①文藝春秋2014年3月号「作家の本音座談会」で川上弘美さんは、芥川賞選考会後に爽やかさが残らないことについて「何かを推すというのは、同時に何かを切り捨てざるを得ないということだから。」と述べている。この川上さんの考えは、ジャーナリズム(分野に関わらず、自身の見解を述べる、という意味で)に携わる人すべてがもつべき、「見解を述べるということの覚悟」を提示したと言えよう。川上さんの意図からはずれるだろうが、さらに踏み込むならば、意見を出す以上は批判を受ける覚悟が必要だと思う。僕もその覚悟はつねに持っている。そもそも、「Aだ」という意見を出すということは、「Aでない」という意見を(自分としては)切り捨てた、ということだから。
もちろん、批判というのは、該当内容に対してのものであり(例えば、政治観についてであれば、それを人格などに絡めない、ということ)品を持ったものであるべきだと思う。もちろん、と書いたのは、これは僕の中で道義的公理(認めて、論理の出発点とするもの)のひとつだからだ。すなわち、品を持った上で、自分と異なる意見を含めて議論していき、「非難」はせずに「批判」をして提言していく、というのが僕が考えるジャーナリズムのあり方だ。批判を許さない、というのは、そもそも意見を出すことを許さない、という知性を欠いた見解と同等と言えよう。26日のNEWS23での桑田真澄さんは、品をもって批判、そして球数制限という提案をしていた。
さて、その点で気になるのが藤原紀香さんのブログだ。藤原さんはしんぶん赤旗で、意見を述べた。そこで彼女は、法案に対する賛否は述べていないのだが、彼女が法案反対であると解釈した人々がいたようだ。この解釈は確かに恣意的というべきもので、彼女の正しい意志(何を不特定に発表して、何を発表しないか、ということも含めて)を正確に捉えなかった人がいるのは悲しいことだ。その藤原さんは2013年11月22日のブログで、
『応援してくれる人は 批判する人の何倍もいてくれるから 勇気が出るよ(*^^*)』…(a)
『私も今回、そのお仲間に入れたようで光栄に思っていただけで、皆さんと同じように特定の政党に偏っていません。』…(b)
(ブログでの記述はbがaより前にある)
と述べている。
誤報をされたことに対して反論、批判するという藤原さんの姿勢を支持したい。しかし、自分の意見を言って、でも批判はされたくない、という(a)はどうなのだろうか。とは言え、読み返してみると、ここでの批判というのが、僕の言う「非難」に近いものを指している(つまり、彼女としては(高谷の言う)批判は了承しているが、(高谷の言う)非難に対して嫌悪感を覚えている)のだとも捉えられる。だとすれば、僕の杞憂に過ぎないことなのだが。
ただ、(b)については残念な見解といわざるを得ない。特定の政党に偏らないのは政治的イデオロギーのひとつとして構わないが、それを「皆さんと同じように」というのは政党支持者にたいする侮辱ではなかろうか。政党支持者は「皆さん」ではないのだろうか。残念な見解だ。
当然、藤原さんには意図があっただろうし、チャリティーやボランティアを継続している姿勢には頭が下がる。その上での、僕からの批判である。
なお、批判なんてされたくない、というのであれば意見を出さなければ良いし、僕はそれも立派な考えだと思う。僕自身、はっきり意見を述べているのは、批判されても構わない、というジャンルについてのみである。
②氷水チャレンジなるものが流行している。筋萎縮性側索硬化症の認知度を上げる、そして研究を支援する、という姿勢は支持したい。だが、その手法について批判させていただく。
(a)AさんがB,C,Dという3人を指名したとき、Bさんが氷水チャレンジによって体調を崩したらAさんは責任を取れるのか。
(b)他の病気について寄付する、自然災害について寄付する、ボランティアに行く、他の社会問題について寄付する、道端で困っている人を助ける、電車で物を落とした人がいたら声をかける、………。誰かを意図して、あるいは意図せず支援する、というのには様々な方法がある。その中のひとつ(筋萎縮性側索硬化症に対する支援そのものは支持している)について、つぎの3人に「思想の共有」を強く求めることは、全体主義化しているとさえ言える側面があるだろう。
筋萎縮性側索硬化症の認知度を上げる、そして研究を支援する、という姿勢は支持したい。氷水をかぶるのも個人の自由だ。ただ、個人的に勧めれば済むものを、インターネット上でつぎの3人を指名する、というのにはまったく賛成できない。