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Toshiが行く

日々の出来事や思いをそのままに

小さな徳

2024-12-18 06:00:00 | エッセイ

 

夜更けの交差点。信号は赤。

中年の男性がポツンと一人立っている。

右を見ても左を見ても、1台の車のライトもなく、

歩道を渡ろうと思えば何の心配もなく渡れるはずだ。

だが、その出版社の社長は青に変わるまでじっと待っている。

そんな社長の様子をたまたま見かけた社員が「どうしてなのか」問うた。

それに対する答えが、「少しばかりの徳を積んでいるのだよ」だった。

随分前のテレビドラマの1シーンだが、

このシーンだけは今でもよく覚えている。

 

     

 

「徳を積む」とは分かっているようで、

実際には何をどうすればそうなのか、よくは分からない。

改めて調べてみると、こう書いてあった。

まず「徳」=善行、つまり人に礼、見返りを求めない良い行い、とある。

だから「徳を積む」というのは、

簡単に言えば「人が見ていないところでも善行する」ということだろう。

テレビドラマのシーンが、まさにそのようなことだと思う。

 

他にどんなことがあるだろう。

「寄付や募金をする」「汚れている所があれば進んで掃除をする」

「下心なく相手が喜ぶことをする」――さしずめ、こんなことが思いつく。

まだまだ、いろいろとあるはずだ。

だが、今挙げたことだって「言うは易し」の類のことである。簡単なことではない。

さらに調べていくと、「徳を積む」第一歩は「愚痴らないこと」とあった。

これとて「言うは易し」であろう。

日本の政治のありさまにしても、何やかやの事件、事故。

つい愚痴りたくなろうというものだ。

 

 


同窓会

2024-12-11 08:53:47 | エッセイ

 

 

長崎市立佐古小学校──ここが我が母校であり、

その6年2組、男女それぞれ23人は1955(昭和30)年の卒業生である。

すでに82歳。皆、69年という年月を背負ってきた。

同窓生名簿はその重さを物語り、いささかやるせない。

すでに亡くなった人が6人、所在が分からない人も20人ほどいるし、

また加齢に伴う体調不良に悩まされている者も少なからずいるのだという。

 

長崎市で開いた同窓会には、市内とその近郊に住み比較的元気な人たち、

それに久しぶりに福岡から参加した僕を加え、男4人、女5人が集まった。

彼らは年に1、2回集まり近況を語り合っているのだというが、

残念ながら福岡からでは思うに任せず、

こうやって参加したのは皆で古希を祝った12年も前のことになる。

席上、その古希の祝いの際のビデオを見て「皆若いなあ」と大笑いとなったのだが、

12年間の我が身の無残な老化に愕然となったのが偽らざるところだった。

 

カラオケルームで開いたその同窓会は、にぎやかに歌うでもなし、

それぞれが近況を語り合い、ランチの時間を緩やかに過ごすのみだった。

46人のうちのたった9人だけ、その数だけをみれば何とも寂しくはあるが、

9人が互いの無事を確かめ合い、また69年間も持ち続けた〝仲間〟意識が

何とも心地良く感じられるのだった。

 

     

                     旧佐古小学校

 

その語り合いの中で、隣に座る顔艶もよく、山にもよく登るという彼が

「もう終活やっているか」と聞いてきた。

実は、らしきことは何もしていない。「特に何も」と返しつつ、

逆に「君は何かやっているの?」と尋ねてみた。

「写真の整理というか廃棄だね。

写真というのは自分だけの思い出になるものがほとんどじゃない。

そんなものを家族に遺したってしようがないよ」というのである。

 

僕にしても手元には随分と写真が溜まっている。

それらの大半は会社勤めの時のもの、

あるいは小学校から大学の間の記念写真みたいなものである。

これらは残された家族にどんな思いがつながるであろうか。

彼が言う通りなのかもしれない。

ただ、孫も含めた家族と一緒の写真を処分するとなると、やはりためらうだろう。

死後も孫や娘たちから暖かく、優しく見つめていてもらいたい。

懐かしんでもらいたいではないか。

 

あの佐古小学校は、今はもうない。

2016(平成28)年4月に近くにあった仁田小学校と統合され、

伴って校舎も解体されたそうだ。

ただ、跡地に建つ新校舎の写真には、わずかではあっても往時の学び舎が偲ばれ、

何だかホッとさせられる。

 

 

 


写真

2024-12-05 06:00:00 | エッセイ

 

あの写真はどこへ行ったのだろうか。

僕が1歳になるかならないか、そんな幼児の頃、泣きじゃくる僕を

母が膝に乗せ、抱きしめるようにあやしている、あの写真だ。

僕のおちんちんがぴょろりとのぞき、小学生くらいになると姉がそれを見せて、

大笑いしながらからかった、あの写真だ。

今でもはっきりと、しっかりと覚えている、あの写真だ。

 

今、手元にはA4の紙を半分に折ったものよりやや小さい角形7号の、

茶の封筒があり、その中に僕の若き日、中学生~社会人に成り立ての頃の日々が、

実に無造作に重なって入っている。

50枚ほどの写真。ほとんどが白黒で時代を表しているが、

なぜアルバムにきちっと貼るなどして大事に保存せず、

封筒にぽんと放り込み、それをまた書類入れの中に紛れ込ませていたのだろう。

 

中学生の頃の写真は、器械体操部の仲間と一緒に映っているものが多いが、

その中に2つ上の兄がいる。

白線のある学帽をかぶっているから高校生だったのだろう。

この兄は、中学の同じ部の先輩でもあったから後輩たちの何かの催し、

何だったか思い出せもしないが、それに飛び入り参加したようだ。

寡黙な兄だったが、この写真では後輩たちと肩を組み、楽しそうに笑っている。

 

高校、大学も大半が器械体操部の仲間たちと一緒だ。

競技大会でのもの、皆で小旅行したものなどが懐かしさを誘う。

 

そして、入社式の写真は同期生7人が前列に並び、

後ろには会社のお偉いさん方が新入社員より多く整列している。

54年も前、新調の紺の背広に白のポケットチーフが初々しい。

また10日間ほどの新入社員研修の際、寺で座禅を組み、

同期生たちと近くの山にハイキングを楽しむ写真などもある。

 

       

 

どうして、ここに入れていたのだろう。

平成7年に亡くなった母の葬儀の日の写真が封筒の中にあった。

当家は男4人、女2人の兄弟姉妹だ。僕はその一番下。

長男、次男、それに長女、次女、それに僕。

写真には5人が並んで写っている。一人欠けている。

中学生の時、部活の仲間と一緒に写っていた三男、2つ違いの兄がいない。

実は、彼はすでに母より5年早く他界していたのだ。

長兄、次兄とは10歳以上離れているが、

この兄とは2歳違いだから小さい頃からいつも一緒に遊んだ。

50歳ちょっと手前の若さだった。

 

1人欠けているとはいえ、兄弟姉妹が一緒に映っている写真は

おそらくこの1枚だけだろう。

母の葬儀というのに、なぜか皆笑顔である。

あれから29年たつ。残っているのは長女と僕の2人だけになった。

その姉も長年闘病生活を続けている。

 

あの写真は、この中にはない。もう一度見てみたいと思うが、もう無理だろう。

おそらく、母の手元にあったのではないかと思うが、

亡くなった際、家財道具を整理するのに取り紛れ行方知れずになったのだと思う。

二度と見ることは出来ないという少しばかりの寂しさはあるが、

あの映像の情景はこの年齢になっても、脳裏にしっかり焼き付いている。

実物を見ることはできなくとも、悔やむことはない。

僕を抱きしめ、あやしてくれた母。

あの写真は今、母の胸にしっかりと抱かれているはずだ。そう思う。

 

 


2024-11-28 11:31:10 | エッセイ

 

壁に白い板を設えただけの質素な祭壇には、マリア像に並べて

母、そして義父母の3人の遺影を飾っている。

うっすらと笑いを含んだ穏やかな表情。

それぞれに在りし日の良き思い出が偲ばれる。

ただ、本来あるべき我が父の遺影がない。

どんなに探しても見つけることが出来なかったのである。

 

まだ若かった頃、長姉が僕にこう言った。

「4人いる男の兄弟の中で末っ子のあんたがいちばん父ちゃんに似とるね。

いや、そっくりだわ。年を取ると、きっと頭も禿げるやろうね」

──よしてくれ、と思いはしたが姉は見事に言い当ててしまった。

毎朝、鏡を覗き込みながら「ええい、もう。親父の奴」と、

そのDNAを罵ってしまう。

 

実を言えば、頭の禿げ具合だけではない。足指の巻き爪もそうだ。

爪が内側にぐいと食い込んでおり、父が若い頃、

そんな爪にさんざん悩まされていたことを思い出す。

それと、アルコール類はまったくダメ、正真正銘の下戸だった。

「(酒粕で漬けた)奈良漬け1枚で顔が赤くなる」と言われたほどだ。

僕も若い頃には少しは飲んでいたが、もともとは飲めない質で、

正直言って酒をうまいと思ったことは一度もない。

これもDNAのせいなのかもしれない。

そうとあって、30年ほど前にあっさりやめて以降一滴のアルコールも口にしていない。

 

        

 

その父は入退院を繰り返す闘病の末、

昭和44年5月28日69歳で尽き果てた。

横たえられたその顔にはうっすらとヒゲが……

少しの温もりも喜怒哀楽も、何もかも失くした、

その頬や顎にそっと剃刀を当ててやった。

それはあたかも言葉を交わすことのない語らいに思えたことを思い出す。

 

そんな父であるが、写真1枚ないのではどんな顔つきだったのかさえ

忘れてしまいそうで何とも侘しい。

そんな思いをしていた時、長姉の一人娘、つまり姪の一言に驚かされた。

「あら、じいちゃんの写真ありますよ。母の結婚式の時のものですが……」

というのである。LINEで送ってくれた写真を見れば、

姉が言い当てたように禿げ具合なんかそっくり。

苦笑いと一緒に、あれやこれやと懐かしさがこみ上げてきた。

 

          

 

これで4人の親が揃った。

ただ、よくよく見れば、父だけがしかつめらしい顔をしている。

「親父め」悪態をつきながら微笑みを投げかけてやった。

 

 


鼻毛

2024-11-18 08:59:34 | エッセイ

 

 

50歳になるかならない頃だったと思う。友人が、

「お前もいよいよ爺の仲間入りだな」と言った。

いささかむっとして「そりゃ、なぜだ」と問うと、

「鼻毛、鼻毛。鼻毛がひょろっと出ていても一向に気にしない、そんな爺になったわけだよ」

ずばっと返されてしまった。

以来、鼻毛チェックを欠かさず、鼻穴から出かかったら小さなはさみでカットしている。

たまに、それを怠ると今度は長女から「お父さん、鼻毛!」とやられる。

 

この鼻毛、言うまでもなく鼻で呼吸した時フィルターの役割を果たしており、

塵埃や微粒子が気管支に入り込むのを防いでいる。

そうとあって、都市部など空気が汚れているところに住んでいる

人ほど鼻毛が長くなるのだそうだ。

そう言えば、比較的市街地に近い所に住んでいるし、

中心市街地に出かけることも多い。

ただし、都市部うんぬんは医学的な根拠はなく、もっぱら加齢が主因らしい。

そう言われれば、確かに年を取るにつれ、鼻毛の成長が早くなったように思う。

薄くなった頭を見て、「こちらこそ、そうあってほしいのに。なぜだ。理不尽ではないか」

そんな恨み言を垂れることしばしばだ。

 

また、フィルターの役割を果たしているとあれば、

むやみに抜いたり、切ったりしない方がよいとも言われるが、

鼻毛が出ているとやはり体裁が悪いに違いない。

友人が鼻穴から出ている鼻毛を見て、「お前も爺の……」と言ったのは、

こちらの体裁を案じてのことでもあったのだ。

 

         

 

実は、この鼻毛、文字通りの意味である「鼻の穴の毛」以外にも、

いろんなことの比喩の言葉として用いられる。

「鼻毛が長い」──女の色香に迷っている様。

「鼻毛を伸ばす、鼻毛が伸びる」──女に甘く、でれでれしている様。

                 「鼻の下を伸ばす」に近い。            

「鼻毛を読む、鼻毛を数える」──自分に溺れている男のだらしない様を見抜

                いて、女が思うままにもてあそぶこと。  

等々、男にとってあまり芳しくない比喩だ。ちょっと堅いところも一つ。

「鼻毛通し」──日本刀の柄頭にかぶせた金物にあいた緒を通す穴のこと。

        「端毛通し」とも言う。

 

今朝も髭を剃ろうと鏡をのぞき込むと、

あらら、鼻毛も伸びてきている。例の小さなはさみを取り出した。面倒くさ!