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仏教思想概要7:《中国禅》(第5回・最終回)

2023-12-31 08:24:03 | 07仏教思想7

(神代植物公園の紅葉      12月7日撮影)

 

 仏教思想概要7《中国禅》の第5回目です。そして本日が最終回です。
 前回は「第2章 中国禅の発展 4.洪州宗を中心とした中国禅の展開」」を見てみました。
 今回は「第3章 まとめと補足説明」を取り上げます。

 

第3章 まとめと補足説明

1.まとめ

 冒頭「中国禅宗に思想があったかという点になると、多少の疑問があります。」という文でスタートしましたが、ここまで、中国禅の思想と組織としての中国禅宗がどのように展開してきたかをみてきました。
 その結果、中国禅思想は北宗禅により思想としても一応の成立をみたといえそうです。以後は、南宗禅荷沢宗神会による、北宗禅批判、さらに体より用を重視する南宗禅洪州宗による中国禅宗へと展開してきました。
 ここまでで、中国禅思想を象徴するポイントとなる説明を整理してみると以下のとおりとなりました。(表28)

 以上から、中国禅宗が中国的思惟、特に体用論の、また仏教思想としては『大乗起信論(起信論)』の影響を大きく受けたことが分かります。その結果、中国禅宗は大乗仏教の基盤となる般若思想とはまった違った仏教に変質してしまったといえます。中国華厳もインド発の大乗仏教とは大きな違いがみられると言われていますが、もはや中国禅宗は道教と同じといった見方もあるほどです。

 ということで、以下、本来の般若思想、特に実践行である「般若ハラミツ」とはいかなるものであるか、また中国禅に大きな影響を与えた『大乗起信論』とはいかなる思想であったのかそれらにつき、補足として説明をしたいと思います。

 

2.般若ハラミツとは

 ハラミツ(波羅蜜)とは、仏になるための修行、またその徳目(マイルストーン)のことです。従来(戒・定・慧)の三つの徳目であったものが、大乗仏教では「六ハラミツ」へ再編されました。(図3)


 この再編は、出家に対して在家ボサツたちの具体的な生活実践の立場を強化するものであったのです。
 ハラミツという言葉は、本来「完全」の意であり、完全とは、横にすべての人のものとなるとともに、縦に無限の深まりを要求するものです。
 六ハラミツは「わたしは人に施した」とか「わたしは戒を守っている」とかいう執着と自己満足の意識を捨てるところから始まります。それはどこまでも現実の生活に即したものであるのです。
 静けさと安らかさは、そのままとどまるものであったてはならぬのです。こうして安らぎ(禅定)は般若ハラミツ-つまり知恵にそのすわりをゆずることとなります。知恵は、新しい人間観の出発を意味するのです。
 従来の仏教が戒→定→慧という段階的な方向であったのに対して、逆に「慧(知恵)」を第一として、般若ハラミツをそれらの根底にすえようとするものだったのです。
 但し、般若はすべてに否定的な表現をとりながら、それらに代わる唯一なる否定の原理を抽象するものではないのです。むしろ、そうした原理を否定し、般若は具体的なすべての実践を生かそうとするものであるのです。
 →慧(知恵)を戒と定(禅定)の内容として作用するより、戒と定を慧の内容として作用する転換であったのです。
 般若ハラミツはかって出家の弟子のつとめであった戒と定を、広くボサツの生活として解放する根本原理であったのです。

 

3.『大乗起信論』について

3.1.『大乗起信論』とは-その意義-

(1)『大乗起信論』とは
 『大乗起信論』(『起信論』)は、六世紀半ば真諦(しんだいパラマールタ499-569)によって訳されたものです。著者は馬鳴(めみょうアシュバゴージャ100頃-160頃)といわれているが、これには疑問が多く、それは、内容的に馬鳴以後の思想である龍樹(150-250頃)や世親(400-480頃)の思想の影響がみられるためです。
 本著の思想は如来蔵思想といわれています。

(2)如来蔵思想とは
 「如来蔵思想」とは、中観と唯識の統合を企てたものです。有意識で考える業の世界のペシミズム(悲観主義・厭世観)からの脱却の理論を主として、中観の思想を求めたものでした。
 唯識のように識の分析を行いつつ、その究明は単なる阿頼耶識の分析にとどまらず中観の思想である不生不滅の法身如来の知恵、般若の知恵の解明に至っています。
 さらにここでは、中観のニヒリズムも脱却しようと、「空」の思想を否定的ではなく、肯定的にとらえています。

(3)『大乗起信論』の意義
 仏教には二面性があります。
 一つは、人間の暗黒面への深い洞察:業の面(『般若経』思想など)です。
 それは、無明の思想のことです。無明とは、人間の中には生きるために必要な煩悩があるが、それが真理の認識をくらますもののことです。
 釈迦はこのような無明の中に、業の中に、おぼれる人間に無明と業からの脱却を命じました。そのことで、清浄無垢なさとりの境地に入ることができるとするのです。

 いま一つは、人間の中なる仏性の賛美:真如の面(『法華経』『涅槃経』など)です。
 それは、数百年に亘って中国仏教界を支配した厭世観に対して「否」という思想です。業の輪は久遠の過去から永劫の未来へと永遠の暗い循環を続けていました。この業の輪を反対にまわそうとする力が必要であり、それこそ如来蔵思想であり、『大乗起信論』の思想があったのです。

 

3.2.『大乗起信論』の構成と立義分の概要

(1)『大乗起信論』の構成
 『起信論』は五部構成となっています。(下表29)


 ここで、中心となるのは、2立義分及び3解釈分です。

(2)「立義分」の概要
 立義分は以下のように整理できます。(表30)


 ここで「摩訶衍」とはマハヤナ、すなわち大乗にことです。大乗には法と義があります。
 法とは、法蔵がその著で「法とは大乗の法体を出す」とあるので、大乗の中心といった意味です。その中心が衆生であるというわけです。つまり「衆生心とは、生きとし生けるものの心である。われわれの心である。そして心が、一切のまよいの世界の存在と、一切のさとりの世界の存在の根拠であるというのである。心から一切の存在物が生まれる。それゆえ、心は広大無辺、まさしく大きな乗りものであるという。」わけです。

 

3.3.「解釈分」の概要その1-真如と生滅

 『大乗起信論』の思想の中心は解釈分にみることができます。以下その概要をみていきます。

(1)心の二面性
 『起信論』では、心の構造を以下のような二面性(下図4)としてとらえています。

 ここでは「われわれ衆生が仏である。不生不滅であるばかりか、無限の生滅変化を、われわれの心が生みだすとしている。われわれの中に無限の如来がかくれている。その如来に明るい認識の光をあてようとするのが、本著の理論的な役割である。」としています。
 心性は不生不滅、一切の存在するものは、ただ妄念によって差別があり、妄念をされば、差別なく、この心というものは一切の言説を離れ、名字を離れ、平等にして変異ないものであるとしているのです。

(2)『大乗起信論』と「不空」
 『起信論』では心を一応表現しえないものとしているが、その心を二つのことばでとらえています。「空」と「不空」です。

 空とは:一切の執着(しゅうじゃく)、差別を離れているということ
 不空とは:本著でいう心真如は単なる空の境に止まらない。空の否定をしたもの。

 つまり「すでに法体空(ほうたいくう)にして妄(もう)無きことを、顕(あきら)かなるが故に。即ち是れ真心(しんしん)の常恒(じょうごう)不変なり、浄法(じょうぼう)満足す。すなわち不空と名づく」としており、それは、妄心を去った心、常恒不変、浄法満足の心である。つまり空の否定の不空というわけです。

(3)「心不生滅の相」
 『起信論』でなにより力を入れるのは「心生滅(しんしょうめつ)の相」です。ここでの哲学的問題は、空であると同時に不空である心がいかにして多くの妄心を生ずるのか、悪が善から生じるという問題です。本著では、この一切の心を生み出す真如の本性を如来蔵ととらえ、この不生不滅の心が和合したのを「阿梨耶識(ありやしき)」となすのです。

 

3.4. 「解釈分」の概要その2- 煩悩の心の分析

(1)「覚」と「不覚」
 生滅の心は、永遠と瞬間、真如と妄心が出会うところであるが、それには「覚の面」と「不覚の面」があります。
 「覚」とは、心があらゆる束縛を離れ、虚空界にひとしく、偏することがないのをいいます。これを始覚と本覚に分けているが、けっして別の覚があるわけではなく、覚のさまざまな性格をとらえているものです。
 不覚とは妄念のことであり、その性格は「謂う所の不覚の義とは、如実に真如の法の一なるを知らざる故に、不覚の心起って、その念あるも、念に自相なければ、本覚を離れざるを謂う」としています。不覚といっても、実体はなく、本覚を離れないのです。

(2)不覚の分析(三種の相)と六種の妄心の相
 不覚を分析すると、三種の相があることが分かります。三種の相の分析意識の結果が、不覚の心、妄心のもととなり、それには六種の相があるとしています。(下表31参照)

 

3.5「解釈分」の概要その3-熏習の思想

(1)熏習の思想とは
 熏習(くんじゅう)とは、覚、不覚ののちに『起信論』が論ずる説のことです。それは、人間の真如の相は、無明(迷い)の香りがしみついている。長い間、無明の香りがしみついた心に、もう一度真如の香りをしみつけるということを説いています。

 

(2)浄熏
 浄熏(じょうくん)とは、悪の熏習、闇の心をのぞけることです。
 『起信論』では、人間に希望を与える。妄心の中に、厭求(おんぐ)の因習がある。妄心にとらわれ、苦にかりたてられる人間の心は、どこかで、無明や妄心からのがれることを願っている。それが真如熏習のはじまるとなるとしています。

 『起信論』では、悪の熏習を三つに分けており、それぞれ不覚の分析に相当しています。

 ・無明熏習→無明業相

 ・妄心熏習→能見相

 ・妄境界熏習→六種の妄心の相(智相~業繫苦相)

(3)浄熏習の正因(しょういん)

 どんなに深い無明におおわれていても、その真如の心は自然にめざめる。それが「浄熏習の正因」であるのです。
 その正因の機会を助ける、僧と菩薩、そして仏、それらとの立会いが、この人間をして、長い間、無明や妄心によって熏習された心を、真如の心にもどすのです。

(4)熏習の思想のまとめ

 以上をまとめると下表32となります。

 かくして、真如は無明に勝利したのです。

 

3.6. 衆生が仏となる

(1)三身の仏
 浄熏の結果、衆生は仏となった。衆生の心は、あらゆる存在するものを宿す無限に豊かなとなったのです。
 人間はその中に永劫無始、不生不滅の法身をもっている。しかもその法身は多くの光明を宿し、多くの知恵を宿し、多くの力を宿しているのです。
 自己はその存在において法身であり、その応用において化身であり、報身(ほうじん*)である。⇒自己の心がそのまま「三身の仏」となったのです。

*報身とは:仏になるための因としての行をつみ、その報いとしての功徳をそなえた仏身。法身と応身(化身)を統合した仏身。前者が永遠不滅であっても人格性に欠け、後者が人格性が富むが一時的に無常なもので、両者を統合したものとして考え出された。

(2)『大乗起信論』の実践論と影響
(「仏教の思想」では詳細は省略されています)
 一点のみ、それは「切断の知恵」、これは無明と業の切断の知恵であり、『起信論』では精密な論理で、業の輪の深い因縁を逆転させようとしています。
 この業の輪が反対にまわされる方向に、その後の仏教の思想(華厳、真言など)は立つこととなったのです。
(参考:五世紀ごろから七世紀の中国仏教の動き(表33))


以上七世紀までの中国仏教では、暗い影があったのです。
 さらに、八世紀以降の思想の変化には、社会的・歴史的要因があると考えられるが、一方書物の影響も見落とせないのです。⇒『大乗起信論』

 

 以上で、「仏教思想概要7《中国禅》」を終わります。如何でしたでしょうか。

 次回からは中国編の最後として「仏教思想概要8《中国浄土》」を取り上げます。しばらくお待ちください。

 

 

 

 

 

 

 


仏教思想概要7:《中国禅》(第4回)

2023-12-26 11:09:37 | 07仏教思想7

(神代植物公園の紅葉      12月7日撮影)

 

 仏教思想概要7《中国禅》の第4回目です。
 前回から「第2章 中国禅の発展 3.洪州宗の立場」を見てみました。
 今回は「4.洪州宗を中心とした中国禅の展開」を取り上げます。

 

4.洪州宗を中心とした中国禅の展開

4.1.中国思想界の動きと仏教

(1)韓愈や李翺の活躍
 安史の乱(安禄山らの起こした大乱。唐時代 755~763年)以降の仏教の新しい傾向は、仏教にかぎらないものでした。韓愈(かんゆ768-824)の五つの論文(『原道』『原人』『原性』などはすべて根源的人間の理想を追求したもの)や李翺(りこう772-841)の『復性書』などにみられるように、中国の思想界は、新しい人間像の探究に、その努力を集中するようになります。
 韓愈は孔子、孟子以来久しく絶えていた人間の学問を起こそうとしたのです。彼は「誰でも努力して学問し修行すれば、かならず聖人になれるのだ。聖人は神ではなく、どこまでも生きた人間の手本である。」と主張したのです。

(2)祖師の仏教
 一方禅宗においては、中国の思想界における、新しい人間像の探究において、従来の如来や菩薩に代わるものとしての理想的な人格として「祖師」とか「祖仏」ということがいわれるようになります。(『臨済録』のことばの例(表20))


 ここでは、日常に生きている心こそほんとうの祖師であり、真の仏であるとともに、それはもっとも具体的な人間の本質であるとしています。これを臨済の用語では「無依の道人」と呼びます。これはもっとも自由な現実の主体であり、いっさいの内外の条件を拒否して、もっともきびしく生きることを示しているのです。

(3)活撥々地(かっぱつぱつち)とは
 臨済は「活撥々地」という言葉を好んで用いています。それは、その動きが時間的にすばやいということではなく、主体と行動の間に分裂がなく、決まった形や法則性をもたぬという意味です。それは強力で新しい人間観によるものであり、つねに固定観念を破って主体的にあらゆる形を現ずる自由さがあるのです。
(『臨済録』での一例(表21))


 ここで、「秘密」とは、何か奥深く隠れているゆえでなく、きわめて具体的な日常の行動の上に、もっともあらわに見えるゆえに、それとしてとらえることも認めることもできぬほど、明白であることであるという意味です。

 

4.2.中国的思惟と禅問答

(1)儒仏道の三教の体系化と禅
 禅思想の展開は、体制の論理(修身・斉家・治国・平天下など)に終始する儒教の主張や、韓愈一派の復古運動と対決しつつも、根源のところで深くつながっていました。これを儒仏道の三教の体系とよぶが、その代表は神会の荷沢宗を継承した宗密でした。

 一方で、そうした体系をもつことなく、日常雑多の世界の中で、各自の個性に徹してゆくところに、洪州宗主体の禅はかえって深い人間性の真実を発揮したのです。
 唐の中期より五代にかけての全国的な社会の動乱は、個性あふれる禅者を無数に輩出したのです。一般に「五家(ごけ)」、「七宗(しちしゅう)」と呼ばれる禅者は、そうした新しい諸子百家の代表となっていきます。

(2)「触事而真」としての中国仏教の立場
 中国人は、『論語』のことばを、永遠なる人間の典型とするも、それを体系化することはありません。それは、あくまで現実的な歴史上の事例がすべてであり、それを離れた形而上学の問題は人々の意識にのぼらなかったことを示すものです。
 これは、僧肇以来の「事物そのものが真実である(「触事而真(そくじにしん)」の中国仏教の立場を表わすものであり、以下のような事例(下表22参照)からも明らかです。

(3)禅問答とその意義
 禅の問答は、個性的な生活実践の記録であり、一問一答形式です。これは永遠な真理を現実的なものに即して考えようとする、中国人の思惟がつよくはたらいているもので、形而上的なものに対する無関心を示しています。
 『祖堂集(そどうしゅう)』の百丈懐海の例(表23)


 菩提や涅槃などという古来の仏教学の真理を思い起こしたことを、唾棄すべきものとする百丈懐海(ひゃくじょうえかい749-814)の深い反省は、おなじような経験をもつものに対して限りなく切実な意味をもつます。ここには古典の典型的な思惟を越えた生の宗教の魅力があります。

 

4.3.公案と禅の変質

(1)思想としての禅の限界と転機
 前述の結果、思想としての中国の禅は、もはやこれ以上発展しようがなくなります。無限の個性に徹した唐代末五代の禅は、思想体系よりも現実的な日常生活に深く徹することによって、大きく変化することとなったのです。そうした思想史の転機の意味を禅仏教の独自の資料である「語録」の形成にみることができます。
 語録の特色はつねに第三者の筆録であり、むしろ日常的な対話を断片的に収録したものです。それは、特定の相手に通ずればそれで事足りるような偶然に支配されるています。このため、意識的に構成されるものより、かえって具体的な力をもったのです。
 これは『論語』以来の中国的な思惟の特色を発揮したものといってよいのです。

(2)公案成立と変遷
 「公案」とは、禅問答のある特定のものの呼び名のことです。私的なものでありながら、歴史的現実の一つの断片として、公的な意義をともなったものとなっていきます。そこには私的主体的なものから、原理的なものへの質的変化があったことも見のがせません。
 禅問答の集録から公案成立への推移は、唐代五代の動乱より、宋の統一国家の成立時期に応じています。
(公案にみる宋代の禅宗史の推移(表24))


 さらに南宋になって、国立寺院による五山十刹(じっさつ)の制度の完成で、禅院の日常生活が公式化され、禅問答も形式的となり、著しい知識化が始まります。

(3)禅の定形化と公案禅運動
 宋代の体制の中で禅は定形化し、体制的知識人の養成がその中心的活動となります。
 唐代禅の人間批判の役割は「宋学」に移り、禅は全く無用となり、一種の伝統的な権威と私的な自己満足に陥ることとなったのです。
 一方、五祖法演(ほうえん1024-1104)は、公案の変質と宋代の禅の沈滞した空気をつきやぶり、唐代の禅のもっていた野放図な個性を回復した運動を起こします。それは、「趙州無字(じょうしゅうむじ)」の公案を用いたもので、この公案の発見によって、中国禅はいうところの「無」の立場を確立することとなります。

 

4.4.無字の発見と展開

(1)五祖法演の立場
 「趙州無字」の公案について語る最初のものは、五祖法演の説法にみることができます。
(『五祖法演禅師語録』より(表25))


 この説法がなされたのは、唐末の人である趙州従諗(じゅうしん778-897)の死からすでに200年近く経っていました。
 仏性論については、各種の解釈がされていますが、宋代以後の禅宗では、そうした問題をすべて切り捨ててかえりみることがなかったのです。

 

(2)大慧の立場
 もともと公案集は多くの公案を詩偈(しげ)によって解釈したもので、一般に著語(じゃくご)とか下語(あぎょ)といわれるもので、一種の詠史(えいし)の体にならった独自の宗教文学であったのです。
 これに対して、五祖法演以後の無字の公案の扱いは、従来のそれとまったく異なったものとなっています。
(大慧(だいえ1089-1163)の在家の習禅者に与えた書の例(下表26))


 ここでは知識や感覚による理解を捨てて、ひたすら主体的な悟りに至る方法が問題となっています。主体的な直観を第一とするもです。公案はあくまで判例であり、他の事件の解釈になんらの示唆を与えうるにしても問題はあくまで別のところにあるのです。問題はどこまでも自己のあり方にかかわっているのです。→『易』に「窮理尽性(きゅうりじんじょう)」の説があり、「無字」の公案は禅思想の新しい「窮理尽性*」であったわけです。

*窮理尽性:窮理とは、道理を窮めること。尽性とは、自分の本性を発揮つくすこと。そうすれば、天命に至ると説訃伝(易経)にいう。

・大慧の考える公案とは
 公案は主体的な直観の方法であって、直観の内容ではない。まして形而上的な存在論でもなければ、論理学もしくは倫理学、心理学といったものでもない。さらに歴史的な文献学の対象でもないことは当然である、と。

(3)無門慧開の立場
 「無字」の工夫は、法演にはじまり、大慧によって強化されました。そのもっともすぐれた事例は無門慧開(むもんえかい1183-1260)の『無門関(むもんかん)』にみとめられます。

『無門関』とは、四八件の公案を選んで、編者の解説と詩を付したもので、形の上からは雪竇頌古(せっとうじゅこ)や圜悟(えんご1063-1135)の『碧巌録(へきがんろく)』に似ています。無門のねらいは、第一則の「趙州無字」の公案にあり、法演の説をおしすすめたものでした。
(『無門関』の事例(下表27))


 ここでの痛快で大胆な「無字」の賛歌は、インド以来の瞑想の実習法の帰結であったのです。
 禅の本体をなす意識集中の訓練は、いまや「無字」による疑団(ぎだん)の凝結と、これを内より一挙に破る主体性の開発という、すぐれて簡明直截な方法に要約されることとなりました。
 それはもっとも中国的なものであり、さかのぼって「南宗禅の見性成仏」「北宗禅の一行三昧」、僧肇や老荘の根底にあった「天地同根」の万物一体の直観につながっているのです。

→宋代以後の「趙州無字」による公案禅が、インド以来の瞑想法の方法を再確認し、禅の伝統を形成したが、それがインド以来の歴史的な発展に即するものでなかったところに問題があったのです。

 

4.5.宋代以後の中国禅とその影響

(1)中国における「無」の哲学とは
 今日、一般に「無」の哲学の内容は、公案の「無字」よりも、朱子や王陽明の「理」に近い。それは般若思想であり、老荘であり、華厳であり、天台であり、朱子学であり、陽明学であり、全体的な中国思想そのものの体系的な総合であったといえます。
 儒仏道の三教の体系づけは唐代に始まり、宋代、明代におよぶ伝統であり、特に明末より清初に陽明学の発展に応じて、人々の切実なる願いとなったのです。またこのことはわが国の近代禅の形成に大きく影響しました。

(2)宗教としての中国禅の限界
 「無字」はあくまで公案であり、精神統一のひとつの方法にすぎない。思想的には禅宗は宋代以後形骸化し、その発展を停止させた。一方中国禅は宗教として『無門関』にいたってその発展の極致に達し、限界を向かえたのです。
 極端なまでに経験心理的に熱っぽい『無門関』以後の「無字」の参究は、もはやインドや古代中国の楽天主義にかえることを、ほとんど不可能にしたのです。

(3)我が国における影響
 近世日本の禅の形成において、盤珪(1622-93)の陽明学の学習から出発し、白隠(1685-1768)は「無字」による公案禅の方法による組織化に成功しました。
 白隠の参究した著書には、日新の銘とした『禅関策進』や『禅門宝訓』『緇門警訓(しもんけいくん)』など儒教的色彩の強いものが背景になっています。

 今日、禅とよんでいる仏教の内容は江戸期に大陸よりの中国禅によって大きく影響されており、『禅海一瀾(ぜんかいいちらん)』に代表されるように「無字」の公案による瞑想の実習を基盤として、その上に儒教思想の体系を樹立したものであったのです。
 さらに明治期に入り、近代的な西洋思想に直面し、「無字」の公案による朱子学や陽明学の主体的な理解は、西洋的な思惟の受容について、大きな示唆を与えました。
 特に、西田幾多郎や鈴木大拙の場合、「無字」による伝統的な禅の実習が、西洋の理解を容易にし、東洋の異質性を確認する大きな契機となったといえます。

 

 本日はここまでです。次回は「第3章 まとめと補足説明」を取り上げます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


仏教思想概要7:《中国禅》(第3回)

2023-12-23 08:39:59 | 07仏教思想7

(神代植物公園の紅葉      12月7日撮影)

 

 

 仏教思想概要7《中国禅》の第3回目です。
 前回から「第2章 中国禅の発展」に入り、「1.北宗禅と神会の主張」を見てみました。
 今回は「2.体から用へ-南宗禅の二つの立場」「3.洪州宗の立場」を取り上げます。

 

2.体から用へ-南宗禅の二つの立場

2.1.神会の荷沢宗の立場

(1)神会の本知の整理
 神会の本知は、『起信論』にいう本覚の立場を深め、もしくは拡充して、悟りとか目ざめとかという行動の限界をつき破り、もっとも普遍的な人間の主体性に帰入するものでした。
 北宗に対立するというより、背後の華厳哲学をよりいっそう徹底しようとしたものでした。
 したがって神会の本知の動きは、もはや何かの対象を予想するのでなくそれみずから知り、それみずから見るものとなったのです

(2)神会の継承者宗密の主張
 神会の思想を継承したのは、華厳宗の第五祖宗密(780-839)でした。
 彼は、著書『禅源諸詮集都序(ぜんげんしょせんしゅうとじょ)』(宗密の禅の哲学体系『禅源諸詮集』100巻の総序の部分)にて、すべての仏教学を唯識と般若と華厳に代表させ、それぞれの仏教学と禅との一致点を見い出し、最後に「ただちに人間の心の本性をあらわす立場」とよばれる南宗禅の中に全仏教を収め、この立場からあらためて、それ以前の諸宗を演繹しようとしたのです。

(3)南宗禅の二つの立場
 さらに宗密は、南宗禅を二つの立場に分けています。(下表13参照)


 ここに論ぜられた南宗禅の二つの立場とは、前者の場祖道一(ばそどういつ)の洪州宗(こうじゅうしゅう)と、後者の荷沢神会(かたくじんね)の荷沢宗のことです。(南宗禅の二つの立場の系譜(図2)参照)


 荷沢宗は体を中心に、洪州宗(こうじゅうしゅう)は用を中心とした立場をとりました。宗密は体の立場の荷沢宗を正統としたが、禅思想の流れは用が主流となっていきました。

(4)宗密の洪州宗批判と二派のその後
 宗密は、マニ宝珠(*)の例えにより、北宗禅と荷沢、洪州の中間の立場の牛頭(ごず)を加えた四宗(北宗・洪州・牛頭・荷沢)の立場を順次説明し、洪州宗を批判しています。(下表14参照)


*マニ宝珠とは:マニ(摩尼)宝珠は如意宝珠とも呼ばれ、サンクリット語では魔尼宝珠を「シンタ・マニ」と呼び、「マニ」は珠、「シンタ」は思考するや熟考するという意味を示す。 仏教の経典では、宝珠は心の中で思い描いたものをすべて与え、あらゆる願いを叶えるとされている。

 われわれが現にものをいったり、分別して動作をするのは、すべて「随縁の応用」であって、自性の本用ではない。洪州宗で、それをただちに仏性の作用だとするのは、自性の本用を欠くものだ、と宗密は洪州宗を非難しました。
 じっさい、言語動作など日常生活のすべてが、ただちに仏性の作用だとすると、喜怒哀楽やさまざまな悩み誤りなどもすべて仏性の作用となって、人間の精神的価値をまったく認めぬことになりかねないこととなります。
 すべてが仏性の作用なら、刀をとってむやみに人を殺すのも同様となるが、洪州宗は正統を名のる宗密の批判にもかかわらず、その後の中国禅の主流となっていきます。内容的には荷沢の本知より、透徹した現実の作用にその本質をおくものでした。
 一方、北宗より荷沢・宗密で完成する初期中国禅の思想は、ここに至って、その限界をつくしたといえます。形而上的な絶対精神の運動として、もはやこれ以上の発展は望めなかったのです。

2.2時代背景と仏教界の動き
 玄宗(げんそう)朝の末期、安史(安禄山・史思明)の乱(755-63)をきっかけにとした、門閥貴族中心文化に代わる革新性の空気の強まりとともに、野性的な裸の人間の実力がものをいう時代となっていきます。
 その結果、帝都中心の古典的な仏教が衰え、人々の生活に密着した現実的な新しい仏教が起こりました。→新たにインドから伝えられた密教、一般民衆を地盤とする浄土信仰及び南宗禅など。
 このような時代背景の中で、曹渓の慧能を祖師とする南宗禅は、人々の心を大きくとらえることとなったのです。
 その運動の主力は、四川出身の馬祖の弟子たちで、門下は800人に及び、彼らは、江西の洪州(こうじゅう)を中心に、やがて中国全土に活動し、地方の支配者たちの心もとらえはじめます。それはかっての神会やその正統を名のる宗密らの比ではなかったのです。
 彼らの主張は、なによりも具体的な生活に密着しており、それは、平凡な日常生活の中に、宇宙の神秘を見るものでした。かっての郭象や王弼(おうひつ)以来の、中国的思惟が、その真理性をいっそう具体的に実証したのは、おそらくこの時代の禅宗の人々においてのことであったのです。

 

3.洪州宗の立場

3.1.日常生活の中の禅-すべてが仏事である-

(1)馬祖道一の主張
(馬祖の語録による説法の例:表15)


 馬祖の説は、すべてが伝統的な意味と異なって、なによりも平明で新しい生活実践によって一貫されている。かってのいかなる宗派や思想と異なる「生活の仏教」といえます。
 真理はいまやあらためて学ばれたり修したりするものではなく、すべての人々の生活の中に自明のものとしてあり、そして特別に意識されぬところに、ほんとうに地についたはたらきを発揮することとなります。

↓(ポイント)
「真理を離れて現実の場所があるのではなく、現実の場所がそのまま真理であり、すべてが自己の主体である。さもなければ、いったいそれは誰なのだ」
→これは、僧肇以来のもっとも中国的な思惟である。体系の論理ではなく、もっとも日常的な行動に徹するものであり、そうした作用のほかに思惟の形式を残さぬのであったのです。
(ボサツの行『二入四行論』の一段の例:表16)

(2)臨済義玄の主張
 臨済は著作『不真空論』にて、「随処作主立処皆真(ずいしょにしゅとなればりっしょみなしんなり):あらゆる場所でその主人公になること」ということを説いています。
 その言葉は、煩悩や無間地獄の重罪に即してのことであり、たんにのんびりと日常生活の中にあぐらをかくこと意味していません。それはむしろ、あたりまえの生活の中で、もっともきびしい道徳性を要求するものであったのです。日常生活の中にほんとうの楽道の思想があるのであり、たんなる隠遁生活や山居修道のあこがれを意味しないのです。

3.2.洪州宗の仏性とは

(1)平常心とは何か-即心即仏-
 馬祖は平常心を、造作なく是非なく、取捨なく断常なく凡聖ない心のこと。つまり、別のことではなく、心そのものがただちに仏(即心即仏)であるような心であり、修行を仮(か)らず、坐禅を待たぬものであるとしています。
 知らずに迷っている心そのものが、すでに悟りの場所であり、そのほかに何もない。平常心とは、そうした心の全体であり、迷いと悟りのすべてを含みそのいずれにもかたよらぬ当のものであるとしています。
 平常心とか即心即仏という考え方は馬祖以後の時代に至って、もっともその特色を発揮することとなります。
 以前との内容の相違を考える手がかりとして「直指人心見性成仏(じきしにんしんけんしょうじょうぶつ)」ということばがあります。

(2)「直指人心」と馬祖の仏性
 「直指人心見性成仏」ということばは、「直指人心」と「見性成仏」の二つのことばに分割できます。「見性成仏」は『涅槃経』の注釈書に見えるように「一切の衆生は悉く仏性を有する」という有名な句に関連しています。馬祖の説の中心は「見性成仏」ではなく、「直指人心」にあります。
 「直指人心」は即心即仏と深く関係しており、従来の見性や仏性についての考え方を厳しく修整するところにあるのです。
(従来の考え方:『涅槃経』のいう仏性とは 表17)


 これに対して、馬祖の説は『涅槃経』でいう仏性とは異なります。かれは、「現実的な心全体を、ただちに仏性の作用だ」とするのです。問題は仏性より現実の人心に移るのです。
 馬祖に始まる新しい禅宗の特色は、「現実の心の動きを、すべて仏性の現れとする」にあるのです。

(3)馬祖の仏性の事例
『伝統録』巻三にみるハラダイ(ダルマがインドで修行中の弟子)の偈(表18)


 これは、ハラダイが見性は人間の日常的な作用であることを主張したものです。
 見性はもはや内面的な本知や本覚にとどまらず、日常的な見たり、聞いたりする具体的な行動となるのです。ここでの日常的な行動の根底に、それらの主体としての自性や本性を前提としない。むしろ、そうした形而上的主体や神秘的な能力を認めるのは「精魂」であり、実体的な神秘主義への逆転にすぎない、としているのです。

(4)臨済の仏性-全体作用-
 臨済は「全体作用」ということを説きます。それは、「見たり聞いたり、覚知し行動する現実的な活動のすべてが、ただちに仏性のはたらきであって、そのほかの仏の悟りを予想せぬこと。縁に随って前世の業を用い、一念も仏の悟りなど求めぬ自在な生活が、そこに展開される。」としています。
 これは、華厳哲学の縁起に対して性起を主張し、現実の事々物々が、ただちに真理そのものの表現であるとともに、真理全体が現実に活動することを強調するのと一致しています。

(5)臨済の説教の例
 「・・(略)・・・、祖師(神会のこと)もいっている、『君たちがもし、心をとどめて静けさを内省し、心をあげて対象を観察し、心をおさめて内にしずめ、心をおさえて禅定に入るなら、そんな連中は、みな業つくりの人だ』と。・・(略)・・・」
 この説教で、臨済がハラミツや諸善万行(しょぜんまんぎょう)を、地獄に堕ちるほかない業とするのは、すでに彼の仏教が、伝統的な修証や行動よりも、現実の人間のもつ限りなき価値を、直接肯定するものであったことを示しています。
(宗密の洪州宗批判と臨済の説の意義(表19))


 禅はこの時代に至って、なにより歴史的に人間のものとなるのであり、従来の如来禅に対して「祖師禅」とよばれるようになります。これは、広く中国仏教における人間観のもっとも独自の成果の一つであったとみることができます。

 

 本日はここまでです。次回は「4.洪州宗を中心とした中国禅の展開」を取り上げます。

 

 

 

 

 


仏教思想概要7:《中国禅》(第2回)

2023-12-16 09:03:51 | 07仏教思想7

(神代植物公園の紅葉      12月7日撮影)

 

 仏教思想概要7《中国禅》の第2回目です。
 第1回目の前回は「第1章 中国禅宗の成立」を見てみました。
 そして、今回から「第2章 中国禅の発展」に入り、本日は「1.北宗禅と神会の主張」を取り上げます。

 

第2章 中国禅の発展

1.北宗禅と神会の主張

1.1. 北宗禅の形成
 「すべての人間は、本質的に清浄であり真実であった。なんびともブッダと平等であった。これを証明するものは、強烈で主体的な人間性の直観であり、さらにその背後には、深い瞑想の実践があった。(如来清浄禅、真如三昧、一行三昧と呼ばれた)」→これらを導く哲学は、『華厳経』とか、『起信論』によって用意されており、選ばれた大乗経典の真理を各自の生活の上に味得することが、この時代の禅宗の運動であったのです。
 つまり、『起信論』の絶対的な目ざめ(究竟覚)とか、本来的な目ざめ(本覚)は自己の心の根源にじっさいに目ざめる実験を前提にしており、しかも、素朴な瞑想の実習にとどまらないのです。北宗禅の成立は、そうしたすぐれた哲学と行動をつつみ越える自覚の実験と思想の運動を意味したのです。

(1)北宗禅の特色と鏡の比喩
 宗密(*)は北宗禅の特色を要約して、「煩悩のちりを払って、清浄な心を直観し、瞑想の方便によって大乗経典の真理に通達するもの」と言っています。

(鏡の比喩)
 鏡が美しい対象を映しても、その清浄性を増すことはなく、汚れた対象を映しても、本来の清浄性を減ずることはない。鏡はそれらいずれに対しても差別の意識をもつことがない。→これを体用の概念に当てるならば、鏡の本来的な清浄性は「体」であり、それが清浄と汚染を平等に映しだすのは「用」である。現実的な行道としては、どこまでも客塵を払う用によって、本来の清浄性にかえり、それを自覚しようとするのである。体と用の混同は許されない。
→ちりを払うのは、人々の心にもともとちりがないからである。ちりがないから、ちりを払うことができるのであり、ちりを払う必要があるのである。→この点が、理論と実践の異なるところであり、理論と実践を総合する北宗禅の特色であったのです。

→北宗禅は、行道としての禅の限界を、どこまでも忠実に守ったのです。

*宗密(780-839):華厳宗五祖。北宗禅を批判した南宗禅・荷沢宗開祖神会の思想を継承した。(詳細後述)

(2)北宗禅の離念と南宗禅の無念
 北宗禅は『起信論』の離念の説によって、心の本来的な真実とそれを直観する離念の行道を主張した。それには華厳哲学を意識し、哲学と共なる禅の行道の本質を明らかにしたことを示しています。
 これを攻撃したのが、おなじ東山法門の十大弟子の一人、曹渓の慧能(えのう)に学んだ神会(じんね 684-758)でした。(下表7参照)

1.2.神会の主張

(1)神会の北宗禅批判
 神会は『南陽和上頓経解脱禅門直了性壇語(じきりょうしょうだんご)』(下表8)にて、神秀の北宗禅を以下のように批判しています。

(批判の解説)
①「あらゆる善きものと悪しきものとを、けっして差別してはならぬ」、この説は、神秀の『観心論』の「自己の心の清浄と汚染の二つのはたらきを内観せよ」をまっこうから否定したものである。清浄と汚染、善心と悪心という差別そのものが、すでにぬぐうべからざる汚染である。そこに心をとどめるなら、それはもうすでに拘束であり、心がそこに縛りつけられる、としている。

②『大乗無生方便門』に詳述されているインド古来の瞑想の常套手段である「妄念を起こさぬように、視線をたれて下を見つめたり、内面的なものに精神を集中したり、あるいは外に向って遠近に心をやったりする訓練」もそれらすべてを退けた。

③「内観せぬことが悟りである。なぜなら、そこには記憶というものがないから」と。つまり、自己の心そのものは、もともと空寂である。→これは『唯摩経』「菩薩品」の一部を引用している。

(2)神会の重視したもの→「自然知」
 「瞑想は心のうごきをとどめて何も考えぬことではない。なにものにもとらわれず、どこにもとどまらない心の自由な活動に目ざめることである。それは、意識的な心の根底に、もともと自然な知があるからである。」神会は、そうした目ざめを可能ならしめる本来的な自然の知のはたらきを、なにより重視したのです。
 それは、内よりおのずから知るものであって、北宗禅が主張するように外より観じたり悟りの対象とすることができぬものである。直観といってもそれは知ではなく、記憶にすぎない、としたのです。
 とどまることのない心を神会は「無住」とよびました。無住は、般若ハラミツの空なる活動をさすことばです。
 北宗禅の離念が妄念を離れる行動として、現実的具体的な主張であったのに対して、神会の無住は、主体的であり本来的でした。それを神会は「自然の知」と呼んだのです。 

(3)離念の否定と自然知
 神秀(北宗禅)では禅定に固執する小乗教徒の悟りをきびしく戒めているが、神会は、離念の行道と本来の真心に目ざめる自覚との間に、越えがたい溝が残るため、これも不自然な分別だとしています。
 神会によれば、ダルマの仏教は、離念の行道の禅定より本覚の知恵への二段構えでなく、空寂な心の本体にもともと自然の知があって、それみずから空寂の心を知ることにほかならなかったのです。
 神会はこれを「如来禅」(無念によって如来の常住なること、如来によって悟られた真如の仏性の永遠なるに徹すること)と呼んだのです。
 ↓
 定と慧の心理的にも、論理的にも二つに分けられない。一つのものの両面と主張したのです。

(4)坐禅や瞑想の偏向の批判と無念の主張
 神会は、『般若経』を引用して、北宗禅の坐禅や瞑想の傾向を批判するとともに、「無念」を主張しています。(下表9 『般若経』の引用部分を参照)


 ここで、「心を凝らして禅定に入り・・・、心をとどめて清浄を観じ、心を起こして外界を統一し、心のはたらきを収めて内に沈潜する」という四つの瞑想法は、神会が北宗の誤りを要約することばです。
 神会はこれが、ほんとうの悟りをさまたげるもので、シャーリプトラが静かなる林中で坐禅したとき、維摩にしかられたのと同じだとしています。
 臨済玄義(?-866)もこの句を借りて同じ主張をしており、神会の北宗批判は中国禅の発展に決定的な影響を与えたのです。

1.3.慧能の主張
 神会の神秀系の禅への挑戦、その勝利によって、慧能の教えは広まったといえます。この結果、第五祖弘忍を継ぎ第六祖に神秀を押しのけ、神会により慧能が祭り上げられこととなりました。
 乱世に住む民衆の心には、自由闊達、なにものにもとらわれないさとりを説く南宗禅の方が浸透していったのです。南宗禅によって衆生はすべてが仏であるとする禅が説かれ、仏教は中国全土に浸透し、中国人全部が仏になったのです。
 それでは、慧能の教えとはどんなものであったのか、ここで少しふれておきたいと思います。

(1)三科三十六対
 慧能が遺言に説いた彼の中心教説といわれているものに、「三科三十六対」があります。
 三科とは(下表10 参照)蘊(うん)・界(かい)・入(にゅう)の三つのことです。


 それは、すべての存在するもの、それとともに感覚されるもの、感覚するもの、感覚する心、すべてが、人間の心の現れであるという思想のことです。
 この三科の法門は、結局、心がすべての存在物を生むという、規模雄大な唯心論を哲学的に基礎づけようとするものといえます。
 三十六対とは(下表11 参照)三科でいうこうした心が、結局、三十六の相対立する対象をつくりだすというのです。


 ここで慧能は「自由論」を説いています。人間の世界の対立ばかりか、自然の対立も結局、心の対立である。対立を離れて、自由な心になれいうのです。
 三科三十六対の法は、結局、一切の存在するものは、心より作られ、心が自由になった場合、一切の存在しているものを離れるという思想といえます。

(2)自由の主張
 慧能の思想は、無住・無相・無心の自由の主張であり、いまだ価値にとらわれている感のある神秀の禅を批判したのです。
 一方、神秀の思想の特徴は「五方便」ということにあると思われます。

 ・総彰仏体(そうしょうぶったい):『大乗起信論』により明らかにする
 ・開智慧門(かいちえもん):『法華経』により
 ・顕不思議解脱(けんふしぎげだつ):『維摩経』により
 ・明諸法正性(みょうしょほうしょうしょう):『思益経(しえきぎょう)』により
 ・了無異自然無礙解脱(りょうむいじねんむげげだつ):『華厳経』により

 これらは、神秀らしい博学に裏づけられた修行の方法。ひとり静かに山にこもり、心を一つにして、いっさいの執着をはなれるという禅といえます。
 つまり、慧能からみれば、神秀の禅は結局「漸(ぜん)」であり、道徳性の立場であり、有限性をまぬがれないものであったのです。
 慧能の立場は「頓(とん)」である。なにものにもわずらわされぬ自由なる心、それこそ人間の本性であり、そのような本性をさとるこそ、ほんとうのさとりなのでした。

1.4.神会の主張の危険性
 神会は慧能を頂くことのより、自らの正当性を主張し、南宗禅を中国全土に広めることに貢献しましたが、その説は大乗仏教という立場からみれば危険性を含むものでした。

(1)神会の坐りとその危険性
 ここでの危険性とは何だったのでしょうか。
 神会の坐りは「無住の心体に本知あり」ということであり、これは行道としての禅の立場を固持していた北宗に対して、いつかこれを突破してしまう危険性をはらむものであったのです。
 神会が本知とよぶものは、目ざめや悟りの限定を絶した、普遍的な人間の主体性をさすものであって、それは、本質的は、のちの宋学の「格物致知(かくぶつちち)」や王陽明(1472-1528)の「致良知(ちりょうち)」と似ているが、仏教の般若ハラミツの知とはまったく異なったものであったのです。

(2)神会の主張の強引さ
 北宗の明らかにした定より悟りの方便は、定と悟りをあくまで一にあらず、二にあらずとすることによって、それぞれの本質を体用の関係によって明らかにしようとしたにすぎない、神会はこれを無視しました。
 また、無住も無念もその本来の語義としては、北宗の離念と異なるものではなかったが、神会はこれを強引に発展させ、主体的な本知としたのです。
 ここには、北宗禅がもっていた定より悟りの立場が完全に突破され「体用不二」の徹底がみられます。

(無住と無念の本義と神会の主張の問題点:下表12参照)


 神会の主張は、反面、本知の対象を欠くゆえに、用をたんなる気まぐれの遊びとして、ひいては体すら無意味で偶発的な存在とする悪しき形而上学と化す危険性をはらんでいたといえます。
 さらに、少なくとも、その本知の特色をさらに徹底し、これを自性の用として、随縁の用と区分することで、禅と華厳の哲学を総合しようとした宗密に至り、そうした悪しき観念性の破綻がみられたことは確かであるのです。

 

 本日はここまでです。次回は「2.体から用へ-南宗禅の二つの立場」を取り上げます。

 

 

 

 

 


仏教思想概要7:《中国禅》(第1回)

2023-12-10 07:50:25 | 07仏教思想7

(神代植物公園の紅葉      12月7日撮影)

 

 仏教思想概要7《中国禅》の第1回目のご紹介です。
 仏教思想概要も中国編に入り、「天台」「華厳」とみてきましたが、本日より「禅」です。
 中国禅は思想的には前回みた「中国華厳」の影響を強く受けています。一方、華厳は実践面ではその役割を禅にゆだねています。つまり両者は相互依存の関係にあります。
 といった点も含めて、中国禅につき、本日よりご紹介していきます。どうぞお付き合いよろしくお願いいたします。 
 そして、第1回目の今回は「第1章 中国禅宗の成立」を取り上げます。

 

第1章 中国禅宗の成立

 

1.中国禅宗の系譜

 中国禅宗に思想があったかという点になると、多少の疑問があります。中国華厳宗の概要でも取り上げたように、中国禅は中国華厳の思想的影響を強く受けています。華厳宗にも実践論はありますが、その実践方法は観念的な内容となっており、具体的な実践法はありません。結果としてそれは禅宗にゆだねられます。一方、禅宗は中国仏教の中で唯一思想的な背景となる仏典を持ちません。その点は華厳思想にゆだねることになります。つまり、思想面、実践面で華厳宗と禅宗は相互依存の関係にあったといえます。
 とはいえ、宗派としての禅宗も、自派の発展のためには布教活動は必須であり、そのための背景となる思想が必要となります。ということで、仏典によらない禅宗の思想がどういうものであったのかを、以下みていきたいと思います。

 前置きが長くなりましたが、中国禅宗(以下禅宗と称す)の思想を説明する前にまず、禅宗がどのように成立し発展したかをみてみたいと思います。
 成立過程の説明の前に、禅宗の成立・発展に関与した主な人物と組織を系譜で示します。(下図1参照)

 本文では、禅宗の系譜については詳しく述べられていません。このため、上図は、ウキペディアなどのネットの情報も参考にして整理しています。
 この図は、禅宗の宗派としての隆盛を中心に整理したものです。このため「思想」といった点を中心にとらえると、例えば、禅の二大祖師の一人である「行思」などは本文では登場しません。また、禅宗の伝説的な時代である正伝の時代も本文では詳しい説明はありません。(なお、後半になりますが、「仏教思想概要11 《道元》」において取り上げる予定です。)

 思想面では、南宗禅の祖師「慧能」と北宗禅の祖師「神秀」、その後の主流となった南宗系の道一と神会が中心に中国禅が形成されます。以下、その内容をみていきたいと思います。

 

2.中国禅思想の成立

2.1.中国仏教と中国禅

(1)体用論とは
 中国思想を考える上で重要な思想に「体用論」があります。それは同時に、中国的な仏教思想のもっとも基本的な概念といえるものです。(「体用」とは本体と作用のことで、宋代の儒学者が用いた哲学用語)
「僧肇の『涅槃無名論(ねはんむみょうろん)』にみる「体用論」(表1)

(2)中国仏教諸宗の基礎にすえられた無の体用論
 造物者の絶対性をもっともきびしく退けたのがブッダの宗教の出発でありました。一方万物の根源に形而上的な一者を認めることをたえず拒否しつづけてきたのは、ほかならぬ中国人の思惟でした。無の体用論は、そうしたインド仏教にも中国思想にももっていなかった独自の論理として、中国仏教の基礎にすえられました。

(無の体用論)
「主体的な無は、無といっても主体であるゆえに、つねに失われることがないもの、しかも失われることがない主体としての無がつねに有の世界にはたらく。
 有の世界のすべてが、無のはたらきと見られるとともに、無はつねに有の世界にあることになる。→中国的な思惟では、有と無はつねに冥合し連絡している。」

(3)『大乗起信論』の出現と中国禅の形成
 六朝末の『大乗起信論』の出現により、真如の体・相・用という三大の組織により体用論はよりいっそう強められることとなりました。
 唐代の華厳学者はこれを現象世界の根源にある絶対的一者と考え、現象をその起動と解したのであり、そうした形而上的な真如の理解のうえに、やがて中国禅が形成されたのです。

 

2.2.一行三昧と初期中国禅の成立

2.2.1.天台と中国禅
 初期中国禅宗の歴史は、天台の『摩訶止観』との対決からはじまったといえます。つまり、天台の止観と実践との相違を智顗より古いボダイダルマに求めたことによります。(禅宗の四祖・蘄州双峰山(きしゅうそうぼうざん)の道信(580-651)、五祖弘忍(601-74)の頃で、活躍した山の名により「東山法門(とうさんほうもん)」とよばれた)

(1)天台智顗の意義と一行三昧の成立
 智顗は、クマーラジーヴァによって中国に伝えられたインド大乗仏教の空の哲学とその実践を、中国人の宗教として組織づけ、最初のすぐれた成果をあげました。特に『摩訶止観』による瞑想法の体系化があげられます。(下表2『摩訶止観』の構成と概要参照)

 人間の一般的な人のあり方を、歩くこと(行)、とどまること(住)、足を交えてすわること(坐)、および横になって眠ること(臥:が)の四つとし、とくに瞑想にふさわしい姿勢として、坐と行をとり上げています。
 しかし、智顗の四種の禅法については、総合的な行であり、その価値はおなじものであったのですが、異なった瞑想は一度に実習できぬため、人々の関心によりいずれか一つが選ばれ、坐禅か念仏のいずれかが中心となりました。→一行三昧の成立
 事実、『摩訶止観』の書かれた時代に前後して、禅と浄土教という二つの異なった実践運動が同時に起こっています。

(2)東山法門の主張
 「円頓」とよばれる天台の総合的な教と観の体系に対して、禅宗の実践的な関心は、より単純であり、いっそう直截的(ちょくせつてき)であったのです。
 『六祖壇経』(*)では、「一切時中に行住坐臥を通して、つねに唯一なる直心(じきしん)を行ずるのが一行三昧だ」といっています。ここでの「直心」とは根源的な形而上的な一心の意のことです。
 つまり、本来的な一行三昧は『般若経』の中にその名を見ることができ、この三昧のほかに、さらに余行はないとせられたのに対して、この時代におなじく一行三昧を説く別の経典や論書が、しきりと人々の関心をひいたのです。→代表例に『大乗起信論』があるが、この書での一行は、形而上学的な一心のはたらきをさしている点で、『般若経』の正しく般若ハラミツと応ずる一行とは、すでに本質を異にしているのです。

*六祖壇経:弟子の法海によって編集された、禅宗の第六祖曹渓慧能(そうけいえのう、南宗の祖とされる)の言行録のこと、のちに経典に準ずる扱いを受けた。

2.2.2.華厳と中国禅

(1)一心の展開
 前述の一心について、その展開を道信の『楞伽師資記(りょうがしじき)』にみることができます。(下表3「道信のことばの例」参照)

 これは、『起信論』にある、生滅心の最初の動きの内省する意味の「絶対的な目ざめ(「究竟覚(くぎょうかく)」)を説明する内容によっています。
 絶対的な目ざめは、『起信論』では、如来または仏の位に至ったものの知恵とされ、別に真如三昧、もしくは金剛三昧、一行三昧ともよばれ、まさに宗密のいう最上乗禅の意です。
→道信の坐禅は、すでにそうした根源的な悟りの性格をもっていたもので、のちの神秀(じんしゅう606?-706)に始まる北宗禅の哲学も、こうした構想にもとづいて展開されることとなります。

(2)華厳の哲学との結びつき
 初期禅宗の人々の単純で具体的な実践による関心は『楞伽経』や『起信論』の一心の説に移ることによって、しだいに根源的に唯一なるものに深まることとなりました。さらに北宗禅の形成の時期には、長安を中心として栄えていた華厳の哲学と結びついていきます。
 この時代を期として、中国禅宗は、すでに単純な坐禅や瞑想の域を超えて、独自な形而上的一心の探求にすべての関心を注ぐようになります。
(華厳と禅宗の結びつきの事例(表4))

 やがて、華厳の側からも澄観(738-839)、宗密(780-841)らが出て、この派の禅に特別の注意を払うようになります。

2.2.3.北宗禅(神秀)の主張

(1)神秀の主張の概要
 ダルマ系禅宗が、華厳の哲学と結んだのは、両者がともに中国的に独自な形而上的絶対性の問題に特別の関心をもったためと思われます。その事例を北宗禅の神秀(北宗禅)の『観心論』にみることができます。(下表5参照)

(2)禅と華厳(前述神秀の主張の解説)
 書き出しは『般若心経』を模したもので、その後は、ほとんど『起信論』によっています。
 『十地経』の引用部分は、華厳哲学の形成に大きい影響をもっていた『十地経論』やこれによる地論宗とダルマ系禅がなんらかの交渉をもっていたことがうかがい知れます。特に、『十地経』にいう金剛仏性が、『起信論』の絶対の目ざめの主体と比せられることはおおいに注意すべきことです。(『起信論』の絶対の目ざめと神秀の説(下表6参照)

(ここでの注意点)
 神秀が、自心の体である真如に目ざめることを強調しているが、現実の煩悩の始末にまったく問題にしていない点。
→同時代の浄土教が、ひたすら現実の罪悪性の追究に沈潜していったのと、きわめて対蹠的です。
→『起信論』の教えは、煩悩の非本体性と真如の不生不滅であり、無自性空であることを前提としています。天台仏教の特色とされる性悪説や、一念三千の解釈とはまったく異質です。

 ここには、僧肇とおなじ中国独自の形而上的主体性の根強い関心が見られる。きわめて楽天的で、しかもはなはだ実践的な思惟があります。初期禅宗の人々が、実践をそうした『起信論』の真如思想に体系づけたことは、その後の禅思想の発展に決定的な方向を与えたといえます。

 

 本日はここまでです。
 次回から第2章の中国禅の発展に入り、次回はそのうち「1.北宗禅と神会の主張」を取り上げます。