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Toshiが行く

日々の出来事や思いをそのままに

切なさ

2025-04-01 12:08:10 | エッセイ

 

 

なぜ、こうも切なくさせられるのだろう。

イヤホンから1950、60、70年代の、

いわゆるオールディーズが流れ込んでくる。

エルビス・プレスリー、アンディ・ウィリアムス、

ポール・アンカ、マット・モンロー、そしてエンゲベルト・フンパーディング……

ただ聞き流しているのに、次第に切なさが募ってくる。

 

曲名をすべて思い出せるわけではない。

また、格別の思いのある曲があるわけでもない。

たとえば好きな女性と一緒に聞いたなあ、といったような。

ただ、身も心も生命力にあふれた、

あの時代の自分自身のことを思い起こさせるだけである。

50年、60年も昔、「ああそんな時代もあったな」。

 

     

 

吉永小百合さんが女医役として主演している

『いのちの停車場』という映画がある。

年老いた人、まだ社会の第一線で活躍できるはずの人、

さらに本来なら前途洋々の子供……。

こんな人たちが次々と去っていく。

人にとって、どうしても避けることのできない死。

そして、「自分の死のしまい方」に直面していくのである。

苦しまず、人に迷惑もかけず死ねる。

よく言うピンピンコロリが理想だと、誰もが思う。

だが、「自分の死のしまい方」として、

そのように終えることがどれほどいようか。

映画は、許されるはずもない自死、安楽死といった難しい問題にも言及する。

 

オールディーズがオールディーズでなかった時代、

このような映画には、おそらく見向きもしなかっただろう。

それが今は、涙を流し続けながら見ているのである。

 

 


思い出の中に

2025-03-27 09:24:23 | エッセイ

 

新聞の人生相談欄には、様々な人たちの悩み、心配事が寄せられている。

読めば、同じような悩みに「うん、うん」と頷き、

中には「そうではあるまい」とちょっとばかり説教してやりたいような話もある。

人の世は、複雑な思いがさまざまに混在しているものだ。

 

「祖母が老衰で亡くなりました。近所に住み、

かわいがってもらった祖母なのに寂しくも悲しくもありません。

祖母と対面した葬儀の時には、遺体に触ることをむしろ不快に感じてしまい、

そそくさと逃げるように帰りました。涙も一度も出ません。

……悲しみがわかない私は異常なのでしょうか」──

 

20歳代の女性がこんなことを話していた。

これを読んで、ひどく寂しい思いに駆られた。

仮に僕が死んだ時、孫たちは悲しんでもくれず、

涙一滴流してはくれないのだろうか、と。

それではあまりにも切ないではないか。

僕の体にすがりついて、ワアワア泣いてほしい、と。

 

                     

でも、ちょっと待て。自身はどうだったか。

両親、あるいは兄や姉が亡くなった時、悲しい、寂しいと感じたか。

涙一滴流さなかったのではなかったか。

父が亡くなった時、すでに冷たく横たわるその頬に

うっすらと見える髭を剃ってやり、最後の孝行だと思ったことはある。

でも、特に悲しいという思いにはならなかった。

だとすれば、この女性を「何と冷たい人か」と責められるはずがない。

 

そうではあるが、父とのことをすっかり忘れてしまったわけではない。

「あんたは父ちゃんに生き写し」と姉たちから言われてきた僕だ。

毎朝、鏡を覗けば眉が長く伸び垂れている。

すると、「父もそうだったな」そんな思いがすぐに出てくる。

このように何かにつけ思い出すのである。

それは母に対しても、それから兄や姉にも対しても同様で、

それぞれに喜怒哀楽の思い出があり、

時にそれらを思い出しては無性に寂しく、あるいは悲しくなるのである。

 

孫たちが泣いてはくれなくとも、思い出の中に居させてくれ、

時々思い出してくれさえすれば、それで十分ではないか。

だから、生きているうちに孫たちの心に残る

楽しい思い出をたくさんつくっておこう。

「おーいランチはどうだ」孫息子にLINEすれば、

「OK。時間と場所を教えて」と返信してきた。

にやりとして、新聞をたたんだ。

 

 


心を解く

2025-03-23 09:09:32 | エッセイ

 

 

小学6年生が、担任教師に抱いた理不尽さ。それを70年ほども持ち続けてきた。

だが、その先生はすでに亡い。

 

6年生の1学期だった。仲の良いクラスメートが突然転校するという。

4年生の時からずっと同じクラスであり、そのまま肩を並べて卒業しよう、

そんな思いが消えていく寂しさに目が潤んだ。

同じように仲が良かった他の4人と話し合い、

何か送別の贈り物をしようということになった。

それぞれ1人50円の小遣いを出し合い、計250円を持って

皆でデパートへ行った。もちろん放課後のことである。

確かボールペンを買ったのではなかったか。

 

「じゃ、明日渡そうな」と言って、それぞれ帰りかけた時である。

帰宅途中の担任の先生とばったり出会ったのだ。

「お前たち、ここで何をしているのだ。早く帰らんか」。

学生時代、柔道で鍛えたがっしりした体格。

その有無を言わせぬ物言いに一言の言い訳もできなかった。

 

                   

 

それだけでは済まなかった。翌朝、「昨日の5人。後ろに並んで立て」

──もちろん僕らのことだ。おずおずと教室の後ろに立つと、

軍隊映画でよく見るように、端から順に往復びんたが飛んできた。

弁明は一切許さず、なぜかの理由も言ってくれない。

さらに屋上に連れていかれ、授業の間中コンクリートの上に正座させられた。

「転校していく友人に贈り物をするのは、そんなにいけないことなのか」

「なぜだ」「どうしてなんだ」心に呟きながら涙をぼろぼろと流し続けた。

 

そんな思いを消すことなく年を取っていった。

届いた同窓会の案内状には「○○先生をお招きして」と書き添えてあった。

瞬間、破り捨ててしまうおうかとさえ思った。だが、止めた。

転校していった彼も特別に招いたら、ぜひ出席したいとの意向だという。

その彼に呼ばれるように同窓会へと出かけて行った。

 

先生もいた。だが、言葉はまったく交わさなかったし、側に寄りもしなかった。

ただ、「先生も80を過ぎたか。随分爺さんになったなあ」そんな思いだけだった。

それから3年後。その年の同窓会には先生は来られなかった。

体調がすぐれないのだという。

それで、お見舞いを兼ねてご自宅を訪ねることになった。

「俺はやめておく」というわけにもいかず、同級生の後ろをついていった。

車いすの先生。往復びんたを見舞った時の面影は、消えてしまっていた。

亡くなったのはその翌年だ。

 

あの頃、先生は若く、経験も浅かった。

卒業後の先生を知る由もないが、きっと立派な教師に成長されたことだろう。

車いすの先生を見て、自分自身の頑なさが解けていった。

 

 

 


あの頃

2025-03-12 06:00:00 | エッセイ

 

 

52年も前のヒット曲に『あなた』(小坂明子)というのがある。

──もし家を建てるなら、大きな窓と小さなドア、部屋の中には暖炉。

真っ赤なバラとパンジーを飾り、あなたのそばには子犬がいる。

小さな家だけど、それが私の夢。いとしいあなたは今どこに──

「一億総中流」と言った頃の歌で、まさにそれを象徴するような歌詞だ。

 

あの頃の日本は1960年代以降の高度経済成長下、

68年にはGDPは世界第2位となり、所得倍増計画が打ち出されたこともあり、

国民の間に「自分は中流階級だ」との意識が急速に高まっていた。

70年の国民意識調査では約9割、要するにほぼすべての国民が

「自分は中流」と思っていたという。

『あなた』はまさに、それを象徴するような歌だったのである。

 

 

 

 

だが、あの高度経済成長はうたかたの夢と消えてしまった。

浮かれに浮かれたあのバブル経済が崩壊し、世界第2位だったGDPは、

今や米国、中国、さらにドイツにも抜かれ第4位に転落している。

また、これが国民一人当たりとなるとさらに驚く。

2023年のそれは、何と世界34位だし、

OECD加盟国の中ではお隣の韓国にも抜かれ22位に転落。

日本人の豊かさは思いのほか低くなっているわけだ。

そう言えば、訪日外国人がひどくリッチに見えるのも、

彼らの所得水準自体が高まっているのに対し、

日本のそれは上がっていないことも大きいのだろう。

 

ところが、専門家によると国民の間にはそうした

「中流」意識がいまだに残っているのだそうだ。

ただ、かつてのように「総」というわけではない。

一方では80年代以降所得格差が急速に拡大し続けており、

いまや「格差社会」とまで言われているになっている。

国民が「総中流」と思えるようなかつての勢いを取り戻すには、

為替、物価、金利、人手不足、米国・中国経済などさまざまな要因が絡み合う。

日本経済が復活するのはいつになるか、見通すのは簡単ではないが、

一日も早くそうあってほしいと誰もが願っているはずだ。

 

テレビなどで70年代の歌がカバーされ、盛んに歌われている。

「あなた」もそうだし、「喝采」(ちあきなおみ)、「ロマンス」(岩崎宏美)、

「木綿のハンカチーフ」(太田裕美)、「化粧」(中島みゆき)、「異邦人」(久保田早紀)……。

やはり、「総中流」と思っていたあの頃が懐かしいのだろうな。

 

 

 


プライド

2025-03-06 08:44:35 | エッセイ

 

 

プライド──誇り、自尊心、自負心。

人として持つべき大事なものだ。

だが、何事も「過ぎる」のは禁物。

高過ぎると、自己中心的で独善的、

上から目線の傲慢な態度で周囲から煙たがれる。

 

ある県の知事をされ、

後に総理大臣にまでなられた方であるが、

あまり良い印象が残っていない。

知事時代にお会いし、お話を伺ったことがあるが、

僕がまだ若輩だったこともあったのだろう、

終始上から目線で対応され、うんざりし、嫌気がさしたものだ。

広く名も知られた方だから

プライドが高いのは当然だろうが、

それがちょっと「過ぎた」ように、僕には思えた。

そんなことがあり、

世間の評判ほどに僕自身は、その言動をあまり信頼できなかった。

 

       

 

このような「過ぎた」人は、世間には結構多い。

「東大出身だ」などと高学歴をひけらかし、

あるいは高級官僚経験者、

さらには一流企業の役員等々……

社会におけるステータスを「どうだ」とばかり

周囲に見せつける。

そんな態度に周囲はうんざりしているのを知ってか知らずか……。

 

実は、そういう人は結構繊細で、

傷つきやすい性格なのだという。

だから、他人から傷つけられることを嫌がり、

自分を防御しようとして独善的、威丈高になるそうだ。

「低すぎる」と軽蔑されかねないし、

世における身の処し方はなかなかに難しい。