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Tada日記~~~

日常を綴ります☆

ベースボールキング

2015-02-12 02:46:00 | エッセイ・評論

ベースボールキング 2月11日(水)13時45分配信 から

(a)巨人はリリーフの頭数は多いが、中日の岩瀬仁紀、元阪神の藤川球児といった抑え投手を長く固定できない印象にある。

とあります。
これは

(b)巨人はリリーフの頭数は多いが、中日の岩瀬仁紀・元阪神の藤川球児のように長く固定された抑え投手を、配置できない印象にある。

(c)巨人はリリーフの頭数は多いが、中日の岩瀬仁紀・元阪神の藤川球児のような抑え投手を、長く固定できない印象にある。

などにしたほうが良いのではないでしょうか。
(a)の文意が(b)なのか(c)なのか、はたまたどちらでもないのかは分かりませんが、(a)を読むと、長く固定できなかった例として岩瀬・藤川の両投手が挙げられているように思えてしまいます((a)の文意がそうでないことは明白でしょう)。
もちろん、書いた方には明快な意図があるのでしょうが☆



批判についてのスタンス、氷水チャレンジ

2014-08-27 00:45:25 | エッセイ・評論
①文藝春秋2014年3月号「作家の本音座談会」で川上弘美さんは、芥川賞選考会後に爽やかさが残らないことについて「何かを推すというのは、同時に何かを切り捨てざるを得ないということだから。」と述べている。この川上さんの考えは、ジャーナリズム(分野に関わらず、自身の見解を述べる、という意味で)に携わる人すべてがもつべき、「見解を述べるということの覚悟」を提示したと言えよう。川上さんの意図からはずれるだろうが、さらに踏み込むならば、意見を出す以上は批判を受ける覚悟が必要だと思う。僕もその覚悟はつねに持っている。そもそも、「Aだ」という意見を出すということは、「Aでない」という意見を(自分としては)切り捨てた、ということだから。
もちろん、批判というのは、該当内容に対してのものであり(例えば、政治観についてであれば、それを人格などに絡めない、ということ)品を持ったものであるべきだと思う。もちろん、と書いたのは、これは僕の中で道義的公理(認めて、論理の出発点とするもの)のひとつだからだ。すなわち、品を持った上で、自分と異なる意見を含めて議論していき、「非難」はせずに「批判」をして提言していく、というのが僕が考えるジャーナリズムのあり方だ。批判を許さない、というのは、そもそも意見を出すことを許さない、という知性を欠いた見解と同等と言えよう。26日のNEWS23での桑田真澄さんは、品をもって批判、そして球数制限という提案をしていた。

さて、その点で気になるのが藤原紀香さんのブログだ。藤原さんはしんぶん赤旗で、意見を述べた。そこで彼女は、法案に対する賛否は述べていないのだが、彼女が法案反対であると解釈した人々がいたようだ。この解釈は確かに恣意的というべきもので、彼女の正しい意志(何を不特定に発表して、何を発表しないか、ということも含めて)を正確に捉えなかった人がいるのは悲しいことだ。その藤原さんは2013年11月22日のブログで、
『応援してくれる人は 批判する人の何倍もいてくれるから 勇気が出るよ(*^^*)』…(a)
『私も今回、そのお仲間に入れたようで光栄に思っていただけで、皆さんと同じように特定の政党に偏っていません。』…(b)
(ブログでの記述はbがaより前にある)
と述べている。

誤報をされたことに対して反論、批判するという藤原さんの姿勢を支持したい。しかし、自分の意見を言って、でも批判はされたくない、という(a)はどうなのだろうか。とは言え、読み返してみると、ここでの批判というのが、僕の言う「非難」に近いものを指している(つまり、彼女としては(高谷の言う)批判は了承しているが、(高谷の言う)非難に対して嫌悪感を覚えている)のだとも捉えられる。だとすれば、僕の杞憂に過ぎないことなのだが。
ただ、(b)については残念な見解といわざるを得ない。特定の政党に偏らないのは政治的イデオロギーのひとつとして構わないが、それを「皆さんと同じように」というのは政党支持者にたいする侮辱ではなかろうか。政党支持者は「皆さん」ではないのだろうか。残念な見解だ。
当然、藤原さんには意図があっただろうし、チャリティーやボランティアを継続している姿勢には頭が下がる。その上での、僕からの批判である。

なお、批判なんてされたくない、というのであれば意見を出さなければ良いし、僕はそれも立派な考えだと思う。僕自身、はっきり意見を述べているのは、批判されても構わない、というジャンルについてのみである。

②氷水チャレンジなるものが流行している。筋萎縮性側索硬化症の認知度を上げる、そして研究を支援する、という姿勢は支持したい。だが、その手法について批判させていただく。
(a)AさんがB,C,Dという3人を指名したとき、Bさんが氷水チャレンジによって体調を崩したらAさんは責任を取れるのか。
(b)他の病気について寄付する、自然災害について寄付する、ボランティアに行く、他の社会問題について寄付する、道端で困っている人を助ける、電車で物を落とした人がいたら声をかける、………。誰かを意図して、あるいは意図せず支援する、というのには様々な方法がある。その中のひとつ(筋萎縮性側索硬化症に対する支援そのものは支持している)について、つぎの3人に「思想の共有」を強く求めることは、全体主義化しているとさえ言える側面があるだろう。
筋萎縮性側索硬化症の認知度を上げる、そして研究を支援する、という姿勢は支持したい。氷水をかぶるのも個人の自由だ。ただ、個人的に勧めれば済むものを、インターネット上でつぎの3人を指名する、というのにはまったく賛成できない。

ひるおびと博士論文

2014-07-18 15:18:10 | エッセイ・評論
今日、TBSひるおびにおいて早稲田の博士論文について扱っていました。「論文中の画像と説明が合っていない」という旨の点などを指摘していましたが、実際の論文の該当部分を出さずにひるおびが図解したものをもとにコメンテーターがいろいろ言っていました。これこそ検証として安易なのではないでしょうか。
博士論文は査読を経て「公」にするものですから、(意見(=論文)を出す以上)批判を受けることもあってよいと思います。しかしながら、一次資料を出さずに、ひるおびがつくった情報を鵜呑みにしてコメントしている出演者の方には批評家としての倫理があるのでしょうか。
また、歌手のダイゴさんは論文冒頭部分の著作権侵害について、歌謡曲の歌詞を例えに出していましたが、これも的違いでしょう。論文においては「引用」という概念があり、結果として引用が多くなる(もちろん執筆者の新たな創造的発見・見解があるべきである)論文もあります。その性質を鑑みず、歌謡曲での例えを出して「自分はやらない」というのは、似て(いるように見せて)非なる構造を用いてミスリードを誘うレトリックと感じざるを得ません。(もちろん、引用を明示しなかった今回の小保方さんの盗用(と判断されても無理がない)行為は良くないものであると考えます。引用と盗用の区別をつけずに「他の作品でつかう」ことについてひとくくりにしてミスリードを誘うレトリックを用いたことに対して私は批判しています。)
また、司会の恵さんも論文の冒頭部分で他の論文を使う(引用と盗用の区別をつけていませんでした)に対して批判をしていましたが、論文の冒頭だからこそ有意義な引用もあるでしょう。
繰り返しになりますが、引用を明示しなかった今回の小保方さんの盗用(と判断されても無理がない)行為は良くないものであると私は考えます。また、ひるおびの製作者および出演者の方が深い思慮をもって番組に臨まれているであろうことも理解しています。その上で、結果として安易な検証となっていることはジャーナリズムとして好ましくないと考え、今回の批判に至りました。

すぽると

2014-04-16 00:16:09 | エッセイ・評論
本日のフジテレビすぽるとで、中日の和田選手の1000打点について
大学・社会人出身では古田敦也氏に続いて二人目という旨の解説がありましたが、「大学出身または社会人出身」なのか「大学出身かつ社会人出身」なのか、どちらなのでしょうか。もちろん、「または」「かつ」を・や,で代用することもあるでしょうが、明らかでない場合には明記していただきたいと思います。