化石の呟き

世の中や自分のことで感ずることがあった場合に、繰言をアップロードします。

撫子

2010-09-14 15:28:52 | Weblog
ついに春夏と目を楽しませてくれた撫子が全滅しました。考えてみれば、撫子の開花時期はほぼ四月から八月までの五か月ということになります。本当に頑張ってくれたものだと思います。猛暑日の多かった八月にも、暑さにめげず、小さい花を咲かせてくれていました。

実は熱心に続けた水遣りも、この花を咲かせ続けたい一念もあったのでは、と今にして思います。この花が萎みだして以後、猛暑日がなくなったこともありますが、水遣りへの情熱は少し薄れてしまいました。

一旦終わって返り咲いた花を、できるだけ長く咲かせ続けていたいというような、功名心がなかったとは言えません。いくつになっても、どんなところにも、人間の功名心(煩悩の一つだと思います)は潜んでいるものだなと、しみじみ実感しました。人間の煩悩はこの意味では、人間生活に必須のものでもあります。

このようないい意味の煩悩も、悪い意味の煩悩も、抱えたままで、私共を救ってくださる阿弥陀仏の御恩をここでも味あわされた思いです。
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水遣り

2010-09-04 09:42:37 | Weblog
最近の猛暑続きで、水遣りが日課になっています。今のところは、植物の根っ子に遣るのはもちろん、ホンの少しですが、植物の葉っぱにも水を遣っています。何故かというと、カポックその他の観葉植物には根っ子に水を遣る以外に、葉っぱにも水を遣ったほうが、なんとなく生き生きして見えるからです。

その他に、日日草のような花にあまり水をやりすぎると、茎と葉が大きくなりすぎて、花が咲かなくなるのではないかという気がします。花が咲くにも茎と葉と花と実の間に微妙な平衡状態があるのではないでしょうか。今年の夏、試験的に茄子を一本植えてみたのですが、花も実もなりませんでした。その代り、茎は高く太くなり、葉はとっても大きくなりました。これも水を遣りすぎた結果なのではないでしょうか。農家だと大きな畑に沢山の茄子を植えますので、猫の額ほどの庭に茄子を一本植え、世話をするのに比べると、手をそんなにはかけられないのではないかと思います。そして、そのことが、茄子の実の成長にとても有益なのではないでしょうか。

少数の子供を、塾よ、ピアノよ、バレーよなどと、異常に手をかけて育てるのも、この意味では良し悪しのような気もします。場合によっては、子供を放っておき、自由に子供たち同士で遊ばせるのもいいのかもしれないな、とも思うのです。
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