すそ洗い 

R60
2006年5月からの記録
ナニをしているのかよくワカラナイ

福田村事件 1923年9月6日

2022年07月04日 | ヒトゴロシ
1923年9月6日

1923年3月に香川県を出発していた売薬(当時の「征露丸」や頭痛薬、風邪薬など)行商団15人は、関西から各地を巡って群馬を経て8月に千葉に入っていた。
9月1日の関東大震災直後、4日には千葉県にも戒厳令が敷かれ、同時に官民一体となって朝鮮人などを取り締まるために自警団が組織・強化され、村中を警戒していた。
『柏市史』によれば「自警団を組織して警戒していた福田村を、男女一五人の集団が通過しようとした。自警団の人々は彼らを止めて種々尋ねるがはっきりせず、警察署に連絡する」
「ことあらばと待ち構えていたとしか考えられない」という状況だった。
生き残った被害者の証言によると、関東大震災発生から5日後の1923年9月6日の昼ごろ、
千葉県東葛飾郡福田村(現在の野田市)三ツ堀の利根川沿いで、
休憩していた行商団のまわりを興奮状態の自警団200人ぐらいが囲んで「言葉がおかしい」「朝鮮人ではないか」などと次々と言葉を浴びせていた。
福田村村長らが「日本人ではないか」と言っても群衆は聞かず、なかなか収まらないので駐在の巡査が本署に問い合わせに行った。
この直後に惨劇が起こり、現場にいた旧福田村住人の証言によれば「もう大混乱で誰が犯行に及んだかは分からない。メチャメチャな状態であった」。
生き残った行商団員の手記によれば「棒やとび口を頭へぶち込んだ」「銃声が二発聞こえ」「バンザイの声が上がりました」。
駐在の巡査が本署の部長と共に戻って事態を止めた時には、すでに15名中、子ども3人を含めて9名の命が絶たれており、
その遺体は利根川に流されてしまい遺骨も残っていない。
かけつけた本署の警察部長が、鉄の針金や太縄で縛られていた行商団員や川に投げ込まれていた行商団員を「殺すことはならん」「わしが保証するからまかせてくれ」と説得したことで、
かろうじて6人の行商団員が生き残った。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ブラックフォン | トップ | 米シカゴ近郊でパレード中に... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ヒトゴロシ」カテゴリの最新記事