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仏教思想概要3:《中観》(第5回)

2023-05-20 08:36:59 | 03仏教思想3

 「仏教思想概要3:《中観》」の第5回です。
 第3回より、主題である中観派の思想に入っています。前回は空理論としての「縁起」についてみてみました。今回は本論の中心となる「中観派の批判哲学」について取り上げます。かなり長くなりますが、お付き合いください。

 

2.2. 中観哲学の性格-批判の哲学

2.2.1.中観哲学の性格

 ナーガールジュナの主著『中論』『迴諍論(えじょうろん)』『広破論』は哲学体系理論ではなく、諸哲学体系を批判するための体系と呼べるものです。主に哲学体系の原理の批判、他学派のある教義を主題に選んでこれを批判しています。対象となる学派は「説一切有部、サーンキャ学派、ヴァイシェーシカ学派、ニヤーヤ学派」などです。

 上図2は、ナーガールジュナの批判の対象となった主題と思惟方法の類型を整理したものです。

 以下、この思惟の類型の批判を、主として『中論』の中から選んだ主題を例にとりながら逐次紹介していきます。これらの論理の基礎に横たわるものはナーガールジュナの本体の批判であり、また彼のことばの哲学です。

2.2.2.本体の否定

(1) 本体と現象
 『中論』の第十五章冒頭(第一、第二詩頌)でナーガールジュナは、次のように説いています。(下表11参照)

 ナーガールジュナの批判の視点は、他学派の(有部やヴァイシェーシカ学派など)の思惟方法に対して向けられています。
 ここで他学派の思惟方法とは、ある存在を「本体」と「現象」の二つの概念に分ける方法のことをさし示しています。
(例:「火」の存在)
・有部の主張:火の本体は過去にも未来にも変わらず存在する。その本体が燃える作用をもって現象しているのが現在である。
・ナーガールジュナの批判:「火の現象・作用」は多くの原因によって生じた複合的なものであり、刻々と変化しやがて滅する流動的なものである。それに対立したものとしての「火の本体」は、変化せず、単一であり、過去・現在・未来の三時にわたって恒存するものとなる。この火の本体は「燃える作用」という火の特性と矛盾する。燃えない火であり、事実として存在しない火である。

(2) 自己同一性と変異性
 ナーガールジュナは『中論』第十五章第八、第九詩頌(下表12参照)で、自己同一性と変異性について説いています。

 ナーガールジュナの視点では「人間の概念的思惟に本来的な誤謬がある。」としています。
 つまり、「もし本体というものに第一義的な存在を与えると、ものの変化が説明できなくなる。なによりも無常を特徴としている事実の世界は無視されてしまう。」としているのです。
(例)
「変化する火という事実を理解するとき、それを変化しない本体と比較しなくてはならない。変化を理解するために自己同一性を設定するが、それは変化と矛盾する。火を理解しようとして、(変化する)火の事実を否定してしまう。」

 

2.2.3. 原因と結果の否定

『中論』では「因果関係の否定」は第一章と第二十章で詳述しています。
 ここで、因果の分析の仕方の主なものには以下の二つがあげられます。
①「原因と結果との間には同一性も別異性もない」という形での因果関係の否定
 ここで、結果にとって原因は自己と同一なものか、別異のものかを考察するとき、この二つの選択肢だけを考えてそのいずれをも否定すればディレンマとなる。
②四句否定(しくひてい):①に対して、選択肢を原因は結果の自体・他体・その両者・両者のいずれでもない、という四つにふやしてそのすべてを否定する場合

 次に②四句否定について詳述します。

(1)四句否定
『中論』第一章、第一詩頌により、ナーガールジュナは以下(下表13)のように説いています。


 四句否定は、前述のように原因を自体(A)、他体(B)、その両者(C)、両者のいずれでもないもの(D)という四つに分けて、そのすべてを否定するものです。
 つぼに例にとってみると以下のように説明できます。
(A)つぼからつぼが生ずることになり不合理
   →サーンキャ学派の自因説の否定
(B)つぼは粘土からでなく、糸からからでも無関係なものから生ずることになる
   →ヴァイシェーシカ学派の他因説の否定
(C)(A)(B)の組合せ→否定
(D)自でも他でもないものから生じる、つまり、非存在から、また偶然に生ずることになり非合理的

 

(2)ディレンマ
 ナーガールジュナは、因果関係の否定の方法として、四句否定より前述①のディレンマをより多く用いています。
 それは、同一性と別異性を「本質」の問題としてのみ考え、四句否定の(C)(D)のような特称的な場合を除いてしまう場合に成立します。それを『中論』第十八章第十詩頌、第二十章第十九、二十詩頌(下表14)にみることができます。


 ナーガールジュナの因果に関するディレンマを整理すると以下のようになります。
(前提条件)
 原因・結果というものを本体としての存在と仮定すると、それは単一、独立、恒常的な本体であることになる
 ↓
 その結果、原因と結果との関係は同一か、別異かの二つの選択肢しかない(合成体とか本質の一部とかは成立しない)
 ↓
 その結果、原因は結果と同一の本体か、結果と異なった本体かのいずれかしかもちえないが、いずれも場合も因果関係を説明出来ない
(なぜなら)原因が同一と別異の複数の本体をもつことは不可能である。なぜなら、本体は単一であるという前提にそむくうえ、本質の世界において矛盾した二性質の同一物における共存を許す誤りになるからである。
 ↓
(結論)
 原因にしろ、結果にしろ、それは本体の空なものである。

 同一性と別異性のディレンマは、ナーガールジュナの論理の最も基本的なものであり、因果の問題に限定されないものです。


(3)別視点による因果の分析
 ナーガールジュナはディレンマによる論理だけでなく、別視点からの因果の分析をしています。
①因果を移行の問題としてとらえ、同一性と別異性、時間の差異による批判
 『中論』第二十章第七-九詩頌にて、ナーガールジュナは、次のように説いています。
(下表15参照)

②因果を主体と作用として考える場合=本質的にはことばの問題
 ナーガールジュナは、このことを『中論』第一章第四詩頌の後半で、諸原因は作用をもったものでもなく、作用をもたないものでもない、というかたちで吟味しています。このさいには原因を、原因の生ずる作用の主体とみなしているわけです。
 この作用とその主体の関係はナーガールジュナにとって本質的にはことばの問題であるのです。
 例えば、見る作用をもっているものが眼である場合に、眠っている眼はどうして眼と言えるのか、という問題になるからです。
 このことばの問題は、原因と結果についても言えます。
(『中論』第一章第五詩頌 下表16参照)


 眼によって、視覚が生ずるから眼が原因と言われる。それならば視覚が生じないかぎりは、眼は原因というわけにはいかないはずである、というわけです。
 すべてのものはことばの対象であるから、必ずことばとの関係においてみることができるのです。ナーガールジュナにとってことばは虚構であるから、すべてのことばはことばの対象としての本体をもたない空なものであるのです。

 

2.2.4. 運動と変化の否定

 因果関係をあるものの一つの状態から他の状態への変化、または時間という場における移行とみるならば、それはものの空間における位置の移動としての運動と同じように考えることができます。
 『中論』では運動の問題は第二章で考察されています。(下表17参照)


 チャンドラキールティは第一詩頌をゼノン的逆説で理解していますが、第三詩頌~第五詩頌は、この問題を少し異なった視点からナーガールジュナが分析していることを示しています。
(参考:ゼノンの逆説 下表18参照)
 ナーガールジュナは、運動という位置の移動の可能性に対してではなく、「過ぎ去られるもの」と「過ぎ去る運動」という二つの概念の関係を問題にしているのです。
「過ぎ去られるもの」と「過ぎ去る運動」との関係は、第六詩頌以下で、「行くもの」と「行く運動」との関係に移されて論じられています。(下表19参照)


 ナーガールジュナは、「運動」を問題にしているときにも、「ある作用とその主体との関係」を、「同一性と別異のディレンマ」に追い込んでいくのです。
 そこで、次項では、この「原因という作用の主体と結果を生ぜしめるという作用との関係」について、もう少し本質的に分析してみます。

 

 かなり長くなりました。まだ「中観思想の批判哲学」の途中ですが、続きは次回としたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 



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