どれが道義的に善い、悪いということでなく、いろいろな考えがある。善い悪いではないからこそ、どれを決定とするかに多数決という制度をとる。………*
よって、「国民、市民からの支持率が低い」というのを責めるのはナンセンスでしょう。選挙出馬の当事者やそれに準ずる立場の方は、ご自身の生活がかかっているでしょうから「勝敗」を言うのは理解できます。一方、報道媒体が「勝った」「負けた」と言うのを私は理解できません。支持者が少ない、あるいは減少したことを第三者が問題視するのは、様々な意見が出され意見を交わすという民主主義のあるべき状況を妨げる危険性をはらんでいる、と言えるのではないでしょうか。
また、選挙での獲得議席が少なくても政党構成者が謝る必要はないと思います。確かに、政党構成者自身が有権者に対して謝りたい、というのは理解できます。しかし、マスメディアが政党に謝罪を促すようなことは、多数意見へ集約させる思想統制とさえとれるでしょう。というのも、前述の*に加えて、選挙結果には政策を精査していないで投票した方の意志も加わっているからです。選挙結果(政策を精査していないで投票した方の意見も含まれた結果)をそのまま正当化・正統化する考えは、「赤信号、みんなで渡ればこわくない」という危険な考えに繋がりかねません。コペルニクスが地動説を唱えて賛同を得られなかったとき、はたまた数多くの冤罪による社会的(=不特定多数からの)弾圧の歴史を見ても、多数決が正しいとは限りません。選挙の結果、民意、すなわち得票数の大小が、道義的な正当性・思想の正統性を保証するものではないということを認識しなければならない、と日々考えています。なお、この見解は現在の選挙制度へのあり方について論じたものではありません。
また、TBSニュース23のTwitter問答で、参院選後に「投票率が低く、これで民意が反映されているのか」という視聴者意見が紹介されていました。これについて、私は疑問を感じます。投票を自らの意志でしなかった(私は投票に行く立場です。が、人それぞれ興味関心の対象は異なるでしょうし、また考えあって行かない方もいるでしょう。)、すなわち、民意として反映されないことを望んだ方の意見を反映させる必要があるのでしょうか。
なお、民意というものについては、適菜収さんの新聞寄稿と絡めて以前に本ブログで書いていて、私の考えはそのときと変わりません。
よって、「国民、市民からの支持率が低い」というのを責めるのはナンセンスでしょう。選挙出馬の当事者やそれに準ずる立場の方は、ご自身の生活がかかっているでしょうから「勝敗」を言うのは理解できます。一方、報道媒体が「勝った」「負けた」と言うのを私は理解できません。支持者が少ない、あるいは減少したことを第三者が問題視するのは、様々な意見が出され意見を交わすという民主主義のあるべき状況を妨げる危険性をはらんでいる、と言えるのではないでしょうか。
また、選挙での獲得議席が少なくても政党構成者が謝る必要はないと思います。確かに、政党構成者自身が有権者に対して謝りたい、というのは理解できます。しかし、マスメディアが政党に謝罪を促すようなことは、多数意見へ集約させる思想統制とさえとれるでしょう。というのも、前述の*に加えて、選挙結果には政策を精査していないで投票した方の意志も加わっているからです。選挙結果(政策を精査していないで投票した方の意見も含まれた結果)をそのまま正当化・正統化する考えは、「赤信号、みんなで渡ればこわくない」という危険な考えに繋がりかねません。コペルニクスが地動説を唱えて賛同を得られなかったとき、はたまた数多くの冤罪による社会的(=不特定多数からの)弾圧の歴史を見ても、多数決が正しいとは限りません。選挙の結果、民意、すなわち得票数の大小が、道義的な正当性・思想の正統性を保証するものではないということを認識しなければならない、と日々考えています。なお、この見解は現在の選挙制度へのあり方について論じたものではありません。
また、TBSニュース23のTwitter問答で、参院選後に「投票率が低く、これで民意が反映されているのか」という視聴者意見が紹介されていました。これについて、私は疑問を感じます。投票を自らの意志でしなかった(私は投票に行く立場です。が、人それぞれ興味関心の対象は異なるでしょうし、また考えあって行かない方もいるでしょう。)、すなわち、民意として反映されないことを望んだ方の意見を反映させる必要があるのでしょうか。
なお、民意というものについては、適菜収さんの新聞寄稿と絡めて以前に本ブログで書いていて、私の考えはそのときと変わりません。