円山公園の大枝垂れ桜を始め、全国の桜を育て、パリやニューヨーク等世界各地でも日本庭園を手がけ、枯れかけた桜を再生する桜守として知られている「植藤造園」(1832年創業)16代目・佐野藤右衛門さんのお庭があります。
嵯峨野や広沢の池から比較的近いので、桜の時期には道中の観光客の目にもとまりやすく、知らずと桜の美しさにつられて立ち寄った人も多いかもしれませんね。
萱葺きの屋根が素朴な味わいの民家、大きな石や灯篭と枝垂れ桜が印象的なお庭で、中でも日本にたった2本しか現存しないという紅南殿(こうなでん)という桜があります。
もう一本は、新潟の弥彦神社にあり、それが枯れたら絶滅なのだとか。
佐野さんは、これまでの功績からユネスコ本部よりピカソ賞を贈られています。
桜の一本一本に個性があり、自分も同じ生き物として、自然の一部という気持ちで桜を見る事をすすめています。
ちなみに、佐野さんは、交配種で人気者のソメイヨシノは「どれも同じで個性のない」ので嫌いなのだとか(笑)。
日本さくらの会の副会長でもある佐野さんの著書には「さくら大観」「京の桜」『桜のいのち、庭のこころ』や『桜よ』があります。
桜の開花情報が気になるこの季節。
桜をこよなく愛し、日夜、桜と向かい合って生きる、京都の三代目桜守・佐野藤右衛門さんに、桜を通して得た人生哲学から京都の桜の名所まで、ディープな桜のあれこれをうかがいました。
3代目桜守でいらっしゃるそうですが、そもそも「桜守」とはどういうお仕事なんでしょうか?
「うちは代々、仁和寺(にんなじ)の御室御所(おむろごしょ)に仕えて百姓をしてたんやけど、11代目が植木職を始めて、それがわしの16代目まで続いてます。
特に『桜守』と言われるようになったのは、14代目のおじいの時代から。おじいが無類の桜好きで、日本各地にある名桜を後世に残すには、その跡継ぎを作っておかねばならん、と思ったらしいです。
それで日本中、それこそ千島や樺太までも渡って、接ぎ穂をもらって歩いたらしいです。
その『桜狂い』を継いだのが、わしの親父とその弟の叔父。
親父たちもおじいと同じく、日本全国を歩いては、まだ名の知れていない桜や、すでに枯れてしまった名桜を復元したりしてましたけど、シベリア鉄道の沿線を桜で埋め尽くそう、なんて大した計画を持ってたらしいですわ。
残念なことに戦時中でしたから、思う通りには行きませんでしたが。
そのまた親父たちの遺志を継いだのが16代目(桜守としては3代目)のわし、ということになります」
佐野さんご自身が、「桜守」を継ごう、と思われたきっかけはあったんですか?
「祇園にある円山公園の枝垂桜は皆さんご存知ですねえ? あの桜は実は2代目なんです。
先代の枝垂桜は、それこそ名桜で、明治・大正・昭和と祇園の夜桜として、知らない人はおらんくらいでした。
親父が、その先代の枝垂桜から種をもらってきて、うちの畑に撒いたんです。
100ほど発芽したらしいですが、戦後まで無事に残ったのが4本。
それを、わしが生まれたのを記念して、わしが生まれたその日に植えたんです。
戦後まもなく昭和22年に先代の枝垂桜が枯れてしまい、親父が4本のうち1本だけはわしのために置いておいて、残り3本を京都市に寄附したんです。
寄附した3本のうち、1本は元の親桜があった場所に、ほかの2本は円山公園の東のはずれに植えました(1本は火事で焼け、1本は枯れ、現在残っているのは円山公園の枝垂桜のみ)。
だから、円山公園の枝垂桜は、わしと同じ80歳、わしとは兄弟みたいなもんですわ。
そう、その兄弟みたいな桜のうち、わしのために、とうちに残しておいた残りの1本が、不思議なことに親父が死んだ時に枯れたんです。
親父が倒れたその年から、なんや桜もおかしゅうなって、じわじわ弱ってきた。
なんとかその年は花を咲かせ、花が散った1ヵ月後に親父は亡くなりました。
親父の死後、突然、その桜が勢いよく葉を出したもんやから『これなら来年も大丈夫やな』と思った矢先、突然枯れた。不思議なもんでしょう。
それまで、親父の手伝いはしてましたけど、親父のように桜にのめりこむとは決めてなかった。
でもその時『自分も桜をやらんといかんなあ』と、つくづく思ったんです」
佐野藤右衛門(さのとうえもん)
1928年、京都市生まれ。
京都府立農林学校卒業。
天保3年より、植木職人として京都・仁和寺御室御所に仕えてきた“佐野藤右衛門”の16代目。
明治より造園業を営み、14代目より日本各地の名桜の保存につとめる「桜守」を継承。
故イサム・ノグチ氏デザインの、パリにあるユネスコ日本庭園を手がけた功績で1997年、ユネスコのピカソ・メダルを贈られる。
勲五等双光旭日章受賞。
『櫻よ』(集英社文庫)、『京の桜』(紫紅社)など著書多数。
京都の古都ならhttp://www.e-kyoto.net/
嵯峨野や広沢の池から比較的近いので、桜の時期には道中の観光客の目にもとまりやすく、知らずと桜の美しさにつられて立ち寄った人も多いかもしれませんね。
萱葺きの屋根が素朴な味わいの民家、大きな石や灯篭と枝垂れ桜が印象的なお庭で、中でも日本にたった2本しか現存しないという紅南殿(こうなでん)という桜があります。
もう一本は、新潟の弥彦神社にあり、それが枯れたら絶滅なのだとか。
佐野さんは、これまでの功績からユネスコ本部よりピカソ賞を贈られています。
桜の一本一本に個性があり、自分も同じ生き物として、自然の一部という気持ちで桜を見る事をすすめています。
ちなみに、佐野さんは、交配種で人気者のソメイヨシノは「どれも同じで個性のない」ので嫌いなのだとか(笑)。
日本さくらの会の副会長でもある佐野さんの著書には「さくら大観」「京の桜」『桜のいのち、庭のこころ』や『桜よ』があります。
桜の開花情報が気になるこの季節。
桜をこよなく愛し、日夜、桜と向かい合って生きる、京都の三代目桜守・佐野藤右衛門さんに、桜を通して得た人生哲学から京都の桜の名所まで、ディープな桜のあれこれをうかがいました。
3代目桜守でいらっしゃるそうですが、そもそも「桜守」とはどういうお仕事なんでしょうか?
「うちは代々、仁和寺(にんなじ)の御室御所(おむろごしょ)に仕えて百姓をしてたんやけど、11代目が植木職を始めて、それがわしの16代目まで続いてます。
特に『桜守』と言われるようになったのは、14代目のおじいの時代から。おじいが無類の桜好きで、日本各地にある名桜を後世に残すには、その跡継ぎを作っておかねばならん、と思ったらしいです。
それで日本中、それこそ千島や樺太までも渡って、接ぎ穂をもらって歩いたらしいです。
その『桜狂い』を継いだのが、わしの親父とその弟の叔父。
親父たちもおじいと同じく、日本全国を歩いては、まだ名の知れていない桜や、すでに枯れてしまった名桜を復元したりしてましたけど、シベリア鉄道の沿線を桜で埋め尽くそう、なんて大した計画を持ってたらしいですわ。
残念なことに戦時中でしたから、思う通りには行きませんでしたが。
そのまた親父たちの遺志を継いだのが16代目(桜守としては3代目)のわし、ということになります」
佐野さんご自身が、「桜守」を継ごう、と思われたきっかけはあったんですか?
「祇園にある円山公園の枝垂桜は皆さんご存知ですねえ? あの桜は実は2代目なんです。
先代の枝垂桜は、それこそ名桜で、明治・大正・昭和と祇園の夜桜として、知らない人はおらんくらいでした。
親父が、その先代の枝垂桜から種をもらってきて、うちの畑に撒いたんです。
100ほど発芽したらしいですが、戦後まで無事に残ったのが4本。
それを、わしが生まれたのを記念して、わしが生まれたその日に植えたんです。
戦後まもなく昭和22年に先代の枝垂桜が枯れてしまい、親父が4本のうち1本だけはわしのために置いておいて、残り3本を京都市に寄附したんです。
寄附した3本のうち、1本は元の親桜があった場所に、ほかの2本は円山公園の東のはずれに植えました(1本は火事で焼け、1本は枯れ、現在残っているのは円山公園の枝垂桜のみ)。
だから、円山公園の枝垂桜は、わしと同じ80歳、わしとは兄弟みたいなもんですわ。
そう、その兄弟みたいな桜のうち、わしのために、とうちに残しておいた残りの1本が、不思議なことに親父が死んだ時に枯れたんです。
親父が倒れたその年から、なんや桜もおかしゅうなって、じわじわ弱ってきた。
なんとかその年は花を咲かせ、花が散った1ヵ月後に親父は亡くなりました。
親父の死後、突然、その桜が勢いよく葉を出したもんやから『これなら来年も大丈夫やな』と思った矢先、突然枯れた。不思議なもんでしょう。
それまで、親父の手伝いはしてましたけど、親父のように桜にのめりこむとは決めてなかった。
でもその時『自分も桜をやらんといかんなあ』と、つくづく思ったんです」
佐野藤右衛門(さのとうえもん)
1928年、京都市生まれ。
京都府立農林学校卒業。
天保3年より、植木職人として京都・仁和寺御室御所に仕えてきた“佐野藤右衛門”の16代目。
明治より造園業を営み、14代目より日本各地の名桜の保存につとめる「桜守」を継承。
故イサム・ノグチ氏デザインの、パリにあるユネスコ日本庭園を手がけた功績で1997年、ユネスコのピカソ・メダルを贈られる。
勲五等双光旭日章受賞。
『櫻よ』(集英社文庫)、『京の桜』(紫紅社)など著書多数。
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