン・ソウルム」(Wail 'n' Soul'm)を発足する。しかし短期間で経営難になり、ウェイリン・ソウルムも業界から姿を消した。

 

 

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