なぜ、こうも切なくさせられるのだろう。
イヤホンから1950、60、70年代の、
いわゆるオールディーズが流れ込んでくる。
エルビス・プレスリー、アンディ・ウィリアムス、
ポール・アンカ、マット・モンロー、そしてエンゲベルト・フンパーディング……
ただ聞き流しているのに、次第に切なさが募ってくる。
曲名をすべて思い出せるわけではない。
また、格別の思いのある曲があるわけでもない。
たとえば好きな女性と一緒に聞いたなあ、といったような。
ただ、身も心も生命力にあふれた、
あの時代の自分自身のことを思い起こさせるだけである。
50年、60年も昔、「ああそんな時代もあったな」。
吉永小百合さんが女医役として主演している
『いのちの停車場』という映画がある。
年老いた人、まだ社会の第一線で活躍できるはずの人、
さらに本来なら前途洋々の子供……。
こんな人たちが次々と去っていく。
人にとって、どうしても避けることのできない死。
そして、「自分の死のしまい方」に直面していくのである。
苦しまず、人に迷惑もかけず死ねる。
よく言うピンピンコロリが理想だと、誰もが思う。
だが、「自分の死のしまい方」として、
そのように終えることがどれほどいようか。
映画は、許されるはずもない自死、安楽死といった難しい問題にも言及する。
オールディーズがオールディーズでなかった時代、
このような映画には、おそらく見向きもしなかっただろう。
それが今は、涙を流し続けながら見ているのである。